ニッケイ新聞 2009年3月28日付け 在伯埼玉県人会(根本信元会長)は五日午前十時半(第二次招集)からビラ・マリアーナ区の「SOHO源氣」(ドミンド・デ・モライス街1425)内の同事務所で二〇〇九年度定期総会を開く。主な議題は二〇〇八年度事業・収支報告および〇九年度事業計画・予算案の審議。役員改選など。総会後、正午から昼食会を催す。
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ニッケイ新聞 2009年3月27日付け パラナ州都クリチーバ市にある兵庫県ブラジル事務所の会館の正門に設置された「平成」と刻まれた記念碑に、特別な大注連縄(おおしめなわ)がかけられ、四日午前十時半から「弥生祭(やよいまつり)」が行なわれた。祭主は同事務所代表の山下亮さん、神主はブラジル大神宮の藤好諒山宮司。一九九七年六月六日、天皇皇后両陛下がクリチーバへご行幸された折に同会館へ立ち寄られ、ご来伯を記念して建立されたこの記念碑を除幕された。その時に、天皇陛下は、日本移民先没者の慰霊と日系社会の安寧と繁栄を祈願された。同地の日系人らは、両陛下の深い思いやりといたわりの尊いお言葉に感涙しながら万歳を叫んだという。今回の弥生祭のために新たな大注連縄が設置された。当日は佐藤宗一クリチーバ総領事をはじめ、同大神宮総代長の西井良雄さん、同大神宮副総代長の国府増二さん、パラナ連邦大学の細川ロベルト教授らが参加し、厳粛に執り行なわれた。藤好宮司によれば、毎月の月初めと月半ばに「月次祭」が斎行されているほか、歳旦祭、新年祭、祈年祭、弥生祭、例大祭、移民祭、独立記念祭、春秋皇霊祭、新嘗祭、大晦祭なども斎行されているという。
ニッケイ新聞 2009年3月27日付け 鳥取県人会(本橋幹久会長)主催のやきそば会が、四月五日午前十一時から、ブラジル鳥取交流センター(ドナ・セザリア・ファグンデス街323)で開かれる。婦人部特製のやきそばの値段は十四レアル。そのほか、ギョウザやデザートなども販売。同県人会で実施している文化講座の生徒たちによる発表などもある。午後三時ごろまで。問合わせは同会(11・2276・6032)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月26日付け なにげなく波止場の海面をのぞき込むと、エメラルド色に透き通った水底を、甲羅が四十センチはあるウミガメがゆったりと泳いでいった。先駆者の一人、仲真次牛助が入植前に現地視察に来た時、「噂に違わずイーリャ・グランデは魚影が濃く、バケツで掬えるほどだったという」(『リオ百年史』二百六頁)からすごい。今でも前述のように十分にきれいだが、入植当時には、とんでもなく豊かな自然があったに違いない。島の入植史を確認すると、「日本人が住みはじめたのは一九三一年のことで、山西逸平を先駆者として、すぐにサンパウロで塩鰯の卸売りをしていた道広、上原牛助、仲真次牛(なかまじ・ぎゅう)、仲真次牛助なども移り住むようになった」(同二百七頁)とある。最初は「ダシ粉」と呼ばれる乾燥鰯の粉末、その後、鰯の缶詰産業が起きた。体調を崩した先駆者の山西さんは、一九四〇年に塩鰯や鰯節の事業を蛭田徳弥さん(後のパウリスタ新聞社主)に譲り、さらにその後、蛭田さんの缶詰工場は、仲村ツル子さんに譲られ、当時としては最大規模の生産を六〇年代から八〇年代にかけて行っていた。最盛期には、二十二~二十三カ所もの鰯加工工場がたち、一大産業を形成していた。同島の最古参の上原ブンゾウさんによれば、最も日本人が多い時で三十家族、一九六〇年代だという。現在は、島とアングラ市内を合わせても三十家族ていどだという。しかし、六〇年代後半から徐々に漁獲量が減った。あれほど魚影の濃かった海だったが、長年乱獲を続けた結果、ついに枯渇してしまった。八〇年代には工場をたたんで転出する人が増え、八九年頃からポウザーダのような観光業が中心になった。上原さんいわく、現在は日系のポウザーダだけで八軒あるという。午後二時、波止場で全員が「ふるさと」を海に向かって合唱し、アングラ・ドス・レイスのホテルに戻った。参加四回目、パラナ州マリンガ在住の草川一郎さん(77、二世)は「テレビではリオといえばファベーラばかりのイメージだが、実際見るととてもきれいだった」との感想をのべた。☆ ☆翌十一日は帰路、昨年創立六十周年を祝ったモジ市のイタペチ植民地へ向かった。会館では、モジ西本願寺の清水円了導師により、先亡者約百二十人を顕彰する物故者法要が厳粛に行われ、本物の位牌が並べられた仏壇に向かい、一行は列になって焼香し、最後に老人クラブの坂本定次会長が閉会の辞をのべた。