06/03/2026

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県民の窮状に県人会が立上がる 14日午後9時26分に熊本県益城町を震源地に震度7の地震が発生。現在も余震は続いており、死者59人、不明者13人、負傷者は千人以上(20日午前現在)にのぼる。この事態を受け、ブラジル熊本県文化交流協会(田呂丸哲次会長)では被災地への義援金募集運動を開始することを決定した。同県人会の田呂丸会長と清原健児副会長、日下野良武理事長、赤木数成書記が来社し、現在の状況を説明した。 同県人会では地震発生から2日後の16日、理事ら20人が集まり臨時理事会を開いた。田呂丸会長は「理事らと相談し、どういう形で母県を支援できるか意見を募った」と述べ、「県人会館を建設時に県からはかなり協力してもらった。また県人会では2年ごとに熊本県に訪問団を送っており、その際は各市町村から大変お世話になっている。みんなの気持ちということで義援金を送ろうということに最終的に決まった」と経緯を話した。 同県からの移民は震源地となった益城町周辺出身者が多い。田呂丸会長の問い合わせに熊本県庁国際課からEメールで返信があり、「まだ(地震そのものの)全体的な被害状況すら把握できておらず、移住関係者にどのような被害が出ているかは分からない」と連絡があったという。赤木書記は「妻の兄弟は全員熊本にいるが、連絡が取れず数日電話してようやく声が聞けた。家は倒壊していないようだが現在は避難所に避難しており、昼間自宅に帰ってきた時に偶然電話に出たようだ」と現地と連絡が取りづらい状況を話した。 19日午前現在で避難者は延べ18万3882人、避難所は855カ所に及ぶ。 すでに同県人会にはブラジル各地に住む同県出身移住者や子弟らから問い合わせの連絡が入っており、「待ちきれなくて会館にお金を持ってきた人もいた」と田呂丸会長は話す。 「熊本県出身者や県人子弟、留学生OB、研修生OBなど関係者一人一人が一つにまとまって、協力していかなければならない」と一行は決意を語った。 義援金受付の連絡先は同県人会「熊本地震」義援金募集係(Rua Guimarães Passos 142, Vila Mariana, São Paulo – SP,...
ニッケイ新聞 2016年4月20日 ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長らは19日朝来社し、「熊本県とは活発に交流を行なっており、大変お世話になっている。今こそ恩返ししたい」と真剣な表情で話した。清原健児副会長、赤木数成書記、日下野良武理事長らと共に来社した。 熊本地震発生二日後の16日午後、同県人会では臨時理事会を緊急招集し、義援金募集運動を決定した。「熊本の皆さんを元気づけたい。日系社会の皆様、日本と関係のある方、ぜひ協力をお願いします」と支援を呼びかけた。 臨時理事会には20人が参加し、義援金募集運動を決定し、現在、専用の銀行口座の開設を交渉中。義援金は同県人会事務所(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)に直接持参も可。寄付者の名前は同県に報告するが、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原副会長によれば、日系社会からも熊本県を気遣う声は多く、遠くはベレンやポルト・アレグレから同県人会に電話で問い合わせが来たという。 赤木書記によると、県庁にメールを送っても返信がなく、フェイスブックを通じて連絡をとったという。また同県の知人に連絡をとったが、「生存を確認するために電話をかけた場合、携帯は通じるが、固定電話はつながらない人が多い。おそらく皆、避難所で待機しているのでは」と心配そうに語った。 本紙の取材に対し、プロミッソン在住の安永和教さん(69、三世)によると、熊本県玉名市の親戚は飲料水などが不足しているだけでなく、「家は無事だったけど、いつ再び地震が来るか分からないから、高齢者も車の中で寝ている状態」だという。 今回の地震では、熊本県益城町で現地時間の14日午後9時26分頃、震度7の強い揺れがあった。その後も16日未明に震度6強を観測、多数の家屋倒壊が見られ、一連の地震による死者は47人以上、県内の避難者数は10万人前後で推移している。 問い合わせは同県人会事務局(11・5084・1338)まで。 □関連コラム□大耳小耳 19日付のNHKニュース電子版によると、今回の熊本地震を受けて、米国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で18日、39の県人会から成る南加県人会協議会が緊急会合で義援金の送付を決定した。今後、他の日系団体にも呼びかけて義援金を募り、被災地に送るという。なお11年 3月の東日本大震災時には、18万米ドルを送っている。伯国の熊本県人会も義援金の募集運動を開始した。米国にならって、当地でも日系コロニア全体で協力し、被災地支援の〃輪〃を広げていっても良いのでは。
