リオ・グランデ・ド・ノルテ(北大河)日本ブラジル文化協会との交流会はホテルから20分ほどの所にある「エスパソ・ギンザ」で行われた。会場には同協会の会員12人、そしてナタール市の近郊にあるピウン植民地から北山初江さんが出席した。北山さんは現在95歳。1956年、「野菜を作るため」一家で他の10家族と共にピウン植民地に入植した。「来た頃は食べるものがなくて、最初は小さい土地に大根など日本の野菜を栽培していた」と当時の様子を話す。「言葉が分からず苦労した」と言い、仕事を終えた夜間に独学でポルトガル語を勉強し、少しずつ覚えていったそうだ。 移住して14年経った1970年には、主人を自動車事故で亡くすという悲劇に見舞われる。それでも「トマトやメロン、みんな一人で栽培した」が、野菜は作っても売れなかったため、花栽培に切り替えこれが成功。女手一つで子供7人を育て上げた。 一緒に入植した家族の多くはピウン植民地を離れ、現在残っているのは2家族だけとなった。北山さんは今も同地に一人で暮らしている。ただ半年前に足を悪くし、今は車いす生活。孫たちが面倒を見てくれている。この日も孫のアンドレさんが付き添って来場した。アンドレさんは「生活環境や、言葉など苦労がたくさんあったが、彼女は強い女性で、一人ですべてを成し遂げた。僕にとっても良い手本」と祖母への賞賛を惜しまなかった。 「たくさんの日本人、日系人が来てくれて嬉しい。知らない人ばかりだけど、同じ日本人。愛着が湧くね」と滅多にない日本人との交流に笑顔がこぼれた。会場では玉城道子団長が「150人も来て、皆さん驚いているかもしれませんね。この機会を利用して楽しんで交流をして下さい」とあいさつ。続いて同協会の青木ミルトン会長が協会の活動内容を一行にスクリーンを使って説明した。また青木会長からは北山さんを含む出席した会員一人一人が紹介され、それぞれあいさつをした。 その後出席者で炭坑節を踊り、最後は「故郷」を全員で合唱し、午後10時半交流会は幕を閉じた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月14日付
Mês: abril 2016
6日目。一行は午前8時にモッソロのホテルを出発し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州の州都ナタールへと向かった。道中、バスからはどこまでも続く、岩が突き出た緑の広野が見える。そこを過ぎると、人が住む集落がポツリポツリと点在していた。酪農農家らしき牧場があり、大都会サンパウロでは絶対に見られない牧歌的な景色だ。途中のラジェスで休憩となったのでバスを降り、周囲を散策すると馬が2頭放牧されていた。さらに、近くからは牛小屋の匂いがした。記者の実家の近くには牛の畜産農家があったので、すぐ分かった。これは懐かしい匂いである。 その後もバスは順調に走り、正午過ぎナタールへ到着。昼食後、バスでの市内見学となった。ナタールは思ったより都会だ。バスは街を通り抜け、真っ青な海を横目に2007年に開通したというニュートン・ナバーロ橋を横断。橋からはナタールの街が一望でき、都市部と森林地帯、ポテンギ川と海が共存する最高の景色がそこから見えた。 橋を往復した後、港とセントロ地区を通りナタール観光センターへ。センターの建物は19世紀末に建設されたもので、浮浪者の避難所、孤児院、刑務所と時代時代で姿を変えてきたそうだ。現在は観光センターとなり、民芸品の販売、ノルデステ地方伝統の音楽「Forro」のイベントなどが開催されている。小高い場所にセンターはあるので、テラスから美しい市内の景色を見渡すことができた。 センター内には民芸品を売る店が連なり、ここでも2日目同様に買い物に精を出す女性陣とベンチに腰掛け休憩する男性陣の対照的な姿を見られた。 センターを後にし、ポンタ・ネグラ海岸近くの土産物屋に移動。そこから遠くに見える、有名なカレカ丘をグループごとに見学。午後5時半、一行はホテルにチェックインし、同7時、現地日系団体との交流会へ出発した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月13日 5県人会と笠戸丸協会による『第20回屋台祭り』が、17日午前11時から聖市の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74, Liberdade)で行なわれる。午後3時まで。 今回のメニューは味噌串かつ、抹茶アイス(愛知)、トリ飯、トリ天、牛たたき(大分)、近江肉うどん(滋賀)、お好み焼き(和歌山)、椎茸ごはん(長野)、焼きニシン(笠戸丸)など。 出し物も和太鼓、盆踊り、ボサノバショーにビンゴやカラオケと盛り沢山。案内に来社した関係者は、「日本祭りの縮小版。色とりどりの和食を楽しんで」と呼びかけた。 問い合わせ先は愛知県人会(11・3104・8392)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 高知県からブラジルへ移民として渡り、農業を営みながら、農園の日常風景や家族の姿などを収めた写真家、大原治雄さん(1909―99年)の日本初となる写真展が、今月9日、高知県立美術館で開幕した。 大原さんは旧三瀬村(現・いの町)出身で、パラナ州ロンドリーナで農園を経営しながらアマチュアカメラマンとして活躍。98年には初となる個展を開催し、大きな反響を呼んだ。日本での開催は今回が初。昨年には、外交120周年記念としてNHKのドキュメンタリー番組でも紹介された。 開幕式には約90人が参列した。ブラジルのコレアドラゴ駐日大使は「大原さんの優れた作品を日本で初めて紹介できるのは大変喜ばしい」とあいさつ。大原さんの孫、サウロ治夫さん(43)も「祖父はいつも家族の中心にいた。写真の数々は生きざまそのものだ」と語った。 展覧会では、40~60年代に撮影された作品を中心に、約180点のモノクローム・プリントが展示される。