ニッケイ新聞 2016年4月28日 北海道と東北6県人会の青年部「グルッポ東北・北海道」による『第12回慈善運動会』が、5月1日午前9時からコレジオ・マリスタ・アルキディオセサーノ(Rua Afonso Celso, 840, Vila Mariana)で開催される。 徒競走や綱引き、そして二人三脚やリズム体操など子供から高齢者まで楽しめる種目を実施。各種バザーと和食をはじめとした食料品の販売、和太鼓やよさこいソーランなどの出し物もある。 案内のため来社した北海道教会の薮内勇次実行委員長、佐藤竜也委員は、「会場は室内なので雨が降っても楽しめます。ご家族をお誘い合わせの上、お気軽にお越しください」と参加を呼びかけた。 入場料は5レアル、もしくは5レ相当の生活衛生用品。集められた寄付金と物品は日系福祉団体に寄付される。 問い合わせは北海道協会(11・5084・6422)まで。
Mês: abril 2016
ニッケイ新聞 2016年4月28日 3月13日(日)午後、一行は北大河州モソロー市にあるホテル・テルマス・デ・モソローに投宿し、ゆっくりと温泉プールを楽しんだ。セアラ―州都フォルタレーザと、そのすぐ南に位置する北大河州都ナタルは約400余り離れているが、その中間地点だ。 夕方、同地で大規模メロン栽培をする大谷正敏さん(まさとし、68、愛知県)など、地元日系人が12家族いる中の15人余りが来てくれ、親睦夕食会を催した。 大谷さんはニコッと笑顔を浮かべながら、「生涯現役。90になったら畑でメロンと一緒にコロッと死にたい」と初対面の相手に何気なくいう。大谷さんは1960年、小学校を5年で中退し、両親に連れられて11歳で渡伯。最初はイビウナ、レジストロ、スザノなどを転々として、聖南西のピニャール移住地に落ち着き、17年間、家族でぶどう作りをしていた。 レジストロ時代は今も紅茶生産で有名な天谷家から500メートル、すぐ隣に住んでいたという。「子供の頃だから、裸足で学校に通っていたのを覚えているよ」。今ではモソローのメロン栽培は全伯的に有名になったが、70年代は誰も手掛けていなかった。 最初、セアザで「アチアイエンセ」という仲買店をしていた菊地軍平さんが北東伯を視察した折、大型農場経営をするモソロ・アグロインドゥストリア・リミターダ社から「資金は出すから、メロンを作る技術を持つ日本人を紹介してくれ」と頼まれ、知り合いだったピニャールの入来田(いりきだ)邦男さんに話を回した。 大谷さんの話では、同社の技師がスペインからもってきたメロンを食べて種を台所で捨てたら、自然に芽が出てきた。それを見て、「ここでもメロン栽培ができるはず」と思いつき、たまたまやって来た菊地さんに相談したようだ。 入来田さんは78年に、家族を連れてモソローに移り住んだ最初の日本人だ。そんなソグロ(義父)の話を聞き、5年後の1983年に大谷さんも移って来た。 大谷さんは「あの頃、資金がある人は皆、サンゴタルドやペトロリーナに移っていた。僕らはお金がなくて行けなかった。最初はブドウをやろうとおもったけど最初の収穫まで5年かかる。でもメロンは70日間。しかも大農場がメロン栽培の技術を求めていたから、僕らは収穫の何%をもらうという形で資金なしで始めることができた」という。 「ここにきて、日本人に生まれて良かったと思った。ジャポネースであるというヴァロール(価値)を再確認した。移民先輩の功績は大きい。その信用の恩恵をすごく受けている」と繰り返す。どういう時にそれを感じるのかと問うと、「日本人的には最初、借金をするのが怖かった。そんな日本人の真面目さは足かせになる。でもある時、借金取りから借金する事を覚えたんだ。借金取りから『借金払え』と言われた時、『もちろん払いたい。だからもう一回、来年の分も貸してくれ』と頼んだ。日本人だと信用してくれて貸してくれた。僕はそれから一回も遅れていない」との逸話を語った。 現在では3千ヘクタールの土地を持ち、うち800ヘクタールに灌漑設備を施し、うち毎年300ヘクタールずつメロン栽培をしているという。順繰りに土地を休ませながら緑肥を入れて輪作をしているという。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月27日 パ紙1954年1月15日付も、桜組挺身隊が前年11月から南聖のペドロ・デ・トレード、イタリリー、アナディアス方面に現れ、《「無料帰国」をエサに相当額の金子を搾取しているとの情報がある》と報じた。 詳しくは《これらは相変わらず「祖国救援のための帰国」を説き、無料乗船の交渉は我々が行うといって、希望者から一人当たり二コントを徴収したのち、土地、家屋などの不動産は日本政府が絶対保証することになっているので、不動産売却に必要な委任状を貰いたいと、アナジィアスのタベレオン(公証人役場)を通して約百人の邦人から白紙委任状を取った後、十二月中旬に無料乗船券獲得には、ぜひ本人の出頭が必要である…とその出聖を促して行ったので、同月二十日頃には約八十人の無料帰国希望者が出聖した事実がある―》と書かれている。 まさに中村家が騙されていた手法と同じだ。この一連の事件のロンドリーナ版に巻き込まれていたようだ。 中村伯毅さんの妻・伯子さん(のりこ、77)の家族はマリリアだったが、やはり20年間近く、堀沢に騙されていたという。 「マリリアからテコテコ(軽飛行機)に乗って、あちこちの植民地の上から、報告を書いた紙を落とすんです。ペレイラ・バレットぐらいまで行っていました。半分ぐらいの家族は10年ぐらいにで辞めて行った」。 伯子さんの証言も同様に興味深い。「堀沢さんは『自分は特務機関だ』って言ってました。だから当時、うちの家族も戦後移民の話を信用しなかったんです。