スザノ生まれの武吉行雄ネルソン会長(45、二世)によれば、昨年六回目だった柿祭りは今年から取り止めにする。五月にはヤキソバ祭り、七月にはスキヤキ祭り、十月にもう一つイベントを検討しているというので忙しい。現在六十三家族の会員がいるが、全部では七十五家族ぐらい日系人が同地区にはいると推測される。「四十五周年にやったような日系実態調査を今年もできたら」との抱負をのべた。同地在住四十四年の荻野茂さん(87、兵庫)は、「ここは永住の地、ええとこです。遠くから先亡者に線香上げに来てもらってありがたい」と手を合わせた。一行は、最後に同地区内にある「花の杜(もり)」公園へ立ち寄った。モジ市は伯国最大の蘭栽培地であり、年間八十万鉢が出荷される。観光農村化を図るために、芳賀七郎さんが七年前に始めた同公園には蘭即売場があり、一行は最後の買い物に勤しんでいた。午後七時半には、聖市リベルダーデ広場に帰着。三々五々、家族などに出迎えられ、今回も参加者は充実した表情で帰路についた。(終わり、深沢正雪記者) 写真=イタペチ植民地での先亡者供養で焼香する一行 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
次回の県連ふるさと巡りは九月。 アマゾン入植八十周年式典の三会場訪問を中心に行われるのは既報の通り。ところが、ツアーを組んでいるサービス・グローバル旅行社によれば、「皇室ご来伯の可能性もあり、現地式典の開始時間が二転、三転している関係から、出発日時が当初の十六日から一日早まった」という。 十五日午後に聖市を出発し、夜中にベレン到着。そのままバスに乗って、十六日早朝にトメ・アスーに着くように調整されている。しかも、参加者数は通常百人程度だが、今回はすでに百四十人に膨れ上がっており、みんなで盛大に祝う八十周年になりそうだ。
ニッケイ新聞 2009年3月25日付け 「みんな親切にしてくれるから一回行くと続けて行きたくなる。今度は終いかと思いながら、もう三回目」。そう原口ますこさん(80、熊本)は笑う。十日朝、一行はイーリャ・グランデに向かっていた。コリンチャンスで活躍する有名サッカー選手の別荘が立つ小さな「ロナルドの島」を右手に見て、一行を乗せた船は、高級保養地アングラ・ドス・レイスの鏡面のような内海を進む。ガイドはあの島は某歌手、こっちは政治家と説明に忙しい。三百六十五もの島があり、七割が有人だ。原口さんは一九六一年にパラー州トメ・アスー移住地に入り、十年をそこで過ごした。「私たちが入植した頃は全盛期で、パトロンの家は御殿のようでしたよ。でも一~二年で根腐れ病が出てきて…」。そのため、七〇年代最初に出聖した。波のない海面を見ながら快い風を浴び、原口さんは懐かしいアマゾン川を思いだしているようだった。☆ ☆正午前、パッサ・テーラ地区の、交流会の会場となるポウザーダ・マリア・ボニータの真ん前の波止場に船は着いた。アングラ・ドス・レイス・クラブの波田間ヨシオ会長(50、三世)ほか八人が待っていた。「平日で仕事があるから、あまり集まれなかった。でもみなさんを歓迎する」と同会長が申し訳なさそうにあいさつし、長友団長が続いた。同会長の妻・ハツコさんが、自身の父親で最古参の入植者の上原ブンゾウさん(75、二世)を横に、簡単な入植史を説明した。「おじいさんは六歳でリンスから移転し、そこから家族の歴史が始まった」。三四年の入植当時、ほとんど沖縄県出身者だった。一部でこの島の反対側にあった刑務所に勝ち負け抗争当時に拘留された人が連れてこられたとの噂話があったので、乾杯のあと、上原さんに直接、確認すると、「ここにはブラジル人政治犯だけ。日本人はいなかった」と証言した。しかし、「戦争中、海岸部には敵性国人は住んではいけないことになり、私の父はドイツ人移民と一緒にニテロイに拘留された」という興味深い話をはじめた。四四年頃に父、上原牛助さんら家長だけが警察に連れて行かれた。その少し前、四二年には母カメさんが四十二歳で亡くなっていた。「なぜ父が捕まったのか、なんの説明もなかったんですよ。その時は。島にはラジオも新聞もありませんでした。世界で何が起きているのか、私たちはまったく知らなかった」。突然の拘留に、残った家族は心底驚いたという。「後から知りましたが、戦争だったらしかたないと思いながらも、残された私たちは、日本に戻るかどうかで大変悩みました」と苦難の日々を振り返る。「父は当初、お金を儲けたら沖縄に帰るつもりでした。いつもサウダーデを強くもっていたようでしたが、七三年に七十六歳で死ぬまで、結局、帰る夢は一度もかないませんでした」一九一八年に二十歳ぐらいで渡伯した。出身は両親とも沖縄県糸満市だ。郷里でも漁師をやっていたので、伯国でも、と考えていた。「父は拘留所で、ブタの餌やりをするなどして四カ月を過ごした後、無事に帰宅した」という。(つづく、深沢正雪記者) 写真=島での戦争体験を語る上原ブンゾウさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
