06/03/2026

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ニッケイ新聞 2009年6月4日付け 【神戸新聞】国内で唯一残る移住事業の施設「旧神戸移住センター」(神戸市中央区山本通3)の改修工事が完了し三日、「神戸市立海外移住と文化の交流センター」として開館した。同日午後から一般公開される。午前中の記念式典では、ブラジル移民関係者ら約百五十人が施設の新たな船出を祝った。 旧神戸移住センターは一九二八(昭和三)年、国立神戸移民収容所として設立。七一年に閉鎖されるまで、移住者が出発前に宿泊、出国手続きや語学研修などをした。九四年に建物閉鎖後、ブラジルの日系人団体などから保存要望を受け、神戸市が二〇〇七年度から再整備に着手。名称を変更し、日本在住の外国人支援や国際芸術交流の場としても活用することにした。 式典で、ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲副会長(61)は「私も十四歳のときにここからパラグアイに渡っただけに感慨深い。移民にとってこれからの百年がスタートする年にオープンすることに大変意義がある」と祝辞を述べた。 式典参加者らは、移住者が寝泊まりした居室を再現したコーナーや、移住体験者のインタビュー映像などを紹介する「移住ミュージアム」を見て回った。 交流センターの入場は無料。開館は午前九時-午後十時(移住ミュージアムなど展示部門は午前十時-午後五時)。会議室などの貸し出しもある(有料)。同センターTEL078・272・2362(河尻 悟)
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 琉球民謡保存会ブラジル支部(仲村善正支部長)は七日午後一時から七時頃まで、「創立十五周年記念式典」(崎間達雄実行委員長)をリベルダーデのブラジル沖縄県人会館サロン(トマス・デ・リマ街72)で挙行する。当日は、沖縄の本部から久高友吉会長をはじめとする四人が祝賀のために来伯する。式典後は、約二百人いる会員が民謡、琉球舞踊、三線を舞台上で発表する。また、創立時から会を支え、四世や非日系人にも琉球民謡を広めるため貢献した故亀谷安雄さん、故照屋マリオさん、故安毛名信夫さんら六人に功労賞が贈られる。案内のために来社した仲村支部長、崎間実行委員長、山城パウロ理事は、「当日は、日本から来る先生方の独唱、合唱も聞ける滅多にないチャンス。こぞってご来場ください」と呼びかけた。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 【中国新聞】ブラジルとの交流を続けている広島日伯協会の創立三十周年記念式典が五月二十九日、広島市中区のホテルであり、カストロ・ネーベス駐日大使や日系人、ブラジルからの留学生、会員たち約百人が節目を祝った。一九七九年の発足以来の歩みをスライドで振り返った後、筒井数三会長が「〇三年、ブラジル・サンパウロに完成した県人会館の建設費用を負担するなど親善と交流を深めてきた」と成果を紹介。サンパウロの邦字紙「ニッケイ新聞」の高木ラウル社主は「現地でも協会の活動は高い評価を受けている」とたたえた。ブラジルにある広島県人会の大西博巳(ひろむ)会長たち五人に感謝状も贈られた。これに先立ち、ネーベス大使は「日伯関係―今後のビジネスチャンス」と題して講演。「バイオ燃料や情報技術などについて、日本とさらに協力したい」と語った。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 「おでんせ岩手へ―」。ブラジル岩手県人会(千田曠暁会長)は五月三十一日午前十一時から、リベルダーデの同会館で「第二回わんこそば食べ放題」を開催した。そばを目当てに約三百人が訪れ、大賑わいを見せた。午後から行われた「わんこそば早食い大会」には合計十九人が出場し、お椀に入った一口分のそばを二分間で何杯食べられるか競った。白熱した会場は老若男女の笑い声や声援で溢れた。女子の部は、二十代から五十代までの四人が出場。鹿児島県研修生の中村瞳さん(29)が四十二杯という記録を樹立し、ダントツで優勝した。二位を十四杯も引き離し、ガッツポーズの中村さん。会場を大いに盛り上げた。男子の部では、四人ずつ三回に分けて行われ、五十五杯の同記録だった長谷川嘉憲さん(30、横浜)と下向井稔史さん(21、兵庫)が決勝戦へ。予選を上回る七十五杯を飲み込むようにして平らげた長谷川さんが堂々の優勝。その食べっぷりに、「そばが間に合わない」と嬉しい悲鳴をあげるのは千田会長。長谷川さんは、地元横浜で行われたわんこそば大会で、三十分で二百十五杯を食べた記録を持つという。