パウリスタ線にも騙されている人沢山いました。正直なものばかり騙されるんです。何月何日に日本からお迎えの船が来るからって。桜組挺身隊の事件が終わった後も、ずっとこっちの詐欺は続いていたんです」。 桜組挺身隊事件は1955年4月に、警察によってサントアンドレの共同生活地は解散させられて終わった。でも、その後も帰国手続き詐欺自体は続いていたというのは驚きだ。戦後移民は1953年から入り始め、55年には戦後最大の集団であるコチア青年も入り始めた。時代は大きく変わり始めていたが、地方部の一部では、まだまだ詐欺師が跋扈していたのだ。 中村伯毅さんの父と伯子さんの父中村真夫さん(さなお)が同船者だった関係で、1964年に結婚したという。 中村真夫さんは10年以上だまされた末、最終的にわざわざリオに住む堀沢の家族に会いに行った。そこで「オカシイ」と思うようになり、それから堀沢の言葉に疑問をもつようになり、最後は本人に問い詰めた。 「うちの父は堀沢さんと議論して、やっぱりオカシイと感じて『もう辞める』と宣言した。そのうち堀沢さんが亡くなり、1965年ぐらいにその繋がりは消滅したような感じです」。 つまり〃コロニアの戦後〃が終わったのは、戦後移住の大波が通りすぎ、東京五輪(1964年)も終わった頃だった。あまりに壮絶な話だ。 聖州、パラナ州を中心にあちこちに被害者がちらばっており、その実数は300家族、1500人以上は居たのではないか。にも関わらず、まとまった記録が残されていないのは、被害者が恥だと感じて証言を残してこなかったからだろう。中村夫婦の話を聞きながら、二人の勇気を心から称賛した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月26日 終戦後、数年が経ち、中村伯毅さんは子供心に「何かおかしい」と思い始め、父を問い詰めた。「僕は何回も『お父さんは騙されている。もう止めてくれ』と考え直すように、お願いしたが、父は聞いてくれなかった。僕がそんなことをいうと、父は母をイジメた。母はどちらの見方も、家を出ることもできない。辛かったろうと思う」 当時、中村さんは日頃の憂さを晴らすように柔道の練習に打ち込んでいた。「パラナ大会でも優勝し、全伯大会にも出たことがあった。2段だった」という。 そんなころ、決定的な父の一言が放たれた。「兄は6歳年上で日本生まれ、1歳でブラジルに来た。僕はバストス生まれでしょ。それで、ある時、父は僕に『オマエは敵国人だ』と言ったんです。堀沢に騙されていたんでしょ。子供心に本当にショックでした」。 堀沢憎さのあまり、「15、6歳の頃でしょうか。彼はDOPSに追われて、サントアマーロに隠れているという話を聞き、『そこまで堀沢を殺しに行こう』と決心したことまでありましたよ」と血気盛んだった遠い昔を思い出す。もちろん、決行はしなかった。 この「堀沢」という名前は従来の移民史にも新聞にもほとんど出てこない。いろいろ探してみると、ロンドリーナの重鎮が書いた『信ちゃんの昔話第8部、戦争と移民』(沼田信一著)に、若干の記述があった。《ロンドリーナ地方には堀沢某、川崎某、馬の目某、等々の分子が、勝組として相当長くうごめいていた様であった。従って勝ち組にだまされていた人達は、人生の相当長い間を無駄にしたのであった》(電子版70頁)。やはり、存在したようだが、フルネームが分からない。 ノンフィクション風に書かれた小説『大日本国民前衛隊、思想戦回顧録・前記』(1945年、多田幸一)にも、《斯かる情勢下にある聖州を遠方の火事視してパラナ方面には其の頃、堀澤なる者の手に依って盛んに帰国手続きが始まって居る事が聞こえて来たものであった》という部分がある。でも名字だけだ。 ニッケイ新聞の過去記事データベースでもネット検索でも、この名前はひっかからない。この詐欺師は、どうも謎の多い人物のようだ。 54年12月21日付パ紙「挺身隊を解散」記事で、ようやくそれらしい名前が出てきた。桜組挺身隊が〃同志〃としている《加盟者は一四七家族、一〇二五名(妻子を含める)であるが、、中には加藤、川崎事件に関連するもの、堀川文蔵の例の土地白紙委任状問題に関連しているものあり、思想的にはまったく統一をかき、貧困者の寄り世帯である》と書かれている。定かではないが、おそらくここに出てくる「堀川文蔵」が「堀沢」ではないか。 中村伯毅さんは男兄弟5人、女2人だった。「僕らが頑張って働くから、一番下の弟だけは大学にやらせてくれって、父のお願いした。だけど堀沢は『ブラジルの学校なんか行くことない』って反対したんだ。家族にポルトガル語が分かるのが出れば、自分が言っていることがウソだとばれるから困ったんでしょ」。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月23日 中村伯毅さん(ひろき)の話は、終戦直後に起きた「帰国手続き詐欺」だ。土地証書など一式をブラジル政府に預ければ、日本への帰国船の手続きをしてくれるというもので、その手続き料、必要経費などと称して毎月のように金をせびりとられた。 中村さんの両親は1929年渡伯でバストスに入植し、そこで伯毅さんが1934年9月に生まれた。10年間そこでいたが、戦争中にロンドリーナ市内から7キロの所に移り、コーヒー農園50アルケールを始めた。「日本人ばっかりすんどるルア(通り)があって、そこでは戦争中でも日本語しゃべっても何にも問題なかった」という。 「堀澤さんは東大卒の農業技師という触れ込みで、父は『彼が書類を作ってくれる。信用していれば、すぐに日本に帰れる』と大そう信用していた。土地財産再登録詐欺というんでしょうか。周囲の100家族ぐらいが彼に手続き代行のお願いをしていた」。