06/03/2026

Dia: 22 de abril de 2016

ニッケイ新聞 2016年4月20日 ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長らは19日朝来社し、「熊本県とは活発に交流を行なっており、大変お世話になっている。今こそ恩返ししたい」と真剣な表情で話した。清原健児副会長、赤木数成書記、日下野良武理事長らと共に来社した。 熊本地震発生二日後の16日午後、同県人会では臨時理事会を緊急招集し、義援金募集運動を決定した。「熊本の皆さんを元気づけたい。日系社会の皆様、日本と関係のある方、ぜひ協力をお願いします」と支援を呼びかけた。 臨時理事会には20人が参加し、義援金募集運動を決定し、現在、専用の銀行口座の開設を交渉中。義援金は同県人会事務所(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)に直接持参も可。寄付者の名前は同県に報告するが、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原副会長によれば、日系社会からも熊本県を気遣う声は多く、遠くはベレンやポルト・アレグレから同県人会に電話で問い合わせが来たという。 赤木書記によると、県庁にメールを送っても返信がなく、フェイスブックを通じて連絡をとったという。また同県の知人に連絡をとったが、「生存を確認するために電話をかけた場合、携帯は通じるが、固定電話はつながらない人が多い。おそらく皆、避難所で待機しているのでは」と心配そうに語った。 本紙の取材に対し、プロミッソン在住の安永和教さん(69、三世)によると、熊本県玉名市の親戚は飲料水などが不足しているだけでなく、「家は無事だったけど、いつ再び地震が来るか分からないから、高齢者も車の中で寝ている状態」だという。 今回の地震では、熊本県益城町で現地時間の14日午後9時26分頃、震度7の強い揺れがあった。その後も16日未明に震度6強を観測、多数の家屋倒壊が見られ、一連の地震による死者は47人以上、県内の避難者数は10万人前後で推移している。 問い合わせは同県人会事務局(11・5084・1338)まで。 □関連コラム□大耳小耳 19日付のNHKニュース電子版によると、今回の熊本地震を受けて、米国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で18日、39の県人会から成る南加県人会協議会が緊急会合で義援金の送付を決定した。今後、他の日系団体にも呼びかけて義援金を募り、被災地に送るという。なお11年 3月の東日本大震災時には、18万米ドルを送っている。伯国の熊本県人会も義援金の募集運動を開始した。米国にならって、当地でも日系コロニア全体で協力し、被災地支援の〃輪〃を広げていっても良いのでは。
ニッケイ新聞 2016年4月21日 竹中芳江さんの家族の話は実に興味深い。「グァポレに到着した時、他の家族はみんな泣いていたけど、母だけは歌っていた。だってアマゾンにきて初めて、家族が全員そろって御飯食べたのよ。あそこにいた3年半で家族の団結が一気に強まった。ある時、日本の祖父から『旅費を全額負担するから日本に帰ってこないか』と母に連絡があったが帰らなかった」ということもあった。 3年半でグァポレを諦めて、二日がかりでクイアバに南下し、そこからサンパウロに出た。 「母はサンパウロで魚の行商をして生活を支えた。手相見はみんな『あんたたち夫婦は分かれる』と言ったが、両親は最後まで別れなかった。母は自分では『苦労した』とかまったく言わない人。そんなお母さんの勇気はすごいと思うの。私にその何分の一かの勇気があればイイなと、今でも思うわ」。肝っ玉母ちゃんというのか。すごい個性的な女性だったようだ。 良江さんの娘ロザナさん(55、二世)は今回の故郷巡りに関して「藤田十作が子供に日本人の精神を伝えたことが、息子たちの立ち振る舞いの上品さから分かった。ノルデステでも日本移民の歴史が残っていることが分かって嬉しい」との感想を述べた。 