06/03/2026

Mês: maio 2016

鹿児島県人会 ‐ 23/05/2016  からりと晴れた日曜日(5月22日)、第14回九州ブロック運動会が開催された。ジアデマ沖縄文化センターからブラジル陸軍南東軍兵舎内の運動場に場所が変わった為、車で来た人は場所が分からず大変だった。  21種目に汗を流し、賞品をいっぱい持って帰った人がいた。お昼時間には鹿児島県人会初の鹿児島おはら節と鹿児島ハンヤ節を披露。皆が輪に加わり、100名以上が軽快な曲に合わせて踊って呉れた。  帰りにはグランドのお掃除。陸軍大将が日本人のしつけの良さを褒めて呉れた。来年もこの会場を借りれそうだ。  九州ブロック8県の中で、大分県人会の参加者が一番多く、その4分1の鹿児島県人会参加者数が最低だった。鹿児島県人会運営のこれからの課題だ!  鹿児島県人会が披露した鹿児島おはら節と鹿児島ハンヤ節は好評でした。 ハッピを着た15名の県人会員が100名の参加者に混じって踊りを先導。途中で間違ったけど観衆の大拍手を浴びました。 ブラジル鹿児島県人会HPより転載
鹿児島県人会 17/05/2016  世界的に活動されている、日本の高齢者福祉の第一人者小川全夫(おがわたけお)先生の訪伯が決まりました。  6月16日(木)から22日(水)までサンパウロに滞在されます。その間、援護協会と熟年クラブで講演。あけぼのホーム、憩いの園、サントス厚生ホーム等の訪問、6月18日(土)のブラジル日本人移民108周年法要にも参加。  4月度役員会で鹿児島県人会も県人会活性化プログラムの一環として宿泊費などを負担する事に賛同頂きました。 今回の訪問はJICAの援助が得られず、自費で来られます。   ◆ 小川全夫先生のプロフィール(熊本学園大学HPより転載) 小川 全夫 (Takeo Ogawa) 専門分野 : 社会老年学   高齢者ってだれのこと?高齢社会ってどんな社会? 高齢者の福祉って何をすること?...
ニッケイ新聞 2016年5月28日  ブラジル熊本県文化交流協会(田呂丸哲次会長)には、年金生活者からの〃貧者の一灯〃を先頭に、今も続々と義援金が寄せられている。さらにブラジル日本語センターでも義援金の募集が行われ、すでに6千レアル近くが集まったという。いくらぐらい集まり、日本にはいつ頃、どのように送金するのか。現在までの状況を同県人会に聞いてみた。  同県人会は4月14日からの熊本県を中心とした地震被害を受け同月22日、義援金用口座を開設した。現在も相次いで多数の義援金が寄せられている。  18日に同会館で行なわれた幹部会では、田呂丸会長、明石照久副会長、赤木数成書記、日下野良武および松本ワルテルの両理事長、小山田祥雄前会長らが出席。送金方法などについて話し合った。  これまでの個人の振込みは約300人、また30以上の団体が支援金を寄せている。7日の時点で15万レアルを超えていたが、その後も続々と寄付が届いているという。現在の合計金額は未公表だが、田呂丸会長は「予想よりはるかに多く集まっている」と答えた。現時点なら20万レアルを超えていてもおかしくない。  日本への送金が行われた後、正式な金額を発表する予定。直接送金すると、25%前後も課税される場合がある。そのため、定款を銀行側に提出し、特別な「義援金扱い」で送る手続きを進めている。これにより18米ドルの手数料と0・38%の低課税のみで送金できるという。  母県への送金日時は確定していないが、役員らは「可能な限り早く」と確約する。赤木書記は伯国の経済状況に言及し、「不景気にも関わらず、年金生活者でも送金してくれる人がいる」と言い、「これほど日系社会が心強いとは」と目を潤ませながら答えた。  また三、四世の義援金が目立つことについて田呂丸会長は、「彼らは大変な努力をした先祖に感謝している。そのことが『自分のルーツである日本を助けたい』という気持ちにつながっている」と話す。  他県出身者からの寄付が多いことに関し、日下野理事長は「熊本にはこれまで大災害は無かった。募金運動も初めてだが、これほど他県からの支援が集まるとは」と話し、「他県が困った時は絶対に手助けする」と握りこぶしに力を入れた。   日本語センターで奉加帳=義援金額すでに約6千レ  4月14日に始まった一連の熊本地震を受け、ブラジル日本語センター(立花アルマンド理事長)は5月初めに理事会を開き、義援金の募集を決定。開始から2週間たった現在も問い合わせが多く、5月末で終了する予定だったが、6月20日まで募集を続けることとなった。  熊本県と同センターは関係が深く、2年おきに訪日して開催する「ふれあい日本の旅」では、同県庁の世話によって日語校などの生徒らがホームステイしている。  同センターは今月9日から募集を始め、会員にフェイスブックや電子メールで呼びかけ、2週間で5883レアルが集まった。この義援金はすでに熊本県人会に渡してあるという。  募集を打ち切る日が近づいても、義援金の問い合わせが多いことから、期間を延長することとなった。一般からの募金も受け付けている。  来社した諸川有朋副理事長は「支援者名を熊本県庁に伝えるので、なるべくセンターまで来て、奉加帳に記名していただきたい」と呼びかけた。来訪が難しい場合は、同センターの事務局に相談してほしいとしている。  問合せは丹羽事務局長(11・5579・6513)まで。...
