ニッケイ新聞 2016年4月28日 北海道と東北6県人会の青年部「グルッポ東北・北海道」による『第12回慈善運動会』が、5月1日午前9時からコレジオ・マリスタ・アルキディオセサーノ(Rua Afonso Celso, 840, Vila Mariana)で開催される。 徒競走や綱引き、そして二人三脚やリズム体操など子供から高齢者まで楽しめる種目を実施。各種バザーと和食をはじめとした食料品の販売、和太鼓やよさこいソーランなどの出し物もある。 案内のため来社した北海道教会の薮内勇次実行委員長、佐藤竜也委員は、「会場は室内なので雨が降っても楽しめます。ご家族をお誘い合わせの上、お気軽にお越しください」と参加を呼びかけた。 入場料は5レアル、もしくは5レ相当の生活衛生用品。集められた寄付金と物品は日系福祉団体に寄付される。 問い合わせは北海道協会(11・5084・6422)まで。
Dia: 28 de abril de 2016
ニッケイ新聞 2016年4月28日 3月13日(日)午後、一行は北大河州モソロー市にあるホテル・テルマス・デ・モソローに投宿し、ゆっくりと温泉プールを楽しんだ。セアラ―州都フォルタレーザと、そのすぐ南に位置する北大河州都ナタルは約400余り離れているが、その中間地点だ。 夕方、同地で大規模メロン栽培をする大谷正敏さん(まさとし、68、愛知県)など、地元日系人が12家族いる中の15人余りが来てくれ、親睦夕食会を催した。 大谷さんはニコッと笑顔を浮かべながら、「生涯現役。90になったら畑でメロンと一緒にコロッと死にたい」と初対面の相手に何気なくいう。大谷さんは1960年、小学校を5年で中退し、両親に連れられて11歳で渡伯。最初はイビウナ、レジストロ、スザノなどを転々として、聖南西のピニャール移住地に落ち着き、17年間、家族でぶどう作りをしていた。 レジストロ時代は今も紅茶生産で有名な天谷家から500メートル、すぐ隣に住んでいたという。「子供の頃だから、裸足で学校に通っていたのを覚えているよ」。今ではモソローのメロン栽培は全伯的に有名になったが、70年代は誰も手掛けていなかった。 最初、セアザで「アチアイエンセ」という仲買店をしていた菊地軍平さんが北東伯を視察した折、大型農場経営をするモソロ・アグロインドゥストリア・リミターダ社から「資金は出すから、メロンを作る技術を持つ日本人を紹介してくれ」と頼まれ、知り合いだったピニャールの入来田(いりきだ)邦男さんに話を回した。 大谷さんの話では、同社の技師がスペインからもってきたメロンを食べて種を台所で捨てたら、自然に芽が出てきた。それを見て、「ここでもメロン栽培ができるはず」と思いつき、たまたまやって来た菊地さんに相談したようだ。 入来田さんは78年に、家族を連れてモソローに移り住んだ最初の日本人だ。そんなソグロ(義父)の話を聞き、5年後の1983年に大谷さんも移って来た。 大谷さんは「あの頃、資金がある人は皆、サンゴタルドやペトロリーナに移っていた。僕らはお金がなくて行けなかった。最初はブドウをやろうとおもったけど最初の収穫まで5年かかる。でもメロンは70日間。しかも大農場がメロン栽培の技術を求めていたから、僕らは収穫の何%をもらうという形で資金なしで始めることができた」という。 「ここにきて、日本人に生まれて良かったと思った。ジャポネースであるというヴァロール(価値)を再確認した。移民先輩の功績は大きい。その信用の恩恵をすごく受けている」と繰り返す。どういう時にそれを感じるのかと問うと、「日本人的には最初、借金をするのが怖かった。そんな日本人の真面目さは足かせになる。でもある時、借金取りから借金する事を覚えたんだ。借金取りから『借金払え』と言われた時、『もちろん払いたい。だからもう一回、来年の分も貸してくれ』と頼んだ。日本人だと信用してくれて貸してくれた。僕はそれから一回も遅れていない」との逸話を語った。 現在では3千ヘクタールの土地を持ち、うち800ヘクタールに灌漑設備を施し、うち毎年300ヘクタールずつメロン栽培をしているという。順繰りに土地を休ませながら緑肥を入れて輪作をしているという。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月27日 パ紙1954年1月15日付も、桜組挺身隊が前年11月から南聖のペドロ・デ・トレード、イタリリー、アナディアス方面に現れ、《「無料帰国」をエサに相当額の金子を搾取しているとの情報がある》と報じた。 