ニッケイ新聞 2014年4月5日
1930年代、リオや聖市近郊では3月播きトマトは不可能だったが、気候の異なるピンダ周辺では日本移民が実績を作りつつあり、市場価値の高いこのトマトに注目が集まっていた。ピンダが米、トマト、ジャガイモ、野菜の適地だと知られるようになり、1941年2月にコチア産組倉庫が開設された。
この地域には特に戦時末期から戦後にかけて入植者が増加したが、カンポスにかけての登山鉄道沿線には特に入植者が多く、《カンポス沿線ではその後多くの勝組と言われた方々が流刑島送りとなりました》と鈴木文書にある。
タウバテ日本人会発足の中軸を担った有馬純正さんは、《当時(1946年)の中央線のコロニアはカンポス・ド・ジョルドンが勝組の拠点といわれ、ジャカレイー以東の各地在住のコロニアには少数の勝組と大半は中立派という。タウバテには若干人の勝組と、他はどちらにも付かぬコーモリ組の様であった》(『富流原』120頁)と状況を説明する。
そんな1947年、鈴木さんは同沿線のサントアントニオからピンダに移った。
登山鉄道沿線から続々と山を降りてピンダやタウバテの周辺に移る動きの中で、日系団体が再編されていった。「ピンダに臣道聯盟支部はなかったが、勝ち負けではっきり分かれていた。それが1952年頃に団結することを決め、日本人会結成となったのです」。そんなコロニア再生の現場に居合わせた。
鈴木さんは「ピンダでは過激な事件は起きなかった」という。その影にあったのは《戦後の混沌たる世相に鑑み、市内在住青年有志が奮起し、一九四八年三月に結束したのがピンダ青年会》(『富流原』99頁)という存在だった。日語教育と陸上を主たる活動とし、その初代会長を鈴木さんが引き受けた。
「青年有志が話し合い、25人で青年会が結成された。それと日本語教育を希望する家長が集まった父兄会が合同で運動会を始めた」と証言する。52年4月には会員50人の汎ピンダ青年会となり、その初代会長も鈴木さんが担った。
青年の動きに背中を押されるように、1952年3月に汎ピンダ日本人会(98人)が創立した。顧問が〃神代の世代〃の安田良一、会長が吉永宗一郎。いわば青年会活動や運動会が勝ち負けの荒んだ空気を和らげ、日本人会発足に向けた地盤を整えたような流れだ。
日本人会発足以前から続く伝統の運動会は現在も続き、《来賓、帰省中の子弟も交じり、いつも4、500人ほど集まり家族全員そろって賑やかに一日を過ごす》(鈴木文書)という。これに加えて、年中行事は四つあり、他は母の日、父の日、会館落成の日を祝う祝賀会には200人が集まる。
1963年に会館建設を決め、資金調達に苦労しながら翌64年11月に竣工した。これを機に日本人会を改め現在の名称になった。落成時の会長だった渡辺保国さんは、カンポスの人参出荷組合理事として敏腕を振るった後、山を降りてピンダでトマト栽培に従事した。生長の家地方講師として《正義に生きる燃えるような情熱》(『富流原』96頁)を持った人物だったという。
その他、日本棋院より三段位を送られた(同)という井川衍さんなどの特徴ある人物がいた。1977~78年にピンダ文協会長を務めた鈴木さん自身も、全伯のど自慢大会で歌謡2位、民謡3位、娘秀子さんも童謡1位、唱歌1位という著名なコロニア歌手だった。(つづく、深沢正雪記者)
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