ニッケイ新聞 2016年5月25日  第1回本荘追分ブラジル大会に出席するために来伯した由梨本荘市の長谷部誠市長、鈴木和夫市議会議長、同保存会の佐林公善会長、全日本大会の王者・三浦九十九さんら10人の歓迎会および第32回由梨本荘親睦会が、聖市の秋田会館で21日昼から盛大に行われ、約120人も集まり会館が一杯になった。  のっけから同保存会のメンバーによる迫力の唄、太鼓、三味線、尺八が披露され、会場から唱和する大きな歌声が上がり、さながら民謡ライブのような盛り上がり。  三浦さんは「初めて来たが、噂どおり本当に遠かった」と笑いを誘いながら「秋田草刈唄」を唄いはじめ、「田舎なれども 俺が里は 西も東も アリャ金の山」と見事な声の張り、高音の伸びを響かせた。  今大会のお膳立てをしてきた同市出身の伊藤武さんが司会を務め、「秋田男は口数が少ないといわれるが、この民謡があれば十分。名刺代わりに唄っていただきました」と開会を宣言した。  伊藤さんの秋田男らしい粘り腰の呼びかけがあったからこそ、ブラジル日本民謡協会やブラジル郷土民謡協会、江差追分会ブラジル支部、グループ民などなど、かつてない民謡界総出の参加協力が実現したという。  主催したブラジル本荘追分会の川合昭会長(秋田県人会会長)も「今、本当に久々に本荘追分を聞き、滅多にないことですが、涙が込み上げてきました」と歓迎の挨拶。  長谷部市長も「サンパウロに唄声を響かせて」、鈴木議長も「距離は遠いが、心の距離は非常に近い。リオ五輪には秋田から現時点で3人の選手が出る。ここに来られない県民に代わって応援をお願いしたい」と語った。中前隆博在聖総領事も駆けつけ、本荘追分保存会の佐林公善会長の音頭で乾杯した。  同保存会の佐々木勲副会長は「追分は普通、尺八だけ。三味線は全国でもない。間の取り方が難しいのに、よく頑張っている」と当地の民謡愛好家が次々に唄うのを聞きながら感心していた。  聖市近郊のサンベルナルド・ド・カンポ市の松寿会で北原民江先生から習っている辺原ルジアさん(68、二世)は「一人だと唄いづらいから最初は民謡コーラスを作ったの。そしたら20人も集まった。そして先生にきてもらって、文協芸能祭にもでて、今回も参加したの」と喜ぶ。今年10月の選挙では市議に立候補するとも。  隣にいた同民謡コーラスの藤本紀子さん(63、二世)も「本荘追分を唄っていると気持ちよくて、心が静かになる。普段はカラオケ、『暗夜航路』です」と笑った。  当地初の日本人医師、高岡専太郎(秋田県出身)を先祖に持つ高岡グループからホンダ・サブロウ役員が参加し、使節団と大会役員に記念品を手渡した。午後3時からワークショップとり、丁寧に指導していた。 □関連コラム□大耳小耳  本荘追分前夜祭の時、ミナス州ベロオリゾンテから出席した郷土民謡支部長の棈木(あべき)幸一さん(80、鹿児島県)は「使節団の皆さんは秋田県人向けの挨拶をされていたが、大会出場者の大半は他県人だと思う。私も普段は刈干切り唄(宮崎民謡)一本。本荘追分は出だしから難しい」と語った。15歳の頃にコチア青年で渡伯する計画があったが断念したという加藤五郎さんが、ステージの「秋田大黒舞(だいこくまい)」に合わせて大黒様の格好で客席に登場し、めでたさを倍増させていた。「すべて自前の衣装」だそうで、さすが元座敷唄らしい遊び心が感じられる趣向だ。
ニッケイ新聞 2016年5月25日  岩手県人会(千田曠暁会長)が15日昼、恒例のわんこそば祭りを開催した。第10回目を数える今年は、用意した70キロの乾麺がほぼ完売。例年同様、約300人が会場を訪れ、早食い競争も過去最多の参加者で大賑わいだった。  日本から輸入したそばに、改良を重ねる特製だしは毎年好評。薬味や餃子付きのそばは食べ放題で、中には5皿以上たいらげる来場者も見られた。  妻と訪れた聖市在住のルーベンス・アゼヴェードさん(39)は、フェイスブックでイベントを知ったという。「建築の勉強で訪日したことがある。その時にそばは食べたが早食い競争を見るのは初めて。とても興味深い」と笑顔を見せた。  その早食い競争は3分間で食べた数を競うもの。一昨年は24人、昨年は42人、今年は50人がエントリーした。5人一組に分かれ、ちびっ子や非日系、駐在員ら様々な層が競技に参加した。  全体で1位に輝いたのは、聖市在住で子ども移民の三宅みのりさん(39、大阪)。昨年は女子最高の84杯を記録したが、今年は大幅に上回る111杯を胃袋へかき込んだ。この記録は歴代最多と見られる。  競技を終えたばかりの三宅さんは、「まさか100杯を越えられるとは。声援にも後押しされ、そばを入れてくれる方も急かすくらい手際が良かった。記録はみんなのおかげです」と感激していた。成績上位者、杯数は以下の通り(敬称略)。  1位=三宅みのり(111)、2位=アリヤマ・ジョージ(105)、3位=杉田尚央(96)、4位=ウツミ・タクヤ(91)、5位=井上マルセロ(84)
ニッケイ新聞 2016年5月25日  一連の熊本地震を受け、公益財団法人海外日系人協会(山田啓二会長)は被災者支援のため、専用の口座を開設し緊急募金を受け付けている。7月中旬までを予定。  入金者は事前に、「個人情報のお取り扱いについて」(www.jadesas.or.jp/about/kumamoto-doi.html)に同意の上、氏名や住所など必要事項を入力し申込んでほしいとのこと。 振込先は三井住友銀行の横浜中央支店、普通口座0114898、名義ザイ)カイガイニッケイジンキョウカイ。なおクレジットカードでの募金は1口千円から。 同協会は「集まった義捐金は、責任を持って熊本県にお渡しします。皆様のご協力を何とぞよろしくお願いいたします」と呼びかけている。 詳細はサイト(www.jadesas.or.jp/about/kumamoto.html)まで。
ニッケイ新聞 2016年5月24日  日本国外では初となる『本荘追分民謡大会』が22日、聖市の秋田県人会館で開催された。記念すべき大会には、秋田県由利本荘市の長谷部誠市長や、全日本王者の三浦九十九さんらも来伯。大会には約60人が出場し、およそ3分の舞台を力いっぱい歌いきった。初代王者には、聖州タウバテの久保田紀世さん(31、三世)が輝いた。  本荘追分民謡の国際大会が開かれるのは、世界でブラジルが初めて。開催に当たり、秋田県人会の川合昭会長、由利本荘市市出身の伊藤武さん、民謡関係者が発起し、ブラジル本荘追分会を組織した。  130人以上が来場し大会には約60人が出場。遠方はミナス州、聖州バストス、レジストロからも参加があった。幼年の部では子供たちが元気いっぱいに歌う姿に、優しい笑顔があちこちで見られた。  続いて寿の部、高年の部、青壮年の部と各世代が次々に歌っていく。本荘追分は節回しが難しく、途中で声が途切れる歌い手も時おり見られたが、終始和やかな雰囲気の中、一曲終わるごとに客席から温かな拍手が贈られた。  各部上位による決勝戦を勝ち抜いたのは、8歳から民謡を始めた久保田さん。音楽教室で教師を務めるかたわら、今年1月から練習に励んだ。日本王者の歌を聞いては歌うことを繰り返したという。  第33回本荘追分全国大会(8月、由利本荘市)への派遣が決定したが、「今回の出来は0点! まだまだ歌えていない。日本に行って他の出場者の歌を聞いて勉強したい」と気持ちを引き締めた。  余興には、本荘追分保存会の佐林公善会長らが演目を披露。第32回大会の優勝者、三浦さんが舞台に立つと、その節回しの上手さに「日本一!」という合いの手と共に大きな歓声が沸いた。  「本荘追分は難しく、私も優勝するのに15年かかった」という三浦さん。「大変な感動も味わった。ぜひブラジルから優勝者を出してもらいたい」と期待した。  大会の盛況ぶりに秋田県人会の川合会長は、「20人出場したら良い方だと思っていたが、その3倍来てくれた」と笑顔。長谷部市長は「予想以上に盛り上がって驚いた。ブラジルと由利本荘の末永い交流を進めていきたい」と語った。結果は次の通り(敬称略)。 【幼年の部】辻ゆうじ、赤堀タレス、玉城さおり 【寿の部】小林和八、浜田米伊、上村敬子 【高年の部A】岩岡みよこ、依田茂子、八木静代 【同B】佐藤吉治、片山明子、篠原俊巳 【青壮年の部A】海藤司、馬場アヤ子、木下光惠 【同B】久保田紀世、中島幸夫、安永幸柄  ...