ニッケイ新聞 2016年4月21日 竹中芳江さんの家族の話は実に興味深い。「グァポレに到着した時、他の家族はみんな泣いていたけど、母だけは歌っていた。だってアマゾンにきて初めて、家族が全員そろって御飯食べたのよ。あそこにいた3年半で家族の団結が一気に強まった。ある時、日本の祖父から『旅費を全額負担するから日本に帰ってこないか』と母に連絡があったが帰らなかった」ということもあった。 3年半でグァポレを諦めて、二日がかりでクイアバに南下し、そこからサンパウロに出た。 「母はサンパウロで魚の行商をして生活を支えた。手相見はみんな『あんたたち夫婦は分かれる』と言ったが、両親は最後まで別れなかった。母は自分では『苦労した』とかまったく言わない人。そんなお母さんの勇気はすごいと思うの。私にその何分の一かの勇気があればイイなと、今でも思うわ」。肝っ玉母ちゃんというのか。すごい個性的な女性だったようだ。 良江さんの娘ロザナさん(55、二世)は今回の故郷巡りに関して「藤田十作が子供に日本人の精神を伝えたことが、息子たちの立ち振る舞いの上品さから分かった。ノルデステでも日本移民の歴史が残っていることが分かって嬉しい」との感想を述べた。 翌3月13日朝、わざわざブラジリアから参加した吉田富士子さん(67、高知県)に話を聞くと、「とにかく旅行が大好き。故郷巡りも4回目」とのこと。9歳の時、チチャレンガ号で家族移住した。「3年前かしら、トルコにツアー旅行したら、その一週間後にシリア内戦が始まって驚いた。なんといってもカッパドギアが凄かったわね。トルコじゃ全然言葉が通じないかと思ったら、現地人が『奥さん、奥さん』って日本語で言ってくるじゃない。ビックリよ」との体験談を披露した。 ホテルを出発した一行は、途中、アキハース地区で「カーザ・デ・ヘンデイラ(編み物の家)」という土産物センターに立ち寄った。そこでは母娘3代に渡ってセアラ織りをする名物女性マリア・ジウダ・モレイラ・メレイラさん(68)が、実演をしていた。目に見えない早業で、重りの付いた編み棒を左右に行き来させて編んでいく。 なんと1日で50センチしか織れないが、すでに1300メートル分も仕上げ、2千メートルを目指しているという。「ギネスブックに入れるのよ。母から教わって、娘にも伝えた。もちろん孫にも伝えるわ」と誇らしげ。 午前10時過ぎにはアラカチに立ち寄り、エビ養殖場「ミランテ・ドス・ガンボアス」を見学した。約33年前に創立し、630ヘクタール分の養殖池があるという。90日で出荷可能に育ち、毎日25トンを「Maris」ブランドで生産販売している業界最大手の一つだ。 そこで昼食時、フランカからの参加者、中村伯毅さん(ひろき、82、二世)と話をしていると、「父は終戦直後、ホリサワという帰国手続き詐欺師に20年間も財産を騙されていた」という驚愕の話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
14日午後9時26分に熊本県で発生した地震は震度7を記録。日本時間16日の午前1時25分頃には阿蘇山付近で震度6の余震が起きており、現地では予断を許さない状況が続いている。 熊本県人会の田呂丸哲次会長は本紙の電話取材に対し「今朝熊本県庁へメールを送った。まだ会員からの問い合わせはないが、16日に丁度理事会があるので、そこで意見や質問が出てくると思う。全員で話し合って今後の対応を考えて行きたい」と回答。 また「テレビで現地の様子を見て驚いている。あんな光景は見たことがない。日本は美しい良い国だが、震災がある恐ろしい場所でもあると改めて感じた」と話した。 続けて「2年前には熊本県内の13市町村を回り、地元の方々には大変お世話になった。手紙や物資など、何かしらを送りたいと思っている」と述べ、対応を検討していく。 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)では地震への対応についてはまだ未定だそうだが、熊本県人会からの要請があれば協力していくという。 サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月20日 12日の夕食時、大崎康夫さん(77、高知県)=ピエダーデ在住=に話しかけると、「僕は葉山村(津野町)出身、下元健吉と同じ部落なんです」との言葉にググッと心を引き寄せられた。 「川向いが下元の実家。子供のころから下元の成功譚を聞かされ、刺激を受けてきた。コチア組合の監事の川上嵩(たかし)さんが昭和25年頃に一時帰郷して、清酒を買ってきて二晩も村人を集めて大宴会をやったんです。当時は闇で焼酎を買って飲むのがせいぜいの時代でしょ。ブラジルはなんと景気がいいことかと、村中に強く印象付けました」と思い出す。 「源平合戦で平家が逃げ込んだような山奥だから、畑と言っても段々畑ばかり。畑の横幅より壁の高さの方が長いぐらい。当然、機械も入らない。戦後、アメリカの農業紹介の映画とかみて、外国に出て広い所で自由に農業をやりたいと思っていたところだった」。 1954年9月、中学を出たばかり15歳だった大崎さんは、親戚の呼び寄せで念願の渡伯。イビウナにあった親戚の農場で25歳まで働き、独立してピエダーデに農場をかまえた。「当時、ブラジル来るのは〃永遠の別れ〃だから、水杯ですよ。同じ部落から30軒も来てますよ。みんなイビウナ、サンミゲル、ピラールとかに入った」。 