06/03/2026

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ニッケイ新聞 2016年4月12日 ルジア説ではこの時にアマゾン下りをし、最初はベレンに住み着いた。おそらく1920年頃だろう。 1922年頃に、友人の中国人に誘われてセアラ―に南下し、日本人が誰もいないフォルタレーザに居つき、近郊のプクリペにあるオタヴィオ・フロッター農場の菜園で働いた。そこで現地の娘コスマ・モレイラ(通称ネネン)と出会い、1926年2月に結婚、12月にルジアさんが生まれた。教会で式を挙げるために洗礼を受け、「フランシスコ・ギリェルメ・フジタ」と名付けられた。 1927年にフォルタレーザ市セナ・マドゥレイラ街に土地を賃貸し、菜園を経営、子供が次々に生まれた。 「父は死ぬまでスペイン語交じりのポルトガル語だった」。ルジアさんの話では、父十作は最初、野菜を作ってカロッサ(荷車)で市場に持って行って売り始め、花にも手を広げた。 「父は勉強しろ、と口うるさく言った。なんでも祖父は父が18歳の時に亡くなり、自分は勉強できなくて苦労したから、子どもにはしっかり勉強させ、同じ苦労をさせたくないと言っていた。おかげで私は歯科医、次のエジマール(没)は医者で血液銀行『富士』の創立者。その次のフランシスコ(没)も歯科医、マリア・ジョゼは教師、ニザロウは建築技師、最後のジョアンも建築技師になった」。 十作が単身で同市に乗り込んでから、一族はすでに約80人を数えるほどだという。日本人が他に誰もないこの町で、子どもをみな大学にやることは生半可なことではなかっただろう。最大の困難は戦争中に訪れた。 「一番大変だったのは、1942年8月よ。今でも昨日のことのように覚えているわ。昼過ぎに、学校に行く準備をしていたら、近所の人たちが押し寄せてきて『敵国人の家を壊せ!』って騒ぎ始め、苦労して2年前に新築したばかりの家だったのよ。それを全部壊された。金目のものはみんな取られ、窓枠からドアまで外して持っていかれたわ」と憤る。 1942年8月15日からの3日ほどの間に、ブラジルの商船がナタル沖でドイツ潜水艦に5隻も沈められた時だ。ナタルに近いフォルタレーザでも枢軸国側移民の商店や家が一斉に暴徒に襲われた。 この時、聖市のセー広場でも20万人が集まって反枢軸国大集会が行われた。その直後の18日、今度はアマゾン河口のベレン沖で、ブラジル商船が同様に撃沈され、ベレン市民が暴動を起こして、日本移民らを中心に枢軸国側移民が、トメアスー移住地に強制隔離されたことは有名だ。 「叔母さんが助けに来てくれて、セントロの親戚の家に連れて行ってくれた。ドイツ人の商店、イタリア人の靴屋とか、みんな壊された。私たち家族はこれですべてを失ったの。親戚の援助でゼロから仕事をやり直して…。大変な苦労だったわ」と生々しい証言だ。 ルジアさんの記憶は残酷なまでに鮮明だ。「母はその時に身重で凄いショックを受けたけど、11月30日に生んだ。父は敵性国人だからといって、牢屋には入れられなかった。でも毎週、警察署に出頭して所在証明をする必要があった」。 聖市やベレンは聞いていたが、フォルタレーザでもこのような被害を受けた日本人がいたことは、今回初めて聞く話だった。(つづく、深沢正雪記者)
交流会にはモッソロ周辺の日系人24人が集まった。代表してメロン栽培を営む大谷正敏さんが歓迎のあいさつを述べた。モッソロには日本人会のような団体はないそうだが、大谷さんは「日系家族は全部で10家族くらい。みんな仲良くやっています。先の移民が頑張ってくれたお陰でリオ・グランデ・ド・ノルテ州は日系人をとても大切にしてくれる」と当地の様子を話してくれた。続けて、参加したモッソロの日系家族一人一人をふるさと巡り一行に紹介した。 翌日は朝7時にホテルを出発し、大谷さんのメロン農場を見学。はじめに工場で収穫されたメロンの箱詰めの様子を見学し、保管庫など工場内部を案内された。農業関係者が多いからだろうか、見学の間中、参加者らは大谷さんを囲むように質問攻め。その様は、話題の政治家や有名人が報道陣に取り囲まれているようだった。その輪から少し離れて具志堅清吉さん(82、2世)も熱心に大谷さんの話をメモしていた。具志堅さんは主に野菜を栽培しているそうだが、同じ農家同士、何かと参考になるのかもしれない。ふと大谷さんに盛んに質問していた男性が気になったので「お百姓さんなんですか」と聞くと、「いや百姓じゃないけど、なんか興味があって」との返事。いくつになっても好奇心の塊というのは素敵なことだ。 その頃、女性陣は工場横の畑に飛ぶチョウチョウ観察に夢中。記者にはよく分からなかったが、シジミチョウやモンシロチョウが飛んでいたそうだ。 森下和代さん(75、福岡)「昔は額縁に入れて日本に送ったものよ」と教えてくれた。また畑の一角には昔ながらの汲み取り式のトイレが設置されており、移住当時を思い出したのか、参加者らは非情に懐かしんでいた。これもある種の「ふるさと巡り」だったと言えるかもしれない。 その後、工場から車で5分ほどのメロン畑へ移動し、収穫の様子を見学。最後に大谷さんから参加者に1個ずつお土産のメロンが配られた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月12日付