ニッケイ新聞 2016年5月21日  若手民謡グループ「民」らの主催で、初の『本荘追分ブラジル大会』が22日午前9時から、聖市の秋田会館(Av. Lins de Vasconcelos, 3390, Vila Mariana、メトロのビラ・マリアナ駅から徒歩1分)で開催される。このために母県から由利本荘の長谷部誠市長、鈴木和夫市議会議長ほか本荘追分保存会の佐林公善会長、第32回全日本大会の王者・三浦九十九さんら10人が20日に来伯し、大会の意義などを語った。  長谷部市長は「海外初開催が実現でき、市としても嬉しい限り。この大会は来年、再来年と続けていく。これを契機に、ブラジルと由利本荘のつながりがさらに深まれば」と期待を見せた。  鈴木議長は「ブラジルと日本は非常に近い関係を持っている。その距離を縮める大切な事業」と意義を説明する。  佐林会長も「本荘追分大会が海外初開催されると、日本の民謡界で話題になっているのでは」と破顔一笑。「本荘追分は元々、港町で歌われていた座敷唄で、裏拍子から入るなど独特の節回しがある」などと技術的な難しさを解説した。  22年間歌い続ける加藤五郎さん(古里民謡ふれあいクラブ)は「実は15歳の頃、コチア青年として渡伯する計画があったが、事情ができて叶わなかった」と打ち明けた。「今大会のおかげで念願のブラジルに来ることができ、70年越しの夢を果たせた」と笑顔を浮かべた。  今大会で審査員を務める第32回本荘追分全国大会(昨年)の王者、三浦さんは本荘追分の魅力を「その土地の生活感を味わえるリズムがある」と奥深さを語る。  同席した秋田県人会の川合昭会長は、「秋田には久保田節など、難しい民謡がたくさんある。本荘追分の難易度は、その秋田民謡の中でも5指に入る」と話した。大会実現の裏方を務めてきた同市出身の伊藤武さんも「この日のために尽力してきた。とても嬉しい」と笑顔を浮かべた。  今大会には8~88歳まで約60人が参加、パラナやミナスなど遠方からの参加もあるという。優勝者は8月、第33回本荘追分全国大会(同市)へ、伯国代表として派遣される。   □関連コラム□大耳小耳...
ニッケイ新聞 2016年5月20日  【らぷらた報知5月19日付】富山県からの移民の1人目は1917年、2人目は1920年に来亜した。その後、あと次々と富山県からの移民の数も増え、一世、二世、三世と拡大し現在では60家族がこの富山県人会に所属する。5月1日はメイデーで労働者を称える祝日であるが、この日は富山県人会にとっては特別の日となった。県人会創立50周年式典が開催された。  県人会の川滝幾郎会長が開会の挨拶をした。当日は富山県知事代理(富山県公営企業管理者)須沼英俊氏から祝辞があった。また、富山県議会議員の稗苗清吉氏が出席した。  在アルゼンチン日本大使館からは吉村一之領事、JICAアルゼンチン事務所の武田浩幸所長、YKKアルゼンチンの鈴木英幸社長、FANAの米須清文代表、館山友の会代表の喜田クララ氏が出席。感謝の言葉と祝辞を送った。  また富山県知事の石井隆一氏から、「富山県人会創立50周年記念を心よりお祝い申し上げます。在アルゼンチン富山県人会は1960年発足以来、アルゼンチンとの親睦、生活向上に対する取り組みを積極的に進められてきました。また富山県とアルゼンチン間の交流に多大なお力添えをいただいている歴代の会員とここにおられる皆様に心から感謝いたします。また二世、三世におかれましても富山県の美徳を受け継いで活躍されている方も多いと伺っており、富山県にとっても大いなる誇りであります」とメッセージが届けられた。   富山県人会留学生  にしいえエステファニアさん(28歳)は2015年に富山県の留学生として日本語学習のために日本へ留学しながら大学で環境分野について学んだ。「留学はとても素晴らしい経験だったが1年は長かった」とコメントした。  また、みやぞのさんは40年前の富山県留学生第一号。陶芸を学び研究所に入った。「留学は伝統を学べる貴重な機会。二世、三世が先祖や親戚について知り、日本の進歩する技術の中から何かを学べる機会だ」と語った。  今まで36人の留学生を日本に送っている。学生の留学は2年間、研修制度は数ヶ月のものがある。みやぞのさんによると、数年前富山から交換留学生がアルゼンチンに来たという。
ニッケイ新聞 2016年5月19日  ブラジル沖縄県人会(島袋栄喜会長)は15日午後、「ウチナーンチュ文化アイデンティティーの問題」をテーマにした第9回沖縄フォーラムを本部会館で開催した。「自身にとっての沖縄文化」「沖縄文化の特質」などに関する5人の発表が行われ、約200人が熱心に聞き入った。  島袋会長は開会の挨拶で「世代を超えた文化継承について考えて」と語りかけ、比嘉アナマリア実行委員長も「各々の経験を交換する中で沖縄文化の価値を確認できる機会」と挨拶した。  最初の発表は宮城あきらさんの「沖縄文化の特色」。島の歴史を振り返り、「ウチナーンチュの魂、普遍的な文化を、子孫がどう継承していくかが最も大きな問題だ」と述べた。  アマンデウ・シゲオ・アルメイダさんは「ニセタ・ツアー」について発表。若者に沖縄文化に興味を持たせるために、世界各国の県系青年が年に1度集まり、絆を深めるイベントのことだ。1月に当地で開催し、若者の活動意欲を高めた。「三線教室では先生、生徒といった関係ではなく、友達の立場で教えあうことで友情を作り上げた」との工夫を報告した。  井豆ジュリアナ・サユリさんは「琉球舞踊と私のウチナーアイデンティティー」をテーマに語った。故島袋順子先生と出会って琉球舞踊を始め、沖縄芸術大学への留学。母県で琉球舞踊大会に出場するなど、踊りを通して交流を深めてきたと発表。彼女は今、琉球舞踊教室で教えており、子供への文化継承も実践中だ。  与那嶺・カミヤ・セルジオ・トシオさんは「エイサー太鼓を通じた若者へのウチナー文化アイデンティティーの形成」について述べ、琉球国祭太鼓で活動してきた実経験をもとに人格形成への影響を論じた。