詳しくは《これらは相変わらず「祖国救援のための帰国」を説き、無料乗船の交渉は我々が行うといって、希望者から一人当たり二コントを徴収したのち、土地、家屋などの不動産は日本政府が絶対保証することになっているので、不動産売却に必要な委任状を貰いたいと、アナジィアスのタベレオン(公証人役場)を通して約百人の邦人から白紙委任状を取った後、十二月中旬に無料乗船券獲得には、ぜひ本人の出頭が必要である…とその出聖を促して行ったので、同月二十日頃には約八十人の無料帰国希望者が出聖した事実がある―》と書かれている。 まさに中村家が騙されていた手法と同じだ。この一連の事件のロンドリーナ版に巻き込まれていたようだ。 中村伯毅さんの妻・伯子さん(のりこ、77)の家族はマリリアだったが、やはり20年間近く、堀沢に騙されていたという。 「マリリアからテコテコ(軽飛行機)に乗って、あちこちの植民地の上から、報告を書いた紙を落とすんです。ペレイラ・バレットぐらいまで行っていました。半分ぐらいの家族は10年ぐらいにで辞めて行った」。 伯子さんの証言も同様に興味深い。「堀沢さんは『自分は特務機関だ』って言ってました。だから当時、うちの家族も戦後移民の話を信用しなかったんです。パウリスタ線にも騙されている人沢山いました。正直なものばかり騙されるんです。何月何日に日本からお迎えの船が来るからって。桜組挺身隊の事件が終わった後も、ずっとこっちの詐欺は続いていたんです」。 桜組挺身隊事件は1955年4月に、警察によってサントアンドレの共同生活地は解散させられて終わった。でも、その後も帰国手続き詐欺自体は続いていたというのは驚きだ。戦後移民は1953年から入り始め、55年には戦後最大の集団であるコチア青年も入り始めた。時代は大きく変わり始めていたが、地方部の一部では、まだまだ詐欺師が跋扈していたのだ。 中村伯毅さんの父と伯子さんの父中村真夫さん(さなお)が同船者だった関係で、1964年に結婚したという。 中村真夫さんは10年以上だまされた末、最終的にわざわざリオに住む堀沢の家族に会いに行った。そこで「オカシイ」と思うようになり、それから堀沢の言葉に疑問をもつようになり、最後は本人に問い詰めた。 「うちの父は堀沢さんと議論して、やっぱりオカシイと感じて『もう辞める』と宣言した。そのうち堀沢さんが亡くなり、1965年ぐらいにその繋がりは消滅したような感じです」。 つまり〃コロニアの戦後〃が終わったのは、戦後移住の大波が通りすぎ、東京五輪(1964年)も終わった頃だった。あまりに壮絶な話だ。 聖州、パラナ州を中心にあちこちに被害者がちらばっており、その実数は300家族、1500人以上は居たのではないか。にも関わらず、まとまった記録が残されていないのは、被害者が恥だと感じて証言を残してこなかったからだろう。中村夫婦の話を聞きながら、二人の勇気を心から称賛した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月26日 終戦後、数年が経ち、中村伯毅さんは子供心に「何かおかしい」と思い始め、父を問い詰めた。「僕は何回も『お父さんは騙されている。もう止めてくれ』と考え直すように、お願いしたが、父は聞いてくれなかった。僕がそんなことをいうと、父は母をイジメた。母はどちらの見方も、家を出ることもできない。辛かったろうと思う」 当時、中村さんは日頃の憂さを晴らすように柔道の練習に打ち込んでいた。「パラナ大会でも優勝し、全伯大会にも出たことがあった。2段だった」という。 そんなころ、決定的な父の一言が放たれた。「兄は6歳年上で日本生まれ、1歳でブラジルに来た。僕はバストス生まれでしょ。それで、ある時、父は僕に『オマエは敵国人だ』と言ったんです。堀沢に騙されていたんでしょ。子供心に本当にショックでした」。 堀沢憎さのあまり、「15、6歳の頃でしょうか。彼はDOPSに追われて、サントアマーロに隠れているという話を聞き、『そこまで堀沢を殺しに行こう』と決心したことまでありましたよ」と血気盛んだった遠い昔を思い出す。もちろん、決行はしなかった。 この「堀沢」という名前は従来の移民史にも新聞にもほとんど出てこない。いろいろ探してみると、ロンドリーナの重鎮が書いた『信ちゃんの昔話第8部、戦争と移民』(沼田信一著)に、若干の記述があった。《ロンドリーナ地方には堀沢某、川崎某、馬の目某、等々の分子が、勝組として相当長くうごめいていた様であった。従って勝ち組にだまされていた人達は、人生の相当長い間を無駄にしたのであった》(電子版70頁)。やはり、存在したようだが、フルネームが分からない。 