ふるさと巡りの昼食時、南麻州カンポ・グランデから遠路参加している名嘉正良さんの前に座った。 最初の入植地は大変な僻地で、土地も痩せており、数年で全員が退去したことで有名なカッペンだ。 「別に苦労したとか思わなかったね。沖縄で戦争も体験してきたし」という言葉が逆にずしんと響く。「目に見えんぐらい小さいボハシュード(ぶよ)がいてね、寝ている間に顔とか刺されて、起きたら人相変わってるなんてこともあったね。昼間重労働しているから、ドロのように寝ていて刺されても気付かないですよ」。 何気ない昼食時にこんな入植話が聞けるのは、まさにこの旅行の醍醐味か。
ニッケイ新聞 2009年3月25日付け 斉藤悟琉舞道場(斉藤悟代表)と沖縄県人会が主催する琉球芸能公演「絆~心を結ぶ踊り(KIZUNA:CORACOES UNIDOS PELA DANCA)」(呉屋春美実行委員長、監修=斉藤悟、レアル銀行協賛)が二十二日、聖市の文協大講堂で行なわれた。沖縄の歴史を創作舞踊で描く同公演。県系子弟たちが中心となって、伝統芸能を残しながら、日本本土、ブラジルの文化との融合まで織り込んだ新鮮な舞台に、会場から盛んな拍手が送られていた。祖母が沖縄出身の斉藤代表は幼い頃から玉城流扇寿会で琉球舞踊を学び、県費留学から帰国した翌年、〇六年に同道場を開設。一昨年には沖縄県人会館で発表会を行ない約八百人が訪れた。今回は会場の二階席まで満員、千三百人以上が詰め掛ける人気を見せた。今回の作品は、琉球王朝の始まりから、明治時代の日本への編入、そして第二次大戦の沖縄戦と戦後のアメリカ統治、一九七二年の本土復帰から現代へと至る沖縄の歩みを創作舞踊、歌と太鼓で描いたもの。そこには「沖縄の人はいつの時代も歌と踊りを忘れることがなかった」という思いを込めたという。幕開けでは、五百年前、琉球王朝の首里城建設のため伐採した木材を運ぶ様子を歌った民謡「国頭サバクイ」にあわせ、レキオス芸能同好会がエイサー太鼓を披露。王朝の発展とともに生まれた古典芸能として宮廷舞踊の「四つ竹」が続き、さらに庶民の間で生まれた芸能として、豊作を祈る「繁盛節」、豊漁を祈る「豊漁」などが次々と舞台を彩った。時代は移り明治時代、日本に編入され沖縄県となった第二部「大和の世」では、沖縄に入ってきた日本本土の文化として日舞の花柳寿美富浩さんと門下生が登場。よさこいソーランをエイサー太鼓でアレンジするなどの試みも。そして一九四五年、唯一の地上戦となった沖縄戦を描く場面へ。薄暗い照明、爆撃や米軍との戦闘、死者の映像がスクリーンに映し出される中、旅立った夫を思って糸を巻く若妻の舞い「かせかけ」を斉藤代表が踊ると、会場は静まりかえり、やがて大きな拍手に包まれた。民謡教師の米須正さんが、物資のない時代に生まれた空き缶で作った三線で、戦後の収容所で生まれたという「屋嘉節」を演奏。戦後、アメリカ統治下の場面に移ると、一年間ブラジルで音楽活動を続けてきた歌手の具志恵さんがギター奏者のフラビオ・ラーラさんと三線で共演、会場を盛り上げた。伝統的な琉球舞踊を中心にしながらも、音楽のアレンジやアップテンポのダンスを交えた同公演。ストーリー性のある舞台に加え、エイサー太鼓とアラブのベリーダンスの共演など、多民族国家ブラジルならではの演出もあり、来場者を楽しませた。「世界に一つだけの花」に続いて、出演者全員で「絆」を踊り、三時間半の公演はフィナーレ。関係者一人一人に花束を渡した斉藤代表は、涙声で「ありがとうございました」と来場者に感謝の言葉を述べていた。公演後は出口に並んだ出演者と握手を交わす人たちの長い列ができた。琉球舞踊との共演に初挑戦した花柳寿美富浩さんは、「習慣も違うし、いい勉強になりました。たいへん良くしてもらい、人の温かみを感じた」と笑顔。会場を訪れた斉藤代表の祖母、新垣春子さん(73)は「嬉しくて、涙でいっぱいになりました。これが自分の孫かと思うくらい」と喜び、「皆さんのおかげです」と話していた。
