ニッケイ新聞 2016年4月13日 5県人会と笠戸丸協会による『第20回屋台祭り』が、17日午前11時から聖市の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74, Liberdade)で行なわれる。午後3時まで。 今回のメニューは味噌串かつ、抹茶アイス(愛知)、トリ飯、トリ天、牛たたき(大分)、近江肉うどん(滋賀)、お好み焼き(和歌山)、椎茸ごはん(長野)、焼きニシン(笠戸丸)など。 出し物も和太鼓、盆踊り、ボサノバショーにビンゴやカラオケと盛り沢山。案内に来社した関係者は、「日本祭りの縮小版。色とりどりの和食を楽しんで」と呼びかけた。 問い合わせ先は愛知県人会(11・3104・8392)まで。
Dia: 14 de abril de 2016
ニッケイ新聞 2016年4月13日 高知県からブラジルへ移民として渡り、農業を営みながら、農園の日常風景や家族の姿などを収めた写真家、大原治雄さん(1909―99年)の日本初となる写真展が、今月9日、高知県立美術館で開幕した。 大原さんは旧三瀬村(現・いの町)出身で、パラナ州ロンドリーナで農園を経営しながらアマチュアカメラマンとして活躍。98年には初となる個展を開催し、大きな反響を呼んだ。日本での開催は今回が初。昨年には、外交120周年記念としてNHKのドキュメンタリー番組でも紹介された。 開幕式には約90人が参列した。ブラジルのコレアドラゴ駐日大使は「大原さんの優れた作品を日本で初めて紹介できるのは大変喜ばしい」とあいさつ。大原さんの孫、サウロ治夫さん(43)も「祖父はいつも家族の中心にいた。写真の数々は生きざまそのものだ」と語った。 展覧会では、40~60年代に撮影された作品を中心に、約180点のモノクローム・プリントが展示される。大原展担当の影山千夏学芸員は、「写真というかたちで、彼の育んだ豊かな実りを故郷高知に届けてくれた。愛溢れる大原一家の家族の風景と、おおらかなブラジルの自然の光景をゆっくりと味わってもらいたい」と語った。 同展は6月12日まで。その後、兵庫県の伊丹市立美術館、山梨県北杜市の清里フォトアートミュージアムも巡回する。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 1969年から姉妹都市関係を結ぶ聖市と大阪の交流事業として、聖市在住の大貫純さん(21、四世)が先月25日までの約2週間、親善大使として訪日した。大阪・サンパウロ姉妹都市協会主催。 大貫さんは埼玉県に生まれ、2歳まで生活した。一家で聖市に移った後も日本語の勉強を続け、日本語能力試験N1を取得。昨年の日本語スピーチコンテストに出場し、優秀成績を修めて親善大使に抜擢された。 小さい頃は、新幹線のジグソーパズルで遊んでいたという。両親や親戚から日本の色々な話を聞いて育ち、「自分が生まれた国に行って、今まで聞いた話をこの目で確かめたい」という期待とともに渡日した。 滞在中は大阪を中心に、防災センターや博物館なども見学。大阪城、金閣寺、仁和寺などへ観光にも訪れた。 サンパウロ大学で環境について学ぶことから、下水処理場の見学時に強い印象を受けたという。「大阪市には浄化施設が12カ所あるが、聖市には半分以下の5カ所のみ。浄化率も大阪の90パーセント以上に対し、聖市は6、70パーセントで違いを痛感した」との感想を語った。 到着翌日には神戸へ。メリケン波止場にある希望の船出像を見て、サントスの「日本移民ブラジル上陸記念碑」を思い出し、胸が熱くなったという。 神戸移民センターでは曽祖父が1920年に渡伯した記録を発見。「その96年後に、曾孫である自分が日本に来るとは」と感激した様子だった。 2週間を振り返り、「日本人は細かいところまで注意を払って仕事をしている。それを見習ならわなければ。いつかは日本の大学に留学してみたいし、出身地の埼玉も訪れたい」と笑顔で語った。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 ルジアさんは「戦中のこの記憶は、家族のトラウマとして残ったわ。私たち子どもの服や本まで無くなったのよ。壊された家のドアや窓を直して、ようやく戻れるようになるまで、親戚の家の、土間の家政婦部屋に家族で住まわせてもらった。両親ががんばり、親戚が支援してくれたから、私たちは学校に通い続け、決して退学や留年はしなかった」と昨日のことのように鮮明に思い出す。 1942年、まだ6歳だったカピトン・フジタもはっきりと略奪の時を覚えている。「苦労して新築した家の中に何もなくなってしまって、『こんなになっては子どもたちに教育が施せない。もうおしまいだ』って、父は毎日泣いてばかりだった。明日にでも死ぬんじゃないか、というぐらいに失望していた」。 そんな時、15歳だった姉ルジアが先頭に立って家族を引っ張り、家業の立て直しをした。「僕らは父に『絶対に家は元通りになるから、お父さんも安心して』と説得し、姉は教会が経営する学校へ、僕はお金がかからない陸軍の学校に進学した」。 カピトンは17歳でフォルタレーザ予備校からアグーリャス・ネグラス軍アカデミー(AMAN)に進学し、中尉になってから軍籍を離れ、建設技師としての経歴を築いた。 カピトンは「陸軍学校の卒業式で、将官の印として短刀を授与された時、父は涙を流して喜び、強く僕を抱擁した」と思い出す。 セアラー州日伯文化協会は、カピトンが1970年に創立し、今も会長を続ける。手にするタブレットには、何千枚もの写真が入っており、次々に有名人と撮った記念写真を見せる。見覚えのある顔が写っていると思ったら最高裁判事のジルマール・メンデスだった。「彼とはアミーゴだよ」と笑う。「レナード・アラゴンもこの町に帰ってきたら、僕と昼食を食べるんだ」とも。 それだけの政界、法曹界、実業会での顔の広さが、公園実現の背景にあった。「どうしても父十作を顕彰したかった」と振りかえる。停滞している時期も長かった同協会だが、移民百周年を機に息を吹き返し、公園建築を実現させた。 ポーボ紙によれば、十作は子供らに次の3点を常々説いていた。(1)《天皇陛下は神の子》《日本国という大家族の父》という言葉の元は、おそらく天皇陛下を「現人神」と呼んだ時代の雰囲気、戦前の家族国家観「八紘一宇」を思わせる。さらに(2)《日本帝国は戦争に負けたことがない》(3)《年上を敬うこと》と。 とはいえ、実際にカピトンや姉と話した実感としては、〃明治の日本精神〃を感じさせるものは特になかった。唯一、藤田十作日本庭園に立つ四つの柱に鋳抜かれた文字「訓育」「我慢」「決心」「苦心」「献身」「根気」が、明治男がセアラーに遺した気概を伺わせるのみだ。(つづく、深沢正雪記者)