当時、年に一回「葉山会」という集まりがあった。葉山出身者の家に順繰りに集まり、親睦会を開いた。「下元健吉さんも来て、皆で一緒に酒を飲んだ。誰とでも気さくに話す人だった。コチアが続いていたら、コロニアも違っていただろうと思うよ。コチアが解散してからコロニアもバラバラになってしまった」。 1986~90年の頃、バイーア州バレイラスのセラード開発に入った。「開拓が終わって、あとは肥料を入れて種を植える段階になった時、組合に融資申請したら『自分の力でやれ!』との返事。当時はインフレ率1千%の時代、銀行から借りたら大変なことになる。涙を呑んで撤退せざるを得なかった。広い土地でいい勉強をさせてもらったよ。50万ドルぐらい突っ込んだかな。今は柿と栗だけ続けているよ」と豪快に笑った。 参加者一行にこそ、玉手箱のようなコロニアの歴史が詰まっていると実感させる話だ。 別のテーブルにいた一行の竹中芳江さん(旧姓北川、74、熊本県)にもとに移り、話を聞き始めると、なんと「グァポレ移民」だという。北伯のロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ(旧グァポレ)移住地のことだ。戦後移住が始まった翌年1954年に12歳で家族と入植した。 何気なく「なぜ移住を決断したんですか?」と問うと、「両親は韓国からの引揚者なんです。父は何人も使用人がいるような金持ちの家庭に育ち、サント(聖人)のような人だった。ただし、かけ事が好きで、競馬、競輪に目がなかった。私たち兄弟6人をほったらかしにして、週に1回しか風呂に入れてくれないような生活。母(北川房江)は『こんなだったら私は出て行く』って。ブラジル移住は母が言い出して決めたの。母は父のかけ事癖を辞めさせるためにアマゾン移住したんじゃないかしら。だってアマゾンにはないでしょ、かけ事するようなところが。移住が決まった時、母は布団の上をキチガイのように飛んで喜んでいた」という驚くような話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
慰霊祭有志一行はピウン植民地を後にし、午前10時ホテルに戻った。ふるさと巡り一行は同11時にホテルから出発することになっているので、記者は最後の1時間だけでも自由時間を取りたいと思ったが、なんだかんだと時間はあっという間に過ぎ、ホテルを出発した。レストランでの昼食後、時間があれば「プライア・ドス・アルチスタス」の見学だったが、先を行く第2グループのバスが空港についていないという連絡を受け、時間に余裕を持つため空港に直行となった。 午後2時45分頃サンゴンサーロ・ド・アマランテ新国際空港空港に到着。2年前にできたばかりの空港は真新しく、近代的なデザイン。周囲には森林が広がる。フォルタレーザから一緒だったバスの運転手ともここでお別れ。旅行中、記者は彼らと一緒に温泉で遊んだり、何かノルデステ地方土着の魔術のようなものをかけられたりと交流する機会が多かったので別れるのが名残惜しかった。 チェックインをし、飛行機は予定通り午後5時13分に空港を離陸。第3グループはリオで乗り換え、同11時グアルリョース空港に到着した。グループの何人かはここから直接帰宅し、残りのメンバーはバスでリベルダーデへ向かい、現地解散となった。 全行程を終えた玉城道子団長は「病人も事故もなく終了できて良かった」と安堵の表情。 仲曽根正信さん(72、沖縄)は「フォルタレーザに日本庭園があるとは思いもしなかった。ノルデステ地方の日系人と交流できて良かった。映画やテレビでよく見るカレカ丘を見れたのも思い出の一つ」と旅を振り返った。 大崎康夫さん(77、高知)は「クラッシャーに出身地だけでなく、現住所も書かれていると参加者同士の話がもっと盛り上がるのでは」と今後改善して欲しい点を挙げた。(おわり、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月20日付
ナタールでは、1年のうちに雨が降るのはわずか1週間程度だという。最終日は朝から大粒の雨が降るあいにくの天気となった。この日はピウン植民地での慰霊祭の予定だったが、前日の交流会の帰りが遅くなったことに加え、連日の予定を早朝からこなす参加者らの疲労度を考慮して有志のみが参加ということになった。 午前7時半ホテルのエントランスに有志18人が集合、同植民地へと向かった。 慰霊祭は、同植民地に住む松苗賢治さん(72、神奈川)の敷地で行われた。入植時に日本政府から与えられた13ヘクタールの土地と植民地を去った家族の土地の一部を含むという敷地は広く、たくさんの植物が生い茂り、釜戸まであった。 ピウン植民地には1956年に10家族が入植した。メロン栽培で成功したが水害などが続き、ほとんどの移住者は違う土地へと移って行った。現在は2家族しか残っていない。前日の交流会で出会った宮川富男さん(77、長野)は1年後の1957年に入植したが、「日本を出る時は、とにかく果樹がよくできると聞いていた。しかし来てみたら果樹ではなく、ブラジルの果物のカジュだった。思っていた土地とは違うなと思った」と同植民地について話していた。 