■人マチ点描/53年ぶりの感激の再会 ふるさと巡り参加者同志で偶然の出会いがあった。1956年9月11日にサントス到着のオランダ船チサダネ号の同船者が、リオ市のコルコバードの丘に登る登山電車の駅で、下船以来、実に半世紀ぶりの再会を果たした。 渡辺文子さん(82、福島)と再会したのは、上原正一さん(74、沖縄)とその妻トヨさん(71、同)、弟の上原正昌さん(69、同)の3人だ。 トヨさんは「桑鶴さんがダーバンで、よその軍艦に上がって大砲ぶっ放して裁判になり、終わるまでそこで一週間またされた。結局は『外国で勉強中』とのことで無罪放免だったけど、一時はどうなることかと心配したね」と鮮明に思いだす。今でこそ笑い話になったが、当時は大変な話題をコロニアに振り舞いた一件だ。 そんな思い出で話が弾み、正一さんが「うれしいですね、53年ぶりで」というと、渡辺さんも「半世紀は長い。よかった。滅多に会えない」と固い握手を交わした。 お互い若かった半世紀前に過ごした船中の日々の記憶は鮮烈だ。移民にしか分からない〃同船の絆〃は、かくも強い。(深)
ニッケイ新聞 2009年3月24日付け 「いやあ、ひょっこり会うもんですね、びっくりしました」。リオ在住三十年になる斉藤光さん(71、群馬)は以前、一九六〇年代にミナス州イパチンガでウジミナス創立時に一緒に働いていた仲間とも、ふるさと巡り一行との交流会で偶然再会した。さらに五七年の同船者の知人とも二十年ぶりに再会し、驚いた様子でそう語った。リオ日系協会の交流会では、懐旧談に華を咲かせる姿があちこちでみられた。お互いに予想以上に懐かしい人や縁者がいたようだ。市内で書店を経営していた太田郁子さん(82、東京)もその一人だ。ふるさと巡り参加経験者であり、「私が一行に加わった時もあちこちで歓迎され、感激しました。今回は、歓迎する側の立場でお迎えしようと張り切ってきました」と微笑む。ふるさと巡り三十一回中の二十七回も参加し、最多回数を誇るソロカバ市在住の和田一男さん(84、二世)は、太田さんに持参した昔のふるさと巡りの写真を見せながら、懐かしそうに話し込んでいた。一昨年、ポ語版『移民の父 上塚周平』(能美尾透著、ニッケイ新聞)を出版した時に、妻の園尾ローザ登喜子さんが翻訳したが上梓前に亡くなり、その代わりに出版記念会でサインをしていた夫の彬さん(70、福岡)も顔を出した。リオ市内で日本語学校を経営している。「面白いですね。みなさんと話していると、ブラジルより日本の終戦当時の話になる。やっぱり戦争は忘れられないんですね」。聖州サンビセンテ市で金曜だけ営業する風変わりなレストランを十七年間やっている一人、有坂艶子さん(73、二世)は「偶然、十五年ぐらい会っていなかった編み物の藤本先生に会えて驚いた」という。藤本さんは以前、サンビセンテで編み物教室をし、有坂さんも習っていたという。午後一時半頃からリオ日系太鼓のショーが始まった。〇三年から活動をはじめ、昨年の聖市百周年式典の千人太鼓にも参加した。演奏者の七~八割が非日系人だ。最後に、同協会役員がステージに上がって「北国の春」を熱唱してみせ、それに応えた県連一行は恒例の「ふるさと」を全員で歌い、惜しみながら会場を後にした。参加七回目の原ルシアさん(74、二世)は「みんなとても良くしてくれた」と満足そうな笑みを浮かべた。〇四年までサンパウロ日伯援護協会の事務局長を務め、現在は専任理事の山下忠男さん(75、京都)夫妻は初参加だ。一九五三年に渡伯し、同年末から一年間、この会館のある地区周辺に住んでいたという。「昔はほとんど日本人がいなかった。ラランジェイラスのペンソン一力とか懐かしい。そのおかげでポ語を覚え、後に援協で役にたったんですよ」。青春時代まっさかりの十九歳、伯国生活の原点を思いだしていたようだった。(つづく、深沢正雪記者) 写真=「北国の春」を熱唱するリオ日系のみなさん(右から2番目が鹿田連盟会長、右端が松浦ミノル協会会長) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
岩手県人会の二〇〇九~二〇一〇年度の役員は次のとおり。 ◎名誉会長=菊地義治、◎相談役=熊谷泰志、高橋昭二郎、栃沢千秋、亀ケ沢梅吉、佐々木憲輔、千葉直 義、高橋義見、高橋凡児、伊藤春野、千田まさ、 ◎会長=千田曠暁、◎副会長=多田孝則マウロ、田口精基、藤村光夫、◎書記=藤沢裕、峰きよこソフィア、会計=昆野昭仁ワシントン、平野マリア、◎監査役=(正)及川益夫、大志田寿、児玉道義ミルトン、(補)川村益夫ネルソ ン、手嶋ジョージ、袰岩毅、◎理事=高橋宏二カルロス、渡辺正、山口しのぶセシリア、千田輝海、袰岩毅、千 田健一ロベルト、亀ケ沢アメリア、◎地方理事=菊地達郎、藤堂勝次、猫塚司、村松弘一。 なお、二OO九年度の四月以降の主な事業としては△四月二十六日=第四十回会員交流懇親会、△五月十五日~十七日=杉村濬駐伯公使墓参旅行(リオ)、△五月三十一日=第二回わんこそば祭り、△七月十七日~十九日=日本祭り参加、△八月=第四十一回会員交流懇親会。