中村さんの父は「覺」(さとる)と言い、福岡県八女郡出身、1965年頃亡くなったという。 帰国手続き詐欺の件は、あまり記録が残っていない。この機会にしっかり残そうと気合を入れて中村さんの話に耳を傾けた。 1945年末頃、「ブラジル政府が法令で、外国人移民が所有地を政府に提供したら、本国に送り返す手続きをしてくれる」という噂が流れた。「子供の頃の記憶だけど、堀澤さんが言ったことをはっきり覚えているよ。ミズーリ船上の終戦の調印式の写真を見せて、日本軍人は帯刀しているのに、米国人は丸腰。だから『日本は勝っている』と説明していた」。 思春期の頃の話だが、記憶は鮮明だ。「堀澤は普段、サンパウロにいて、1カ月に1回ぐらいやってきては報告し、お金を持って行った。でも、1年、2年と経つうちに、だんだん騙されていると気付き、辞めて行く人が多かった。数年で半分ぐらいに。でもうちの父はうまく丸め込まれて信じていた」と悔しそうにいう。 当時、日本は勝ったはずと思いこんだ人は多かった。「戦争中、父は薄荷をやって大分儲けたが、それも全部、彼に盗られた。手続きのためといって、彼はリオやサンパウロに頻繁に行き来し、『すぐ帰れる』と父は騙されて続けて、一年間の収穫を全部とられたことも度々。そんなことが20年間も続いたんですよ。同じく騙された人の中には、サンパウロに出て桜組挺身隊に加わった人もいました」という一節から、桜組との関連が疑われる。 1954年12月14日付パウリスタ新聞(パ紙)は連載《桜組挺身隊を探る2》の中に、こんな一節がある。《天野、吉谷らの首謀者「ロンドリーナ時代」は相当生活にも困窮していたといわれるにも関わらず、サントアンドレではハデな生活を営んでいた~》。つまり桜組挺身隊の首謀者、天野恒雄、吉谷(よしがい)光夫はロンドリーナに住んでいた。55年1月28日付パ紙には、吉谷のことを挺身隊の〝隊長〟と書き、《精神分裂症の兆候》と書いている。 さらに同連載には、《彼らは一斉検挙の際に、当局が押収した「献金簿」に十月中だけで四百三十余コントに達していたとの報道はあくまで一笑に付し、その百分の一でも今あれば大助かりだとうそぶく、その反面では「今まで各方面へ送った願書の翻訳料や請願のため代表を派遣した費用は相当に上る、殆どは人件費」だと言い金を費つたことだけは肯定する》という。 何気ない昼飯時に、壮絶な移民の歴史が語られるのは、まさに移民の故郷巡りの真骨頂だ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月23日 熊本県を中心とした地震発生を受け、ブラジル熊本県文化交流協会が22日、義援金用口座を開設した。 振込先はブラジル銀行リベルダーデ支店(Agencia=1196―7)、口座番号42479―X、名義は「Associacao Kumamoto Kenjin do Brasil」。 県人会事務局(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)でも、現金での受付を行なっている。また寄付者の名前を同県に報告するため、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原健児副会長は、「すでに事務局への直接寄付もあった」と素早い支援に感謝を示し、幅広い協力を呼びかけている。 熊本地震は14日夜、熊本地方を震源に発生。震度7を観測し、死者は48人、避難者は10万人近くに上っている。 問い合わせは同県人会(11・5084・1338)まで。
県民の窮状に県人会が立上がる 14日午後9時26分に熊本県益城町を震源地に震度7の地震が発生。現在も余震は続いており、死者59人、不明者13人、負傷者は千人以上(20日午前現在)にのぼる。この事態を受け、ブラジル熊本県文化交流協会(田呂丸哲次会長)では被災地への義援金募集運動を開始することを決定した。同県人会の田呂丸会長と清原健児副会長、日下野良武理事長、赤木数成書記が来社し、現在の状況を説明した。 同県人会では地震発生から2日後の16日、理事ら20人が集まり臨時理事会を開いた。田呂丸会長は「理事らと相談し、どういう形で母県を支援できるか意見を募った」と述べ、「県人会館を建設時に県からはかなり協力してもらった。また県人会では2年ごとに熊本県に訪問団を送っており、その際は各市町村から大変お世話になっている。みんなの気持ちということで義援金を送ろうということに最終的に決まった」と経緯を話した。 同県からの移民は震源地となった益城町周辺出身者が多い。田呂丸会長の問い合わせに熊本県庁国際課からEメールで返信があり、「まだ(地震そのものの)全体的な被害状況すら把握できておらず、移住関係者にどのような被害が出ているかは分からない」と連絡があったという。赤木書記は「妻の兄弟は全員熊本にいるが、連絡が取れず数日電話してようやく声が聞けた。家は倒壊していないようだが現在は避難所に避難しており、昼間自宅に帰ってきた時に偶然電話に出たようだ」と現地と連絡が取りづらい状況を話した。 19日午前現在で避難者は延べ18万3882人、避難所は855カ所に及ぶ。 すでに同県人会にはブラジル各地に住む同県出身移住者や子弟らから問い合わせの連絡が入っており、「待ちきれなくて会館にお金を持ってきた人もいた」と田呂丸会長は話す。 「熊本県出身者や県人子弟、留学生OB、研修生OBなど関係者一人一人が一つにまとまって、協力していかなければならない」と一行は決意を語った。 義援金受付の連絡先は同県人会「熊本地震」義援金募集係(Rua Guimarães Passos 142, Vila Mariana, São Paulo – SP,...