「文化は動的で常に変化する。コミュニティの中で育ってきた人はその文化を自然に吸収する。ブラジルの文化や国民性はまだ途上にあり、ウチナー文化を広げることでより良い国作りに寄与できる段階にある」とした。  上原テリオさんは「生き方を形作る上でのウチナー文化の重要性」を講演、「両親の働く姿を見て学び、その教えを実践してきた。慈善活動に貢献できる喜びやコミュニティ活動に参加することの重要性」を語った。  第2部では熱心な討論が行われ、レキオス芸能同好会が賑やかな太鼓等を披露した。来場者の嘉陽茂子アメリアさん(78、二世)は「沖縄の文化や歴史が良く分かった」と満足げな様子。発表者のジュリアナさんは「私の目標はこの文化を全伯に広げていくこと」と力強く語った。   □関連コラム□大耳小耳  沖縄フォーラムでの発表者はみな、親の影響で日系人の文化活動に参加し始め、それを友達に広げているようだ。また、場内では活動を「フォーラ(一般社会)にも広げよう」という意気込みと団結の様子が見られた。このフォーラムはポ語中心に行われており、それゆえ三、四世も参加しやすいよう。他の県人会でも、文化継承について若い世代と積極的に討論してみてはいかが。
ニッケイ新聞 2016年5月17日  空港に向かうバスを待つホテルのロビーで、一行の山中タツミさん(86、愛媛県)=聖州カンピーナス市在住=に今回の旅の感想を聞くと、「カピトン・フジタの別荘でやった、マンガの木の下でやった慰霊ミサが一番よかったね。感じが良かった。味わい深かった」という。  タツミさんの夫は終戦時に陸軍少佐だった関係で戦後は仕事になかなか就けず苦労し、1957年にブラジルへ移住したという。夫は日本では薬剤師の資格を持っていたが、当地でもミナスの大学に通って資格をとり、1969年頃までアサイ移住地で薬局を14年間やっていたという。  その後に出聖し、1970年から援協の厚生ホーム(ピラピチニングイ街時代)に寮母を5年ぐらいした。それを辞めてからペンソンを始めた。「サッカーのカズがうちに住んでいたんだよ。あの頃はヤンチャだったよ。兄のヤスさんもいた。来たばっかりの頃よ。朝ごはんはパンしか出さなかったから、ヤスさんから『御飯を出してくれよ。これじゃ、走れないよ』と文句言われたことあるよ」と笑う。  「あの頃、一生懸命に練習していたよ。本当に有名になって、私も嬉しいよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。 ☆   ☆  午後、一行はナタル国際空港から3機に分かれて、グアルーリョス国際空港に向かった。リオ経由のGOL機には、連載第4回で紹介した五十嵐美恵子さん(83、新潟県)の姿もあった。「サンパウロで一緒に住んでいる孫がGOLのバイロットをしていて、今回の帰りもリオからサンパウロまで彼が運転するのよ」と嬉しそうに教えてくれた彼女だ。  日本育ちの孫、中原デニスさんはリオの空港で乗り換えを待っている間に、五十嵐さんの所に姿を現し、挨拶をしていった。一行が、彼が運転する飛行機に乗り込み、離陸して間もなく、ポ語、英語のアナウンスに続いて、突然、流ちょうな日本語が流れてきた。国内線で日本語のアナウンスなど、異例中の異例だろう。  JALの直行便がなくなって以来、ブラジル発の国際線でも、日本語のアナウンスなどまず聞くことは無くなった。それが、リオ発の国内線で聞こえたのだ。事情を知っている機内の一行の中から「パラベインス!」という声が飛んだ。日本育ちの三世からの、おばあちゃんへの素晴らしいプレゼントだ。どことなく「移民の故郷巡り」らしいエピソードだ。  一行は深夜11時にようやくグアルーリョス空港に到着。80歳代の参加者が多数を占めるなか、長時間の移動で疲労困憊する姿が見られ、辛そうだったが、深夜のリベルダーデ広場で一行は解散した。(終わり、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月14日  最終日3月16日(水)の朝、一行のうち28人だけで、ピウン植民地に向かい、慰霊ミサを行った。訪問先は現在も同植民地内に住む松苗賢治さん(72、神奈川県)の自宅で、150人全員は入りきれないという判断だった。  ナタル市中心から15キロ、パルナミリン市に同植民地はある。「植民地」とはいっても、現在ではすっかり別荘が立ち並ぶような住宅街になっていた。敷地は幅100メートル、奥行き1320メートルもあり、最初のロッテをそのまま維持している。  「11歳で移住し、ここに家族と一緒に住んでいた。でも、ナタルにあるペトロブラスに技師や監査として勤務し、定年退職した後、やっぱり〃ふるさと〃で過ごしたいと思って、ここに帰ってきた」という。ピウンに最初から住み続けているのは北山初江さんだけだが、松苗さんのように維持している人もいる。  「両親はもう亡くなった。二人とも最初から永住のつもりで来ていたんじゃないかと思うよ。日本が狭いから、広い所で暮らしたいって。父(松苗武治・たけじ)は台湾で鉄道の仕事をしていて、終戦後に新潟県新井市市に行ったが合わず、ブラジルに来た」  妻ジュウザさん(68)とは学校時代に知り合い、結婚した。彼の所は「賢治は末っ子。義父は家長として厳しく仕切る人だった。夫は『いつかピウンに戻りたい』っていつも言っていた。私はナタル生まれだから、最初は嫌だったけど、いまじゃあ、すっかりここの静かな生活が気に入っているわ」と笑った。  よく手入れされた庭には、オルキダーリオ(蘭園)があり、ジュウザさんの趣味で、2千鉢以上あるそうだ。彼女は「日本には2回行った。とても気に入ったわ。ぜひもう一回行きたい」とも。  異例ミサを司祭したのはなんとドン・ジャイメ・ヴィエイラ・ロッシャ司教だった。「日本移民が農業に奇跡を起こした。