4日目の10月20日午前7時半、北西に約140キロ1283メートルの標高地にあるコンスタンサ移住地に向かうべくホテルを出発。日曜とあって道は空いている。
途中、前日と同じ場所でトイレ休憩すると、地元のドミニカ人が各地に遊びに行くためかにぎわっていた。
サント・ドミンゴ市から約2時間走ったラ・ベガ市からは山道へと入り、前日よりもさらに急勾配の坂道をバスはエンジン音をうならせて上っていく。午前10時ごろ、峠付近に来た時に記者を乗せた1号車がオーバーヒートし、車体後部から白い煙を吹いて止まった。
コンスタンサでは移住地の人々が待っている。取材のため仕方なく、記者たち数人が2号車に便乗させてもらい、先に現地へと向かった。
山道を下っていくと、視界が開けた。山間に囲まれた平野部に野菜畑と思われる緑が広がる。日本の信州のような懐かしい風景だ。午前11時過ぎにコンスタンサ日系クラブ会館に到着。快晴の青い空の下に映える会館の白さが目にまぶしい。
会館前では、脇輝亀(わき・てるき)会長(58、鹿児島)を先頭に単位家族7家族約30人の会員が出迎えてくれた。脇会長によると、同移住地ではトルコ桔梗(ききょう)、ベニバナなどの花卉(かき)栽培や野菜作りが盛んで、日系子弟は農業に従事している人が多いという。同地への日本人の入植は1956年10月の第1陣に始まり、59年6月までの第4陣まで計35家族220人が入植した。
「順子です。村田順子です」―。サンパウロ市リベルダーデ区の日本食レストラン「千代(せんだい)」のママである大村順子さん(63、鹿児島、旧 姓村田)が有山ムツ子さん(86、鹿児島)に呼び掛けた。有山さんは「うれしい。本当、涙が出る」と村田さんとの51年ぶりの再会を喜んだ。
有山さんの実弟である神前亨(とおる)さん(76、鹿児島)は、男性ではもはや長老格になるという。56年12月30日、第2陣で同地へ。「19歳で入植 したころの(コンスタンサの)人口は3000人ぐらいでしたが、今は8万人が住んでいますよ」と、その発展ぶりを話してくれた。
午前11時40分ごろ、オーバーヒートした1号車も無事到着。会館内に入ると天井が高く、天井からぶら下がった扇風機の風が心地良い。正面の舞台上には富士山と桜の絵が描いてあるのが、いかにも日本人の会館という雰囲気を醸し出している。
舞台下では、「日本ドミニカ友の会」の西尾孝志会長の親戚に当たるという西尾蓉子さん(72、福島)が先亡者たちの遺影を前にして慰霊法要を行い、読経の合間に脇会長、本橋幹久団長らが代表して焼香した。
小学校時代に日本で暮らした経験のあるコンスタンサ日系クラブの佐藤康樹(こうき)副会長(49、2世)が、流暢(りゅうちょう)な日本語で移住地の説明 を行う。それによると、同地は前述のように標高が高く気候が良いことから農業に適しており、入植当初は水不足などに悩まされたもののニンジン、玉ねぎ、 ジャガイモ、にんにくなどの野菜類を栽培し、現在は北米や欧州にピーマン、キュウリ、トマトなども輸出しているという。
佐藤副会 長自身は現在、サント・ドミンゴ市内などでガソリンスタンドを4軒共同経営しており、両親がコンスタンサで農業を行っているそうだ。コンスタンサで生まれ た佐藤副会長は8歳から13歳まで日本で過ごし、高校はドミニカ、大学時代は米国に滞在した後、コンスタンサでリンゴ栽培を手掛けたが「気候が温暖過ぎ た」ために途中で断念。無農薬栽培も行ったが、「ドミニカはメンタリティー(知性)が遅れている」とし、13年前に農業に見切りを付けた。その間、日本で 研修した時に、サンパウロ市近郊のモジ・ダス・クルーゼス市出身の日系女性と結婚。現在、ドミニカで一緒に暮らしている。(つづく、松本浩治記者)
2013年11月26日付