ニッケイ新聞 2009年3月21日付け 八日朝、天高く秋晴れの中、爽やかな空気のコパカバーナ海岸の波打ち際で参加者の一人、中野文雄さん(87、福岡)は、「七十年間ブラジルにおるが、リオは初めて。冥土の旅のいい土産ですよ」と呵々(かか)大笑した。一行はリオの誇る観光地コパカバーナ海岸のレメ・オットン・ホテルに宿泊。全員が海際の部屋で、伯国を代表する美景を堪能した。しかもここは、昨年六月に百周年を記念して静岡県浜松市から凧揚げ使節団一行が来て、真ん前の砂浜で揚げたという日本に縁のある場所だ。午前八時に出発し、キリストの像で有名なコルコバードの丘へ。〇七年七月に「世界七美景」に選ばれたほど有名だ。ドン・ペドロ二世の治世下の一八八四年に開通した由緒ある登山鉄道に乗り、エレベーター、エスカレーターを乗りついで、階段を使わずに頂上(標高七百十メートル)まで到着した。三十八メートルもあるキリスト像は、登山鉄道によって四年がかりで資材を運び上げ、一九三一年にようやく完成した。ちなみに奈良の大仏は約十五メートルなので二倍以上ある。昨年、皇太子さまも登られた名所ポン・デ・アスーカルからマラカナン蹴球場、町の隅々までがくっきりと一望でき、一行は記念撮影に忙しい。「これだけ眺めが良いのは、五回来て一回でしょうね」。ガイドの戸田エリオさんは、そう絶景を評した。☆ ☆登山電車の始発駅に程近い、高級住宅街のコズメ・ヴェーリョ区にリオ日系協会の会館はある。元石川島播磨重工の社員寮で、向かいにはグローボテレビ局の創立者ロベルト・マリーニョの生家があり、いまも一族が住んでいる関係で治安がいいという。正午から交流会が始まった。今年新会長に就任した松浦ミノルさん(64、三世)がリオ日系の活動紹介をしたのに続き、長友団長があいさつし、リオ州日伯文化体育連盟の鹿田明義会長(72、長野)が同地日系の歴史を語った。リオ州連盟は今年五十四年目で、首都時代の設立だ。日本国大使館がブラジリアに移転したのを受け、日系人の団結を落とさないようにとの新総領事の提案で、七二年三月十一日にリオ日系協会が創立されたという。「現在のリオ日系の役員はサンパウロやパラナに生まれて、ペトロブラスやヴァーレに就職してリオにきた優秀な人ばかり」。松浦会長もペトロブラスだ。リオ州には南部を中心に二十二団体があり、リオ州日伯文化体育連盟が統括する。ただし、昨年の百周年のような行事には「四団体」であたる。同連盟、リオ日本商工会議所、歴代伯人会長をいだく親日家伯人の集まりの日伯文化協会、それにリオ日系協会だ。同州の日系人口は五世まで入れて一万五千人。うち市内には五千人だ。昨年六月、麻生太郎日伯議連会長を団長とする議連慶祝団を迎え、ラゴア区のカンタガーロ公園に黄色イッペー百本の植樹をした。「三年したら名所になるよ」と鹿田会長はいう。同地の誇りは、なんといっても植物園内の「清苑」だ。紀宮親王がご来伯された一九九五年十一月十日に開所式が行われ、それにちなんで命名された。九七年に天皇陛下もお立ち寄りになり、秋篠宮さまも園内に植樹されていたものを清苑に移し、昨年は皇太子さまが植樹をされた。「皇室お手植えの木がこれだけ揃っている日本庭園は珍しいはず」と鹿田会長は胸を張る。宮本アキオさんの音頭で乾杯をし、一行は、会長みずから早朝から準備したシュラスコ、同地婦人部が用意した昼食を堪能した。(つづく、深沢正雪記者) 写真=コルコバードのキリスト像の前で記念撮影 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
ニッケイ新聞 2009年3月21日付け 愛知県からブラジル愛知県人会(豊田瑠美会長)を通して、三千九百五十冊もの新図書が文協図書館に届けられた。「若い人をはじめ多くの人に活用してもらい、日本文化に触れてほしい」――。昨年八月に挙行された同県人会創立五十周年記念式典に出席するため来伯した際に、神田真秋知事はそう話しながら上原幸啓文協会長へ目録を手渡したが、それが実現した。「図書館ができて五十年経つが、これだけ多くの新図書が寄付されるのは初めてのことでは」と栗原猛・文協会長代理。半年間は「愛知県コーナー」を設置し、多くの人の手に触れるようにしていく。豊田愛知県人会長は、「県人だけじゃなく、皆さんに使って頂ける。とても嬉しいです」と喜びを表す。十七日夜、ダンボール箱五十四箱が雨の中文協に届いた。中身は移民関係図書にはじまり、愛知県関係資料、生活・社会情報資料、日本文化資料、日本語学習、辞書・事典、文芸書、児童書、絵本、漫画など。