日系初の大臣、安田氏を生んだ地
3月15日午前9時、タウバテ市に別れを告げた一行は、バスで約1時間離れた隣町のピンダモニャンガバ市のピンダ日伯文化体育協会の会館を訪問した。
この地は「笠戸丸」以前の移住者である安田良一が米作を水田作で始めた地として有名であり、その息子で日系初の大臣となった安田ファビオ良治が生まれ育った地としても知られている。
会館の前で鮮やかな黄色い法被を着て一行を出迎えてくれたのは、同文協の会館で日本語を学んでいる生徒たちだった。 ピンダでの日本語教育事業は長い歴史を持ち、同文協の前身であるピンダ日本人会が1952年に創設される以前より、街にあった父兄会において行われていたという。第二次世界大戦終結後の勝ち負け騒動などの困難も乗り越えて続けられてきたが、8年ほど前にJICA(国際協力機構)による日系社会青年ボランティアによる日本語教師派遣の話を知り、条件を満たす生徒数の確保や専用教室を寄付金を募るなどして建設し受け入れを始めた。
現在日本語学校には約50人の生徒と6人の教師がいる。派遣教師(1期2年)の3期生として8カ月目を迎える神田和可子さん(28)は、かつてブラジル人に間違われたことでブラジルに興味を持ち始め、このプログラムに参加するに至ったそうだ。
学校の様子について聞くと、3~11歳の生徒がいる子どもクラス(現在18人)ではこれまで鬼ごっこや折り紙などをすることが多かったが、文章の読み書きの能力も付けてほしいとの思いから、新たな取り組みとして習得レベル別(早い人はウサギ組、遅い人はカメ組)に分けた座学での勉強を今年2月に始めたばかりだという。
定期的に行われる学習成果の発表会ではスピーチや紙芝居の一行読み、合唱などを行っている。神田さんは「この8カ月、子どもたちに囲まれて楽しくやって来た。何を残せるか分からないけど目の前のことを一生懸命頑張りたい。帰国後には日本にある在日ブラジル人コミュニティーで、これらの経験を生かせれば」と教えてくれた。
充実した日本語教育が行われていることがうかがえたが、このように力を入れる背景の一つとして考えられるのは、どうやら子弟が就学や就職等の理由で町から減り、青年会もそれに伴ってなくなってしまった背景があるようだ。
婦人会の中尾さんは「学校で日本語を学ぶ若い生徒たちが今後の日系社会を引っ張っていける存在となれるように今のうちから組織立てていけたら」と 期待を寄せており、初代青年会長の鈴木武氏は「先生方は熱心に丁寧に教えてくださり、生徒たちは日本語の中にある日本人の心、情緒などの雰囲気を自然に身 に付けつつある」として父兄一同感謝している。
ピンダ日本人会は64年の会館の落成を機会にピンダ日伯文化体育協会と改め、ピン ダ日系社会の親睦向上のためさまざまな活動を行っている。現在の同文協の会員は170人、婦人会は70人。今は無き青年会は49年に青年有志が話し合い街 を中心に結成され、同年に家長有志による日本語教育を希望する父兄たちの集いである父兄会と合同で運動会を実施した。以来、運動会は現在まで続き、毎年約 500人が集まるピンダ日系社会の伝統行事となっているそうだ。
年中行事の一つとしてよく行われるというカラオケ大会。我々ふる さと巡り一行とも一緒に行うこととなり、ピンダ文協からは全伯歌謡コンクールで準優勝した初代青年会長の鈴木武氏を父に持ち、自身も同コンクールの優勝者 という筋金入りの実力者稲垣秀子さんによって美空ひばりの「川の流れのように」が披露。対する一行からは、数々のカラオケ大会での優勝経験を持ち「ブラジ ルの寅さん」との呼び名も高い小林誠さん(71、和歌山)が細川たかしの「北酒場」を熱唱し、会場を大いに盛り上げた。
さらに、日本語学校の生徒たちと一緒に東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」を一同で合唱するなど歌声の響く交流会となった。
また、自転車など豪華景品の当たるビンゴ大会では読み上げられる数字に一喜一憂している一行に、その中で日本語学校の生徒たちはアイスや飲みも物を売り回ってくれた。
少し照れくさそうではあったが、皆で協力して自分たちの役割をしっかり果たそうとする生徒たちの姿を見ると、日ごろの学校での教育の成果かと想像でき、またこの町の大人たちが彼らに期待する理由が少し分かった気がした。(つづく、倉茂孝明記者)
2014年4月12日付
