「週刊日墨」の思いを語る荻野さん
日墨協会(和久井伸孝会長)の歓迎夕食会では、8年前から活動しているという同協会コーラス部混声合唱団15人が「ふるさと」をはじめ、メキシコの歌及び東日本大震災支援曲「花は咲く」を熱唱。また、同協会の会員女性がカラオケを披露し、会場を沸かせた。
食事の前後にメキシコ側の出席者に話を聞いた。
メキシコ沖縄県人会会長の高良アルシデス英樹さん(57、3世)は、サンパウロ市のツクルビー区生まれ。母親がリューマチのため、13年間一緒に神奈川県に住んでいたことがあるが、メキシコに移住して既に17年が経つという。現在、ワインやビール等のアルコール類とハム・チーズ類を販売する商売を行っている。「メキシコも最近は治安が悪く、泥棒も増えています」と話していた。
10歳でメキシコに来て47年が経つという松本安弘さん(57、大阪)は、メキシコ工科大学大学院研究所で太陽電池についての研究をしているとし、記者も同じ「大阪出身の松本」であることを話すと親しみを込めた笑顔を見せた。
会場で、メキシコの邦字紙「週刊日墨(にちぼく)」の代表及び編集長だった荻野正蔵さん(70、茨城)を紹介された。海外邦字紙の大先輩である荻野さんに、ブラジル邦字2紙の記者が一緒にインタビューを行う。
「週刊日墨」は1955年ごろ創刊。67年に荻野さんが日本人学校の教員としてメキシコに渡った時分に「週刊日墨」の社長が亡くなり、当時6人で構成された「邦字紙存続委員会」の一員として大使館、日系団体関係者らとともに荻野さんも加わった。
「メキシコに邦字紙がないのは恥ずかしい」というのが委員会メンバーの考えだったが、当時26歳と若かった荻野さんに白羽の矢が立ち、70年に夫人との2人体制で4ページ建て1200部の「週刊日墨」を引き継いだ。「当初は『できません』と断ったのですが、周りから『(日本人学校の仕事が終わった)午後4時からならできるだろう』と言われて新聞の仕事をやるようになりましたが、そのうち日本人学校を辞め、新聞だけでやっていくようになりました」
記事取り、写真撮影、編集、割り付けはもちろんのこと、営業、広告、発送まですべてを夫人と2人だけで行った。新聞だけでは食べてはいけないため、84年からはレストラン経営も始め、邦字紙発行の資金にした。
「引き継いだ当時は活字を一つ一つ自分で拾っていましたが、そのうちタイプレス、ワープロ、パソコンになり、タイプレスはラテンアメリカではウチが一番早かったと思います」と荻野さんは当時の生活を振り返る。
「メキシコの郵便事情により、新聞がいつ読者のもとに届くかが分からず、海外日系人協会を通じて日本の新聞の『褪(あ)せない』記事を掲載し、日系社会では催しの『ありました』記事が多かったですね。小さな日系社会では下手に書くと軋轢(あつれき)が起こります。書かないことも新聞の一つだという思いがありました」と荻野さんは、海外の邦字紙ならではの経緯も話してくれた。
90年にはそれまでの2週間に1回の発刊を1週間に1回に変更するなど気を吐いたが、結局、97年に廃刊となった。
「(97年の)榎本殖民団入植100周年までは何が何でも頑張るつもりでやりました。最後の一人の読者になるまで新聞を出したいとの思いはありました」と荻野さん。現在、メキシコには駐在員を対象に生活情報などを盛り込んだ2つのフリーペーパーがあるというが、「新聞が無くなって寂しいという声も多いですよ」と邦字紙への思いは今も大きいようだ。
歓迎会会場では、締めくくりに恒例の「ふるさと」を出席者全員で合唱し、最後は全員で万歳をしながら午後10時に「お開き」となった。日墨協会関係者たちの思いのある歓迎に、ふるさと巡りの常連参加者からは「今までの交流で最高だった」との声も聞かれた。(つづく、松本浩治記者)
サンパウロ新聞 2015年10月22日付