「新しい本を中心に」との神田知事の言葉通り、厳選されている。愛知県関連の図書では行政資料だけでなく、戦国武将に関する本からプロ野球の中日ドラゴンズ関係図書、名古屋近郊の車窓風景写真集まで、多岐にわたっており、県人のみならず一般の人も楽しめそうだ。翌十八日に同図書館で行われた贈呈式には豊田県人会長、栗原会長代理、小森広文協図書委員長、図書館の職員が参加した。寄贈された約四千冊で、同図書館の在庫は五万冊以上になった。小森図書委員長は、「本当にありがたい。大いに皆さんに活用してもらいたい」と話し、すぐにでも新しい書棚を購入、『愛知県コーナー』を半年間設置して、登録が済んだ図書から貸し出す意向を説明した。また、登録済みでなくても、その場で読むことができるよう便宜を図るという。図書館職員の皆川ルイザさんは、「新しい本がこんなに大量に届けられたのは初めて。本当に嬉しい」と喜ぶ。皆川さんによれば、現在ある図書は寄贈されたものもたくさんある。古い図書が多いものの、遠くから二週間に一度通ってくる高齢者や、日本語学習のために通う若者もいる。「おかげで、ますます日本の本を読む楽しみを感じてもらえる」と皆川さん。同図書館は文協会員であれば一人五冊まで二週間貸し出し可能。月曜日から金曜日は午前九時から午後七時まで、土曜日は午後一時まで。問い合わせは、電話(11・3208・1755/図書館)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月21日付け 滋賀県人会(山田康夫会長)は二十二日午前十時半(第二次招集)から同会館(ブラス・クーバス街415)で二〇〇九年度定期総会を開く。議題は〇八年度事業・会計報告および事業計画・予算案審議など。当日正午から会場で、滋賀県から来伯する県中学選抜チームの歓迎会も行なう。問合わせは同会(11・5571・9659)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月24日付け 滋賀県人会(山田康夫会長)の二〇〇九年度定期総会が二十二日午前に聖市の会館で開かれた。総会後は今年も、滋賀県から来伯中の県サッカー中学選抜チーム一行の歓迎会が開かれ、親睦を深めた。昨年は三月に県選抜少年サッカーチーム、六月に海上自衛隊練習艦隊の県出身者、七月には母県の教育使節団などを迎えた同会。九月には同県日野町とエンブー市の姉妹提携二十五周年、移民百周年を祝うため、同町から副町長らが来伯したほか、十月には会員・有志により県人会創立五十周年式典を開催した。収支は収入約十三万八千レアル、支出約十三万レアルで、約七千八百レアルを繰越し。今年度予算は約七万二千八百レアルで、いずれも承認された。総会後、正午から県選抜少年サッカーチーム(十四歳以下)の歓迎会が開かれた。今年は十四歳の選手十七人、指導者二人の十九人が来伯。二十三日から行なわれるアルモニア学園主催の日伯ユースサッカー選手権「第十四回JALカップ」に参加するほか、三十日までの滞在中、ブラジルでのトレーニング、試合観戦などを経験する。同大会ではコリンチャンスやサンパウロなど四チームと対戦する予定。キャプテンの森祐介さんは、「ブラジルはサッカーの先進国だけど、負けに来たわけじゃないので、勝ちに行きたい。いろいろ学んでテクニックを磨きたい」と話す。団長代行の石田明生さん(大津市立北大路中学サッカー部顧問)は、「去年は一点も取れなかったので、今年は勝ち負けではなく点数を取りに行きたい」と抱負を語るとともに、「能力の高いブラジルの選手に技術がどれだけ通じるか、子供たちに意識してほしい」と期待を表わした。母県からの少年サッカーチーム来伯は二〇〇一年から始まり、今回で八回目。同県人会では毎回、総会とあわせて歓迎会を開いている。山田会長は、「子供たちにとっても外国を知るのはいい事。将来の交流にもいいと思う」と話す。歓迎会では食事を囲んで親睦を深めたほか、選手一人一人が自己紹介をし、それぞれ手品やリフティングなどの余興を披露。最後は全員で君が代を歌って和気藹々とした雰囲気のうちに終了した。