大原展担当の影山千夏学芸員は、「写真というかたちで、彼の育んだ豊かな実りを故郷高知に届けてくれた。愛溢れる大原一家の家族の風景と、おおらかなブラジルの自然の光景をゆっくりと味わってもらいたい」と語った。 同展は6月12日まで。その後、兵庫県の伊丹市立美術館、山梨県北杜市の清里フォトアートミュージアムも巡回する。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 1969年から姉妹都市関係を結ぶ聖市と大阪の交流事業として、聖市在住の大貫純さん(21、四世)が先月25日までの約2週間、親善大使として訪日した。大阪・サンパウロ姉妹都市協会主催。 大貫さんは埼玉県に生まれ、2歳まで生活した。一家で聖市に移った後も日本語の勉強を続け、日本語能力試験N1を取得。昨年の日本語スピーチコンテストに出場し、優秀成績を修めて親善大使に抜擢された。 小さい頃は、新幹線のジグソーパズルで遊んでいたという。両親や親戚から日本の色々な話を聞いて育ち、「自分が生まれた国に行って、今まで聞いた話をこの目で確かめたい」という期待とともに渡日した。 滞在中は大阪を中心に、防災センターや博物館なども見学。大阪城、金閣寺、仁和寺などへ観光にも訪れた。 サンパウロ大学で環境について学ぶことから、下水処理場の見学時に強い印象を受けたという。「大阪市には浄化施設が12カ所あるが、聖市には半分以下の5カ所のみ。浄化率も大阪の90パーセント以上に対し、聖市は6、70パーセントで違いを痛感した」との感想を語った。 到着翌日には神戸へ。メリケン波止場にある希望の船出像を見て、サントスの「日本移民ブラジル上陸記念碑」を思い出し、胸が熱くなったという。 神戸移民センターでは曽祖父が1920年に渡伯した記録を発見。「その96年後に、曾孫である自分が日本に来るとは」と感激した様子だった。 2週間を振り返り、「日本人は細かいところまで注意を払って仕事をしている。それを見習ならわなければ。いつかは日本の大学に留学してみたいし、出身地の埼玉も訪れたい」と笑顔で語った。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 ルジアさんは「戦中のこの記憶は、家族のトラウマとして残ったわ。私たち子どもの服や本まで無くなったのよ。壊された家のドアや窓を直して、ようやく戻れるようになるまで、親戚の家の、土間の家政婦部屋に家族で住まわせてもらった。両親ががんばり、親戚が支援してくれたから、私たちは学校に通い続け、決して退学や留年はしなかった」と昨日のことのように鮮明に思い出す。 1942年、まだ6歳だったカピトン・フジタもはっきりと略奪の時を覚えている。「苦労して新築した家の中に何もなくなってしまって、『こんなになっては子どもたちに教育が施せない。もうおしまいだ』って、父は毎日泣いてばかりだった。明日にでも死ぬんじゃないか、というぐらいに失望していた」。 そんな時、15歳だった姉ルジアが先頭に立って家族を引っ張り、家業の立て直しをした。「僕らは父に『絶対に家は元通りになるから、お父さんも安心して』と説得し、姉は教会が経営する学校へ、僕はお金がかからない陸軍の学校に進学した」。 カピトンは17歳でフォルタレーザ予備校からアグーリャス・ネグラス軍アカデミー(AMAN)に進学し、中尉になってから軍籍を離れ、建設技師としての経歴を築いた。 カピトンは「陸軍学校の卒業式で、将官の印として短刀を授与された時、父は涙を流して喜び、強く僕を抱擁した」と思い出す。 セアラー州日伯文化協会は、カピトンが1970年に創立し、今も会長を続ける。手にするタブレットには、何千枚もの写真が入っており、次々に有名人と撮った記念写真を見せる。見覚えのある顔が写っていると思ったら最高裁判事のジルマール・メンデスだった。「彼とはアミーゴだよ」と笑う。「レナード・アラゴンもこの町に帰ってきたら、僕と昼食を食べるんだ」とも。 それだけの政界、法曹界、実業会での顔の広さが、公園実現の背景にあった。「どうしても父十作を顕彰したかった」と振りかえる。停滞している時期も長かった同協会だが、移民百周年を機に息を吹き返し、公園建築を実現させた。 ポーボ紙によれば、十作は子供らに次の3点を常々説いていた。(1)《天皇陛下は神の子》《日本国という大家族の父》という言葉の元は、おそらく天皇陛下を「現人神」と呼んだ時代の雰囲気、戦前の家族国家観「八紘一宇」を思わせる。さらに(2)《日本帝国は戦争に負けたことがない》(3)《年上を敬うこと》と。 とはいえ、実際にカピトンや姉と話した実感としては、〃明治の日本精神〃を感じさせるものは特になかった。唯一、藤田十作日本庭園に立つ四つの柱に鋳抜かれた文字「訓育」「我慢」「決心」「苦心」「献身」「根気」が、明治男がセアラーに遺した気概を伺わせるのみだ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月12日 ルジア説ではこの時にアマゾン下りをし、最初はベレンに住み着いた。おそらく1920年頃だろう。 1922年頃に、友人の中国人に誘われてセアラ―に南下し、日本人が誰もいないフォルタレーザに居つき、近郊のプクリペにあるオタヴィオ・フロッター農場の菜園で働いた。そこで現地の娘コスマ・モレイラ(通称ネネン)と出会い、1926年2月に結婚、12月にルジアさんが生まれた。教会で式を挙げるために洗礼を受け、「フランシスコ・ギリェルメ・フジタ」と名付けられた。 1927年にフォルタレーザ市セナ・マドゥレイラ街に土地を賃貸し、菜園を経営、子供が次々に生まれた。 「父は死ぬまでスペイン語交じりのポルトガル語だった」。ルジアさんの話では、父十作は最初、野菜を作ってカロッサ(荷車)で市場に持って行って売り始め、花にも手を広げた。 「父は勉強しろ、と口うるさく言った。