「勝負事は負けられないの一心でした。まだいけます」と余裕の表情だ。子供の部には三人が出場し、二十八杯を食べた中北ケイイチくん(11、三世)と辻・知念・セイキくん(14、三世)が決勝戦へ。必死に一分間で十八杯を口に詰め込み、最年少の中北くんが優勝した。昨年に続いて二連覇した中北くんは「嬉しい」と喜びを表し、トロフィーを受け取った。用意したそば五十キロ、おにぎり十五キロ、餃子六百個はほとんどなくなり、会場は午後三時過ぎまで賑わった。「皆さんに楽しんで頂けて良かった」とホッとした様子の千田会長。超満員の客への対応にてんてこ舞いだったスタッフも、「盛り上がって本当に楽しかった」と満面の笑みだった。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 「第二十一回気仙沼海の俳句全国大会」開催にあたって宮城県の気仙沼地方俳句協会からサンパウロみちのく俳句会(栃沢千秋代表)へ参加の呼びかけがあったことを受け、中沢宏一宮城県人会長(65、宮城)と栃沢代表(94、岩手)が案内に来社した。今年で二回目の参加だが、きっかけは百周年式典のおり、中沢会長が気仙沼地方俳句会に対して、サンパウロ仙台七夕祭俳句大会への投句を依頼したことから。昨年の大会では日本から二人が第四位と六位に入賞した。応募は宮城県人会に二十六日までに送ると大会事務局に送付してくれる。投句要領は、当季雑詠三句一組で、誰でも応募できる。原稿用紙で応募すること。投句料は無料。送り先は、「ブラジル宮城県人会」(住所R.Fagundes,152 Liberdade Sao Paulo CEP01508-030)。問い合わせは同会(電話=11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け 九州八県の集まりである九州ブロックは、十七日午前九時から、ジアデマ市の沖縄文化センターの運動場で第七回目の親睦運動会を開催した。当日は天気にも恵まれ、リベルダーデから二台のバス、そして担当県である福岡県人会がスザノからバスを出すなど、のべ約八百人が来場した。まず、来年の担当県人会の小山田祥雄熊本県人会長が開会宣言。続いて国旗掲揚、先没者への一分間の黙祷、大会挨拶は福岡の南アゴスチーニョ会長、来賓には新しくサンパウロ文化福祉協会会長になった木多喜八郎氏、そして長くモジ・ダス・クルーゼス市長を務めた安部順二氏が挨拶した。ラジオ体操協会の指導員のもとにラジオ体操が行なわれ、日頃体を動かしていない人も、スピーカーから流れるラジオ体操に体を動かして楽しそうな様子。競技は七十歳以上の宝探しで始まり。すず割り、土産探し、おもしろいのは魚釣りで、昨年担当した佐賀県人会が普通のビン釣り競走では面白くないと、有明海に棲むムツゴロウをかたどって口に針金で輪を作ったものを、魚釣りの魚とした。昼休みには佐賀の健康体操、それとレキオス沖縄太鼓の演技、玉入れそして最後は綱引き、県人会対抗リレーで一日を楽しんだ。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け 在伯茨城県人会(小林操会長)は、五月三十一日午前十時から同県人会館で第二十三回敬老会を催した。約九十人が集まり、娘、息子や孫ら家族と訪れる人が多くみられた。黒澤儀人副会長の司会で始まり、小林会長は「集まってくださった方に感謝したい。杖をついてでも遠くから出席して下さった高齢者方の情熱に胸が熱くなる」と挨拶した。宮崎正弘モジ支部長、鈴木満枝婦人部長の挨拶が続き、七十五歳以上の出席者三十五人に祝儀を贈呈。小林会長から一人一人に祝いの言葉が送られた。男性最高齢の小橋健児さん(92、常陸大宮市)、女性最高齢の富田くにさん(93、常総市水海道)も元気に出席、会場で花束が贈呈され、小橋さんが謝辞を返した。その後は生田流の琴、尺八、三味線による演奏が行われ、「さくらさくら」、「故郷」、「七つの子」、茨城民謡「磯節」などが披露された。会場全体で合唱する場面も見受けられた。多くの人から、出身の茨城県を思い出し懐かしいという声が聞かれた。若松孝司さんの発声で乾杯後、昼食会へ。婦人部心づくしの寿司、刺身、煮物が出された。料理には茨城県名産のこんにゃくも使用。食事後は午後二時半ごろまでビンゴ大会で盛り上がった。健康の秘訣を聞くと、小橋さんは「西式健康法を五十年間続けていること」。富田さんは「毎日のんびりテレビを見、新聞を読むこと。若い頃はジョギングもしていた」という。「特に何もしていないけど」という武藤文子さん(83、常総市水海道)は、邦字紙を毎日楽しみにしているそう。