先人の苦労に想いを馳せながらお祈りしましょう」と語りかけると、ジュウザさんが同植民地の先亡者の名前を読み上げた。  ミサの会場には、地元の小林了さん(おさむ、68、和歌山県)も姿を現した。1958年にリベイロン・ピーレスに入植し、サントアンドレの工業学校を卒業し、敷島紡績の工場などに務めたが、「サンパウロの会社では上が詰まっていて、上がれない。それなら新しい所に」と1976年にナタウに転住したという。現在は同地で学校の送り迎えバスを経営し、40年になるという。「気候は良いし、物価も安い。良いとこだよ」と豪快に笑う。兄のマコトさんは故郷巡りの常連だが、今回は参加していない。  ナタルは数年前まで、「マグロの町」としても知られていた。3月から6月までが漁の時期で、日本から20隻以上も漁船が集まっていたという。小林さんはその通訳などの仕事をしていた関係で、事情に詳しい。  3年前に日本の漁船2隻が南大河州沖で拿捕され、北大河州まで曳航されて、ここに係留されており、現在も裁判中だ。「地中海とかは漁獲量の規定があって一隻50トンとか決まっているが、ブラジルはその規定がない。だから、日本船は最新機材を積んでいることもあって根こそぎ採っていく。ブラジルの漁船では太刀打ちできない。昔ほどマグロも採れなくなった。そのへんのことも拿捕には関係しているのかな」と説明した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月13日  ナタルでは珍しい60代の一世、野溝稔さん(のみぞみのる、68、長野県)は13歳の時、1961年にあるぜんちな丸で家族と共に渡伯した。「ナタルで一世は全部で10人いるかどうか」という。  最初は聖州ジャカレイに入植し、サンタイザベルにも住んだ。16年前にナタルから30キロ離れた町でココナッツ加工品「Haibiska」を製造する会社「Rurococo」社を経営している。「ここは気候がいい。寒くても20度だよ。雨、雷がない。この16年間で雷は4、5回しかない。夏でも乾燥していて涼しい」と語った。  交流会ではピウン出身、田中家の田中ユミコさん(66、東京都)も「1956年に6歳で来た。両親はピウンで大変な苦労をしながら、私をナタルの町にやってブラジル式の教育を受けさせてくれ、心から感謝している。以来60年間住んでいる」とポ語で自己紹介した。  ナタルでもコチア青年に遭遇した。請井正治さん(うけいまさじ、79、静岡県)は1期16回で、1957年1月に渡伯したという。  7人兄弟の3男として浜松市に生まれた。「うちのすぐそばから本田技研が始まったんだ。小学校の頃、たくさんカブが走っていた。僕がこっちに来てから浜松は発展した。実家は農家で、桃やビワなどの果実を生産していたが、広いブラジルへ行こうって思った」。  最初はソロカバのパトロンのところで4年間、ミカン作りをし、次にフォルタレーザに1年、65年からナタルに50年間ずっと住んでいるという貴重な戦後移民だ。  「ナタルに来た頃、ピウンやプナウなどの植民地を回って、農業生産物の仲買い、卸しをやっていた。野菜やトマトだね。白菜とかナス、キューリは誰もナタルでは誰も食べないから、レシフェに持って行った。でも今じゃ食べるよ。とは言っても、60歳以上の人は今でも食べない人が多いけど」と分析する。  結婚してから一時期、プナウ植民地に住んでいたという。「その頃はプナウに16軒もあったのに、今じゃ、北山さんの兄弟1軒きりになってしまった。主力作物は最初にバナナ、次にマモンが多かったかな。でも病気が入って、新聞に騒がれて、政府の役人が20人ぐらいきて、全部放置させられた。それからゴヤバ、マラクジャ、リモンになった」と振りかえる。最後に「もっと農業技術を持った日本人にやってきてほしい。ここにはチャンスがある」と薦めた。  2時間ほどで一行は交流会を終え、最後に「ふるさと」を全員で合唱して会場を後にした。  一行の吉久覚さん(さとる、77、三重県)=ボイツーバ在住=は、「ピウン植民地では相当苦労されたようだね。作ったらできる、でも売れない、食べてくれない。わざわざレシフェまで売りに行くとはね」と同じ農業者らしく深く同情の念を抱いたようだ。  妻の綾子さん(71、二世、チエテ移住地)も「サンパウロでも大変だったけど、こちらでも苦労しているね。私らもお父さん、お母さん苦労したからね。野菜がなくて、でも野菜を食べたいからってカルルー(雑草)まで食べたって言っていた。みそ汁に具がなくて、お父さんが『こりゃ、てっぽう汁だ』と笑っていたのを覚えているわ」と頷いた。移民同士だからこその共感が故郷巡りには溢れている。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月12日  ピウン植民地で育った長島俊行さんは「ロサンゼルス経由の船で来た日本移民が、スイカをそこで買って種を持ち込んだんですよ。最初、庭先に植えてうまくいった。1958、9年頃かな、それを本格生産してみたら出来がいい。ナタルの町に出したら『メロン・ジャポネース』として有名になった。その生産は1970年頃まで続きました」という偶然による綱渡りのような奇跡的成功譚もあった。  州政府の怠慢に苦しむ植民地を、突然、悪夢のような事故が襲った。  主要な家長が一台の車に乗って、レシフェに陳情に行くとき、事故に遭い、死傷したのだ。長島さんは「あれは僕が大学1年の時だから1970年頃。海外移住振興会社(JAMIC)か総領事館に行くはずだった。家長らが乗ったジープが横転事故を起こした。北山さんは死亡、父も重傷を負って目が見えなくなった」という。  最後の方まで残っていたのは松苗家、田中家、宮川家、北山家の4家族だったという。「ピウンの歴史を書いた記念誌の様なものはあるの?」と聞くと、「一冊もない。ジョアキン・ノブコ研究所に植民地に関する論文が一つあると聞いたことがある」との回答だった。この機会にしっかりと書き留めなければ、と肝に銘じた。 ☆   ☆    北山初江さん(95、熊本県水俣市)は第一陣組だ。56年にピウンに入植して以来、唯一、今も住み続けている。1970年、夫は例の自動車事故で亡くなった。  「夫は朝6時前に家を出て、ジープでレシフェに向かっている途中、事故に遭った。その知らせを聞いて信じられなかった。ほんとにガッカリしたわ。痩せて、痩せて。もう仕事をする気が起きないの。女一人で子供は7人。言葉は分からないし、どうしていいのか分からないのよ。でも子供たちのために、毎日泣きながら仕事をしたわよ」と辛い過去を振りかえる。  移住15年目に夫が亡くなり、以来、女手一人で育て、みな大学まで行かせた。「とにかく花を作って売った。グラジオラス、ゼブラ、サマンバイア。レシフェやナタルから買いに来てくれた」。今は車椅子にのり、子供たちに支えられている。  「子供たちは町に住んでいるけど、休日は家に集まってくれるので楽しみ。主人は早くに亡くなったから、子供を育てるのが大変だった。一生懸命に仕事をしたわ。でも今は逆に、子供が助けてくれる。愛着があるこの土地から離れることはできない。死ぬまでピウンにいたい」。北東伯の〃移民節〃に引き込まれるように聞き入った。  交流会の現地側出席者の自己紹介のとき、北山さんの孫は「祖父母は最初、お金を稼いで数年で変えるつもりで来たが、ここに根を生やした。僕らはそのことを誇りに思う」と言っていたのを思い出した。たしかにそうだろう―と頷いた。  最後の方まで同植民地に残っていた宮川家の一人、宮川富雄さん(77、長野県)は1956年に4人で渡伯した。  「海協連から『果樹ができる』と聞いてやってきたら、とんでもない。カジューだったんだよ。ウソにだまされたんだ。野菜を作ったらナタルに売れるとか言われたのに、全然売れない。移住前に説明された条件と全然違うって、皆怒っていたよ。それにあの交通事故は植民地にとって本当に打撃だった。30年ぐらい前に子供の教育ために植民地を出た」と語った。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月11日  北大河州日伯文化協会の青木イサシ・ミウトン会長は「僕は南米銀行のナタル支店に勤務し、その当時1996年9月12日にこの協会を創立した。98年に南銀が吸収合併された後も、この町に残った」と自己紹介した。「町で日本人の顔を見かけると一人一人声をかけて、だんだんグループを大きくていった」という情熱家だ。  今回の旅で話を聞きながら、聖州出身だがコチア産業組合や南銀の関係で、北東伯に赴き、そのまま居残った人はかなり多いと痛感する。この町ならではの海軍や空軍に勤務した日系人でそのまま残っている人もいるとか。「あとはピウンなどの移住地から出てきた人が20人ほど。10年間日本に住んでいたという非日系人も含めて、約250家族の会員がいる。日本文化の普及を目的に活動をしている」という。  08年の移民百周年では、ナタウ市役所と一緒に日本人ナタル入植52周年を兼ねた式典を市議会で開催し、在レシフェ日本国総領事、地元出身上院議員も出席したという。「今年はピウン入植から60年。ナタル日本人入植60周年として何かできないか考えている」と思案中だ。 ☆   ☆    交流会の会場には、ピウン(Pium)植民地で育った長島俊行さん(としゆき、67、栃木県)が来ていた。連邦が設立した移住地だったが、いまは国立植民農地改革院(Incra)管轄になっているという。  「アメリカ丸で1956年7月8日にレシフェに上陸、ピウンに入植したのは10日だった。僕はまだ8歳。一緒に10家族が入ったのを覚えている」という。この10家族が第一陣だった。陸、海、空軍などに野菜を供給する目的で、日本移民を中心に創立された移住地だった。  「日本人は全部で45家族、ブラジル人35家族が入った。日本人は朝早く起きて、暗くなるまで仕事をした。会議を招集しても、ブラジル人は2、3人しか来ない。彼らにはやる気が感じられなかった。入植者選びに問題があったと思う」と振りかえる。  一家族に13ヘクタール。森林伐採、開拓から始めた。最大の問題は土中の塩分の濃さだった。  「州政府にはピウン川水利工事の責任があった。ピウンは海岸に近いから塩水が川を逆流して、農地に浸透し、下側の土地ほど塩分が濃くなった。州政府は水が逆流しないように、隔壁と汲出しポンプを設置すると約束していたんですよ。でも、いくら陳情してもダメ。それで下側に入植した人ほど早く出て行った。上の方も4月に洪水になって、その水がひくのが8月。その間、何も植えられないという状態だった」。  2、3年後には日本人入植者の中でも諦めて帰国するもの、ペルナンブッコ州やアラゴアス州に転住するものが相次いだ。長島家ではキュウリ、白菜、ナスなどを生産した。  「ところが、野菜を生産するためにできた移住地ですから、みんな一生懸命に作った訳です。でもナタルでは誰もそんな野菜を知らない、食べない。仕方なく、ペルナンブッコまで野菜を売りに行く必要があった。とにかくこの町の人は野菜を食べなかった。いくら作っても消費されないんです。でも量産して売らないと野菜は商売にならない。ここで売れる野菜はアルファッセ(レタス)、コエントロ、玉ネギ、トマトだけ」。まったくの計算違いだった。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月7日  3月15日午前、一行は最後の目的地、北大河州の州都ナタルに向けて出発した。市内観光の時、地元ガイドが戦中の興味深い歴史を語った。  第2次世界大戦で伯国は連合軍に入り、ヴァルガス政権はこの町に米空軍基地を作ることを許した。世界地図を見たら一目瞭然だが、大西洋を渡るのに一番距離が短いのは、ナタルからリベリアで3千キロ程度しかない。これがニューヨークからロンドンなら5600キロだ。  