なんでも祖父は父が18歳の時に亡くなり、自分は勉強できなくて苦労したから、子どもにはしっかり勉強させ、同じ苦労をさせたくないと言っていた。おかげで私は歯科医、次のエジマール(没)は医者で血液銀行『富士』の創立者。その次のフランシスコ(没)も歯科医、マリア・ジョゼは教師、ニザロウは建築技師、最後のジョアンも建築技師になった」。 十作が単身で同市に乗り込んでから、一族はすでに約80人を数えるほどだという。日本人が他に誰もないこの町で、子どもをみな大学にやることは生半可なことではなかっただろう。最大の困難は戦争中に訪れた。 「一番大変だったのは、1942年8月よ。今でも昨日のことのように覚えているわ。昼過ぎに、学校に行く準備をしていたら、近所の人たちが押し寄せてきて『敵国人の家を壊せ!』って騒ぎ始め、苦労して2年前に新築したばかりの家だったのよ。それを全部壊された。金目のものはみんな取られ、窓枠からドアまで外して持っていかれたわ」と憤る。 1942年8月15日からの3日ほどの間に、ブラジルの商船がナタル沖でドイツ潜水艦に5隻も沈められた時だ。ナタルに近いフォルタレーザでも枢軸国側移民の商店や家が一斉に暴徒に襲われた。 この時、聖市のセー広場でも20万人が集まって反枢軸国大集会が行われた。その直後の18日、今度はアマゾン河口のベレン沖で、ブラジル商船が同様に撃沈され、ベレン市民が暴動を起こして、日本移民らを中心に枢軸国側移民が、トメアスー移住地に強制隔離されたことは有名だ。 「叔母さんが助けに来てくれて、セントロの親戚の家に連れて行ってくれた。ドイツ人の商店、イタリア人の靴屋とか、みんな壊された。私たち家族はこれですべてを失ったの。親戚の援助でゼロから仕事をやり直して…。大変な苦労だったわ」と生々しい証言だ。 ルジアさんの記憶は残酷なまでに鮮明だ。「母はその時に身重で凄いショックを受けたけど、11月30日に生んだ。父は敵性国人だからといって、牢屋には入れられなかった。でも毎週、警察署に出頭して所在証明をする必要があった」。 聖市やベレンは聞いていたが、フォルタレーザでもこのような被害を受けた日本人がいたことは、今回初めて聞く話だった。(つづく、深沢正雪記者)
交流会にはモッソロ周辺の日系人24人が集まった。代表してメロン栽培を営む大谷正敏さんが歓迎のあいさつを述べた。モッソロには日本人会のような団体はないそうだが、大谷さんは「日系家族は全部で10家族くらい。みんな仲良くやっています。先の移民が頑張ってくれたお陰でリオ・グランデ・ド・ノルテ州は日系人をとても大切にしてくれる」と当地の様子を話してくれた。続けて、参加したモッソロの日系家族一人一人をふるさと巡り一行に紹介した。 翌日は朝7時にホテルを出発し、大谷さんのメロン農場を見学。はじめに工場で収穫されたメロンの箱詰めの様子を見学し、保管庫など工場内部を案内された。農業関係者が多いからだろうか、見学の間中、参加者らは大谷さんを囲むように質問攻め。その様は、話題の政治家や有名人が報道陣に取り囲まれているようだった。その輪から少し離れて具志堅清吉さん(82、2世)も熱心に大谷さんの話をメモしていた。具志堅さんは主に野菜を栽培しているそうだが、同じ農家同士、何かと参考になるのかもしれない。ふと大谷さんに盛んに質問していた男性が気になったので「お百姓さんなんですか」と聞くと、「いや百姓じゃないけど、なんか興味があって」との返事。いくつになっても好奇心の塊というのは素敵なことだ。 その頃、女性陣は工場横の畑に飛ぶチョウチョウ観察に夢中。記者にはよく分からなかったが、シジミチョウやモンシロチョウが飛んでいたそうだ。 森下和代さん(75、福岡)「昔は額縁に入れて日本に送ったものよ」と教えてくれた。また畑の一角には昔ながらの汲み取り式のトイレが設置されており、移住当時を思い出したのか、参加者らは非情に懐かしんでいた。これもある種の「ふるさと巡り」だったと言えるかもしれない。 その後、工場から車で5分ほどのメロン畑へ移動し、収穫の様子を見学。最後に大谷さんから参加者に1個ずつお土産のメロンが配られた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月12日付
ふるさと巡り4日目。一行は午前7時半にホテルを出発し、一路フォルタレーザから約150キロの地点にあるアラカチへ。アラカチは「Cidade do colonial(植民地時代の町)」と呼ばれ、18世紀にポルトガル人移民が持ち込んだ様式の家屋や町並みが今も残る。道路には石畳が敷かれ、当時の雰囲気を偲ばせる。 バスは同10時過ぎ、アラカチにある複合施設「ミランテ・ド・ガンボアス」に到着。ここで海老の養殖所を見学後、レストランで食事となった。 レストラン内にある階段は展望台へつながっており、そこから海岸の方まで広がる視界いっぱいの海老の養殖所が見渡せた。養殖所では3つのグループごとに見学し、その後はお待ちかねの食事の時間。中にはてんこ盛りの海老を皿に載せた参加者も。旅を通して感じたが、参加者からの魚介類人気は非常に高い。特に海老の人気は高いようで、食事となれば海老を食べたがる参加者もいた。 午後2時にミランテ・ド・ガンボアスを後にし、1時間半かけリオ・グランデ・ド・ノルテ州のモッソロに到着。2泊する「テルマス・ホテル」には温泉施設があり、参加者らは早速水着に着替え、温泉で旅の疲れを癒していた。温泉は温度34度のぬるま湯から、最高52度の熱湯まであり、全6カ所。見た感じは日本の温泉とは違ってプールのようだ。実際、プールも近くに併設されており、他にもジムやビーチバレーコート、バーが隣設されていた。 記者は水着を持って行かなかったので、温泉に浸かるのは足だけ。水着に着替えたかつての美女たちの麗しい姿や「極楽、極楽」という表情の参加者、沈む夕陽を眺めて過ごした。一応、52度の温泉にも足だけ入ってみたが、慣れるまでは強烈な熱さ。その熱湯の中を泳ぐ強者の参加者もおり、のぼせはしないかとこちらがヒヤヒヤしてしまった。 たっぷりと温泉を楽しんだ後は、ホテル内のレストランでモッソロ周辺に住む日系人らとの交流会が同7時から行われた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月9日付