ノンフィクション風に書かれた小説『大日本国民前衛隊、思想戦回顧録・前記』(1945年、多田幸一)にも、《斯かる情勢下にある聖州を遠方の火事視してパラナ方面には其の頃、堀澤なる者の手に依って盛んに帰国手続きが始まって居る事が聞こえて来たものであった》という部分がある。でも名字だけだ。 ニッケイ新聞の過去記事データベースでもネット検索でも、この名前はひっかからない。この詐欺師は、どうも謎の多い人物のようだ。 54年12月21日付パ紙「挺身隊を解散」記事で、ようやくそれらしい名前が出てきた。桜組挺身隊が〃同志〃としている《加盟者は一四七家族、一〇二五名(妻子を含める)であるが、、中には加藤、川崎事件に関連するもの、堀川文蔵の例の土地白紙委任状問題に関連しているものあり、思想的にはまったく統一をかき、貧困者の寄り世帯である》と書かれている。定かではないが、おそらくここに出てくる「堀川文蔵」が「堀沢」ではないか。 中村伯毅さんは男兄弟5人、女2人だった。「僕らが頑張って働くから、一番下の弟だけは大学にやらせてくれって、父のお願いした。だけど堀沢は『ブラジルの学校なんか行くことない』って反対したんだ。家族にポルトガル語が分かるのが出れば、自分が言っていることがウソだとばれるから困ったんでしょ」。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月23日 中村伯毅さん(ひろき)の話は、終戦直後に起きた「帰国手続き詐欺」だ。土地証書など一式をブラジル政府に預ければ、日本への帰国船の手続きをしてくれるというもので、その手続き料、必要経費などと称して毎月のように金をせびりとられた。 中村さんの両親は1929年渡伯でバストスに入植し、そこで伯毅さんが1934年9月に生まれた。10年間そこでいたが、戦争中にロンドリーナ市内から7キロの所に移り、コーヒー農園50アルケールを始めた。「日本人ばっかりすんどるルア(通り)があって、そこでは戦争中でも日本語しゃべっても何にも問題なかった」という。 「堀澤さんは東大卒の農業技師という触れ込みで、父は『彼が書類を作ってくれる。信用していれば、すぐに日本に帰れる』と大そう信用していた。土地財産再登録詐欺というんでしょうか。周囲の100家族ぐらいが彼に手続き代行のお願いをしていた」。中村さんの父は「覺」(さとる)と言い、福岡県八女郡出身、1965年頃亡くなったという。 帰国手続き詐欺の件は、あまり記録が残っていない。この機会にしっかり残そうと気合を入れて中村さんの話に耳を傾けた。 1945年末頃、「ブラジル政府が法令で、外国人移民が所有地を政府に提供したら、本国に送り返す手続きをしてくれる」という噂が流れた。「子供の頃の記憶だけど、堀澤さんが言ったことをはっきり覚えているよ。ミズーリ船上の終戦の調印式の写真を見せて、日本軍人は帯刀しているのに、米国人は丸腰。だから『日本は勝っている』と説明していた」。 思春期の頃の話だが、記憶は鮮明だ。「堀澤は普段、サンパウロにいて、1カ月に1回ぐらいやってきては報告し、お金を持って行った。でも、1年、2年と経つうちに、だんだん騙されていると気付き、辞めて行く人が多かった。数年で半分ぐらいに。でもうちの父はうまく丸め込まれて信じていた」と悔しそうにいう。 当時、日本は勝ったはずと思いこんだ人は多かった。「戦争中、父は薄荷をやって大分儲けたが、それも全部、彼に盗られた。手続きのためといって、彼はリオやサンパウロに頻繁に行き来し、『すぐ帰れる』と父は騙されて続けて、一年間の収穫を全部とられたことも度々。そんなことが20年間も続いたんですよ。同じく騙された人の中には、サンパウロに出て桜組挺身隊に加わった人もいました」という一節から、桜組との関連が疑われる。 1954年12月14日付パウリスタ新聞(パ紙)は連載《桜組挺身隊を探る2》の中に、こんな一節がある。《天野、吉谷らの首謀者「ロンドリーナ時代」は相当生活にも困窮していたといわれるにも関わらず、サントアンドレではハデな生活を営んでいた~》。つまり桜組挺身隊の首謀者、天野恒雄、吉谷(よしがい)光夫はロンドリーナに住んでいた。55年1月28日付パ紙には、吉谷のことを挺身隊の〝隊長〟と書き、《精神分裂症の兆候》と書いている。 さらに同連載には、《彼らは一斉検挙の際に、当局が押収した「献金簿」に十月中だけで四百三十余コントに達していたとの報道はあくまで一笑に付し、その百分の一でも今あれば大助かりだとうそぶく、その反面では「今まで各方面へ送った願書の翻訳料や請願のため代表を派遣した費用は相当に上る、殆どは人件費」だと言い金を費つたことだけは肯定する》という。 何気ない昼飯時に、壮絶な移民の歴史が語られるのは、まさに移民の故郷巡りの真骨頂だ。(つづく、深沢正雪記者)