歴史サイト(guiadoestudante.abril.com.br/aventuras-historia)を見ると、同基地には約1万人の米兵が常駐し、毎日800回もの離着陸が繰り返された。その後、大西洋を越えてセネガル、トーゴー、リベリア、さらに欧州にまで爆撃に向かった。  つまり、アフリカ方面ににらみを利かす要衝基地として、最も大西洋に突き出たこの地域は絶好の場所だった。当時の主力爆撃機B―17などは航続距離が5千キロと短く、米国南部マイアミを出発した後、ポルト・リッコ、トニダード、ベレン・ド・パラーを経由して、ようやくナタル郊外の「パルナミリン・フィールド」基地に着く有様だった。  その結果、たくさんの米軍兵士が駐留し、売春宿が大繁盛したという。彼らが休暇を楽しんだ海岸(地元ではプライア・アレイア・プレッタ)が、米国人の中では「プライア・マイアミ」と有名になった。米兵が地元住民を呼んで一緒にフェスタを度々開催した時、告知ビラには「For All」(全員のために)と必ず書かれていた。そのため、そこで演奏される米国音楽から影響を受けたダンス音楽が生まれ、ポ語式に訛って「フォホー」となって今に伝わっている。  そんな経緯から、ブラジルで最初にコカ・コーラの工場ができたのもナタルだという。北東伯は米軍にとって世界戦略の一大拠点だった。  そんなに米軍の影響が強い町ナタルから北西に400キロあまりの隣の州都フォルタレーザに、ただ一人の住んでいた日本人が藤田十作だった訳だ。彼の家族が地元住民によって略奪を受けたのは、米軍基地という無言の圧力があったことも背景にあったに違いない。 ☆   ☆   3月15日の夜7時半、州都ナタルで日系人が所有する多目的施設「エスパッソ・ギンザ」で親睦会が開かれた。北大河州日伯文化協会(ACNB)の青木イサシ・ミウトン会長(72、二世)に話を聞くと、サッカーW杯(14年)の高円宮妃ご来伯時もこの会場で歓迎会をした。「とてもシンパチカ(親しみやすい)で開放的な雰囲気の方だった。生まれて初めて皇室の方と握手をした。一生忘れない」と思い出す。  青木会長は聖州ノロエステ沿線、アラサツーバ近くのブラウナ市出身だ。ノロエステ線で「青木家」と聞き、隠れキリシタンの里として有名な福岡県大刀洗今村出身者の子孫だとピンときた。故平田ジョン進下議の出た「平田家」に加え、「青木家」は隠れキリシタンの家系の双璧だ。聖市にもたくさんいる青木一族が、北東伯にも広がっている。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月6日  3月14日、大谷農場を後にした一行は、国内で作られる海水を原料とする塩の97%が生産されている北大河州の海岸部にある塩田を訪れた。  州塩生産組合会長でもある市観光局長のレナト・フェルナンデスさん(53)自ら、一行のガイドを務め、「1千リットルから275グラムの塩ができる。年800万トンを生産し、米国やカナダにも輸出している。彼らは冬に道路が凍結した時、これをまいて解凍させている」と説明した。  バスのすぐ横には巨大な原塩のボタ山。じりじりと照り付ける太陽光は半端でなく強い。空調が効いたバスた瞬間、まるでフライパンの上に置かれたような熱気を感じた。それゆえに、メロンも早く甘くなるのだろう。  「昔は塩を運ぶのに金属製のカサンバ(荷台)を使っていたので、半年でボロボロになった。今はグラスファイバーなので長持ちする」などとまくし立てるようにしゃべった。  日本だと普通は、ある程度まで加熱沸騰させて水分を飛ばして、海水塩を作るのが普通だ。ここでは灼熱の太陽がすべての作業をする。この土地でメロンを作ることの特種さ、すごさを、改めて痛感させられる塩田の光景だった。    ☆   ☆     昼食時に、たまたま座った一行の北原博子さん(88、京都)は「試食したメロンが凄くおいしかった。実家も昔はメロンを作っていたけど、300へクタールはすごいわね」とたまげた様子だった。  北原さんの夫徳美さんからは以前、戦中戦後や洗濯屋時代の話を取材させてもらった。戦争直後、荒廃した日本には帰る場所がないとあきらめた戦前移民は、「祖国に帰るのが無理なら、せめて子供に教育を授けるべき」と大学のある聖市に次々に出てきて、資本が無くても家族で始められる洗濯屋になったという話を聞いていた。  今回、博子さんからは「戦前にプロミッソンで洗濯屋の見習いをして、兄と二人で開業した。あの町だけで日本人が4軒、リンスにはもっとたくさんあった。私たちに3カ月かけて教えてくれた人は、店を私たちに譲って、リンスで新しく構えた」との話を聞いた。てっきり日本人が洗濯屋を本格的に始めたのは戦中戦後だと思っていたので、〃移民の故郷〃ノロエステ線では「戦前から日本移民が生業にしていた」との話は興味深いものだった。  博子さんが17歳の時なら終戦の年、1945年のはず。「当時、日本人は農業ばっかりの頃。背広や帽子を使うようなお得意さんは、役所勤めや銀行員のブラジル人ばっかりだった」。  博子さんは6歳で家族と渡伯し、最初はモジアナ線に入った。「ブラジル人から原始林開拓を請け負って、森を切り開き、その代わりに3年間は米や棉を作って自分のものにして良いという契約。ブラジル人はそのあと牧草地にした。アラサツーバとかグアラサイーの近くとか。3年経ったら別の原始林開拓に移る。そんな生活を4、5回やりましたよ。小さい時からずっと原始林で生活していたから、学校なんて行ったことない。大きな植民地なら日本語学校もあるけど、私の場合は開拓地ですから、ただの山猿ですよ。日本語の夜学に1年間だけ通いましたけど」と謙遜した。  聞けば聞くほど、すごい幼年期だ。「棉の消毒が大変なんです。背中にタンクを担いで重いし、消毒液が身体にも良くない。それで、町に出て洗濯屋になろうと兄と話し合ったんです」という。  5年ほどプロミッソンで洗濯屋をし、1952年、24歳で徳美さんと結婚し、最初はスザノ市でアルファッセ作りをしたが、思うようにいかず、以前やっていた洗濯屋を聖市でも始めたということだった。  