ニッケイ新聞 2016年4月9日 藤田十作日本庭園を2012年に訪れ、その存在を最初に記者に教えてくれたのは、元文協会長の山内淳さんだった。 彼からその時に受け取った資料によれば、フォルタレーザ市で発行されている新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号は同市に移り住んだ外国人家族の連続レポートの特集を組み、その第1弾として藤田十作を報じていた。 それは、ルジアさんの話と微妙に食い違う。同紙によれば藤田は1893年生まれだが、死亡時の年齢に確信を持つ娘の説(1890年生まれ)方が正しいだろう。 ルジアさんもカピトンも「ジュウサク」の漢字が分からなかったが、県連職員の伊東信比古さんからもらった『アグロ・ナッセンテ』誌のコピーには《一九二二年に、ペルーからアンデスの峰を越え、ボリヴィアを経てセアラ―州のフォルタレーザに移住した、熊本県八代市出身の藤田十作さん》との記述があり、それに従うことにした。 ポーボ紙によれば、家長が借金を残して行方不明になり、藤田家の土地が差し押さえられ、経済的危機に直面していた。居間に集まった母、4人の息子と二人の娘、親戚が緊迫した話会いをした結果、「長男を送り出して稼がせ、借金を返済する」ことが決断され、《まだ15歳だった十作が1908年にペルーへ送りだされた》と同紙にあるが、おそらくルジア説の18歳が正しい。 ポーボ紙の記事の最後には《ギレルメ・フジタはもう繁栄を成しとげた成功者で、穏やかな生活を送っている。日本に残った実家のことは片時も忘れたことはなく、何年か前、本人が遺産相続するはずの土地を贈与して、ようやく差し押さえを親戚に返済できたと語った》とある。 ポーボ紙から分かることは、父親が親戚から金を借りていたが、返せなくなって蒸発した。親戚は借金のカタに藤田家の土地を差し押さえたという図式だ。それを返済するために長男の十作が一人南米に旅立った。当時の移民には往々にしてある事情とはいえ、大変な覚悟が必要だったに違いない。 1912年にはペルーのチンタ・アルタ市で小さなレストランを開くほどの資金を貯め、土地を取り戻すための日本への送金を始めた。第1次大戦が始まって不況となり、レストランは倒産。最後の100クルゼイロ程度のお金を手にボリビアへ転住し、3人の共同経営者と共にホテルを購入して生活を賄った。《わずかな貯金ではあったが、その一部は必ず、実家へ送金していた。家族が恋しく心痛む孤独な夜は、幼いころのことを思い出しながら過ごした》とある。 そのボリビアも経済危機に陥り、商売も立ち行かなくなり、この国ではもう外国人にチャンスはないと決断し、ブラジルへ再転住を決意した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月9日 ブラジル東京都友会の定期総会が先月28日、東洋街のニッケイパラセホテルで行なわれた。2004年から会長を務めた坂和三郎さん(82、東京)が6期12年で退任。後任には尾和義三郎さん(75、同)が抜擢された。 坂和さんは就任当初を振り返り、「会費を徴収しない都友会にとって、最大の懸案事項は運営費の捻出。岩崎(秀雄)さんから引き継いだときには都の助成も打ち切りになり、非常に憂慮したことを覚えている。だが就任直後、運よく会所有物件の借り手が見つかった。貯蓄もでき安心して引き渡せる」と安堵した。 「役員、会員らが自然と集り協力するような雰囲気にしてほしい」と後進に託し勇退。新会長には1971年に移住した元パ紙記者で、現在はテレビ制作のコーディネート会社「南米通信社」で代表を務める尾和さんが就任した。 20年東京五輪に向け、リオ五輪には舛添要一都知事の来伯もある。同会にとっても重要な一年となりそうだ。7日、交代あいさつに来社した新会長は、「リオ・東京を結ぶ架け橋となるため、何かお手伝いできれば」と抱負を述べた。 なお、昨年に創立50周年を迎えた同会は、記念誌も作成中。最新版の都知事メッセージが到着次第、印刷へ回すという。都知事来伯に合わせ、リオ五輪までの完成を目指している。 昨年度の収入は約11万4千レ、支出は約8万1千レだった。今年度予算として収入約3万2千レ、支出約10万レと計上。所有不動産における借り主の家賃滞納により、大幅な赤字を見込んでいる。 新役員は以下の通り(敬称略)。【会長】尾和義三郎【副会長】山下リジア、林慎太郎【書記】佐々木佳子、森原クリスチーナ【会計】鈴木壽、早川エイジ【理事】小松パトリシア、大村順、神田アントニオ【監査役】正=島田政夫、岡田本子、本田スジ、補=高井まゆみ、坂和由香了、鈴木さゆり
8月のリオ五輪開催見据えて 在ブラジル大使館の梅田邦夫大使が3月31日にサンパウロ(聖)市を訪問し、同日午前に来社した。梅田大使は、2016年大使館・総領事館の主要課題と「日系社会との連携強化のための施策」について説明。ブラジルの国内情勢と対外関係の把握、8月から開催されるリオ五輪・パラリンピック業務に向けた邦人保護に関する日系社会とのさらなる連携の必要性を提言、強調した。また、連携強化のための人的交流、日本語教育、日本祭り、医療、スポーツ関連など8分野について実施していく考えを示した。 梅田大使は16年度の年間スケジュールとして、既に2月に東京で開催された「日伯政治対話」や同月21日に実現した日本の陸上幕僚長の来伯などを挙げた上で、来年にブラジルからの陸軍関係者が訪日する予定があることを説明。また、今月13日に東京で開かれる日伯領事当局間協議では、特に出稼ぎ子弟の教育問題や日系4世以降のビザ問題などが取り上げられる予定だという。 