中村千代子さん(91、旧上妻村)は「コーヒーにはちみつ、きなこを入れて飲むこと」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(与儀昭雄会長)は五月二十八日午後、文協ビル会議室で月例代表者会議を開催した。園田昭憲副会長の進行の下、木多喜八郎文化福祉協会新会長のあいさつがあり、先の会長選挙での礼を述べ、「日系社会のために尽くします。フェスティバル・ド・ジャポンの準備などで忙しいですが、頑張ってください」と語った。同じく会長選挙に出馬、惜敗した小川彰夫さんも会議を訪れ関係者へ謝意を表わした。また、今年は衆議院議員選挙が予定されていることから、在サンパウロ総領事館の飯浜輝雄相談員が在外選挙制度について案内。投票には在外選挙人登録が必要なため、飯浜相談員は登録促進への協力を呼びかけた。五月度事務局報告、四月度会計報告に続き定例の議題へ。本橋幹久副会長が十八日の移民の日法要・慰霊祭について説明した。イビラプエラ公園内開拓先没者慰霊碑での法要は、十八日午前十時半から同碑前で開催。当日は文協ビル前(入口を少し上った所)から午前九時~九時半に一般参加者向けのバスが二台出る。バスは先着順。同日午後一時半からは、文協大講堂で開拓先亡者追悼大法要が開催される。続いて園田副会長より二十一日開催の、県連主催マレットゴルフ大会の案内があった。「団体戦の五人に満たなくても、混成チームを作るためまずは応募を」と参加を呼びかけた。続いて、七月十七日から開催のフェスティバル・ド・ジャポンの予算について、大手銀行の協賛の返事を待っている段階と報告。合わせて各県人会に対し、参加費一千レアルの早めの納入を要望した。また、九、十日にセントロのCOVISA(R.Santa Isabel,181,10andar)でフェスティバルの衛生面について注意事項説明会が開かれることが連絡され、各県人会にいずれかの日程で参加するよう要請があった。また十八日午後二時からは、栃木県人会で規則の説明会も予定されている。その後各県人会から行事の案内などがあった。その際、園田副会長は「週末の行事は同じ日に重なる事が多く、参加したくてもできない場合が多い。予定はなるべく早く事務局に知らせて。今後、カレンダーを作っていきたい」と語った。次回の代表者会議は六月二十五日。このほか、六月三日に開館予定の「海外移住と文化の交流センター」(旧神戸移住センター、神戸市中央区)への寄付金で県連が受け付けた六万七千四十レアルが、本橋副会長から澁谷吉雄カワサキ・ド・ブラジル社長へ手渡された。
ニッケイ新聞 2009年5月30日付け 多くの移住者が日本最後の数日間を過ごした旧神戸移住センター。神戸市が中心となって同センターを「海外移住と文化の交流センター」として改修・再整備する事業に対し、ブラジル側に呼びかけられていた募金がこのほど締め切られた。ブラジルのほか、パラグアイからも寄せられた寄付は計約二十八万レアル。当初の目標額二千万円には及ばなかったが、個人・団体からの多数の寄付に対し、ブラジル側で連絡役をつとめた澁谷吉雄カワサキ・ド・ブラジル社長は喜びと感謝のコメントを寄せた。 六月三日に開館予定の「海外移住と文化の交流センター」(神戸市中央区)への寄付金は、昨年来伯した西村正日伯協会理事長(同協力委員会委員長)がブラジル側に呼びかけ。同センターに設置が計画されている在日ブラジル人や中南米の日系人を対象にした教育設備に充てられるものとして、昨年末から募金運動が本格化していた。ブラジル側ではカワサキ社ほか県連、文協、百周年協会が窓口となって募金を受け付けた。県連では五月二十八日現在で六百三十五の個人・団体・企業などから六万七千四十レアルが集まり、同日文協ビルで開かれた代表者会議の席上、本橋幹久副会長から澁谷社長に手渡された。県連が受け付けた寄付金には、沖縄県人会(二千レアル)など各県人会、南米産業開発青年隊協会、日本海外学生移住連盟ブラジルOB会など聖市にある各団体だけでなく、パナソニック・ド・ブラジル、モトベル重機販売、ヤンコール山本商会、岡島農工商亊、ホテル&レストランセンタロウスなどの企業、マナウスの西部アマゾン日伯協会、エフィジェニオ・デ・サーレス自治会など地方団体からのものもあった。文協、百周年協会で受け付けた募金額は、今月十三日現在で四万三千五百三十五レアルに上った。澁谷社長によれば、そのほか、リオの日系四団体から一万レ、パラナの日系団体から二万九千レ、パラグアイ日本人会連合会から二万五千レ、またヤンマー・ド・ブラジル社長、ブラジル日本商工会議所会頭などを務めた後藤隆さん(現商議所顧問)から五百万円の寄付があり、合計約二十八万レアルの寄付が集まった。澁谷社長はニッケイ新聞の取材に対し、「目標額に近づき、みなさんの協力に感謝する。昨年暮れにはほとんど集まっていなかったので驚き慌てたが、これだけ集まって大変良かった」と感想を語った。改修落成後の同センター内には、寄付者、または寄付者が希望する氏名が刻まれる。なお県連からは、園田昭憲副会長が落成式典に出席する。
