東京都友会の尾和義三郎新会長と坂和三郎前会長が来社し、会長交代のあいさつと定期総会の報告を行った。 坂和前会長は2004年から6期12年会長を務め、今後は名誉会長として同会を支えていく。12年間を振り返り「私が会長就任当時は東京都からの援助金で会は成り立っていたが途中から打ち切られ、管理費など経費を捻出しなければならなくなった。その時『次世代に引き継ぐには財政をしっかりしなければならない』と感じた」と話し、会の運営費確保に努めてきた。現在は安定した運営ができており「役員らが安心して活動できる」と胸を張った。 続けて「東京生まれの人は故郷という意識があまりない。そんな中で会を継続させるため色々と考え頑張ってきた。当会は東京を愛せる人なら誰でも入れる都友会。県人会も将来的には県友会のように変わっていくのではないか」と予測した。最後に「今後は関東ブロックが結集して若い人を取り込んで頑張ってもらいたい」と新会長を励ました。 尾和新会長は「今年はリオでオリンピックがあり、次の開催地は東京都。都知事など関係者が多く来伯するこの機会に親交を深めて行きたい。加えて東京都はサンパウロ州と友好提携を結んでいるので、両自治体の親密化も図りたい。そのためにかつての県費留学生や研修生に会に参加してもらい、若い人たちのアイデアをどんどん採用して東京とサンパウロの距離が近づいてくれれば」と就任の抱負を語った。 3月28日には2016年度の定期総会が同会会館で行われた。昨年度の収入は11万4017・07レアルあり、支出は8万1157・19レアル、3万2859・88レアルが繰り越された。 新役員は次の通り。(敬称略) 名誉会長=坂和三郎 会長=尾和義三郎 第1副会長=山下リジア 第2副会長=林慎太郎 第1書記=佐々木佳子 第2書記=森原クリスチーナ 第1会計理事=鈴木壽 第2会計理事=早川エイジ 理事=大村順、神田アントニオ、小松パトリシア 監査役=岡田本子、島田マサオ、本田スジ、坂和由香了、高木ますみ、鈴木さゆり サンパウロ新聞 2016年4月14日付
Dia: 15 de abril de 2016
愛知県人会主催で大分、滋賀、和歌山、長野県人会、笠戸丸協会共催の「第20回屋台祭り」が17日午前11時からサンパウロ市リベルダーデ区の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74)で行われる。 会場ではお馴染みの各県人会の郷土料理(トリ飯、近江肉うどん、お好み焼き、椎茸ご飯、みそ串かつ、ニシン焼き)11種類が販売される。またストリートダンスやベリーダンス、サックスと12弦ギターの共演など若者向けアトラクションが多く披露され、老若男女楽しめるイベントになっている。 案内に訪れた滋賀県人会の山田康夫会長、和歌山県人会の谷口ジョゼ会長、愛知県人会の沢田功副会長、笠戸丸協会の吉加江正健さん、大分県人会の伊東信比古さん、長野県人会の杉本みどりさんらは「屋台祭りは各ブロックの枠を越えて行う『ミニ・フェスチバル・ド・ジャポン』のようなイベント。気軽に来て郷土食を楽しんで下さい」と来場を呼びかけた。 入場無料。問い合わせは愛知県人会事務局(電話11・3241・2682)まで。 サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月14日 同協会メンバーの桜庭セルソさん(61、二世)は20年前に仕事の関係で聖州から移り住んだ。ブラジル民謡協会の故桜庭喜太郎さんは伯父に当るという。「現在の会員は100家族ほど。多いときには運動会に700人が集まったこともある。でも費用の問題で2年前に中止した。セアラー州立大学には日本語コースがあり、学生は200人もいる」と現状を説明した。 話をしているうちに、セアラー州唯一のコチア青年に出会った。永浦二郎さん(宮城県、2期1回)は宮城県立宮城農学寮出身。「東北で有名な全寮制の農学校。農家の子供が送り込まれて、ビンタをされながら厳しく教育を受ける」と笑う。 「海外で大きくやりたい」という夢を持ち、東北新報の広告でコチア青年を見て興味を持ち、親に隠れて応募したという。長野県で一カ月講習を受けて、1956年に渡伯した。「あの頃、日本はまだ食糧難、厳しかった。農家の次、三男に良い就職先なかった」。イタケーラの組合員の農場で4年間を務めあげ、1961年に貯めたお金で「ポ語勉強してブラジル全体を知ろう」と旅に出て、結局は最初の町に居ついた。 「55年前、セアラーには何にも野菜なかったんだよ。だからコチア組合から種を取り寄せて、色々作り始めた」――そこからコチア青年の孤軍奮闘が始まった。 「コチア組合からいろいろな種を取り寄せて、野菜を作り始めた」という永浦二郎さんだが、「葉野菜を作って市場に持って行っても、誰も食べないんだ。食べる習慣がない。藤田さんの店でもその頃は花だけ。野菜はやっていなかった」と愕然とした。 もともと消費されていた野菜はコエントロ、セボリンニャ、アルファッセだけ。「今でも60、70歳以上の人は、野菜食べないよ。だから、お店に来る人に食べ方を教えて少しずつ広めた」。以前、ベレンやトメアスーでも同じ様な話を聞いた。