06/03/2026

Dia: 4 de maio de 2016

ニッケイ新聞 2016年4月30日 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)の「代表者会議」が28日、文協ビル同会議室内で行われ、県連創立50周年記念式典、第19回日本祭りの議題を中心に、熊本地震災害義援金などの報告が行なわれた。50周年記念式典は当初9月18日に予定されていたが、8月7日に前倒しとなった。リオ五輪で来伯する日本政府関係者を招聘するためで、県連と縁の深い河村武夫衆議院議員が出席するという。 河村議員は山口県出身で自民党所属。麻生内閣では内閣官房長官等を歴任した政界の重鎮だ。県連創設の発起人で、日本海外移住家族連合会の会長を務めた故田中龍夫議員の地盤を継承した。川村議員も日系人との緊密な関係強化のため、「中南米の日系人を支援する議員連盟」を昨年設立し、会長を務めている。 本橋幹久元県連会長は、河村議員招聘を実現させた立役者だ。3月に本橋氏が訪日した際、同議員は9月出席に難色を示したが、県連を気にかけており、何とか出席したいとする意向は確認した。その後、在聖総領事とも密に連絡を取り合い、今回の再度の訪日で出席への確約を得た。 河村議員はこれまで5回ほど来伯経験があり、山口県人会訪問にも関心を示している。さらにリオ五輪では選手を送出す多数の県知事も来伯する可能性がある。来伯が確実な舛添要一東京都知事ほか、海外日系人協会代表者へも出席に関する交渉を行っている。 50周年式典会場には聖州議会の利用を交渉中で、州知事ら伯国側要人も招待する予定だ。同記念事業として、イビラプエラ公園の慰霊碑の整備や管理を強化するための基金設立を検討しているという。 また第19回日本祭り(7月8―10日、サンパウロ・エキスポ)については、資金面での厳しい課題があるが「今回の日本祭りが一つの分岐点となる。今こそ我々の結束が試される時だ」と山田県連会長は各県人会に対して、当日の運営ボランティアなどの参加を呼びかけた。 スポンサーからの支援については90%目処がついていると報告された。ただし今後、契約を締結するにあたって、来場者数やその属性別データなどが必要になるとの課題も提起された。 熊本地震災害については、熊本県人会の田呂丸哲次会長から「今もなお6万人が避難生活をしている。ふところは厳しいだろうが、小額からでも支援をお願いします」との呼びかけがあった。すでに義援金用口座が開設されている。   □関連コラム□大耳小耳 県連代表者会議では、リオ五輪開催時の日本人観光客の聖州での対応策についての報告もあった。14年のサッカーW杯での経験を踏まえ、各県庁からの宿泊施設問い合わせに対する情報提供や、24時間体制での日本語緊急連絡先を設置する。援協は期間中、24時間体制で事故・ケガなどの対応にあたるという。せっかくブラジルまで来るのだから、ぜひサンパウロの日系社会の様子も見ていってほしいところ。モジのお茶屋敷、移民史料館、東洋街、平野植民地、上塚公園、百周年を祝ったばかりのリンス市内観光などを組み合わせた団体旅行プランを日系旅行社が作り、日本からの観光客に売り込んでみたら?!
ニッケイ新聞 2016年4月30日 聖市ビラ・マリアーナ区の川魚料理専門店「ランショ・ダ・トライーラ」(Rua Machado de Assis, 556)は5月中、熊本地震の被災地支援のため、団体向け慈善サービスを実施する。オーナーの坂口功治さん(67、福岡)が27日、説明のため来社した。 先祖が熊本県下益城郡出身のため、「今回の被災はとても他人事だと思えない。何かできないかと考え、ピラルクーを使った支援を思いついた」と熱を込めて話す。 誕生日や結婚記念日など、16~20人の団体利用時に、熊本県人会を通じ売り上げの3割を寄付するという。ピラルクーの丸焼きにスープ、ファロッファなどを含むコースを1人100レアルで提供する。 約12キロのピラルクーを丸ごとバナナの葉で包み、炭火で4時間以上かけて焼き上げる名物料理。魚とは思えない濃厚な肉の味を堪能できる一品で、多人数での食事に適している。 坂口さんは「伯国でも食べたことが無い人が多い」と言い、「おいしいものを食べて被災地支援にもなります。皆さんぜひお越しください」と協力を呼びかけた。 実施期間は5月の日、月曜を除く夕食営業時。火~木は午後6~11時、金、土は午後7~12時。ただし祭日の26日は除く。問い合わせは同店(11・5571・3051)まで。   □関連コラム□大耳小耳 5月に熊本地震の支援サービスを行なう料理店「Rancho da Traíra」。ピラルクーは養殖に適しており、1年で10キロに成長し、また肺呼吸もできるため、少ない水でも飼育できるという。坂口さんは「飢餓問題を解決できる可能性を持った魚」と太鼓判を押す。コラム子も初めて食べたときに驚いたが、その魚肉は味わい豊かで、塩のみで調理していても「調味料は何を使っているのか」とよく聞かれるほどだとか。食べたことの無い人は、この機会に一度賞味してみては。