ニッケイ新聞 2016年4月20日 ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長らは19日朝来社し、「熊本県とは活発に交流を行なっており、大変お世話になっている。今こそ恩返ししたい」と真剣な表情で話した。清原健児副会長、赤木数成書記、日下野良武理事長らと共に来社した。 熊本地震発生二日後の16日午後、同県人会では臨時理事会を緊急招集し、義援金募集運動を決定した。「熊本の皆さんを元気づけたい。日系社会の皆様、日本と関係のある方、ぜひ協力をお願いします」と支援を呼びかけた。 臨時理事会には20人が参加し、義援金募集運動を決定し、現在、専用の銀行口座の開設を交渉中。義援金は同県人会事務所(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)に直接持参も可。寄付者の名前は同県に報告するが、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原副会長によれば、日系社会からも熊本県を気遣う声は多く、遠くはベレンやポルト・アレグレから同県人会に電話で問い合わせが来たという。 赤木書記によると、県庁にメールを送っても返信がなく、フェイスブックを通じて連絡をとったという。また同県の知人に連絡をとったが、「生存を確認するために電話をかけた場合、携帯は通じるが、固定電話はつながらない人が多い。おそらく皆、避難所で待機しているのでは」と心配そうに語った。 本紙の取材に対し、プロミッソン在住の安永和教さん(69、三世)によると、熊本県玉名市の親戚は飲料水などが不足しているだけでなく、「家は無事だったけど、いつ再び地震が来るか分からないから、高齢者も車の中で寝ている状態」だという。 今回の地震では、熊本県益城町で現地時間の14日午後9時26分頃、震度7の強い揺れがあった。その後も16日未明に震度6強を観測、多数の家屋倒壊が見られ、一連の地震による死者は47人以上、県内の避難者数は10万人前後で推移している。 問い合わせは同県人会事務局(11・5084・1338)まで。 □関連コラム□大耳小耳 19日付のNHKニュース電子版によると、今回の熊本地震を受けて、米国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で18日、39の県人会から成る南加県人会協議会が緊急会合で義援金の送付を決定した。今後、他の日系団体にも呼びかけて義援金を募り、被災地に送るという。なお11年 3月の東日本大震災時には、18万米ドルを送っている。伯国の熊本県人会も義援金の募集運動を開始した。米国にならって、当地でも日系コロニア全体で協力し、被災地支援の〃輪〃を広げていっても良いのでは。
ニッケイ新聞 2016年4月21日 竹中芳江さんの家族の話は実に興味深い。「グァポレに到着した時、他の家族はみんな泣いていたけど、母だけは歌っていた。だってアマゾンにきて初めて、家族が全員そろって御飯食べたのよ。あそこにいた3年半で家族の団結が一気に強まった。ある時、日本の祖父から『旅費を全額負担するから日本に帰ってこないか』と母に連絡があったが帰らなかった」ということもあった。 3年半でグァポレを諦めて、二日がかりでクイアバに南下し、そこからサンパウロに出た。 「母はサンパウロで魚の行商をして生活を支えた。手相見はみんな『あんたたち夫婦は分かれる』と言ったが、両親は最後まで別れなかった。母は自分では『苦労した』とかまったく言わない人。そんなお母さんの勇気はすごいと思うの。私にその何分の一かの勇気があればイイなと、今でも思うわ」。肝っ玉母ちゃんというのか。すごい個性的な女性だったようだ。 良江さんの娘ロザナさん(55、二世)は今回の故郷巡りに関して「藤田十作が子供に日本人の精神を伝えたことが、息子たちの立ち振る舞いの上品さから分かった。ノルデステでも日本移民の歴史が残っていることが分かって嬉しい」との感想を述べた。 翌3月13日朝、わざわざブラジリアから参加した吉田富士子さん(67、高知県)に話を聞くと、「とにかく旅行が大好き。故郷巡りも4回目」とのこと。9歳の時、チチャレンガ号で家族移住した。「3年前かしら、トルコにツアー旅行したら、その一週間後にシリア内戦が始まって驚いた。なんといってもカッパドギアが凄かったわね。トルコじゃ全然言葉が通じないかと思ったら、現地人が『奥さん、奥さん』って日本語で言ってくるじゃない。ビックリよ」との体験談を披露した。 ホテルを出発した一行は、途中、アキハース地区で「カーザ・デ・ヘンデイラ(編み物の家)」という土産物センターに立ち寄った。そこでは母娘3代に渡ってセアラ織りをする名物女性マリア・ジウダ・モレイラ・メレイラさん(68)が、実演をしていた。目に見えない早業で、重りの付いた編み棒を左右に行き来させて編んでいく。 なんと1日で50センチしか織れないが、すでに1300メートル分も仕上げ、2千メートルを目指しているという。「ギネスブックに入れるのよ。母から教わって、娘にも伝えた。もちろん孫にも伝えるわ」と誇らしげ。 午前10時過ぎにはアラカチに立ち寄り、エビ養殖場「ミランテ・ドス・ガンボアス」を見学した。約33年前に創立し、630ヘクタール分の養殖池があるという。90日で出荷可能に育ち、毎日25トンを「Maris」ブランドで生産販売している業界最大手の一つだ。 そこで昼食時、フランカからの参加者、中村伯毅さん(ひろき、82、二世)と話をしていると、「父は終戦直後、ホリサワという帰国手続き詐欺師に20年間も財産を騙されていた」という驚愕の話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