慰霊祭はキリスト教形式で行われ、慰霊祭後には玉城道子団長から松苗さんに県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットが贈られた。 松苗さんは8人兄弟の末っ子として生まれ、11歳の時も一家でピウン植民地へ入植した。父親は常々小さい日本ではなく、どこか広い国へ行こうと話していたとし、長兄や姉と相談しブラジル行きが決まったそうだ。 入植後は農業を始めたが上手くいかず、養鶏を始めた。しかし、何をしても上手くいかなかったため、兄姉は同植民地を出て行った。松苗さん自身はペドロ・ブラスで定年まで働き、現在も夫人のジゼルさんと2人で住み続けている。 「はじめはポルトガル語が分からず困ったが、ナタールの人は皆親切だったからいつも助けてくれた。苦労という苦労は感じたことがない」と入植当時を語ってくれた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月19日付
記者個人としては、ナタールでのリオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会で、本紙読者である請井正治さん(79、静岡)と出会えたことが印象深い。サンパウロから3000キロ離れたナタールでも本紙を読んでくれているとは、ありがたいことである。新聞が届かないことがあることと、誤字脱字が多いことのお叱りを受けてしまったが……。 請井さんは、第1次7回のコチア青年団員として1957年に「ぶらじる丸」で移住してきた。「特別希望や目的はなく、漠然と『日本にいてもなぁ』という思いがあって」ブラジルに来たという。 サンパウロ州ソロカバに入植後、みかんやジャガイモ栽培に4年間従事。「今思うと4年もいる必要はなかった気がするけど、僕は真面目でね」と話し、今でも嘘や人を騙したりすることは苦手。「ブラジルだとそれではダメなんだけどね」と笑った。 フォルタレーザに1年いた後、ナタールには1962年に移転して来た。「非の打ち所がないくらい、ナタールが大好き」と語り、54年間暮らしている。父親が百姓をやっており、農業が嫌で日本を飛び出したはずが、ソロカバの時からずっと百姓として働いてきた。これまで苦労したこともあるが、苦労と思ったことはない。結婚した当初はお金がなく、銀行への返済期限近くになると眠れない夜もあった。「やっぱり真面目なんでしょうね」と苦笑する。 最初の夫人をガンで亡くし、10年前に17歳年下の現在のマチコ夫人と再婚。「本当に再婚して良かった。俺は一人でやっていけないよ。ご飯も何でも美味しく作ってくれるし」と2人の生活に満足そうだ。 「人生で苦労は、少しはした方が良い。嫌なことがあると前向きになるのは難しいけど、それをバネにすれば良い結果がついてくる。人生は悲観するより、前向きに考えた方が得」という、人生観がブラジルでは必要なようだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月15日 「熊本県庁と連絡を取っているところ。詳しい状況が分かり次第、臨時理事会を開く」――熊本県益城町で14日午後9時26分頃、震度7の地震が発生したことに関し、ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長は、取材の電話に息せき切ってそう語り、「とても心配している」と繰り返した。 同会長のもとには、朝から心配のあまり連絡してくる同県人会員が絶えず、冒頭のように臨時理事会を開いて何らかの対応をとる心構えだ。 熊本出身で伯国在住34年のジャーナリスト・日下野良武さんは、「テレビのNHKニュースで地震を知り、すぐ県内に住む姉に電話した。幸い誰もケガは無いが、余震が続いており、家具が倒れる危険があるため近所の人とともに外に出ていた」とホッとした表情を浮かべた。 24歳まで熊本に住んでいた日下野さんは、「知る限りでは、これほど大きな地震は初めて」と話し、「熊本からは大変多く移民が来ており、みんな心配している。被害が少ないことを祈っている」と沈痛な面持ちで語った。
ニッケイ新聞 2016年4月15日 一行のうちで最長老、92歳でしゃきしゃきと歩き回る武田勝喜さん(熊本県)は、14歳の時に渡伯した。「一緒に住んでいた叔父さん(父の弟)が結婚し、『どうしても移住したい』っていうんです。それには『働き手が3人必要』との条件があったので、僕が入れば構成家族ができた。だから5年したら帰る、一儲けしたら帰るという話で来た。だから来たばかりの頃は日本に帰りたかった。親、兄弟が懐かしくてね。いくら想っても帰れない。そのうち戦争が始まって、それどころじゃなくなった。帰れないのは辛かった」と遠い戦前を振り返る。 「ところが戦後、42歳の時にPL教会の関係でようやく訪日した。郷里の友人の家に挨拶にいったら、友人は二人とも戦死していた。友人のお母さんは『まあ、立派になって! ブラジルに行ったから命拾いしたんだね。うちの子は戦争にいって二人とも…』といって、僕に抱き着いて泣いたんですよ」。 それから友人の母と共にお墓参りした。「そしたら、僕と同年代の友人の多くが、お墓に葬られていた。うちの村から戦争にいったものはほとんど全滅。友達はほとんど生き残っていなかった。村中がお爺さん、御婆さんばかり。