ふるさと巡り2日目の4月1日は、午前8時にバウルーのホテルをチェックアウト。一行はバウルーから約20キロ離れたピラチニンガ温泉へと向かった。同地への訪問を楽しみにしている参加者も多く、「朝から温泉なんて幸せ」と笑い合っていた。
温泉は自然に囲まれた大きな施設の中央部分にあり、青空の下で寝そべって湯につかったり、同施設のインストラクターに合わせてプール中でエアロビクスをしたりするなど、各自リラックスしていた。
温泉を楽しんだ人々は昼前には湯から上がり、わらぶき屋根の食堂で昼食を楽しんだが、入浴した温泉以外にもう一つプールがあることが分かると、「聞いていなかった。そっちにも行きたかった」と残念がっていた。
しかし、もう一つのプールが冷水だったことを知ると、「なんでこの時期に冷水のプールで泳げるんだ。それなら行かなくても良かった」と寒中水泳もいとわないコロニアの壮年猛者に驚いていた。
満腹になった一同は、バスに備え付けられたテレビから流れる日本の歌謡曲を聞きながら心地良い眠りに就いたが、一行が知らない間にバスは約200キロの道を西へひた走り、午後5時過ぎに、文化植民地で知られるパラグアス・パウリスタ市へと到着した。
同市の人口は約4万2000人。海抜は506メートルで、ソロカバナ線のパラグアス・パウリスタ駅から北東約20キロ地点に文化植民地ができたのは1920年代半ば。
同植民地がほかの植民地と大きく違うのは、当時アメリカで排日運動による人種差別に苦しみ、土地の所有を禁じられた約100人の日系アメリカ人が開拓した植民地である点だ。
アメリカの日系人を率いたのは、カリフォルニア州サンフランシスコ市にあるリフォームド教会の森惇吉牧師と、同市輸入商だった山田登幸(とうこう)氏で、アメリカで苦しむ日系人をブラジルへ再移住させようとした。
両氏は賛同者から資金を募り、25年に約5000ヘクタールの原始林を買い、区画割りして希望者に分譲した。翌年、開拓が始まったが、27年10月にその後3年にわたって植民地を苦しめることとなる地権騒ぎが起きる。山田氏は地権を確保するために土地の代金を二重払いをするなどして体力を消耗。さらに問題を解決するため、土地を担保に借金し資金を工面したため内紛が起きた。
40年頃には綿景気で入植者は200家族に膨れ上がったこともあったが、肥沃だった土地はやせ、65年には入植者は10家族程度に減り、やがて移住地は消えて行った。
1日に開かれた交流会では現在同地に生存する唯一の再移住者、西沢ミドリさん(89)に「文化植民地」について、話を聞くことができた。
(つづく、植木修平記者)
※参考文献「消えた移住地を求めて」小笠原公衛著、サンパウロ人文科学研究所
2012年4月26日付