14日午後9時26分に熊本県で発生した地震は震度7を記録。日本時間16日の午前1時25分頃には阿蘇山付近で震度6の余震が起きており、現地では予断を許さない状況が続いている。 熊本県人会の田呂丸哲次会長は本紙の電話取材に対し「今朝熊本県庁へメールを送った。まだ会員からの問い合わせはないが、16日に丁度理事会があるので、そこで意見や質問が出てくると思う。全員で話し合って今後の対応を考えて行きたい」と回答。 また「テレビで現地の様子を見て驚いている。あんな光景は見たことがない。日本は美しい良い国だが、震災がある恐ろしい場所でもあると改めて感じた」と話した。 続けて「2年前には熊本県内の13市町村を回り、地元の方々には大変お世話になった。手紙や物資など、何かしらを送りたいと思っている」と述べ、対応を検討していく。 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)では地震への対応についてはまだ未定だそうだが、熊本県人会からの要請があれば協力していくという。 サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月20日 12日の夕食時、大崎康夫さん(77、高知県)=ピエダーデ在住=に話しかけると、「僕は葉山村(津野町)出身、下元健吉と同じ部落なんです」との言葉にググッと心を引き寄せられた。 「川向いが下元の実家。子供のころから下元の成功譚を聞かされ、刺激を受けてきた。コチア組合の監事の川上嵩(たかし)さんが昭和25年頃に一時帰郷して、清酒を買ってきて二晩も村人を集めて大宴会をやったんです。当時は闇で焼酎を買って飲むのがせいぜいの時代でしょ。ブラジルはなんと景気がいいことかと、村中に強く印象付けました」と思い出す。 「源平合戦で平家が逃げ込んだような山奥だから、畑と言っても段々畑ばかり。畑の横幅より壁の高さの方が長いぐらい。当然、機械も入らない。戦後、アメリカの農業紹介の映画とかみて、外国に出て広い所で自由に農業をやりたいと思っていたところだった」。 1954年9月、中学を出たばかり15歳だった大崎さんは、親戚の呼び寄せで念願の渡伯。イビウナにあった親戚の農場で25歳まで働き、独立してピエダーデに農場をかまえた。「当時、ブラジル来るのは〃永遠の別れ〃だから、水杯ですよ。同じ部落から30軒も来てますよ。みんなイビウナ、サンミゲル、ピラールとかに入った」。 当時、年に一回「葉山会」という集まりがあった。葉山出身者の家に順繰りに集まり、親睦会を開いた。「下元健吉さんも来て、皆で一緒に酒を飲んだ。誰とでも気さくに話す人だった。コチアが続いていたら、コロニアも違っていただろうと思うよ。コチアが解散してからコロニアもバラバラになってしまった」。 1986~90年の頃、バイーア州バレイラスのセラード開発に入った。「開拓が終わって、あとは肥料を入れて種を植える段階になった時、組合に融資申請したら『自分の力でやれ!』との返事。当時はインフレ率1千%の時代、銀行から借りたら大変なことになる。涙を呑んで撤退せざるを得なかった。広い土地でいい勉強をさせてもらったよ。50万ドルぐらい突っ込んだかな。今は柿と栗だけ続けているよ」と豪快に笑った。 参加者一行にこそ、玉手箱のようなコロニアの歴史が詰まっていると実感させる話だ。 別のテーブルにいた一行の竹中芳江さん(旧姓北川、74、熊本県)にもとに移り、話を聞き始めると、なんと「グァポレ移民」だという。北伯のロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ(旧グァポレ)移住地のことだ。戦後移住が始まった翌年1954年に12歳で家族と入植した。 何気なく「なぜ移住を決断したんですか?」と問うと、「両親は韓国からの引揚者なんです。父は何人も使用人がいるような金持ちの家庭に育ち、サント(聖人)のような人だった。ただし、かけ事が好きで、競馬、競輪に目がなかった。私たち兄弟6人をほったらかしにして、週に1回しか風呂に入れてくれないような生活。母(北川房江)は『こんなだったら私は出て行く』って。ブラジル移住は母が言い出して決めたの。母は父のかけ事癖を辞めさせるためにアマゾン移住したんじゃないかしら。だってアマゾンにはないでしょ、かけ事するようなところが。移住が決まった時、母は布団の上をキチガイのように飛んで喜んでいた」という驚くような話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
慰霊祭有志一行はピウン植民地を後にし、午前10時ホテルに戻った。ふるさと巡り一行は同11時にホテルから出発することになっているので、記者は最後の1時間だけでも自由時間を取りたいと思ったが、なんだかんだと時間はあっという間に過ぎ、ホテルを出発した。レストランでの昼食後、時間があれば「プライア・ドス・アルチスタス」の見学だったが、先を行く第2グループのバスが空港についていないという連絡を受け、時間に余裕を持つため空港に直行となった。 午後2時45分頃サンゴンサーロ・ド・アマランテ新国際空港空港に到着。2年前にできたばかりの空港は真新しく、近代的なデザイン。周囲には森林が広がる。フォルタレーザから一緒だったバスの運転手ともここでお別れ。旅行中、記者は彼らと一緒に温泉で遊んだり、何かノルデステ地方土着の魔術のようなものをかけられたりと交流する機会が多かったので別れるのが名残惜しかった。 チェックインをし、飛行機は予定通り午後5時13分に空港を離陸。第3グループはリオで乗り換え、同11時グアルリョース空港に到着した。グループの何人かはここから直接帰宅し、残りのメンバーはバスでリベルダーデへ向かい、現地解散となった。 全行程を終えた玉城道子団長は「病人も事故もなく終了できて良かった」と安堵の表情。 仲曽根正信さん(72、沖縄)は「フォルタレーザに日本庭園があるとは思いもしなかった。ノルデステ地方の日系人と交流できて良かった。映画やテレビでよく見るカレカ丘を見れたのも思い出の一つ」と旅を振り返った。 大崎康夫さん(77、高知)は「クラッシャーに出身地だけでなく、現住所も書かれていると参加者同士の話がもっと盛り上がるのでは」と今後改善して欲しい点を挙げた。(おわり、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月20日付