それをみて、僕も涙が止まりませんでいた」と振りかえる。 「だから今は、ブラジルに来てよかったと心底思いますよ。今までに7回日本にいった。来年もう一回行こうと思っている」とほほ笑んた。 12日午後3時、一行は恒例の「ふるさと」を全員で合唱し、セアラ―州日伯文化協会から集まった地元日系人60人と別れを告げた。その時、マイクで「ふるさと」を歌って先導したのは、武田さんだ。あの元気さなら、再訪日はきっと可能だろう。 田所マリオ第2副会長に聞くと、一行が日陰にしていたマンガ―の大樹3本は「藤田家がこのシッチオを50年前に買った時に植えたもの」と教えてくれた。藤田十作もこのマンガ―の樹の下で、人生を振り返り、敢えて生涯一度も帰らなかった「ふるさと」について想いをめぐらしたに違いない。 ◎   ◎ 夜の食事時、たまたま同じテーブルに座った一行の市田邦彦さん(75、広島県)は、聖州とミナス州の州境ソコーロ在住で、町唯一の画廊「Galeria Ichida」(電話=19・3895・2322、)を経営しているという。 県人会の呼び寄せで61年渡伯。最初のパトロンがソコーロに住んでいて、独立してもそのまま住み続けている。同地には日本人会も存在しないという。 「2008年、移民百周年を記念して個人的にオープンしたんです。ただの趣味ですよ。具象画を中心に100点ほど所蔵しているうち、上永井正、ドゥリヴァル・ペレイラなど80点を展示しています」という。入場料は20レアル。 「ぜひ見にきてください」と薦める市田さんの腕は、農業者らしく筋肉が張っている。人口4万人の地方都市で、趣味で画廊を経営するとは、いろいろな戦後移民がいるものだ。(つづく、深沢正雪記者)
ふるさと巡り一行の松本ヨランダさん(72、2世)は、リオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会会場で、幼い記憶を呼び起こす人物や奇しくも遠い親類に出会った。 同協会の会員で、ナタールで海老養殖をしている曽根原マリーザさんとの会話で、マリーザさんの祖母がサンパウロ州ジェツリーナに住んでいると聞き、父を思い出した。ジェツリーナという町は熊本県からの移民が多く、1926年に「らぷらた丸」でブラジルに移住した熊本県出身の松本さんの父もジェツリーナに入植。松本さんはジェツリーナ近隣のプロミッソン生まれだが、幼い時に父親から聞いた昔話とマリーザさんが祖母から聞いた昔話がよく似ており、懐かしい気持ちが蘇ったという。 また、同協会の青木ミルトン会長との会話では、青木会長の両親が福岡県大刀洗村(現=大刀洗町)で松本さんの遠い親戚であることがあることが判明した。 松本さんの母親も同村出身で旧姓は平田。同村では江戸時代に徳川幕府がキリスト教を禁じた後も、隠れキリシタンとしてキリスト教信仰を続けた村民がいたという。平田家と青木家こそがその隠れキリシタンの家系であり、「ブラジルで平田家と青木家と言えばほとんどは親戚と聞いている」と松本さんは話す。 松本さんは早くに母親を亡くし、平田家との付き合いは疎遠となったため、自分自身が隠れキリシタンである平田家の子孫という確かなことは分からなかったという。ただ、時折平田家の人間と会うと親戚筋の話をよく聞いており、その親戚を青木会長が知っていたことから「間違いなく親戚だろう」と青木会長は結論付けたそうだ。 「参加するのは2回目だけど、ふるさと巡りはすごいなとつくづく感じた。本当にすごい」と思わぬ親戚との出会いに、松本さんは驚きを隠せない様子。「言われてみれば見たことがあるような顔。父がよく『福岡の面(つら)』と言っていたが、そういう顔をしている」と笑い、「父も早くに亡くしたので、ここで色んなことがつながりジーンときた」と感激の面持ちだった。 青木会長はサンパウロ市の福岡県人会によく顔を出しているそうで、「サンパウロでの再会を約束しました」と松本さんは笑顔で話した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月15日付
東京都友会の尾和義三郎新会長と坂和三郎前会長が来社し、会長交代のあいさつと定期総会の報告を行った。 坂和前会長は2004年から6期12年会長を務め、今後は名誉会長として同会を支えていく。12年間を振り返り「私が会長就任当時は東京都からの援助金で会は成り立っていたが途中から打ち切られ、管理費など経費を捻出しなければならなくなった。その時『次世代に引き継ぐには財政をしっかりしなければならない』と感じた」と話し、会の運営費確保に努めてきた。現在は安定した運営ができており「役員らが安心して活動できる」と胸を張った。 続けて「東京生まれの人は故郷という意識があまりない。そんな中で会を継続させるため色々と考え頑張ってきた。当会は東京を愛せる人なら誰でも入れる都友会。県人会も将来的には県友会のように変わっていくのではないか」と予測した。最後に「今後は関東ブロックが結集して若い人を取り込んで頑張ってもらいたい」と新会長を励ました。 尾和新会長は「今年はリオでオリンピックがあり、次の開催地は東京都。都知事など関係者が多く来伯するこの機会に親交を深めて行きたい。加えて東京都はサンパウロ州と友好提携を結んでいるので、両自治体の親密化も図りたい。