サント・ドミンゴ市内の中華街に到着。昼食は1号車、2号車の一行76人が一緒に取るため、場所の確保が大変だったようだ。
雑然とした雰囲気の中で同席し、「本当はドミニカに行くはずだった」と話してくれたのは、サンパウロ市内に住み本紙ビル内で大正琴教室に通っているという吉瀬(きせ)弘子さん(74、東京)だ。夫の吉瀬教通(のりみち)さん(75、東京)とともに夫婦で参加した。
戦前、満州開拓団として家族で海を渡り、3歳から6歳までを満州で過ごしたという弘子さん。父親の故大久保隆朝さんは「沢村高造」という歌舞伎俳優だったという。しかし、妻からは「役者では食べてはいけない」と諭され、満州開拓団に行くことに。歌舞伎のことが忘れられない隆朝さんは満州にも三味線を持って行ったほどだったという。
しかし、終戦により一家は1945年に日本に引き揚げ、千葉県の開拓団に入ることに。その開拓団で知り合った中に東京都三宅島の人がおり、一時は三宅島にも住んでいた。
戦後の不況の中でドミニカ移民の話があり、弘子さんたちも当初はドミニカに行くことを考えた。しかし、ドミニカから戻って来た移民たちから「ドミニカにはまともな土地もなく、農家として成り立たない」と聞かされ、断念。しかし、大陸の思いが強い弘子さんの家族は、58年に「あるぜんちな丸」でブラジルに渡った。その時の同船者が現在の夫である教通さんだったという。
現在、がんの症状があり、医師の許可を得て参加した弘子さんは「どうしてもドミニカには行ってみたかった」と強調していた。
昼食後、市内の中央市場で各自土産物などを買った後、一行は現地法人・ドミニカ日系人協会(嶽釜徹会長)傘下の日本語学校(上原邑子校長)を訪問した。
市内でも高級住宅地であるピアンティーヌ区にある日本語学校に到着したのは午後3時半。一行が訪問することを聞いたのは数時間前だったらしく、出迎えてくれたのは、同日本語学校教師や高齢者福祉士など今年7月からJICA日系社会青年ボランティアとして派遣されている女性たちだった。
その中の先輩格であり、同地に赴任して1年3カ月が過ぎたという小出知子さん(38、香川)が同校の説明をしてくれた。それによると同校には6~18歳の 日系子弟31人が在籍し、土曜のみ授業が行われているという。それ以外の曜日は日本語教師たちが地方を巡回して教授しているとし、年間行事はお話大会、盆踊りや6月には学期末となる学芸発表会も行われているそうだ。
教師は上原校長を除く現地の日系人教師が2人と、日本からの青年ボランティア6人を含めた計8人。また、成人クラスもあるが、日系人との配偶者であるドミニカ人は対象となるが、非日系人は基本的に受け入れていない。
日本語学校の2階建て立派な建物は日本政府の資金援助などで建設され、隣接する建物内では高齢者福祉施設と日系子弟の学生寮も完備されている。ガイド役の 内藤さんによると、大学に近い治安の良い場所として同校建設地の選定には苦労したと言い、同地から約2キロの場所にはサント・ドミンゴ自治大学(公立)が ある恵まれた環境だ。
また、ドミニカにはJICAの日系社会ボランティア、青年海外協力隊を含めて全体で約70人が派遣されており、ドミニカ日本人移民の日本政府を相手取った裁判での損害賠償請求が少なからず影響しているとの話も聞かされた。
ブラジルでは日本政府からの援助が年々少なくなる中、「有るところには資金援助は有るものだ」とブラジルからの参加者の一部からはため息交じりの声も聞こえた。(つづく、松本浩治記者)
2013年11月14日付