8月から開催されるリオ五輪に向けて、日伯相互の観光客の行き来を増やす考えで、5月26日に三重県で行われる伊勢・志摩サミットでは、ジカ熱などの感染症や世界的なテロについての協議が行われる予定。 特にリオ五輪については、ブラジルを訪問する日本人選手団及び日本人観光客の邦人保護対策と選手への応援などを目的に、3月に発足されたリオでの第1回目の「リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピック連絡協議会」に続いて、今月中にサンパウロでも同様の連絡協議会を立ち上げるという。 また、リオ五輪開催期間中は文科省大臣、スポーツ長官、東京都知事など日本からの要人の来伯が既に決まっており、梅田大使は安倍首相や皇族の来伯の可能性もあるとし、「ぜひ、この機会に来ていただきたい」と依頼を行っているそうだ。 「日系社会との連携強化のための施策」について梅田大使は、(1)人的交流(2)日本語教育(3)日本祭り(4)日本食普及(5)医療(6)スポーツ交流における協力(7)日系団体及び個人への助成(8)制度面での強化・充実の8分野での施策があることを説明した。 (1)は2014年の安倍首相の来伯がきっかけとなり、各種招へいプログラムの受け入れが増え、JICA日系社会ボランティアが倍増している状況だ。(2)でも国際交流基金及びJICAによる施策で訪日研修なども実施。各州での公教育機関での日本語導入や草の根無償資金による日本語教育支援なども行われている。 (3)は、聖市で開催されている日本祭りが全伯の日本祭りの模範となっていることや、(4)では全伯日系団体の婦人部が中心となって日本食普及に貢献していることを高く評価した。 (5)は日系人医師の多いブラジルで、各地の日系病院を通じてセミナーや設備面での支援及び人材面での協力を行っていくという。 (6)は、柔道、剣道、野球、卓球、体操などを中心に各種道具などの寄贈のほか、施設拡充や専門員派遣などがある。(7)は、日本全体での補助金が減少する中、1967年から行われているJICA移住者・日系人支援事業は2015年度で約2500万円、移住者保護謝金制度(2001年度から開始)は約6000万円となっているそうだ。 (8)について梅田大使は、現在領事事務所となっているベレンとレシフェの総領事館への格上げ要求は16年度予算でも引き続き行っているという。 また、人的交流の今後の課題として日伯間でのワーキング・ホリデー(相手国の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労を認める査証制度)の必要性を挙げ、「10年、20年と長い目で次の世代につないでいき、人的交流の新しい枠組みを互いに知恵を出し合って積み重ねていくことが重要」と述べた。 サンパウロ新聞 2016年4月8日付
ニッケイ新聞 2016年4月8日 12日(土)午前9時半、一行約150人はフォルタレーザ市のはずれにある、先駆者・藤田十作の子孫が持つ別荘に到着した。入口には直径10メートルほどの大きな鳥の檻、見事な熱帯植物の木々、子供の遊戯場、テニス場、プールもある豪華な施設だ。 マンゴーの巨木3本に囲まれるようにしてできた木陰に、150人分の椅子が並べられ、その一角に祭壇が作られていた。 慰霊祭の準備をしていた天理教フォルタレーザ中央教会の大浜晃さん(48、二世、ペルナンブッコ州オリンダ生まれ)に話を聞くと、元々30年ほど前に父・伸三さん(2014年没)が始めた教会だという。父の没後、教会を継ぐために1年間奈良で研修し、戻って来た。この10月に正式に同地の教会長に就任する予定だという。 ペルナンブッコ州に教会は二つ、セアラー州は一つ。ここでの信者数は50人程度。「藤田十作さんと父の親交は数少ない日本人同志として深かった。その関係で、今日の慰霊祭をすることになった」という。 聞けば、晃さんは今回の奈良研修以前にも12年間も日本に住んでいた。埼玉県や群馬県の国際学校に勤務し、英語やポ語で数学を教えていた。「群馬のエスコーラ・パラレロでは生徒が350人ぐらい居て、ほとんどブラジル人だった」とペラペラの日本語で語る知日派だ。 天理教方式で、同地で亡くなった先駆者を供養するための慰霊祭がしめやかに行われ、一行は順々に花を供えた。 ◎ ◎ 藤田十作の子息、「カピトン(陸軍中尉)・フジタ」と呼ばれる藤田ジョアン・バチスタさん(79)とその姉ルジアさん(89)が現れた。最年長のルジアさんに聞くと、14人兄弟が生まれ、成人できたのは6人、うち4人が現在も生きている。 ルジアさんによれば、「父は熊本県出身。1979年3月19日に90歳でなくなった」という。奇しくも、一行が訪ねた日の一週間後が十作の没後37年、供養するには絶好の期日だ。 逆算すると1890年か翌91年に熊本県で生まれたはずだ。1908年に18歳で単身、日本を出てまずはペルーへ。続いてボリビアに転住し、アンデスを徒歩で越えて、アマゾン下りをし、ようやくパラー州ベレンに到着したという。今なら「冒険家」といわれそうな険しい、命がけの道だ。 「日本で祖父が亡くなり、家族の生活は厳しかったという。父は長男だったが、ブラジルの評判が大変良かったので、多分『何年か稼いで戻る』というつもりで南米へ向かった。でも、日本に戻ることは一度もなかった。戦後、お金ができた時、父は私たち兄弟をみな一度ずつ日本に送りだしたが、本人はけっして行こうとしなかった。私もジョアンも熊本の父が生まれた家に行ったことがあるわ」と思い出す。先人の生涯は茨の道だった。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月7日 イタイプーダムを救った「8人の侍」の一人、千田功さんは、湾岸戦争を機にメンデス・ジュニオール社の仕事を辞め、その後91年頃から日本にデカセギへ行っていた。「5年間は東京都の日野自動車社、残りの5年間は茨城県の旭ファイバーグラスで仕事をやっていた。ブラジルにいる妻とはときどき電話で話すだけ。