そのためにかつての県費留学生や研修生に会に参加してもらい、若い人たちのアイデアをどんどん採用して東京とサンパウロの距離が近づいてくれれば」と就任の抱負を語った。 3月28日には2016年度の定期総会が同会会館で行われた。昨年度の収入は11万4017・07レアルあり、支出は8万1157・19レアル、3万2859・88レアルが繰り越された。 新役員は次の通り。(敬称略) 名誉会長=坂和三郎 会長=尾和義三郎 第1副会長=山下リジア 第2副会長=林慎太郎 第1書記=佐々木佳子 第2書記=森原クリスチーナ 第1会計理事=鈴木壽 第2会計理事=早川エイジ 理事=大村順、神田アントニオ、小松パトリシア 監査役=岡田本子、島田マサオ、本田スジ、坂和由香了、高木ますみ、鈴木さゆり サンパウロ新聞 2016年4月14日付
愛知県人会主催で大分、滋賀、和歌山、長野県人会、笠戸丸協会共催の「第20回屋台祭り」が17日午前11時からサンパウロ市リベルダーデ区の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74)で行われる。 会場ではお馴染みの各県人会の郷土料理(トリ飯、近江肉うどん、お好み焼き、椎茸ご飯、みそ串かつ、ニシン焼き)11種類が販売される。またストリートダンスやベリーダンス、サックスと12弦ギターの共演など若者向けアトラクションが多く披露され、老若男女楽しめるイベントになっている。 案内に訪れた滋賀県人会の山田康夫会長、和歌山県人会の谷口ジョゼ会長、愛知県人会の沢田功副会長、笠戸丸協会の吉加江正健さん、大分県人会の伊東信比古さん、長野県人会の杉本みどりさんらは「屋台祭りは各ブロックの枠を越えて行う『ミニ・フェスチバル・ド・ジャポン』のようなイベント。気軽に来て郷土食を楽しんで下さい」と来場を呼びかけた。 入場無料。問い合わせは愛知県人会事務局(電話11・3241・2682)まで。 サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月14日 同協会メンバーの桜庭セルソさん(61、二世)は20年前に仕事の関係で聖州から移り住んだ。ブラジル民謡協会の故桜庭喜太郎さんは伯父に当るという。「現在の会員は100家族ほど。多いときには運動会に700人が集まったこともある。でも費用の問題で2年前に中止した。セアラー州立大学には日本語コースがあり、学生は200人もいる」と現状を説明した。 話をしているうちに、セアラー州唯一のコチア青年に出会った。永浦二郎さん(宮城県、2期1回)は宮城県立宮城農学寮出身。「東北で有名な全寮制の農学校。農家の子供が送り込まれて、ビンタをされながら厳しく教育を受ける」と笑う。 「海外で大きくやりたい」という夢を持ち、東北新報の広告でコチア青年を見て興味を持ち、親に隠れて応募したという。長野県で一カ月講習を受けて、1956年に渡伯した。「あの頃、日本はまだ食糧難、厳しかった。農家の次、三男に良い就職先なかった」。イタケーラの組合員の農場で4年間を務めあげ、1961年に貯めたお金で「ポ語勉強してブラジル全体を知ろう」と旅に出て、結局は最初の町に居ついた。 「55年前、セアラーには何にも野菜なかったんだよ。だからコチア組合から種を取り寄せて、色々作り始めた」――そこからコチア青年の孤軍奮闘が始まった。 「コチア組合からいろいろな種を取り寄せて、野菜を作り始めた」という永浦二郎さんだが、「葉野菜を作って市場に持って行っても、誰も食べないんだ。食べる習慣がない。藤田さんの店でもその頃は花だけ。野菜はやっていなかった」と愕然とした。 もともと消費されていた野菜はコエントロ、セボリンニャ、アルファッセだけ。「今でも60、70歳以上の人は、野菜食べないよ。だから、お店に来る人に食べ方を教えて少しずつ広めた」。以前、ベレンやトメアスーでも同じ様な話を聞いた。北東伯では特にその傾向が強かったようだ。 「あと、レバノン移民の金持ちは野菜を食べる習慣があった。彼らの農場で雇われて、しばらく野菜を作ったこともあった。今じゃ、野菜作りがいっぱいいるよ。僕は標高の高いセーラ・グランデで無農薬野菜を作っている。うちの店はお客さんでごった返してるよ。ノルデスチは作れば、野菜でも果物でもとても良いものができる。サンパウロより品が良いぐらい」と見ている。 故郷巡り参加者の一人、元県連会長の松尾治文協副会長(77、福岡)は、「今回福岡県人は14人も参加しているんですよ。地方の文協や日系人との交流は、本当に大事ですね」と交流を楽しむ祝杯を重ねていた。 その場でマイクを使って一行150人に、戦後移民最大のグループ「コチア青年」の参加者がいないか呼びかけた。永浦さんは期待してしばらく待ったが、誰も名乗り出る者がおらず、少し寂しそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)