ナタールでは、1年のうちに雨が降るのはわずか1週間程度だという。最終日は朝から大粒の雨が降るあいにくの天気となった。この日はピウン植民地での慰霊祭の予定だったが、前日の交流会の帰りが遅くなったことに加え、連日の予定を早朝からこなす参加者らの疲労度を考慮して有志のみが参加ということになった。 午前7時半ホテルのエントランスに有志18人が集合、同植民地へと向かった。 慰霊祭は、同植民地に住む松苗賢治さん(72、神奈川)の敷地で行われた。入植時に日本政府から与えられた13ヘクタールの土地と植民地を去った家族の土地の一部を含むという敷地は広く、たくさんの植物が生い茂り、釜戸まであった。 ピウン植民地には1956年に10家族が入植した。メロン栽培で成功したが水害などが続き、ほとんどの移住者は違う土地へと移って行った。現在は2家族しか残っていない。前日の交流会で出会った宮川富男さん(77、長野)は1年後の1957年に入植したが、「日本を出る時は、とにかく果樹がよくできると聞いていた。しかし来てみたら果樹ではなく、ブラジルの果物のカジュだった。思っていた土地とは違うなと思った」と同植民地について話していた。 慰霊祭はキリスト教形式で行われ、慰霊祭後には玉城道子団長から松苗さんに県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットが贈られた。 松苗さんは8人兄弟の末っ子として生まれ、11歳の時も一家でピウン植民地へ入植した。父親は常々小さい日本ではなく、どこか広い国へ行こうと話していたとし、長兄や姉と相談しブラジル行きが決まったそうだ。 入植後は農業を始めたが上手くいかず、養鶏を始めた。しかし、何をしても上手くいかなかったため、兄姉は同植民地を出て行った。松苗さん自身はペドロ・ブラスで定年まで働き、現在も夫人のジゼルさんと2人で住み続けている。 「はじめはポルトガル語が分からず困ったが、ナタールの人は皆親切だったからいつも助けてくれた。苦労という苦労は感じたことがない」と入植当時を語ってくれた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月19日付
記者個人としては、ナタールでのリオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会で、本紙読者である請井正治さん(79、静岡)と出会えたことが印象深い。サンパウロから3000キロ離れたナタールでも本紙を読んでくれているとは、ありがたいことである。新聞が届かないことがあることと、誤字脱字が多いことのお叱りを受けてしまったが……。 請井さんは、第1次7回のコチア青年団員として1957年に「ぶらじる丸」で移住してきた。「特別希望や目的はなく、漠然と『日本にいてもなぁ』という思いがあって」ブラジルに来たという。 サンパウロ州ソロカバに入植後、みかんやジャガイモ栽培に4年間従事。「今思うと4年もいる必要はなかった気がするけど、僕は真面目でね」と話し、今でも嘘や人を騙したりすることは苦手。「ブラジルだとそれではダメなんだけどね」と笑った。 フォルタレーザに1年いた後、ナタールには1962年に移転して来た。「非の打ち所がないくらい、ナタールが大好き」と語り、54年間暮らしている。父親が百姓をやっており、農業が嫌で日本を飛び出したはずが、ソロカバの時からずっと百姓として働いてきた。これまで苦労したこともあるが、苦労と思ったことはない。結婚した当初はお金がなく、銀行への返済期限近くになると眠れない夜もあった。「やっぱり真面目なんでしょうね」と苦笑する。 最初の夫人をガンで亡くし、10年前に17歳年下の現在のマチコ夫人と再婚。「本当に再婚して良かった。俺は一人でやっていけないよ。ご飯も何でも美味しく作ってくれるし」と2人の生活に満足そうだ。 「人生で苦労は、少しはした方が良い。嫌なことがあると前向きになるのは難しいけど、それをバネにすれば良い結果がついてくる。人生は悲観するより、前向きに考えた方が得」という、人生観がブラジルでは必要なようだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月15日 「熊本県庁と連絡を取っているところ。詳しい状況が分かり次第、臨時理事会を開く」――熊本県益城町で14日午後9時26分頃、震度7の地震が発生したことに関し、ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長は、取材の電話に息せき切ってそう語り、「とても心配している」と繰り返した。 同会長のもとには、朝から心配のあまり連絡してくる同県人会員が絶えず、冒頭のように臨時理事会を開いて何らかの対応をとる心構えだ。 熊本出身で伯国在住34年のジャーナリスト・日下野良武さんは、「テレビのNHKニュースで地震を知り、すぐ県内に住む姉に電話した。幸い誰もケガは無いが、余震が続いており、家具が倒れる危険があるため近所の人とともに外に出ていた」とホッとした表情を浮かべた。 24歳まで熊本に住んでいた日下野さんは、「知る限りでは、これほど大きな地震は初めて」と話し、「熊本からは大変多く移民が来ており、みんな心配している。被害が少ないことを祈っている」と沈痛な面持ちで語った。
