ナタールでは、1年のうちに雨が降るのはわずか1週間程度だという。最終日は朝から大粒の雨が降るあいにくの天気となった。
この日はピウン植民地での慰霊祭の予定だったが、前日の交流会の帰りが遅くなったことに加え、連日の予定を早朝からこなす参加者らの疲労度を考慮して有志のみが参加ということになった。
午前7時半ホテルのエントランスに有志18人が集合、同植民地へと向かった。
慰霊祭は、同植民地に住む松苗賢治さん(72、神奈川)の敷地で行われた。入植時に日本政府から与えられた13ヘクタールの土地と植民地を去った家族の土地の一部を含むという敷地は広く、たくさんの植物が生い茂り、釜戸まであった。
ピウン植民地には1956年に10家族が入植した。メロン栽培で成功したが水害などが続き、ほとんどの移住者は違う土地へと移って行った。現在は2家族しか残っていない。前日の交流会で出会った宮川富男さん(77、長野)は1年後の1957年に入植したが、「日本を出る時は、とにかく果樹がよくできると聞いていた。しかし来てみたら果樹ではなく、ブラジルの果物のカジュだった。思っていた土地とは違うなと思った」と同植民地について話していた。
慰霊祭はキリスト教形式で行われ、慰霊祭後には玉城道子団長から松苗さんに県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットが贈られた。
松苗さんは8人兄弟の末っ子として生まれ、11歳の時も一家でピウン植民地へ入植した。父親は常々小さい日本ではなく、どこか広い国へ行こうと話していたとし、長兄や姉と相談しブラジル行きが決まったそうだ。
入植後は農業を始めたが上手くいかず、養鶏を始めた。しかし、何をしても上手くいかなかったため、兄姉は同植民地を出て行った。松苗さん自身はペドロ・ブラスで定年まで働き、現在も夫人のジゼルさんと2人で住み続けている。
「はじめはポルトガル語が分からず困ったが、ナタールの人は皆親切だったからいつも助けてくれた。苦労という苦労は感じたことがない」と入植当時を語ってくれた。(つづく、佐久間吾朗記者)
サンパウロ新聞 2016年4月19日付