リオ・グランデ・ド・ノルテ(北大河)日本ブラジル文化協会との交流会はホテルから20分ほどの所にある「エスパソ・ギンザ」で行われた。会場には同協会の会員12人、そしてナタール市の近郊にあるピウン植民地から北山初江さんが出席した。北山さんは現在95歳。1956年、「野菜を作るため」一家で他の10家族と共にピウン植民地に入植した。「来た頃は食べるものがなくて、最初は小さい土地に大根など日本の野菜を栽培していた」と当時の様子を話す。「言葉が分からず苦労した」と言い、仕事を終えた夜間に独学でポルトガル語を勉強し、少しずつ覚えていったそうだ。 移住して14年経った1970年には、主人を自動車事故で亡くすという悲劇に見舞われる。それでも「トマトやメロン、みんな一人で栽培した」が、野菜は作っても売れなかったため、花栽培に切り替えこれが成功。女手一つで子供7人を育て上げた。 一緒に入植した家族の多くはピウン植民地を離れ、現在残っているのは2家族だけとなった。北山さんは今も同地に一人で暮らしている。ただ半年前に足を悪くし、今は車いす生活。孫たちが面倒を見てくれている。この日も孫のアンドレさんが付き添って来場した。アンドレさんは「生活環境や、言葉など苦労がたくさんあったが、彼女は強い女性で、一人ですべてを成し遂げた。僕にとっても良い手本」と祖母への賞賛を惜しまなかった。 「たくさんの日本人、日系人が来てくれて嬉しい。知らない人ばかりだけど、同じ日本人。愛着が湧くね」と滅多にない日本人との交流に笑顔がこぼれた。会場では玉城道子団長が「150人も来て、皆さん驚いているかもしれませんね。この機会を利用して楽しんで交流をして下さい」とあいさつ。続いて同協会の青木ミルトン会長が協会の活動内容を一行にスクリーンを使って説明した。また青木会長からは北山さんを含む出席した会員一人一人が紹介され、それぞれあいさつをした。 その後出席者で炭坑節を踊り、最後は「故郷」を全員で合唱し、午後10時半交流会は幕を閉じた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月14日付
6日目。一行は午前8時にモッソロのホテルを出発し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州の州都ナタールへと向かった。道中、バスからはどこまでも続く、岩が突き出た緑の広野が見える。そこを過ぎると、人が住む集落がポツリポツリと点在していた。酪農農家らしき牧場があり、大都会サンパウロでは絶対に見られない牧歌的な景色だ。途中のラジェスで休憩となったのでバスを降り、周囲を散策すると馬が2頭放牧されていた。さらに、近くからは牛小屋の匂いがした。記者の実家の近くには牛の畜産農家があったので、すぐ分かった。これは懐かしい匂いである。 その後もバスは順調に走り、正午過ぎナタールへ到着。昼食後、バスでの市内見学となった。ナタールは思ったより都会だ。バスは街を通り抜け、真っ青な海を横目に2007年に開通したというニュートン・ナバーロ橋を横断。橋からはナタールの街が一望でき、都市部と森林地帯、ポテンギ川と海が共存する最高の景色がそこから見えた。 橋を往復した後、港とセントロ地区を通りナタール観光センターへ。センターの建物は19世紀末に建設されたもので、浮浪者の避難所、孤児院、刑務所と時代時代で姿を変えてきたそうだ。現在は観光センターとなり、民芸品の販売、ノルデステ地方伝統の音楽「Forro」のイベントなどが開催されている。小高い場所にセンターはあるので、テラスから美しい市内の景色を見渡すことができた。 センター内には民芸品を売る店が連なり、ここでも2日目同様に買い物に精を出す女性陣とベンチに腰掛け休憩する男性陣の対照的な姿を見られた。 センターを後にし、ポンタ・ネグラ海岸近くの土産物屋に移動。そこから遠くに見える、有名なカレカ丘をグループごとに見学。午後5時半、一行はホテルにチェックインし、同7時、現地日系団体との交流会へ出発した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月13日 5県人会と笠戸丸協会による『第20回屋台祭り』が、17日午前11時から聖市の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74, Liberdade)で行なわれる。午後3時まで。 今回のメニューは味噌串かつ、抹茶アイス(愛知)、トリ飯、トリ天、牛たたき(大分)、近江肉うどん(滋賀)、お好み焼き(和歌山)、椎茸ごはん(長野)、焼きニシン(笠戸丸)など。 出し物も和太鼓、盆踊り、ボサノバショーにビンゴやカラオケと盛り沢山。案内に来社した関係者は、「日本祭りの縮小版。色とりどりの和食を楽しんで」と呼びかけた。 問い合わせ先は愛知県人会(11・3104・8392)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 高知県からブラジルへ移民として渡り、農業を営みながら、農園の日常風景や家族の姿などを収めた写真家、大原治雄さん(1909―99年)の日本初となる写真展が、今月9日、高知県立美術館で開幕した。 大原さんは旧三瀬村(現・いの町)出身で、パラナ州ロンドリーナで農園を経営しながらアマチュアカメラマンとして活躍。98年には初となる個展を開催し、大きな反響を呼んだ。日本での開催は今回が初。昨年には、外交120周年記念としてNHKのドキュメンタリー番組でも紹介された。 開幕式には約90人が参列した。