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 駐ブラジル日本国第三代公使の杉村濬(ふかし)をブラジル移民政策へと駆り立てた背景には何があったのか――。杉村公使は一九〇五年四月にリオ州ペトロポリスに着任早々、ミナス・ジェライス州とサンパウロ州を視察し、「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」「伯剌西爾移民事情 附・貿易状況」などを提出。初代、二代目公使の珍田捨巳、大越成徳の否定的な報告とはうってかわって日本人移民導入に肯定的な内容だった。当時は北米における日本人排斥の動きの中、一八九七年にハワイ移民が上陸を拒否され、一九〇〇年には日本外務省が北米・カナダ移民を禁止した時代。日露戦争に勝利したものの十分な賠償金を得られず、国民の不満を抱えていた日本にとって、同報告書は明るい手を差し伸べるものだったと言える。「ブラジルは移住に適したところである」。報告書は政府によって刊行され、大阪朝日新聞に掲載されるなど、多くの人の目にとまった。「〃移民の父〃水野龍、〃最初の移住者〃鈴木貞次郎、〃最初の入植者〃隈部三郎、〃最初の商店開業〃藤崎三郎助、〃最初の一般渡航者〃三宅栄次郎。ここに挙げた者たちは皆、この報告書を読んで渡伯を決意した」(リオ州移民百年史)。一方の伯国側も、奴隷解放後の労働力として期待していたヨーロッパ移民が、劣悪な労働環境などの理由からつぎつぎに政府によって禁止されている。労働力確保の矛先が、大国ロシアに勝利した日本へと向いたのだった。杉村公使自身、一八八九年から二年四カ月、在カナダ領事館に赴任し移住促進のために働いたが、日本人排斥運動の風潮の中、忸怩たる思いで帰国している。ブラジル移民導入の条件は揃っていた。杉村公使があらゆる視察先で受けた歓迎ぶりは相当なものだったようだ。「通過したどの駅でも多数の群集が一行の到着を待ち構え、口々に『日本バンザイ!』と叫んだ」。リオ州移民記念史は半ページに渡って熱狂的なまでの歓待の様子を伝えている。さまざまな時流が合致し、その要を演じきった杉村公使。そして、赴任して一年一カ月後の〇五年五月十九日、ドラマチックなまでの突然の死。享年五十八歳だった。その死はブラジルでも偲ばれた。政府によって霊柩列車が特別用意され、ペトロポリスの公使館からリオへと棺が運ばれた。国葬といっていいほど敬意を払われたものだったという。 ▽   ▽ コルコバードの丘からリオの街を見渡すと、ポン・デ・アスーカルの手前に杉村公使の眠るサンジョアン・バチスタ霊園が見える。岩手県人会(千田曠曉会長)一行は、杉村公使墓参旅行二日目の二十三日午前八時、キリスト像から真っ青な空の下に広がる絶景を楽しみ、サンパウロから持参した花と線香を手に墓参りへと向かった。旅行団団長の多田マウロ副会長(45、二世)は途中、記者にこう気持ちを語った。「先輩たちが昔から大事に守っている墓。自分もそうしていきたい」。杉村公使の働きを後世に伝える使命に溢れていた。「ほら、あんな高いところからキリストが見守ってる。公使は幸せですね」。墓から景色を見渡して、参加者の女性はそう笑みを浮かべた。杉村公使の墓碑は、昨年、岩手県人会が会創立五十周年と移民百周年を記念して改修したものだ。六月十三日、式典参加のため来伯した達増拓也県知事らとともに除幕式を行った。「大地に広く受け入れられるようにね」。千田会長の言葉どおり、建てられた黒御影の石碑は空に向かって両手を広げるように円を描き、杉村公使の遺影がはめられている。「杉村公使がこの地に亡くなり百三年。みなさんと墓参りできて感激しています。遺族や母県の方々も喜んでくれているでしょう」と千田会長。十一歳から八十九歳までの三十一人は線香をあげて、またの再訪を約束して帰路についた。 (おわり、渡邉親枝記者) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 「評価ゼロの土地」から州随一の養鶏集団地へ―。南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地は今月二十三日、「入植五十周年記念祭」(沖島義智実行委員長)を約五百人の出席者を迎え、盛大に執り行った。アンドレー・プチネリ州知事、ジェルソン・ドミンゴ州議会議長、同移住地のあるテレーノ市のウンベルト・ペレイラ市長、JICA聖支所の千坂平通支所長らが出席した。