洗濯屋はノロエステで戦前から日本人の職業となっており、それが日本人の大量出聖と共に一気に広まった。このような話の積み重ねで、移民史が作られてきたと実感する。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月5日  大谷さんは「日本人は良い作物を作るが、販売が弱い。だから輸出は、信用できるブラジル人のパートナーに任せている」と力説した。それが「レアル・フルッタ」という日系人を中心とした生産者集団だ。他のメロン生産者集団とも協力して輸出量や価格相場を調整するなど、組合的な役割を果たしている。  大谷さんの視線は、はるか先を見ている。「メロンは生活必需品ではない。もっと人類にとって必要な作物を生産することも考えている」と言い、「今のブラジルに住んでいることは幸運だと思う。日本人の良い資質を次の世代に渡さなければ。子供の世代を信じ、彼らにその夢を託し、次の農業をゴヤイス州で試したい」とほのめかした。これだけの農業をやっても、気持ちはまだ枯れていない。  「僕は小学5年中退だったのが、すごくトラウマだった。その頃の同級生は皆日本で大学に入ったでしょ。そして僕らがブラジルに来た後、日本はどんどん良くなった。『自分の意思で来たんじゃない』と他人のせいにしがちだが、僕は逆に『日本で小学5年まで行けたことは有難い』と思うようにした。いつまでも『嫌々連れて来られた』と思っていたらダメ。『自分の人生なんだから自分で変えられる』と考え直した」。  子供移民であることをテコにした、大谷さんの前向き志向は筋金入りだ。  「サンパウロは知らないが、ここでは日本語が衰退するのは早い。ここまま血の流れが同化して、ブラジル人になるのはやるせない。どうして日本人がブラジルに来たのか、日本人の良い所を残したい。そんな気持ちで自分史を書いて、ポ語訳して家族に残そうと思っています」  大谷さんは最後に、「甘いメロンがあることを知ってほしい」と語り、一行150人全員にメロンを一つずつお土産に持たせた。  一行の多田邦治さん(70、徳島県)に感想を聞くと、「農業者というより企業家の視点が感じられ、話を聞いていて面白かった。蝶々があれだけたくさん飛んでいることから、農薬を極力使っていないことがよく分かった」という。1973年の最後の移民船「にっぽん丸」で渡伯した工業移民だ。  妻康子さん(71、和歌山県)も「同じ船で300人ぐらい来て、10年後には100人しか残らなかった。今では20人ぐらいかも」と振りかえる。多田さんは「日本人的な良さを残すことにこだわり、それがうまくいった人が残ったのかな」と見ている。多田さんはコロニア最古の短歌誌「椰子樹」の編集を担当、日本語に対する強いこだわりを持ち、日本文化への造詣が深い。  農業と短歌、大谷さんと多田さんには通底する考え方があるように感じた。実に興味深い視点だ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年5月4日  北大河州では3~5月が雨季だが「まったく当てにならない。ここ4年ほどずっと干ばつが続いている」という。「雨でメロンを作ると天候に頼らなくてはならない。だから、雨の降らない所で、乾期に必要な分だけの液肥を足しながら灌漑で生産すると、完全に生産をコントロールできる」という生産方式を確立した。  「サンパウロにいた時は雨が沢山降るから、水の使い方を考えなかった。ここでは雨が降らないから、水をどうするかを、根本から考え直す必要がある。苦しいから考える、覚えるんです」と聖州での農業と比較する。  現在は井戸の水量が下がってきているため、「将来を考えて、700メートルも掘って新しい井戸を準備している。大変なお金がかかる。費用がバカにならない。でも水を確保しないと農業にならない。長い時間をかけて償却しないと。だからここではバナナは生産できない。メロンの6倍も水を必要とするんだ」と大谷さんは同地農業の難しさを説明した。  その井戸の話を聞き、一行が泊まったホテルにいたペトロブラス石油公社の現地職員の話を思い出した。  同ホテル敷地の一番奥には、ペトロブラスが地上採掘では同州最初に石油を掘り当てた採掘井戸が現在も残っている。今にも動き出しそうな採掘ポンプが据え付けられており、看板には「いつ動き出すから分からないので、近寄らないように注意」と書かれていた。  たまたま同石油公社職員が宿泊していたので「本当に動くのか?」と尋ねると、「ここのは温泉を見つけるために井戸を掘ったら、石油が出てきた。でも、二度ともう動かないよ。だけど北大河州は今でも地上採掘の石油では全伯一なんだ」と笑って答えた。聖州にはあちこちに「石油を探して掘って、温泉が出た」場所があるが、ここは逆だ。  ナタル出身のその職員の話では、「この辺の地下700~800メートルには超巨大な地下水脈がある。アンデス山脈から流れ出た地下水が、大西洋の中心部で隆起している海底山脈の続きの地形にせき止められて、貯まっているんだ。地上は干ばつだが、実は素晴らしい地下水に恵まれている土地だ」と話した。  もともとの土質は悪くないし、地下水にも恵まれている。この土地で農業をするのは一筋縄ではないが、〃神の恵み〃をあまさずに使えば、実は適地なのかもしれない。  大谷さんは「僕は作物の出来が悪かったら、まず肥料を減らす。過剰なのが原因であることが多い。できるだけ肥料をやらないのがコツ」と繰り返す。乾燥地なので病害も少ない。「メロンは本来輪作ができない作物なんです。それを輪作しなくてはならない。だから間作にトウモロコシを植えて、葉っぱは地面に戻す。ネマトーゼが出たことがあった、ムクナを植えて緑肥にしたら見事に出なくなった。『土からもらった分をいかに返すか』が大事。いかに土地を大事にするかに一番気を使う」。(つづく、深沢正雪記者)