翌3月13日朝、わざわざブラジリアから参加した吉田富士子さん(67、高知県)に話を聞くと、「とにかく旅行が大好き。故郷巡りも4回目」とのこと。9歳の時、チチャレンガ号で家族移住した。「3年前かしら、トルコにツアー旅行したら、その一週間後にシリア内戦が始まって驚いた。なんといってもカッパドギアが凄かったわね。トルコじゃ全然言葉が通じないかと思ったら、現地人が『奥さん、奥さん』って日本語で言ってくるじゃない。ビックリよ」との体験談を披露した。 ホテルを出発した一行は、途中、アキハース地区で「カーザ・デ・ヘンデイラ(編み物の家)」という土産物センターに立ち寄った。そこでは母娘3代に渡ってセアラ織りをする名物女性マリア・ジウダ・モレイラ・メレイラさん(68)が、実演をしていた。目に見えない早業で、重りの付いた編み棒を左右に行き来させて編んでいく。 なんと1日で50センチしか織れないが、すでに1300メートル分も仕上げ、2千メートルを目指しているという。「ギネスブックに入れるのよ。母から教わって、娘にも伝えた。もちろん孫にも伝えるわ」と誇らしげ。 午前10時過ぎにはアラカチに立ち寄り、エビ養殖場「ミランテ・ドス・ガンボアス」を見学した。約33年前に創立し、630ヘクタール分の養殖池があるという。90日で出荷可能に育ち、毎日25トンを「Maris」ブランドで生産販売している業界最大手の一つだ。 そこで昼食時、フランカからの参加者、中村伯毅さん(ひろき、82、二世)と話をしていると、「父は終戦直後、ホリサワという帰国手続き詐欺師に20年間も財産を騙されていた」という驚愕の話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
14日午後9時26分に熊本県で発生した地震は震度7を記録。日本時間16日の午前1時25分頃には阿蘇山付近で震度6の余震が起きており、現地では予断を許さない状況が続いている。 熊本県人会の田呂丸哲次会長は本紙の電話取材に対し「今朝熊本県庁へメールを送った。まだ会員からの問い合わせはないが、16日に丁度理事会があるので、そこで意見や質問が出てくると思う。全員で話し合って今後の対応を考えて行きたい」と回答。 また「テレビで現地の様子を見て驚いている。あんな光景は見たことがない。日本は美しい良い国だが、震災がある恐ろしい場所でもあると改めて感じた」と話した。 続けて「2年前には熊本県内の13市町村を回り、地元の方々には大変お世話になった。手紙や物資など、何かしらを送りたいと思っている」と述べ、対応を検討していく。 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)では地震への対応についてはまだ未定だそうだが、熊本県人会からの要請があれば協力していくという。 サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月20日 12日の夕食時、大崎康夫さん(77、高知県)=ピエダーデ在住=に話しかけると、「僕は葉山村(津野町)出身、下元健吉と同じ部落なんです」との言葉にググッと心を引き寄せられた。 「川向いが下元の実家。子供のころから下元の成功譚を聞かされ、刺激を受けてきた。コチア組合の監事の川上嵩(たかし)さんが昭和25年頃に一時帰郷して、清酒を買ってきて二晩も村人を集めて大宴会をやったんです。当時は闇で焼酎を買って飲むのがせいぜいの時代でしょ。ブラジルはなんと景気がいいことかと、村中に強く印象付けました」と思い出す。 「源平合戦で平家が逃げ込んだような山奥だから、畑と言っても段々畑ばかり。畑の横幅より壁の高さの方が長いぐらい。当然、機械も入らない。戦後、アメリカの農業紹介の映画とかみて、外国に出て広い所で自由に農業をやりたいと思っていたところだった」。 1954年9月、中学を出たばかり15歳だった大崎さんは、親戚の呼び寄せで念願の渡伯。イビウナにあった親戚の農場で25歳まで働き、独立してピエダーデに農場をかまえた。「当時、ブラジル来るのは〃永遠の別れ〃だから、水杯ですよ。同じ部落から30軒も来てますよ。