第一陣として入植、現在も同移住地に住む金崎英司さん(71、山口)は、「開拓中に亡くなった人や移住地を後にした人もいるけど、みんなで五十年を祝うことができた」と喜んだ。 バルゼア・アレグレ移住地は、旧海外移住振興会社(JAMIC)が一九五八年、約三万六千三百六十三ヘクタールを邦人自営農受入地として購入、造成した。翌五九年の五月十五日、第一陣九世帯五十四人が入植した。小沢太郎山口県知事(当時)が造成中に視察、移住者には長期貸付金を融資したこともあり、同県出身者が多く入り、「山口村」とも呼ばれる。入植後三年間、雨が降らず、不作が続いた。移住者の中には、代替移住地を求めたり、訴訟を起こす者もいたという。こうした動きから、六二年に外務省、JAMIC、在伯山口県人会(現・ブラジル山口県文化協会)などによる共同の実態調査が行なわれ、「(土地の)評価ゼロ」の判定が下されている。米やフェイジョン、綿などを作ったが、どれも移住地を潤すことはなかったが、飼料用のミーリョが安かったことから始めた養鶏が当った。六二年に産業組合を設立、年々成長を続け、現在では八十万羽を所有する州内最大の採卵養鶏集団地に成長した。文協会館で行なわれた式典では、先没者に一分間の黙祷、日伯国歌斉唱、記念碑の除幕が行なわれた。プチネリ州知事は、五十年間の貢献を褒め称え、来年には国道から養鶏場までの一・七キロをアスファルト舗装することを確約。「五十一年目はピンガの『51』同様、いいことがある」と会場を笑わせた。歴代文協会長、婦人部長、教育関係者への功労賞授与、七十五歳以上の高齢者への表彰状、記念品が手渡され、会場から拍手が送られた。第二部の食事会では、乾杯の後、それぞれが半世紀の歴史に思いを馳せながら、和やかに食事を楽しんだ。余興では、児童、婦人の舞踊などが行なわれ、最後はバルゼア・アレグレ音頭に合わせ、来場者が笑顔で踊りの輪を作った。八〇年代にJAMIC職員として二年間、同移住地に滞在した千坂JICA聖支所長も約三十年ぶりに訪れた。「若かった自分も色々ご指導頂いた。懐かしい、元気な顔を見て安心した」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年5月28日付け この人抜きには日本人ブラジル移民史を語ることができない――。一九〇五年四月十九日、駐ブラジル日本国第三代公使として着任し、日本にブラジル移民への種を蒔いた杉村濬(ふかし、岩手県盛岡市出身)。着任してからわずか一年一カ月後の翌〇六年五月十九日、脳溢血で倒れ、今もコルコバードの丘に建つキリスト像に見守られながら眠る。ブラジル岩手県人会(千田曠曉会長)の一行三十一人は、二十二日から一泊三日の墓参旅行を行い、日伯の掛け橋となり移民開始のきっかけを作った杉村公使の数奇な運命を辿った。(渡邉親枝記者) リオ州オールゴンス山脈のセーラ・ダ・エストレーラ頂上付近に位置するペトロポリス。海抜八百四十メートルの同地の朝は冷え込む。一八四五年、ドン・ペドロ二世の統治時代にドイツ移民が入植して作られた町並は、異国情緒をかもし出している。今も百年以上前の王室の避暑地だった頃の雰囲気を随所に残す。この地には、八九年の共和制移行後も、黄熱病が猛威をふるっていたリオを避けて各国大使・公使館が集まっていた。一八九五年に国交を樹立した日本もここに公使館を開設。そして一九〇五年、杉村公使の着任とともにブラジル移民開始への歯車が回り始める。 ▽   ▽ 二十三日午前六時前、鹿田明義リオ州日伯文化体育連盟理事長の出迎えを受けた一行は、最初の目的地であるペトロポリス市の第二代公使館へと向かった。杉村公使が妻ヨシと娘三人と過ごし、息を引き取った場所。数年前まで、「公使館はペトロポリスにあった」というのみで、在リオ総領事館にすら記録は残されておらず、詳細は誰にも知られていなかった。その歴史を発見したのが、同地在住三十六年の安見(あみ)清さん(69、茨城)。今回、岩手県人会の一行は、安見さんの案内で杉村公使が過ごした公使館兼住居に初めて足を運んだ。杉村公使が、日本の移民路線をブラジルへ向けることとなった報告書を作成したであろう「移民の発祥地」(安見さん)だ。安見さんは地元図書館の助力を受けて百年前の新聞を読み解き、また孫の新さんが所蔵していた杉村公使が日本へ送った絵葉書などから場所を確定。「リオデジャネイロ州日本移民百年史」(リオ州日本移民百年史編纂委員会)に執筆するために調査しはじめてから、実に二年の歳月がかかった。公使館は、百年前の市中心部全景が写ったその絵葉書「白ク細ク高キ建物ハ隣家ノ独逸寺院ナリ」(杉村公使の注釈)と同じ、白く細長い塔をもつドイツ系ルーテル教会の隣に残っていた。一九三九年に二階から三階に建て増ししているものの、政府の保存地域となっていたためだ。