足裏には身体の臓器や部位のツボが集中している。刺激して痛いところは、その臓器や部位が弱っているところ。毎週金曜日、聖市内のある県人会館の一室で、二人の女性が足裏マッサージを無料で奉仕している。腕は確かで、膝が悪く杖が無ければ歩行困難な人がマッサージを受けて帰るときは杖を忘れるほどで、「杖忘れ足裏マッサージ」とも言われている。噂を聞いて回を重ねるごとに希望者が増えている。 聖市リベルダーデ区の宮城県人会会館二階(ファグンデス街一五二番)で足裏ツボ・マッサージを施術してくれる。 マッサージはベッドを使用せず、患者と対面で椅子に座り、二人は膝の上にタオルを広げ患者はそこに素足を乗せる。 使用するのはツボを刺激する小さな金型の器具と指だけ。しかし、足臭が凄い人もいて、消臭用の香水や治療後足につけてマッサージする乳液など全て二人の負担。見かねた患者からの薦めで、最近は会場に寸志箱が置かれるようにななった。 来場者は圧倒的に高齢の女性が多く、ツボを刺激され良い気分で二人に嫁の悪口をこぼすし、身体も精神もリラックス、晴れ晴れとして家路につく。 谷口、鈴木の二人は「足ツボマッサージは何回も通って効果が出る」と薦める。
子どもたちに樹を植える楽しみを 『京都ブラジル友好の森』造成 ベレン日本の有志、地元の児童と共同で「世界の子供たちに木を植える楽しみを体験させたい」―。 今月十一日、パラー州ベレン近郊のサンタ・バーバラで「京都ブラジル友好の森」創生の植林活動が行なわれ、日本からの有志二十二人と地元小学生ら約二百二十人が集まり、その大切さを共感しあった。 樹木40種類、1300本を植樹 教育に生かしたい森と人間の共生 同プロジェクトは、中国やボルネオなどアジア諸国で植林活動を実践する「NGO緑の協力隊・関西澤井隊」代表である澤井敏郎さん(七七、京都府出身)が、移民百周年と同隊創立十周年を記念して提唱。今回、ブラジルの在来種四十種類約千三百本を植え、「森づくり」を実践していく。 澤井さんは、「砂漠緑化の父」と言われた故・遠山正瑛氏(三年前に九十七歳で死去)らとともに中国での砂漠緑化運動を推進。九九年に同隊を創設し、中国・内モンゴルの砂漠地帯をはじめ、北ボルネオの熱帯雨林地帯での植林を通じて、自然林が激減している現状を目の当たりにしてきたという。 「砂漠地帯と言っても、不毛の砂漠ではなく、かつては緑の大地だったのです。砂漠が地下水の蒸発を防いでいることは一般にはあまり知られていません。また、熱帯雨林でも一回伐採すれば回復するのに相当な時間がかかります。大切なのは人間が木を植え、少しでも自然に手を貸すことなのです」と澤井さんは、植林の重要性を強調する。 十一日午前、サンタ・バーバラの育苗センター内の一ヘクタールの土地で行なわれた記念植樹には、日本から参加した同隊の有志と地元の三つの小学校から合わせて約二百二十人が参加。イペー、パリカ、ビローラなど在来種四十種三千本の植樹予定のところ、この日は約千三百本を植えたという。 また、地元NGOメンバーが子供たちへの環境教育の一環として、植樹の合間に「森の劇」を披露。森の妖精に扮したボランティアたちが、種を蒔いて緑を増やすことの大切さを身をもって表現した。 「京都ブラジル友好の森」が成育するまで、澤井さんは数年ごとにブラジルを訪問する考えを示しており、今後の苗木の管理は、地元のASFLORA(アマゾン森林友の会」が実施していく。 同隊の工藤香代子副代表は、「今回一緒に木を植えた子供たちが、森を大切にするという思いを持って生きてほしい」との願いを込めた。 また、隊員の池上禎一さん(六九、京都府出身)は、「(地元NGOグループの)劇を見て、森と人間との共生が子供の教育につながると実感した」と話していた。 澤井さんは、「植林を通じて、その国の文化を知り、世界の子供たちに木を植える楽しみを体験してもらうことができれば」と、今後も植樹活動を続けていく考えだ。 同隊は十一日の植樹以外に、マナウス、ベレン、リオ、イグアスーなどの観光視察も行ない、十六日夜帰国した。
ニッケイ新聞 2009年3月20日付け 戦前戦後を通し、数多くの移民が渡伯前の思い出深いひと時を過ごした神戸市の旧神戸移住センター。同施設を「神戸市立『海外移住と文化の交流センター』」として改修・整備する事業が進められており、同事業の協力委員会(委員長=西村正日伯協会会長)はブラジルの日系人に募金への協力を呼びかけており、ポ語サイト(www. kobe.org.br)も立ち上げている。トップページには大口寄付者が写真入りで掲載され、協力団体と問い合わせ先、銀行振込による寄付のやり方などが詳細に説明されている。詳しくは同サイトまで。個人一口五十レアル(法人会員は一口百レアル)から寄付を受け付けている。寄付者の氏名は落成後の建物内に記銘される。寄付をした人は、振込み後に氏名を電話またはファックス、メールで各団体まで知らせてほしいと呼びかけている。 【県連口座】BANCO DO BRASIL,Banco Nr.:001, Agencia:1196-7, Conta Corrente :27.458-5, CNPJ:46.568.895/0001-66, Nome da Conta :KENREN –...