みんなイビウナ、サンミゲル、ピラールとかに入った」。 当時、年に一回「葉山会」という集まりがあった。葉山出身者の家に順繰りに集まり、親睦会を開いた。「下元健吉さんも来て、皆で一緒に酒を飲んだ。誰とでも気さくに話す人だった。コチアが続いていたら、コロニアも違っていただろうと思うよ。コチアが解散してからコロニアもバラバラになってしまった」。 1986~90年の頃、バイーア州バレイラスのセラード開発に入った。「開拓が終わって、あとは肥料を入れて種を植える段階になった時、組合に融資申請したら『自分の力でやれ!』との返事。当時はインフレ率1千%の時代、銀行から借りたら大変なことになる。涙を呑んで撤退せざるを得なかった。広い土地でいい勉強をさせてもらったよ。50万ドルぐらい突っ込んだかな。今は柿と栗だけ続けているよ」と豪快に笑った。 参加者一行にこそ、玉手箱のようなコロニアの歴史が詰まっていると実感させる話だ。 別のテーブルにいた一行の竹中芳江さん(旧姓北川、74、熊本県)にもとに移り、話を聞き始めると、なんと「グァポレ移民」だという。北伯のロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ(旧グァポレ)移住地のことだ。戦後移住が始まった翌年1954年に12歳で家族と入植した。 何気なく「なぜ移住を決断したんですか?」と問うと、「両親は韓国からの引揚者なんです。父は何人も使用人がいるような金持ちの家庭に育ち、サント(聖人)のような人だった。ただし、かけ事が好きで、競馬、競輪に目がなかった。私たち兄弟6人をほったらかしにして、週に1回しか風呂に入れてくれないような生活。母(北川房江)は『こんなだったら私は出て行く』って。ブラジル移住は母が言い出して決めたの。母は父のかけ事癖を辞めさせるためにアマゾン移住したんじゃないかしら。だってアマゾンにはないでしょ、かけ事するようなところが。移住が決まった時、母は布団の上をキチガイのように飛んで喜んでいた」という驚くような話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
慰霊祭有志一行はピウン植民地を後にし、午前10時ホテルに戻った。ふるさと巡り一行は同11時にホテルから出発することになっているので、記者は最後の1時間だけでも自由時間を取りたいと思ったが、なんだかんだと時間はあっという間に過ぎ、ホテルを出発した。レストランでの昼食後、時間があれば「プライア・ドス・アルチスタス」の見学だったが、先を行く第2グループのバスが空港についていないという連絡を受け、時間に余裕を持つため空港に直行となった。 午後2時45分頃サンゴンサーロ・ド・アマランテ新国際空港空港に到着。2年前にできたばかりの空港は真新しく、近代的なデザイン。周囲には森林が広がる。フォルタレーザから一緒だったバスの運転手ともここでお別れ。旅行中、記者は彼らと一緒に温泉で遊んだり、何かノルデステ地方土着の魔術のようなものをかけられたりと交流する機会が多かったので別れるのが名残惜しかった。 チェックインをし、飛行機は予定通り午後5時13分に空港を離陸。第3グループはリオで乗り換え、同11時グアルリョース空港に到着した。グループの何人かはここから直接帰宅し、残りのメンバーはバスでリベルダーデへ向かい、現地解散となった。 全行程を終えた玉城道子団長は「病人も事故もなく終了できて良かった」と安堵の表情。 仲曽根正信さん(72、沖縄)は「フォルタレーザに日本庭園があるとは思いもしなかった。ノルデステ地方の日系人と交流できて良かった。映画やテレビでよく見るカレカ丘を見れたのも思い出の一つ」と旅を振り返った。 大崎康夫さん(77、高知)は「クラッシャーに出身地だけでなく、現住所も書かれていると参加者同士の話がもっと盛り上がるのでは」と今後改善して欲しい点を挙げた。(おわり、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月20日付