当時十二歳だった杉村公使の長女が、還暦を迎えて自叙伝を出版している。そこには当時の公使館の間取りが書かれており、「内装はほとんど手が加えられていないことが分かる」(安見さん)。天井の高い玄関を通って大広間に足を踏み入れると、円形に飛出た窓が目に入った。「食堂」と書かれた自叙伝の間取り図にある通りだ。現在は、パリ在住の持ち主により二〇〇七年末から売りに出されている。不動産会社によれば、土地面積は一千八百平米、述床面積は八百六十一平米で、価格は百二十五万レアル。安見さんは「ここは『移民発祥の地』。文化施設として残すべき」と提案している。(つづく) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
 県連主催の第一回県人会マレット・ゴルフ大が六月二十一日午前八時半から、イタペセリカ・グランデ・サンパウロ・マレット・ゴルフ場で開催される。競技が団体と個人戦。【参加費】個人=十レアル、団体=十二レアル。二十一日、案内に来社した園田明憲県連副会長、新留静コチア青年連絡協議会会長は「多くの人の来場を」と呼びかけている。  申し込みは県連及び各所属の県人会と(電9771・1107)及び村上氏((4147・1459)田畑氏、まで。
在伯北海道協会(木下利雄会長)は、今年、道人移住九十周年、協会設立七十周年、会館竣工十周年の記念式典を八月三十日に実施する。この記念式典では、高橋はるみ知事の来伯が予定されており、高橋知事から北海道出身者で八十歳以上の高齢者へ感謝状と記念品が贈られることになった。 このため、同協会では該当者の申し込みを受け付けている。条件などは次の通り。 これまでに高齢者表彰を受けていない北海道出身者で、同協会会員だけでなく、非会員でも可。該当者は、姓名(ふりがな付き)、生年月日、出身地、現住所、電話番号、着伯年月日を明記の上、同協会に申し込むこと。締め切りは六月十五日必着のこと。 申し込み先:Associ acao Hokkaido de Cultura e Assistencia 住所:Rua Joaquim Tavora,605 CEP:04015-001 SaoPaulo-SP 電話:11・5084・6422 ファックス:11・5539・0751
九州八県人会合同による「第七回九州ブロック親睦運動会」が十七日、ジアデーマ市の沖縄文化センター運動場で行なわれた。木多喜八郎文協会長、安部順二前モジ・ダス・クルーゼス市長などの来賓も訪れ、青空の下、五百人を超える参加者で賑わった。援協からは診療チームと救急車も派遣され、大会の安全サポートにあたった。 開会式では、国旗掲揚、戦没者への黙祷に続いて、大会総裁が挨拶。福岡県人会の南アゴスチーニョ俊男会長は、「船上運動会から数えたら百一年目。若い人には、二百年目もやってほしい。一等でもビリでも楽しみましょう」と激励した。 競技は、徒競走、リレー、玉入れといった一般的なものから、『土産探し』、『魚釣り競争』、『花婿・花嫁探し』等の趣向を凝らしたものまで、全二十種目。 徒競走では勢い余って転ぶ少年の姿が観客を沸かせ、『花婿・花嫁探し』では、その場夫婦の男女ペアが、義理の親役を必死に探す姿に笑いと歓声が起こっていた。 ある日本人留学生は四種目に出場。「楽しかった。日本よりも日本らしく、声援が嬉しかった」と閉会後も興奮冷めやらぬ様子で話していた。 なお、参加者数が最多の県人会は、運営を担当した福岡県。百人に迫る会員が参加し、記念品を獲得した。
「これ、どうやるが?」、「オイヤ、見てよこれ」、「アシン・ノン・ダー」―。十七日、高知県人会料理部(高橋マリア部長)の料理講習会を覘くと、土佐弁、コロニア語、ポ語が飛び交う中で、女性を中心とした約三十人が土佐の郷土料理にチャレンジしていた。 講習会は、世代交代を宣言した同県人会が、若い世代をひきつけるため新たに企画したもの。初回講習会は、人気の「蒸し」だったためか、「予想を上回る」(高橋部長)受講者が参加。若者、男性、他県出身者、非日系人などが和気あいあいと、「はちきん」の婦人連中に代表料理を習った。 鯛の腹に海老やおからを詰めた人気の「蒸し」は、そのレシピを狙って参加があったほど。大きな鯛を惜しげもなく使い、中に大ぶりの海老もふんだんに入れた豪快料理に人気が集中。わざわざミナス州からやってきた人もいた。 土佐市という県中西部に伝わるこの伝統料理は、十五年にわたって料理部長を務める高橋部長が、同地出身の父親からレシピを譲り受けたもの。「自称助手」の正木清寿さん(八五)らとともに、県人の集まりごとに提供し、好評を得てきたものだ。 この日は、午前六時にセアザに行って買ってきたという四十センチ級の鯛八尾が用意されていた。