ニッケイ新聞 2016年4月15日 一行のうちで最長老、92歳でしゃきしゃきと歩き回る武田勝喜さん(熊本県)は、14歳の時に渡伯した。「一緒に住んでいた叔父さん(父の弟)が結婚し、『どうしても移住したい』っていうんです。それには『働き手が3人必要』との条件があったので、僕が入れば構成家族ができた。だから5年したら帰る、一儲けしたら帰るという話で来た。だから来たばかりの頃は日本に帰りたかった。親、兄弟が懐かしくてね。いくら想っても帰れない。そのうち戦争が始まって、それどころじゃなくなった。帰れないのは辛かった」と遠い戦前を振り返る。 「ところが戦後、42歳の時にPL教会の関係でようやく訪日した。郷里の友人の家に挨拶にいったら、友人は二人とも戦死していた。友人のお母さんは『まあ、立派になって! ブラジルに行ったから命拾いしたんだね。うちの子は戦争にいって二人とも…』といって、僕に抱き着いて泣いたんですよ」。 それから友人の母と共にお墓参りした。「そしたら、僕と同年代の友人の多くが、お墓に葬られていた。うちの村から戦争にいったものはほとんど全滅。友達はほとんど生き残っていなかった。村中がお爺さん、御婆さんばかり。それをみて、僕も涙が止まりませんでいた」と振りかえる。 「だから今は、ブラジルに来てよかったと心底思いますよ。今までに7回日本にいった。来年もう一回行こうと思っている」とほほ笑んた。 12日午後3時、一行は恒例の「ふるさと」を全員で合唱し、セアラ―州日伯文化協会から集まった地元日系人60人と別れを告げた。その時、マイクで「ふるさと」を歌って先導したのは、武田さんだ。あの元気さなら、再訪日はきっと可能だろう。 田所マリオ第2副会長に聞くと、一行が日陰にしていたマンガ―の大樹3本は「藤田家がこのシッチオを50年前に買った時に植えたもの」と教えてくれた。藤田十作もこのマンガ―の樹の下で、人生を振り返り、敢えて生涯一度も帰らなかった「ふるさと」について想いをめぐらしたに違いない。 ◎ ◎ 夜の食事時、たまたま同じテーブルに座った一行の市田邦彦さん(75、広島県)は、聖州とミナス州の州境ソコーロ在住で、町唯一の画廊「Galeria Ichida」(電話=19・3895・2322、)を経営しているという。 県人会の呼び寄せで61年渡伯。最初のパトロンがソコーロに住んでいて、独立してもそのまま住み続けている。同地には日本人会も存在しないという。 「2008年、移民百周年を記念して個人的にオープンしたんです。ただの趣味ですよ。具象画を中心に100点ほど所蔵しているうち、上永井正、ドゥリヴァル・ペレイラなど80点を展示しています」という。入場料は20レアル。 「ぜひ見にきてください」と薦める市田さんの腕は、農業者らしく筋肉が張っている。人口4万人の地方都市で、趣味で画廊を経営するとは、いろいろな戦後移民がいるものだ。(つづく、深沢正雪記者)
ふるさと巡り一行の松本ヨランダさん(72、2世)は、リオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会会場で、幼い記憶を呼び起こす人物や奇しくも遠い親類に出会った。 同協会の会員で、ナタールで海老養殖をしている曽根原マリーザさんとの会話で、マリーザさんの祖母がサンパウロ州ジェツリーナに住んでいると聞き、父を思い出した。ジェツリーナという町は熊本県からの移民が多く、1926年に「らぷらた丸」でブラジルに移住した熊本県出身の松本さんの父もジェツリーナに入植。松本さんはジェツリーナ近隣のプロミッソン生まれだが、幼い時に父親から聞いた昔話とマリーザさんが祖母から聞いた昔話がよく似ており、懐かしい気持ちが蘇ったという。 また、同協会の青木ミルトン会長との会話では、青木会長の両親が福岡県大刀洗村(現=大刀洗町)で松本さんの遠い親戚であることがあることが判明した。 松本さんの母親も同村出身で旧姓は平田。同村では江戸時代に徳川幕府がキリスト教を禁じた後も、隠れキリシタンとしてキリスト教信仰を続けた村民がいたという。平田家と青木家こそがその隠れキリシタンの家系であり、「ブラジルで平田家と青木家と言えばほとんどは親戚と聞いている」と松本さんは話す。 松本さんは早くに母親を亡くし、平田家との付き合いは疎遠となったため、自分自身が隠れキリシタンである平田家の子孫という確かなことは分からなかったという。ただ、時折平田家の人間と会うと親戚筋の話をよく聞いており、その親戚を青木会長が知っていたことから「間違いなく親戚だろう」と青木会長は結論付けたそうだ。 「参加するのは2回目だけど、ふるさと巡りはすごいなとつくづく感じた。本当にすごい」と思わぬ親戚との出会いに、松本さんは驚きを隠せない様子。「言われてみれば見たことがあるような顔。父がよく『福岡の面(つら)』と言っていたが、そういう顔をしている」と笑い、「父も早くに亡くしたので、ここで色んなことがつながりジーンときた」と感激の面持ちだった。 青木会長はサンパウロ市の福岡県人会によく顔を出しているそうで、「サンパウロでの再会を約束しました」と松本さんは笑顔で話した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月15日付