ナタールでは、1年のうちに雨が降るのはわずか1週間程度だという。最終日は朝から大粒の雨が降るあいにくの天気となった。この日はピウン植民地での慰霊祭の予定だったが、前日の交流会の帰りが遅くなったことに加え、連日の予定を早朝からこなす参加者らの疲労度を考慮して有志のみが参加ということになった。 午前7時半ホテルのエントランスに有志18人が集合、同植民地へと向かった。 慰霊祭は、同植民地に住む松苗賢治さん(72、神奈川)の敷地で行われた。入植時に日本政府から与えられた13ヘクタールの土地と植民地を去った家族の土地の一部を含むという敷地は広く、たくさんの植物が生い茂り、釜戸まであった。 ピウン植民地には1956年に10家族が入植した。メロン栽培で成功したが水害などが続き、ほとんどの移住者は違う土地へと移って行った。現在は2家族しか残っていない。前日の交流会で出会った宮川富男さん(77、長野)は1年後の1957年に入植したが、「日本を出る時は、とにかく果樹がよくできると聞いていた。しかし来てみたら果樹ではなく、ブラジルの果物のカジュだった。思っていた土地とは違うなと思った」と同植民地について話していた。 慰霊祭はキリスト教形式で行われ、慰霊祭後には玉城道子団長から松苗さんに県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットが贈られた。 松苗さんは8人兄弟の末っ子として生まれ、11歳の時も一家でピウン植民地へ入植した。父親は常々小さい日本ではなく、どこか広い国へ行こうと話していたとし、長兄や姉と相談しブラジル行きが決まったそうだ。 入植後は農業を始めたが上手くいかず、養鶏を始めた。しかし、何をしても上手くいかなかったため、兄姉は同植民地を出て行った。松苗さん自身はペドロ・ブラスで定年まで働き、現在も夫人のジゼルさんと2人で住み続けている。 「はじめはポルトガル語が分からず困ったが、ナタールの人は皆親切だったからいつも助けてくれた。苦労という苦労は感じたことがない」と入植当時を語ってくれた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月19日付
記者個人としては、ナタールでのリオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会で、本紙読者である請井正治さん(79、静岡)と出会えたことが印象深い。サンパウロから3000キロ離れたナタールでも本紙を読んでくれているとは、ありがたいことである。新聞が届かないことがあることと、誤字脱字が多いことのお叱りを受けてしまったが……。 請井さんは、第1次7回のコチア青年団員として1957年に「ぶらじる丸」で移住してきた。「特別希望や目的はなく、漠然と『日本にいてもなぁ』という思いがあって」ブラジルに来たという。 サンパウロ州ソロカバに入植後、みかんやジャガイモ栽培に4年間従事。「今思うと4年もいる必要はなかった気がするけど、僕は真面目でね」と話し、今でも嘘や人を騙したりすることは苦手。「ブラジルだとそれではダメなんだけどね」と笑った。 フォルタレーザに1年いた後、ナタールには1962年に移転して来た。「非の打ち所がないくらい、ナタールが大好き」と語り、54年間暮らしている。父親が百姓をやっており、農業が嫌で日本を飛び出したはずが、ソロカバの時からずっと百姓として働いてきた。これまで苦労したこともあるが、苦労と思ったことはない。結婚した当初はお金がなく、銀行への返済期限近くになると眠れない夜もあった。「やっぱり真面目なんでしょうね」と苦笑する。 最初の夫人をガンで亡くし、10年前に17歳年下の現在のマチコ夫人と再婚。「本当に再婚して良かった。俺は一人でやっていけないよ。ご飯も何でも美味しく作ってくれるし」と2人の生活に満足そうだ。 「人生で苦労は、少しはした方が良い。嫌なことがあると前向きになるのは難しいけど、それをバネにすれば良い結果がついてくる。人生は悲観するより、前向きに考えた方が得」という、人生観がブラジルでは必要なようだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月16日付