10年間一度もブラジルに戻らなかった」という。 63年の渡伯以来、91年のデカセギが初めての帰国だったから30年ぶり近い。記者が「日本を一目見たいとか無かったんですか?」と尋ねると、「別にないね」とあっさり。戦後移住者に散見される「郷愁なき移民」タイプだ。 横から小山さんも「僕も1995年に35年ぶりに日本に帰ったよ。来て最初の2、3年は帰りたい気持ちもあるけど、そのうち慣れちゃうんだよね」と当たり前のように言う。 千田さんは日本から戻って以来、妻の実家があるフォルタレーザで年金生活。一行が午後に観光したモーロ・ブランコに別荘があり、毎週遊びに行っているとか。同地の巨大な風力発電施設について聞くと、「あれは、実は送電設備が完成していなくて、発電はできるが送電できない状態なんだ」と呆れた現状を教えてくれた。 発電施設は完成しても、環境関連の工事許可が下りず肝心の送電設備が手つかずなのだという。海際の砂漠に吹き抜ける風を電力に変えるすばらしい施設だと一行は口々にほめたたえていたが、その感動が一気に色褪せた。 千田さんは1200CCの排気量の二輪車ハーレーダビッドソンに乗り、友人らと隊列を組んでツーリングをしたりと悠々自適な生活をしているとか。これもまた、戦後移民の一つの姿だ。 ◎ ◎ 翌12日(土)朝、フォルタレーザのホテルの朝食で一緒になった五十嵐美恵子さん(83、新潟県)と話していると、「サンパウロで一緒に住んでいる孫がGOL機のパイロット。今回の帰りもリオからサンパウロまで彼が運転するのよ」と嬉しそうに教えてくれた。 五十嵐さんの娘は二人とも日本におり、孫の中原デニスさんは親と共に6歳で日本に行き、大学まで卒業。その後、米国に留学し、そこでパイロットになり、ブラジルのGOL社に就職したのだという。「だからブラジルの学校には一つも行っていないの」という不思議な経歴だ。デニスさんの妹も日本の航空会社で客室乗務員をしているという。 五十嵐さんの両親は1933年3月に渡伯し、彼女は6月に第二アリアンサで生まれて二重国籍になった。「父・五十嵐与多(よだ)は弓場農場の最初の頃、10年間ほど一生懸命に弓場勇さんを手伝ったんですよ」と振りかえった。 同じテーブルの村瀬昌子さん(88、滋賀県)は「日本庭園が立派だったのが印象的。あれだけの公園を作ってもらえる日本移民が、このフォルタレーザにいたということを知れて良かった。日本人として嬉しい」と誇らしげに語った。 その日、まさにその日本庭園まで作って顕彰された藤田十作の子孫のシッチオ(農場兼別荘)に、一行は向かう。(つづく、深沢正雪記者)
セアラー日伯文化協会での交流会会場では、同船者の再会もあった。セアラー州チアングァーに住む黒木(旧姓・松崎)聖子さん(71、福島)は、セアラー日伯文化協会の会員ではないが、この日会場を訪れていた。目的は福島県出身者で、東日本大震災の被災者が親類にいる人を探すため。黒木さんは、自身がチアングァーに持つ広大な土地を被災者に分け与えたいと思っていたが、情報の伝播をどうしたら良いか分からず、日本人や日系人が多く集まる交流会会場にやって来たのだった。福島県田村郡に住む黒木さんの叔母も被災者の一人で、現在ブラジルへの移住を打診している最中だという。 記者が黒木さんと話していると、近くにいたふるさと巡り一行の竹中清さん(80、神奈川)ら何人かも会話に参加した。会話を重ねるうちに、黒木さんと竹中さんが同船者だということが判明。「ぶらじる丸」でブラジルに到着し、1955年にパラー州サンタレン近郊のベルテーラに入植した12家族にいたのが黒木さんと竹中さんだったのだ。 竹中さんは叔父夫妻の養子になり、構成家族としてブラジルへ移住した。黒木さんは竹中さんの養父母をよく覚えており、「養父の方は細くてすらっとした男性で、養母の方は東京出身のお嬢様できれいな人。美男美女だった」と振り返る。「うちの親が生きていたらどんなに驚くか」と数十年ぶりの再会を喜び、入植したベルテーラなどの話で当時を懐かしんだ。 その頃、交流会はカラオケ大会も終了し、終盤に差し掛かっていた。参加者最高齢の武田勝喜さん(91、熊本)と玉城道子団長を中心に全員で「故郷」を合唱。最後に記念写真を撮影し、午後3時半に一行は会場を後にした。 セアラー日伯文化協会の山岸和(ひとし)さん(85、福島)は「5歳でブラジルに来たので、日本語はほとんど話さなくなってしまった。だから日本人を見ると、つい日本語を話したくなってしまう。たくさんの人がフォルタレーザを訪れ、先亡移民のために祈ってくれて嬉しい」と一行の訪問を喜んだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月8日付
慰霊祭に続いて、セアラー日伯文化協会との交流会が行われ、同協会の会員ら約60人が参加した。交流会には、藤田十作氏の長女であるルシアさんと弟のジョアンさんが訪れ、ふるさと巡り一行に紹介された。 紹介されたジョアンさんがあいさつに立ち、「今日はお越しいただきありがとうございます」と一行を歓迎した後、「戦後の藤田家が立て直せたのは姉(ルシアさん)のお陰。彼女が家族を復興へ導いてくれた」と一家の歴史を語り始めた。 戦争ですべてを失った藤田家だったが、戦後長女のルシアさんが大学に入学。後に続くジョアンさんの学費が免除されるように、大学側に嘆願した。ジョアンさんは「彼女のお陰で大学で勉強ができた。彼女をとても尊敬している」と感謝。ルシアさんが下の兄弟らの進学の足がかりとなったことを振り返った。 さらに「私が幼い頃、よく泣いていた父の姿を覚えている」とジョアンさんは続けた。藤田氏は自身が満足に勉強できなかった分、子供たちには勉強をさせたいと思っていた。しかし「戦争で家も何もかもを失った」と泣き暮れる藤田氏。その姿を見た幼いジョアンさんが「お父さん、なんでそんなに泣くの?」と聞くと、「心配するな。大丈夫だから」とジョアンさんにいつも言い聞かせたという。 「父はいつも『人はいつかこの世を去る。だからこそ、もっと人を大切にするべきだ』と言っていた。自分のした良いことは必ず返ってくる。そういうことを父から学んだ」とジョアンさんは話した。 ジョアンさんはブラジルの軍隊に入隊し、カピトン(大尉)まで昇進。除隊後は建設会社を起こし、実業家として79歳の今も活躍している。州知事に藤田十作日本庭園建設の要請をしたのも、ジョアンさんだそうだ。 あいさつの後、玉城道子団長から県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットとDVD、日本酒がジョアンさんに贈られた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月7日付