ブラジルのコレアドラゴ駐日大使は「大原さんの優れた作品を日本で初めて紹介できるのは大変喜ばしい」とあいさつ。大原さんの孫、サウロ治夫さん(43)も「祖父はいつも家族の中心にいた。写真の数々は生きざまそのものだ」と語った。 展覧会では、40~60年代に撮影された作品を中心に、約180点のモノクローム・プリントが展示される。大原展担当の影山千夏学芸員は、「写真というかたちで、彼の育んだ豊かな実りを故郷高知に届けてくれた。愛溢れる大原一家の家族の風景と、おおらかなブラジルの自然の光景をゆっくりと味わってもらいたい」と語った。 同展は6月12日まで。その後、兵庫県の伊丹市立美術館、山梨県北杜市の清里フォトアートミュージアムも巡回する。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 1969年から姉妹都市関係を結ぶ聖市と大阪の交流事業として、聖市在住の大貫純さん(21、四世)が先月25日までの約2週間、親善大使として訪日した。大阪・サンパウロ姉妹都市協会主催。 大貫さんは埼玉県に生まれ、2歳まで生活した。一家で聖市に移った後も日本語の勉強を続け、日本語能力試験N1を取得。昨年の日本語スピーチコンテストに出場し、優秀成績を修めて親善大使に抜擢された。 小さい頃は、新幹線のジグソーパズルで遊んでいたという。両親や親戚から日本の色々な話を聞いて育ち、「自分が生まれた国に行って、今まで聞いた話をこの目で確かめたい」という期待とともに渡日した。 滞在中は大阪を中心に、防災センターや博物館なども見学。大阪城、金閣寺、仁和寺などへ観光にも訪れた。 サンパウロ大学で環境について学ぶことから、下水処理場の見学時に強い印象を受けたという。「大阪市には浄化施設が12カ所あるが、聖市には半分以下の5カ所のみ。浄化率も大阪の90パーセント以上に対し、聖市は6、70パーセントで違いを痛感した」との感想を語った。 到着翌日には神戸へ。メリケン波止場にある希望の船出像を見て、サントスの「日本移民ブラジル上陸記念碑」を思い出し、胸が熱くなったという。 神戸移民センターでは曽祖父が1920年に渡伯した記録を発見。「その96年後に、曾孫である自分が日本に来るとは」と感激した様子だった。 2週間を振り返り、「日本人は細かいところまで注意を払って仕事をしている。それを見習ならわなければ。いつかは日本の大学に留学してみたいし、出身地の埼玉も訪れたい」と笑顔で語った。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 ルジアさんは「戦中のこの記憶は、家族のトラウマとして残ったわ。私たち子どもの服や本まで無くなったのよ。壊された家のドアや窓を直して、ようやく戻れるようになるまで、親戚の家の、土間の家政婦部屋に家族で住まわせてもらった。両親ががんばり、親戚が支援してくれたから、私たちは学校に通い続け、決して退学や留年はしなかった」と昨日のことのように鮮明に思い出す。 1942年、まだ6歳だったカピトン・フジタもはっきりと略奪の時を覚えている。「苦労して新築した家の中に何もなくなってしまって、『こんなになっては子どもたちに教育が施せない。もうおしまいだ』って、父は毎日泣いてばかりだった。明日にでも死ぬんじゃないか、というぐらいに失望していた」。 そんな時、15歳だった姉ルジアが先頭に立って家族を引っ張り、家業の立て直しをした。「僕らは父に『絶対に家は元通りになるから、お父さんも安心して』と説得し、姉は教会が経営する学校へ、僕はお金がかからない陸軍の学校に進学した」。 カピトンは17歳でフォルタレーザ予備校からアグーリャス・ネグラス軍アカデミー(AMAN)に進学し、中尉になってから軍籍を離れ、建設技師としての経歴を築いた。 カピトンは「陸軍学校の卒業式で、将官の印として短刀を授与された時、父は涙を流して喜び、強く僕を抱擁した」と思い出す。 セアラー州日伯文化協会は、カピトンが1970年に創立し、今も会長を続ける。手にするタブレットには、何千枚もの写真が入っており、次々に有名人と撮った記念写真を見せる。見覚えのある顔が写っていると思ったら最高裁判事のジルマール・メンデスだった。「彼とはアミーゴだよ」と笑う。「レナード・アラゴンもこの町に帰ってきたら、僕と昼食を食べるんだ」とも。 それだけの政界、法曹界、実業会での顔の広さが、公園実現の背景にあった。「どうしても父十作を顕彰したかった」と振りかえる。停滞している時期も長かった同協会だが、移民百周年を機に息を吹き返し、公園建築を実現させた。 ポーボ紙によれば、十作は子供らに次の3点を常々説いていた。(1)《天皇陛下は神の子》《日本国という大家族の父》という言葉の元は、おそらく天皇陛下を「現人神」と呼んだ時代の雰囲気、戦前の家族国家観「八紘一宇」を思わせる。さらに(2)《日本帝国は戦争に負けたことがない》(3)《年上を敬うこと》と。 とはいえ、実際にカピトンや姉と話した実感としては、〃明治の日本精神〃を感じさせるものは特になかった。唯一、藤田十作日本庭園に立つ四つの柱に鋳抜かれた文字「訓育」「我慢」「決心」「苦心」「献身」「根気」が、明治男がセアラーに遺した気概を伺わせるのみだ。(つづく、深沢正雪記者)