参加者らは、手本を示す高橋部長に倣って、魚の腹におからなどを詰め、布巾に包んで、直径八十センチほどの蒸し器にセット。 蒸しあがるまでの四十分間は、別室でタラとミンチのボーリーニャに挑戦した。 ここでは、元研修生など若手や男性陣も活躍。マンジョッカ芋を潰す挽肉機を一手に引き受け、婦人から喝采を浴びていた。ただ、形を整える作業となると手馴れた女性陣にタジタジ。背後からそっと見守るという微笑ましい光景も見られた。 調理テーブルの女性陣は初対面同士であっても、「塩は?」、「きれいに作って」、「あんまり大きくしたらみんなにあたらん!」と冗談を飛ばしながら和気あいあい。「所違えど勝手知ったる台所」という感覚であっという間に作業を終えた。 その時ちょうど、「蒸しあがったよ」と知らせがあり、一同は調理場へと移動。「熱いよ、気をつけて」と声がかかる中、蒸し器からは蒸気を立てた鯛が登場。「うわぁ」という感動の声が沸いた。 形を整えるため、トレイを使って鯛を二度、三度とひっくり返すのは、緊張の瞬間だ。「和食を習いたいから」と果敢に挑戦したソンニャ・リベロさん(二六)は「味見した時もおいしかった」と昼食会が待ちきれない様子。 代わる代わるトライし、無事皿に乗せ終わった鯛は、柿やみかんを周囲に飾って最後の仕上げ。ほんのり桜色の鯛と、鮮やかなオレンジ色の柿が好対照をなして、自然と「きれい」という声が洩れていた。 この他、土佐風そうめん、ほうれん草の和え物、サラダ、シュラスコなども用意され、昼食会では、各料理に舌鼓を打ちながら会話を弾ませる参加者らが目立っていた。 高橋部長は、「思ったよりも人が来てくれた」と安堵の表情。「父から習ったことを教えているだけ。郷土料理の良さを、若い世代にも伝えていきたい」と話していた。 写真:「鯛の蒸し」 写真:高橋部長(右端)の手本に見入る参加者ら
「アマゾン日本人移民発祥の地」として、入植八十周年記念式典を九月十六日に行なうトメアスー。同地実行委員長で、トメアスー文化農業振興協会会長でもある海谷(かいや)英雄氏が、同式典をはじめとする記念行事の案内状配布を主な目的に今月二十日から来聖、四日間にわたってサンパウロに滞在した。海谷委員長は、文協、県連、百周年協会といった日系主要団体やスポンサー企業、日本政府関連機関などを訪問。「一世が現役で行なう最後の移民祭となる気持ちで臨む」と意気込みを見せ、式典への協力と出席を広く呼びかけた。 記念碑建立、記念誌刊行も 広く全伯から協賛募金求める 「トメアスー日本人移民八十周年記念祭実行委員会」は〇七年七月に発足し、十三の小委員会から構成。これまで毎月一回の割合で会議を開き、各種イベントの準備や実行を推進している。 すでに決定している行事は、九月十六日に同文化農業振興協会会館で開催される記念式典をはじめ、前日十五日のトメアスー西本願寺での先没開拓者慰霊法要のほか、農業物産展示会(十六日、十七日)、記念碑建立(協会敷地内)、芸能祭、移民史料館整備、会館改装、八十周年記念誌発刊、「移民の森」や「初期移民の家」整備などが進められている。 これまでに、一月の麻雀・相撲大会を皮切りに、ミス・ニッケイ・コンテスト(二月)、俳句(三月)、将棋大会(四月)を実施済み。今後、運動会・盆踊り(七月)、敬老会・囲碁(八月)、ゴルフ(九月)、野球・ソフトボール、空手(十月)、ゲートボール(十二月)を予定している。 二十二日午前に来社した海谷委員長は、九月の記念祭案内状とともに、九九年のアマゾン移民七十周年記念誌で先月四月にようやく完成したという「アマゾンの自然と調和して」を持参。記念誌編纂委員がそれぞれの仕事を持ち、諸事情で作業が思うように進まなかったことを説明した上で、「八十周年記念誌は専門家に入ってもらって、この十年分と日ポ両語で新たに編纂し、二〇一〇年の末には発刊したい」との抱負を述べた。 海谷委員長は今回の来聖で、到着した二十日に早速、文協、県連、レアル銀行、トヨタ、ホンダなどの企業を訪問。翌二十一日にJICAサンパウロ事務所、百周年協会、移民史料館などに足を運んだ。 約四十五万レアルが見積もられている記念行事の総予算の中で、現在地元を中心に協力券を発行して資金を募っているとし、今後も北伯地域やサンパウロの企業などにスポンサー協力を呼びかけていく考えだ。 海谷会長は「移民の八〇%は農業移民で、八十年の歴史の中でコショウをはじめ、クプアスー、アサイなど熱帯果樹の現物を物産として展示したいと思っている。各委員会には、二世、三世の若い人たちに実働部隊として積極的に入ってもらい、次世代に引き継いでもらうことを考えているが、八十周年は一世が主導となる最後の移民祭になるという気持ちで臨んでいる」と述べ、今年のアマゾン日本人移民八十周年記念祭典への意気込みを見せていた。