ニッケイ新聞 2016年4月6日 梅田邦夫駐ブラジル日本国特命全権大使が3月31日に来社し、リオ五輪や日系社会との連携強化について説明、「ブラジルが世界有数の親日国となったのは、日系社会の貢献によるもの。それが世代交代を迎えており、今まで一、二世は何も言わずとも協力してくれたが、若い世代にはこちらから働きかけることが重要」などと意欲的に展望を語った。 リオ五輪については、馳浩文部科学大臣、鈴木大地スポーツ庁長官のほか、次回の開催地として東京都の舛添要一知事、遠藤利明・東京五輪担当大臣らも訪れる予定。安倍晋三首相には再来伯してほしい旨を伝えており、「できれば皇族の方にも」と期待している。 日本人選手と観光客の安全対策では、テロ・強盗・ジカ熱等の感染症に重点を置く。伯国でテロ事件はないが「ヨーロッパで起こっていることを考えると、神経質にならざるを得ない」とも。この2月から観光ビザの数次化が実施されていると報告した。 「人的交流」に関して、14年に来伯した安倍首相の肝いりで、日系人を対象とした招聘や研修プログラムを新設、全体の採用人数も増加させた結果、93人から142人に枠が5割増しとなった。日系を含むブラジル人一般の交流事業「産業人材育成」では13年に232人から15年に311人、昨年新設された「JUNTOS!中南米対日理解促進交流プログラム」で、西森ルイス連邦議員、財界関係者、州政府関係者30人が3月に訪日した。 日系社会ボランティア派遣は13年には52人だったが、16年には97人と倍増した。日本語教育分野の取り組みには、パラナ、リオ、マナウス、南大河州の各連邦大学で4月から無料の日本語講座を開講予定だ。「草の根文化無償」による日本語教育施設支援も進めるという。 梅田大使は「県連日本祭りが見本となって、各地に日本祭りが生まれている」と高く評価し、今後も積極的に協力していく意向だという。「日本食が広まった理由は、日系団体の婦人部のおかげ」と分析し、今年から日系団体婦人部数人をJICAにより日本へ招聘して料理研修する枠組みを始める。同時に和食料理人の青年ボランティア派遣をする予定。 レシフェ、ベレンの領事事務所を総領事館へ戻す格上げを本省に要求中、今年度予算でも引き続き要求を行なう。 梅田大使は日伯の受刑者移送条約が2月に発効したことに触れ、「これで国外犯処罰、受刑者移送がそろい、日本で犯罪を犯してもブラジルへ逃げることは出来なくなった」との意義を強調した。日本の刑務所には220人ほどの伯人がおり、半数が帰伯を希望との調査もある。伯国内にも「数人程度」の日本人受刑者がいるようだ。 □関連コラム□大耳小耳 日本政府、現地日系社会、国際交流基金が協力してアマゾナス州政府を支援した結果、「ジジャウマ・バチスタ校」は州立学校ながらも、なんと日ポ両語のバイリンガル(二言語話者)教育を今年から始めた。梅田大使が視察した折も、「理科と算数の授業を日本語で行なっていた」という。公立学校でバイリンガル教育、しかも日本語は当地初。ぜひマナウスにある進出企業はそんな人材をどんどん採用してほしい。官民合同で日本語普及を。聖市の日系コレジオも負けていられない?!
ニッケイ新聞 2016年4月6日 湾岸戦争は1991年1月17日に多国籍軍の空爆から始まった。元をたどれば、前年8月にイラクがクエートに侵攻したのが発端だ。 「イラクではナッシリアという町に住んでいたんだが、秘密警察があちこちにいてね、嫌な町だったな。もし休暇をとってブラジルに帰っていなかったら、僕も人質になっていた。10カ月待っても工事を再開しなかったんで、それっきりメンデスの仕事を辞めた」と振りかえる。 青年隊の中で広まっていた「千田はアフリカかスイスに住んでいる」との噂に関し、「どうしてそんな話になったんだろう」と首をひねった。 千田さんは岩手県一関出身、一関工業高校を卒業後、東京都庁の本局の設計課に2年間勤務した。外国行きの夢が捨てられず、まず力行会に相談に行くと、「あなたは青年隊の方が向いている」と言われ、青年隊に決めた。「当時の上司、東大出の課長に『ブラジルに行くことに決めました』と辞職を願い出ると、『オマエはバカだ!』と言われた」と当時を思い浮かべて呵々大笑した。 青年隊の富士宮訓練所に入り、1963年に9期として渡伯した。同期の貝田定夫(かいたさだお)さんと「二人でアマゾンまでヒッチハイク旅行をしよう」と意気投合。途中バイア州まで来たところで、椰子を沢山植えている日系移住地に立ち寄り、千田さんは「農業をやろう」と考え直し、貝田さんと別れた。「あの頃日本で移住宣伝してた『金のなる木はCoco(椰子の木)にある』って言葉思い出してね。米を2アルケール植えたけど全然金にならないので、すぐに出た。一年かけてそこで稼いだ金がサンパウロで、1週間で無くなったよ。それで測量会社を探して就職したんだ」。 それがセルビックス・エンジェナリア社で、ソブラジーニョダム現場に送られた。そこでメンデス・ジュニオールの重役と知り合い、イタイプーダムに誘われた。「僕がイタイプーに行った77年、日本人は僕一人。工期が遅れて遅れて、なんとかしなきゃとなって、1年たって袋崎とか荒木さんとかエキッペがやってきた」と思い出す。 