3グループに分かれ計90人が参加
県連(本橋幹久会長)主催の第44回移民のふるさと巡り旅行が9月24~10月1日の日程で行われ、3グループに分かれ計90人が参加した。一行は今回、メキシコ(墨西哥)合衆国の首都メキシコシティで日墨両国の教育カリキュラムを実践するインターナショナル・スクール「日本メキシコ学院」を訪問したほか、地元日系団体の日墨協会関係者らと交流。また、グァテマラ国境に近く、1897年にチアパス州エスクイントゥラ地域のアカコヤグアに入植した中南米初と言われる日本人集団移民「榎本殖民」35人のルーツを訪ねた。同行した旅行の模様をリポートする。(松本浩治記者)
資料などによると「榎本殖民」は、江戸幕府の海軍司令官として北海道函館の五稜郭で政府軍と戦って敗れた「榎本武揚」の名前から来ている。
榎本は獄中生活を送った後、知識を買われて明治新政府に登用。松方正義内閣の外務大臣時代にメキシコ政府と共同で推進し、実現したのが「榎本殖民」と言われている。
1890年代当時の日本は人口が増大して貧困状態に陥り、榎本は将来的な発展のためには海外への「殖民」が必要だと考えていた。同91年に東京にメキシコ公使館、日本の領事館がメキシコシティにそれぞれ開設されたことをきっかけに、メキシコへの殖民調査団を派遣。約半年間にも及ぶ調査の結果、コーヒー生産地として適したチアパス州エスクイントゥラ地域が選ばれた。
97年3月、監督官で農学士の草鹿砥(くさかど)寅二を筆頭に、照井亮次郎ら自由移民6人、契約移民29人の計36人の男性ばかりで構成された「榎本殖民」が横浜港から英国船「ゲーリック号」でメキシコに向けて出航。途中、米国サンフランシスコで他船に乗り換え、メキシコのアカプルコに到着している。その際、殖民団員の一人だった山田新太郎が病に倒れ死去。35人となった団員はさらに船を乗り換えて航行し、97年5月10日、チアパス州のサン・ベニート港(現・マデロ港)に到着。メキシコでの最初の日本人殖民団としての一歩を踏み出した。
長旅の疲労と船酔いにより体力の極限状態にあった一行だが、日本から携行してきた荷物を担ぎ、タパチュラを経由して約120キロの地点にあるアカコヤグアまで徒歩で向かい、同地にたどり着いたのは同年5月19日のことだった。
殖民団は同地でコーヒー生産を行うことを目的としていたが、事前の調査不足と入植した時は既に雨季でコーヒーの植え付けの時期が過ぎていたこと。また、同殖民団が日本側の資金不足で決行されたことや、現地では想像以上の熱帯の暑さに加え、マラリアなどの風土病に罹るなど殖民たちは思いがけない苦労を強いられた。
その結果、「榎本殖民」は入植から1年を経たずして失敗に終わり、殖民団を推進した榎本武揚も殖民事業から手を引いた。
しかし、その後、当時の滋賀県代議士だった藤野辰次郎がメキシコ政府との殖民計画の契約義務を引き継ぎ、同郷者で熱心なキリスト教徒だった布施常松を現地に送り込むなどした。
また、その一方で榎本殖民団のリーダー的存在だった照井らが中心となり、日墨協働会社を設立して畜産、農業、商業などの各分野で業績を残したという。日墨協働会社では、アカコヤグアに日本語も学習させるメキシコの小学校を造ったほか、スペイン語と日本語の翻訳を行う「西日辞典」の編纂も行った。
日墨協働会社は1910年に起きたメキシコ革命の影響で同20年に解散したが、こうした日本人及び日系人の活動がその後のメキシコ日系社会の基礎になったと言われている。(つづく)
2015年10月9日付