東京都友会の尾和義三郎新会長と坂和三郎前会長が来社し、会長交代のあいさつと定期総会の報告を行った。 坂和前会長は2004年から6期12年会長を務め、今後は名誉会長として同会を支えていく。12年間を振り返り「私が会長就任当時は東京都からの援助金で会は成り立っていたが途中から打ち切られ、管理費など経費を捻出しなければならなくなった。その時『次世代に引き継ぐには財政をしっかりしなければならない』と感じた」と話し、会の運営費確保に努めてきた。現在は安定した運営ができており「役員らが安心して活動できる」と胸を張った。 続けて「東京生まれの人は故郷という意識があまりない。そんな中で会を継続させるため色々と考え頑張ってきた。当会は東京を愛せる人なら誰でも入れる都友会。県人会も将来的には県友会のように変わっていくのではないか」と予測した。最後に「今後は関東ブロックが結集して若い人を取り込んで頑張ってもらいたい」と新会長を励ました。 尾和新会長は「今年はリオでオリンピックがあり、次の開催地は東京都。都知事など関係者が多く来伯するこの機会に親交を深めて行きたい。加えて東京都はサンパウロ州と友好提携を結んでいるので、両自治体の親密化も図りたい。そのためにかつての県費留学生や研修生に会に参加してもらい、若い人たちのアイデアをどんどん採用して東京とサンパウロの距離が近づいてくれれば」と就任の抱負を語った。 3月28日には2016年度の定期総会が同会会館で行われた。昨年度の収入は11万4017・07レアルあり、支出は8万1157・19レアル、3万2859・88レアルが繰り越された。 新役員は次の通り。(敬称略) 名誉会長=坂和三郎 会長=尾和義三郎 第1副会長=山下リジア 第2副会長=林慎太郎 第1書記=佐々木佳子 第2書記=森原クリスチーナ 第1会計理事=鈴木壽 第2会計理事=早川エイジ 理事=大村順、神田アントニオ、小松パトリシア 監査役=岡田本子、島田マサオ、本田スジ、坂和由香了、高木ますみ、鈴木さゆり サンパウロ新聞 2016年4月14日付
愛知県人会主催で大分、滋賀、和歌山、長野県人会、笠戸丸協会共催の「第20回屋台祭り」が17日午前11時からサンパウロ市リベルダーデ区の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74)で行われる。 会場ではお馴染みの各県人会の郷土料理(トリ飯、近江肉うどん、お好み焼き、椎茸ご飯、みそ串かつ、ニシン焼き)11種類が販売される。またストリートダンスやベリーダンス、サックスと12弦ギターの共演など若者向けアトラクションが多く披露され、老若男女楽しめるイベントになっている。 案内に訪れた滋賀県人会の山田康夫会長、和歌山県人会の谷口ジョゼ会長、愛知県人会の沢田功副会長、笠戸丸協会の吉加江正健さん、大分県人会の伊東信比古さん、長野県人会の杉本みどりさんらは「屋台祭りは各ブロックの枠を越えて行う『ミニ・フェスチバル・ド・ジャポン』のようなイベント。気軽に来て郷土食を楽しんで下さい」と来場を呼びかけた。 入場無料。問い合わせは愛知県人会事務局(電話11・3241・2682)まで。 サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月14日 同協会メンバーの桜庭セルソさん(61、二世)は20年前に仕事の関係で聖州から移り住んだ。ブラジル民謡協会の故桜庭喜太郎さんは伯父に当るという。「現在の会員は100家族ほど。多いときには運動会に700人が集まったこともある。でも費用の問題で2年前に中止した。セアラー州立大学には日本語コースがあり、学生は200人もいる」と現状を説明した。 話をしているうちに、セアラー州唯一のコチア青年に出会った。永浦二郎さん(宮城県、2期1回)は宮城県立宮城農学寮出身。「東北で有名な全寮制の農学校。農家の子供が送り込まれて、ビンタをされながら厳しく教育を受ける」と笑う。 「海外で大きくやりたい」という夢を持ち、東北新報の広告でコチア青年を見て興味を持ち、親に隠れて応募したという。長野県で一カ月講習を受けて、1956年に渡伯した。「あの頃、日本はまだ食糧難、厳しかった。農家の次、三男に良い就職先なかった」。イタケーラの組合員の農場で4年間を務めあげ、1961年に貯めたお金で「ポ語勉強してブラジル全体を知ろう」と旅に出て、結局は最初の町に居ついた。 「55年前、セアラーには何にも野菜なかったんだよ。だからコチア組合から種を取り寄せて、色々作り始めた」――そこからコチア青年の孤軍奮闘が始まった。 「コチア組合からいろいろな種を取り寄せて、野菜を作り始めた」という永浦二郎さんだが、「葉野菜を作って市場に持って行っても、誰も食べないんだ。食べる習慣がない。藤田さんの店でもその頃は花だけ。野菜はやっていなかった」と愕然とした。 もともと消費されていた野菜はコエントロ、セボリンニャ、アルファッセだけ。「今でも60、70歳以上の人は、野菜食べないよ。だから、お店に来る人に食べ方を教えて少しずつ広めた」。以前、ベレンやトメアスーでも同じ様な話を聞いた。北東伯では特にその傾向が強かったようだ。 「あと、レバノン移民の金持ちは野菜を食べる習慣があった。彼らの農場で雇われて、しばらく野菜を作ったこともあった。今じゃ、野菜作りがいっぱいいるよ。僕は標高の高いセーラ・グランデで無農薬野菜を作っている。うちの店はお客さんでごった返してるよ。ノルデスチは作れば、野菜でも果物でもとても良いものができる。サンパウロより品が良いぐらい」と見ている。 故郷巡り参加者の一人、元県連会長の松尾治文協副会長(77、福岡)は、「今回福岡県人は14人も参加しているんですよ。地方の文協や日系人との交流は、本当に大事ですね」と交流を楽しむ祝杯を重ねていた。 その場でマイクを使って一行150人に、戦後移民最大のグループ「コチア青年」の参加者がいないか呼びかけた。永浦さんは期待してしばらく待ったが、誰も名乗り出る者がおらず、少し寂しそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)