ニッケイ新聞 2009年3月20日付け 県連が主催する第三十二回ふるさと巡りが九月十六日から六日間、二十一日まで開催されるにあたり、参加者を募集している。今回はアマゾン入植八十周年を記念して企画され、式典参加を中心に十六日にトメ・アスー、十八日にベレン、二十日にマナウスを訪問する。これ以外にマナウスでは、ネグロ川とソリモエンス川が合流し大アマゾン川となる合流地点への観光もある。旅行代金は、二人部屋が約三千四十レアル、一人部屋が三千七百五十八レアルだが、飛行機の便によって値段が変わることがある。残席僅少。問い合わせ申し込みはグローバル・サービス(11・3572・8990)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月20日付け 「あの炊き込みご飯を作ったのは保科さんだと聞いてきました。あの味は、三重県ではないですか。私が作るのと同じ味がします」会館の裏方で、第一次入植者の保科静江さんを取材していると、一行の多川富美子さん(72、三重)が息せき切ってやってきて、驚いた様子でそう尋ねた。交流会の昼食では、サンタクルース日伯農村協会婦人部の美味しい手料理がふるまわれ、みなが舌鼓をうっていた時だ。すると保科さんは、最初きょとんとした様子だったが、「ああ、私の母が三重県です。あの味は母から教わって、娘に伝えたものです」と答えた。合点がいった多川さんは感激した面持ちで、「郷土の味がしっかり伝わっている」といって、固く保科さんの手を握った。多川さんのふるさと巡り参加回数は二番目、二十六回を数える。こんな出会いがあるから続くのだろう。保科さんは家族と共に二歳半で渡伯、十五歳で同植民地に入植した。ここで結婚し、子供を育てた。その間、サンタクルース植民地の主作物も変遷した。戦後はバナナ栽培が盛んになったが、毎年三月ごろに水害に見舞われたことから、今ではココ椰子やアイピン(マンジョッカ)などに変わってきている。初入植から数年間に三十家族が入ったが、今も残っているのは十四~十五家族だという。同農村協会には七十会員がいるが、中心になって活動しているのは十家族ぐらいだという。保科さんは「みんな、子供を最高学府にやったのが誇り。子供たちは活躍している。苦労はしたけど、今は幸せです」と胸を張る。もう一人の第一次入植者の渡辺一喜さんは、最初に仏式法要をしたイタグアイの文化クラブの会長でもある。そちらは二年遅れた一九四〇年に開発が始まった。渡辺さんによれば、勝ち負けのゴタゴタを避けてサンパウロから、リオの町中で商売をやっていて立ち退き命令を受けた人なども集まり、戦中戦後合わせて百家族ぐらいが入植した。現在イタグアイには三百五十日系家族が住んでいるが一世は十人ほどしかおらず、三百人はデカセギにいっている。文化クラブの活動はゲートボールのみになってしまい、同会館はブラジル人に貸している。二〇〇〇年には第十八回全伯GB親善大会を開催した。州唯一の公式野球場を有する(『リオ州百年史』二百九頁)が、一行が訪れた時カンポは草ぼうぼうで、栄枯盛衰の理をおもわせる光景だった。一九四〇年頃、近隣のピラネーマにも日本人が三十家族入ったという。『リオ州百年史』には、「一九九〇年代初頭までブラジル一番のオクラ生産地となった」とある。この三つの植民地が一塊を形成する。交流会の最後に、恒例の「ふるさと」を全員で合唱、地元の人と抱き合って別れを惜しむ姿も見られた。一行はバスに戻り、一路、リオ市街へ向かった。第十九回からずっと参加しているという有馬照江さん(82、長野)は「ふるさと巡りは普通の観光旅行とは違って、とても興味深いものが見られる」と語り、熱心に地元の人と交流していた。参加者の新川一男さん(74、広島)も、「独裁政権当時のヴァルガス大統領が、コチアに頼んで日本人に野菜を作らせたという話には感動した。コロニアの秘話だよ」と感慨深げに感想をのべた。(つづく、深沢正雪記者)写真=保科静江さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