 アマゾン、トメアスーで九月にある入植八十周年式典。県連からは「ふるさと巡り」で約二百人が出席するが、全員が会場に入りきらないことから、川下りのツアーや自然保護区への訪問、作物の視察などを用意し、対応するとか。  来聖し、二十日に県連役員と調整を行なった海谷英雄・祭典実行委員長は、「現在取り組んでいる森林農業(アグロ・フォレストリー)などを見て行ってほしい」と呼びかけている。
ニッケイ新聞 2009年5月23日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、与儀昭雄会長)が主催する「第一回県人会対抗マレットゴルフ大会」が六月二十一日、イタペセリカ・ダ・セーラのグランデ・サンパウロ協会マレットゴルフ場で開催される。新留静・同協会相談役(元会長)と園田昭憲県連副会長が本紙を訪れ参加を呼びかけた。園田副会長は「百一年目の新たなスタートにあたり、県連で開催を決めました。一回目なのでぜひ参加してください」と熱く語った。募集要項は以下の通り。▼日時=六月二十一日、八時半集合受付、九時半プレー開始。▼競技人員=各県人会から最低五人。▼カテゴリー=個人は、カテゴリーA(ハンディキャップ0~8)、B(ハンディキャップ9~11)、C(ハンディキャップ12)に分けられ、他に県人会対抗の団体戦がある。▼各賞=入賞(団体は三位まで、個人は各カテゴリー五位まで)、ホールインワン(三カ所)、ロングドライブ(男性及び女性)、ニアピン(男性及び女性)。▼ハンディキャップ=マレットゴルフ連合会及び所属コースのローカルハンディキャップを適用。▼参加費用=十レアル、食事は別に十二レアル。参加希望者は出身県(二世以降は両親の出身県)と生年月日を添えて、各愛好会、県人会、県連で申し込む。問い合わせは電話=11・9771・1107(上村さん)、4147・1459(田畑さん)まで。
ニッケイ新聞 2009年5月23日付け アマゾン日本人移住発祥の地、パラー州トメアスー移住地で今年九月、移住八十周年記念祭典・関連事業が行なわれるにあたり、海谷英雄・記念祭実行委員長(65、山形)が来聖、領事館、JICA、県連など各方面と調整を行なった。式典が同月十六日に開かれるほか、胡椒のモニュメントや鳥居の建設、農産展の準備などが行なわれているという。海谷実行委員長に聞いた。 一九二九年九月、トメアスーに入植した四十二家族百八十九人が日本人アマゾン移住の嚆矢。密林開拓から、ピメンタ(胡椒)の一大生産地となったことから、「トメアスー」は、苦闘と成功の代名詞でもある。パラー州都ベレンから直線距離で南約百キロに位置するトメアスー郡の人口は現在、約六万人。そのうち日系人口は、約千五百人で八割が熱帯果樹の生産などに従事している。海谷委員長によれば、「一世は約三割で第一回移民は三人が元気に生活している」という。記念行事はすでに相撲大会(一月)、ミス日系(二月)、俳句大会(三月)などが実施されており、運動会、盆踊り、スポーツ大会など、各種記念行事が年間を通して予定されている。メインとなるのは九月。十五日には、慰霊追悼法要、翌十六日に、トメアスー文協で式典が行なわれる。島内憲日本国大使(名誉総裁)、アナ・J・V・カレッパ州知事(総裁)のほか、近隣移住地から五百人の出席を見込む。農業やスポーツなど各分野に分けた功労者表彰もあり、サンパウロからは、ブラジル都道府県人会連合会(県連)が主催する「第三十二回ふるさと巡り」の一行約二百人も駆けつけ、共に祝う。記念事業としては、八十周年記念誌編纂、文協会館の改装のほか、ベレンからの州道のトメアスーへの入り口に、幅八×高さ十五米のアーチを建設する計画が進められている。「ベレンからの船で入植者全てが踏んだ」桟橋を軍が修復中で、トメアスー文協も協力しているという。邦人社会の中心地となったクアトロ・ボッカスに記念碑の建立も勧められており、「ピメンタをモチーフにしたもの。九月の式典に落成式を行ないたい」と海谷委員長。同移住地設立に尽力した千葉三郎氏の銅像がある日本公園(造園は七九年)の改修と共に、鳥居建設の計画も。九月十五、六日にある物産展では、JICA協力による写真展も開催される。「歴史を感じてもらいながら、八十年のなかでトメアスーの特産物がどう推移してきたかが分かってもらえるのでは」なお、〇三年に創立された市立トメアスー日系学校(Escola Nikkei do Tome Acu、生徒数百三十人)では、日本政府による草の根無償資金による校舎建設が検討されているという。海谷委員長は、「マラリアや開拓の苦難の歴史を乗り越えた八十年だった。多方面から式典にご出席頂ける方には、アマゾン移民発祥の地を肌で感じてもらい、これを機会に交流を深めていきたい」と話している。