ニッケイ新聞 2016年5月3日 やはり地元の松本カルロス幸夫さん(52、二世)にも話を聞くと、かつては450ヘクタールほどメロン栽培をしていたが、今は300だという。「9割が輸出。理想は輸出7割、国内3割だな」という。聞けばピラシカーバUSP農学部卒のエリートだ。 父・松本トシロウさん(福島県)はコチア青年で1955年渡伯。最初は奥ソロのプレジデンテ・ベンセスラウに入植し、カルロスさんはそこで生まれた。父はプレジデンテ・プルデンテ在住。1994年にモソローに転住した。 「1994年」と聞いて「もしや?」と思い確認すると、やはりコチア組合で農業技師として輸出の仕事をしていたという。「父は1967年頃から85年頃までメロン作りをしていた。農業技師としてコチア組合から派遣されて、ジュアゼイロにもきた経験があった。だから、コチアが潰れた時、大谷さんから誘われ、父がメロン栽培していたのを思い出して勇気を出して決断した」と振りかえる。 モソロー在住1年という赤木寿弘さん(57、熊本県)にも話を聞いた。弊紙前身パウリスタ新聞記者だった赤木数成さんの息子だ。建設技師で、日本の小野田セメントで5年半仕事をしてセメント設計を覚え、機械の設計と据え付け、運転指導などのチームトレーニングを行う。モソロー工場の立ち上げのためにやってきたのだという。 興味深いことに、みな聖州から70年代以降に移転してきた組だ。それぞれの想いを胸に希望をもって新天地で挑戦し、見事に花を咲かせた。 ☆   ☆ 翌3月14日(月)の午前中、一行は大谷農場を実際に視察した。真っ青な空が広がる中、見渡す限りのメロン畑。その花の蜜を求めて、無数の蝶々が飛び交っている。 大谷さんは作業効率化を図るために「メロン収穫機」を自作した。15メートルほどのボーリングのレーンのような運搬機が畑を横切り、かがんでメロンを収穫した労働者がそのレーンに転がして放り込むと、先にあるトラックに次々に運ばれて、別の労働者が一つ一つ積み替えて行く。みるみる5メートル、10メートルと収穫機は進んでいく様に、一行はしきりに感心していた。 常時150人を雇用し、多い時は200人もいるという。気候的には年間7カ月間生産できる。一度に全部植えるのではなく、毎週少しずつ植えて70日後に収穫というやり方を延々と7カ月間、約30週間繰り返すのだという。最初に種まきした70日後からは、毎週の種まきと同時に収穫も並行して行う。サンパウロでは収穫できるまで100日間かかるというので、ここの気候はメロンに適している。80%は欧州輸出向きで、残りは聖州へ出荷する。欧州向きと国内では品種が違うという。 欧州でメロンが一年を通して消費できる秘密は、世界中から季節をずらして出荷されるからだという。ブラジルのメロン生産は8月から2月まで、2月から5月までがコスタリカやグアテマラなどの中米、5月から8月がイスラエルやスペイン、ポルトガル産が出回る。「最近はアフリカでも生産が始まっている」という。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月30日 懇親会会場であるホテルには入来田純一さん(67、福岡県)が来ていた。彼の父が同地最初の日本人、邦男さんだ。1961年に家族で渡伯、当時純一さんはまだ中学一年、13歳だった。「こっちにきて殆ど学校に行っていない。農業だって本格的に勉強したことない。父も日本から農業の本を取り寄せては勉強していた」。 鞍手郡宮田町に住んでいたという。「父は貝島炭鉱で働いていた炭鉱離職者でした。仕事を求めてブラジルに。母は最初の何年か、『日本に帰りたい』っていう気持ちが強かったと思う。でも、今になったらこっちが良かった」。そこまでの心境に到達するにはいろいろあったのだろう。 貝島炭鉱は1883(明治16)年に開発され、1976年に閉山するまで一世紀近くに渡って筑豊石炭産業を支えた。入来田さんが離職した1960年頃には、まさに日本の産業構造が石炭から石油に構造転換する時期だった。1957年から深刻な炭坑不況となり、1962、3年に閉山炭坑数はピークを迎えていた。 入来田さんは渡伯当初、マイリポランでポンカン栽培を目指し、そこでブドウや桃作りも始めた。次にピラール・ド・スルのコロニア・バンデイランテに移り、そこで16年間いたが「トマトの雑作もやった。にっちもさっちも行かなかった」。そんな時に、モソロー行きの話が突然、降ってわいたように出てきた。 「来るのに不安はなかったけど、いざ来てみたらビックリ。セッカ期(乾期)に来たから緑がないんだよ。いわゆる〃カーチンガ〃で石ころばかりの灌木地帯。当時は誰も農業適地だと思っていなかった。僕らも、こんなところで本当に農業ができるのかと、あの頃は思った。でも石を取り除いてみると、実は土自体は素晴らしいことが分かった」。問題は水だった。「最初800メートルの井戸を掘って、灌漑で作り始めた」。かなり深い井戸だ。 「父は土地を段々買い足して、5年後に大谷さんを呼んだ」。今では土地は六つの農場に分かれて3千へクタールもある。「作っているのはメロンだけ。一時は450ヘクタール植えたけど、今は300ヘクタールだけ」という。 会場には地元の鈴木アルマンドさん(78、二世)も来ていた。「サンパウロはどこに行っても日系協会があるけど、ここにはない」とキッパリ。聞けばパウリスタ線トッパン生まれ、聖州ではトマト作りなどをしていたが、30年前にモソローへ転住したという。 「サンパウロでは霜ですべてを失った。ここでは霜が降りない。だからここは良い」。今はスイカを栽培し、ドイツやオランダに輸出している。(つづく、深沢正雪記者)