78年に送り込まれたのは、コンクリート型枠や支保工の設計を専門とする荒木昭次郎さん(9期)、『8人のサムライ』の隊長ともいえる袋崎雄一さん(10期)ら。新しい型枠工法を試して工期を大幅に短縮し、国家の命運をかけた大事業を完成に導いた。 「77年に僕は36歳、袋崎は33歳。彼はポ語がダメなんだが、現場で叩き上げた。メンデスの重役に気に入られ、現場のブラジル人何千人を動かす責任者に大抜擢された。普通のダム現場は2、3年だが、イタイプーには5年もいた。思い出深いよ」と一気に語った。 その後、メンデスの仕事でイラクへ行き、湾岸戦争が始まった後は国内のダム現場に移転したが、結局そこを辞めた。フォルタレーザ出身の伯人女性と結婚、なんと日本へ10年もデカセギに行っていたという。 国家的事業を救ったヒーローの一人が、すんでのところで湾岸戦争の人質にされそうになり、結局デカセギとは…。戦後移民の人生もなかなか波瀾万丈だ。(つづく、深沢正雪記者)
ふるさと巡り3日目も快晴。午前8時45分に集合し、セアラー日伯文化協会との交流、先亡移民慰霊のために「シチオ・キャプテン・フジタ」へと向かう。 到着すると、同文化協会会員の桜庭ミノルさん(61、2世)がふるさと巡り一行を案内してくれた。桜庭さんの話では、セアラー州には現在1200の日系人家族がおり、そのうち会員は200家族ほど。現在は2、3世が中心で、4世ではかなり混血が進んでいるそうだ。ノルデステ地方の日本人移民の記録は乏しく、多くのことは分かっていない。何人かの日本人がペルーなどから転住してきたという記録が、わずかながら残っている。その中で、日本人移民の先駆者的存在である藤田十作氏ついて、桜庭さんが一行に話してくれた。 藤田氏は1908年に熊本県からペルーへ移住。その後、ボリビアへ移住し、現地で働いていたレストランの同僚からブラジルのセアラー州を勧められ、1923年にフォルタレーザへと移住してきた。 現地のブラジル人女性と結婚後、百姓として成功した藤田氏は、自宅の建設や子供たちの教育に尽力した。しかし、そんな上昇機運のさなかに第二次世界大戦が開戦。ドイツ軍の船がブラジルの船を沈没させたことから、ドイツの同盟国日本の日本人移民もブラジル人から家を破壊されるなどの報復を受け、藤田氏一家はすべてを奪われた。 それまで築いてきたものをすべて失うも、知り合いや妻の親戚に世話になりながら、藤田氏は百姓として再び成功。6人の子供全員を大学に進学させた。桜庭さんは「その後、子供らは各分野において活躍し、フォルタレーザの発展に尽くしています」と話を締め括った。 続いて、慰霊祭が天理教の教義に則り行われ、大浜晃モッソロ教会長の慰霊に続き、玉城道子団長、松尾治氏らが慰霊、献花した。 斉藤利治さん(75、2世)は「藤田さんの話に感動し、献花させてもらった。私たちは先祖や親世代の移民のことを忘れがちだが、当地の日系人は忘れずに感謝している」と何かに気づかされた様子だった。藤田氏の話は一行の心に強く残ったようで、旅の終盤でも参加者との会話で話題に挙がることが多々あった。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月6日付
日本と南米つなぐ活動続けて 福島県喜多方市の大和川酒造海外営業部として、日本酒の販促活動で2月9日から同25日まで来伯していた武藤啓一さん(65、福島)。元JICAシニアボランティアとして、2011年7月から2年間、野球指導員として滞伯したほか、福島県人会(永山八郎会長)と連携してブラジルで喜多方ラーメンを普及するなど様々な顔を合わせ持つ。現在は、喜多方市で地域・家庭医療センター「ほっと☆きらり」の事務長を務め、定年退職後も多忙な毎日を送っている。 武藤さんは元々、喜多方市役所に40年間勤め、福島県内外からの企業誘致を担当したほか、地域振興及び観光振興に力を注いできた。その一環として1990年代初頭には中国との国際交流を行い、旧塩川町(現・喜多方市)で第1回日中競演花火大会を実現させた。 「若い頃からブラジルへの興味はあった」という武藤さんは80年代半ばごろ、福島県海外派遣事業の一員としてペルー、ブラジル、アルゼンチンの南米3カ国を3週間かけて訪問。さらに、95年にはオランダ航空が主催した懸賞論文で、ペルーの青少年育成のために文房具や運動用具を提供する内容を書いて優秀賞を授与し、副賞の往復チケットでペルーに16日間滞在した経験もある。 その後、喜多方市の産業部マーケティング部長として喜多方ラーメンをはじめ、米、味噌、醤油、アスパラガスなどの市産品を中国、韓国、香港、台湾などのアジア諸国へ市の物産や観光を売り込む交渉を行ってきた。 60歳で市役所を定年退職した後、思いのあったブラジルに行くため、JICAシニアボランティア制度を受けて合格。野球・ソフトボールの審判資格を生かしてコーペル・コチアなどで指導を行ってきた。その合間に、2013年2月に福島県で開催された「在外県人会サミット」に出席したブラジル福島県人会の曽我部威事務局長と知り合うなどし、喜多方ラーメンのブラジルでの普及を実践、協力してきた。 13年7月ニシニアボランティアの2年の任期を終えて帰国した武藤さんは、喜多方市地域・家庭医療センター「ほっと☆きらり」の運営を行う医療法人社団「福寿会」の武田尚寿理事長から「今、何やっているの」と声を掛けられ、「(同センターの)事務をまとめる男性がいないので、少し手伝ってほしい」と言われたという。武田理事長とは、市役所時代に福島県内のIT関係企業誘致推進事業などで知り合った。 また、今回の来伯で海外営業部の肩書をもらった大和川酒造とも、同酒造社長が喜多方市の物産会長だったことから関わることになった。 武藤さんは「色んな顔を持っていたことが結果的に良い方向に来たのだと思う。今後はブラジルでの日本酒販売など商売は厳しい面もあると思うが、継続性のないことはしたくないので、別の機会にまたブラジルに来たい」と意欲を見せた。 サンパウロ新聞 2016年4月5日付