北東伯では特にその傾向が強かったようだ。 「あと、レバノン移民の金持ちは野菜を食べる習慣があった。彼らの農場で雇われて、しばらく野菜を作ったこともあった。今じゃ、野菜作りがいっぱいいるよ。僕は標高の高いセーラ・グランデで無農薬野菜を作っている。うちの店はお客さんでごった返してるよ。ノルデスチは作れば、野菜でも果物でもとても良いものができる。サンパウロより品が良いぐらい」と見ている。 故郷巡り参加者の一人、元県連会長の松尾治文協副会長(77、福岡)は、「今回福岡県人は14人も参加しているんですよ。地方の文協や日系人との交流は、本当に大事ですね」と交流を楽しむ祝杯を重ねていた。 その場でマイクを使って一行150人に、戦後移民最大のグループ「コチア青年」の参加者がいないか呼びかけた。永浦さんは期待してしばらく待ったが、誰も名乗り出る者がおらず、少し寂しそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)
リオ・グランデ・ド・ノルテ(北大河)日本ブラジル文化協会との交流会はホテルから20分ほどの所にある「エスパソ・ギンザ」で行われた。会場には同協会の会員12人、そしてナタール市の近郊にあるピウン植民地から北山初江さんが出席した。北山さんは現在95歳。1956年、「野菜を作るため」一家で他の10家族と共にピウン植民地に入植した。「来た頃は食べるものがなくて、最初は小さい土地に大根など日本の野菜を栽培していた」と当時の様子を話す。「言葉が分からず苦労した」と言い、仕事を終えた夜間に独学でポルトガル語を勉強し、少しずつ覚えていったそうだ。 移住して14年経った1970年には、主人を自動車事故で亡くすという悲劇に見舞われる。それでも「トマトやメロン、みんな一人で栽培した」が、野菜は作っても売れなかったため、花栽培に切り替えこれが成功。女手一つで子供7人を育て上げた。 一緒に入植した家族の多くはピウン植民地を離れ、現在残っているのは2家族だけとなった。北山さんは今も同地に一人で暮らしている。ただ半年前に足を悪くし、今は車いす生活。孫たちが面倒を見てくれている。この日も孫のアンドレさんが付き添って来場した。アンドレさんは「生活環境や、言葉など苦労がたくさんあったが、彼女は強い女性で、一人ですべてを成し遂げた。僕にとっても良い手本」と祖母への賞賛を惜しまなかった。 「たくさんの日本人、日系人が来てくれて嬉しい。知らない人ばかりだけど、同じ日本人。愛着が湧くね」と滅多にない日本人との交流に笑顔がこぼれた。会場では玉城道子団長が「150人も来て、皆さん驚いているかもしれませんね。この機会を利用して楽しんで交流をして下さい」とあいさつ。続いて同協会の青木ミルトン会長が協会の活動内容を一行にスクリーンを使って説明した。また青木会長からは北山さんを含む出席した会員一人一人が紹介され、それぞれあいさつをした。 その後出席者で炭坑節を踊り、最後は「故郷」を全員で合唱し、午後10時半交流会は幕を閉じた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月14日付
6日目。一行は午前8時にモッソロのホテルを出発し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州の州都ナタールへと向かった。道中、バスからはどこまでも続く、岩が突き出た緑の広野が見える。そこを過ぎると、人が住む集落がポツリポツリと点在していた。酪農農家らしき牧場があり、大都会サンパウロでは絶対に見られない牧歌的な景色だ。途中のラジェスで休憩となったのでバスを降り、周囲を散策すると馬が2頭放牧されていた。さらに、近くからは牛小屋の匂いがした。記者の実家の近くには牛の畜産農家があったので、すぐ分かった。これは懐かしい匂いである。 その後もバスは順調に走り、正午過ぎナタールへ到着。昼食後、バスでの市内見学となった。ナタールは思ったより都会だ。バスは街を通り抜け、真っ青な海を横目に2007年に開通したというニュートン・ナバーロ橋を横断。橋からはナタールの街が一望でき、都市部と森林地帯、ポテンギ川と海が共存する最高の景色がそこから見えた。 橋を往復した後、港とセントロ地区を通りナタール観光センターへ。センターの建物は19世紀末に建設されたもので、浮浪者の避難所、孤児院、刑務所と時代時代で姿を変えてきたそうだ。現在は観光センターとなり、民芸品の販売、ノルデステ地方伝統の音楽「Forro」のイベントなどが開催されている。小高い場所にセンターはあるので、テラスから美しい市内の景色を見渡すことができた。 センター内には民芸品を売る店が連なり、ここでも2日目同様に買い物に精を出す女性陣とベンチに腰掛け休憩する男性陣の対照的な姿を見られた。 センターを後にし、ポンタ・ネグラ海岸近くの土産物屋に移動。そこから遠くに見える、有名なカレカ丘をグループごとに見学。午後5時半、一行はホテルにチェックインし、同7時、現地日系団体との交流会へ出発した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月13日付