ふるさと巡り4日目。一行は午前7時半にホテルを出発し、一路フォルタレーザから約150キロの地点にあるアラカチへ。アラカチは「Cidade do colonial(植民地時代の町)」と呼ばれ、18世紀にポルトガル人移民が持ち込んだ様式の家屋や町並みが今も残る。道路には石畳が敷かれ、当時の雰囲気を偲ばせる。 バスは同10時過ぎ、アラカチにある複合施設「ミランテ・ド・ガンボアス」に到着。ここで海老の養殖所を見学後、レストランで食事となった。 レストラン内にある階段は展望台へつながっており、そこから海岸の方まで広がる視界いっぱいの海老の養殖所が見渡せた。養殖所では3つのグループごとに見学し、その後はお待ちかねの食事の時間。中にはてんこ盛りの海老を皿に載せた参加者も。旅を通して感じたが、参加者からの魚介類人気は非常に高い。特に海老の人気は高いようで、食事となれば海老を食べたがる参加者もいた。 午後2時にミランテ・ド・ガンボアスを後にし、1時間半かけリオ・グランデ・ド・ノルテ州のモッソロに到着。2泊する「テルマス・ホテル」には温泉施設があり、参加者らは早速水着に着替え、温泉で旅の疲れを癒していた。温泉は温度34度のぬるま湯から、最高52度の熱湯まであり、全6カ所。見た感じは日本の温泉とは違ってプールのようだ。実際、プールも近くに併設されており、他にもジムやビーチバレーコート、バーが隣設されていた。 記者は水着を持って行かなかったので、温泉に浸かるのは足だけ。水着に着替えたかつての美女たちの麗しい姿や「極楽、極楽」という表情の参加者、沈む夕陽を眺めて過ごした。一応、52度の温泉にも足だけ入ってみたが、慣れるまでは強烈な熱さ。その熱湯の中を泳ぐ強者の参加者もおり、のぼせはしないかとこちらがヒヤヒヤしてしまった。 たっぷりと温泉を楽しんだ後は、ホテル内のレストランでモッソロ周辺に住む日系人らとの交流会が同7時から行われた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月9日付
ニッケイ新聞 2016年4月9日 藤田十作日本庭園を2012年に訪れ、その存在を最初に記者に教えてくれたのは、元文協会長の山内淳さんだった。 彼からその時に受け取った資料によれば、フォルタレーザ市で発行されている新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号は同市に移り住んだ外国人家族の連続レポートの特集を組み、その第1弾として藤田十作を報じていた。 それは、ルジアさんの話と微妙に食い違う。同紙によれば藤田は1893年生まれだが、死亡時の年齢に確信を持つ娘の説(1890年生まれ)方が正しいだろう。 ルジアさんもカピトンも「ジュウサク」の漢字が分からなかったが、県連職員の伊東信比古さんからもらった『アグロ・ナッセンテ』誌のコピーには《一九二二年に、ペルーからアンデスの峰を越え、ボリヴィアを経てセアラ―州のフォルタレーザに移住した、熊本県八代市出身の藤田十作さん》との記述があり、それに従うことにした。 ポーボ紙によれば、家長が借金を残して行方不明になり、藤田家の土地が差し押さえられ、経済的危機に直面していた。居間に集まった母、4人の息子と二人の娘、親戚が緊迫した話会いをした結果、「長男を送り出して稼がせ、借金を返済する」ことが決断され、《まだ15歳だった十作が1908年にペルーへ送りだされた》と同紙にあるが、おそらくルジア説の18歳が正しい。 ポーボ紙の記事の最後には《ギレルメ・フジタはもう繁栄を成しとげた成功者で、穏やかな生活を送っている。日本に残った実家のことは片時も忘れたことはなく、何年か前、本人が遺産相続するはずの土地を贈与して、ようやく差し押さえを親戚に返済できたと語った》とある。 ポーボ紙から分かることは、父親が親戚から金を借りていたが、返せなくなって蒸発した。親戚は借金のカタに藤田家の土地を差し押さえたという図式だ。それを返済するために長男の十作が一人南米に旅立った。当時の移民には往々にしてある事情とはいえ、大変な覚悟が必要だったに違いない。 1912年にはペルーのチンタ・アルタ市で小さなレストランを開くほどの資金を貯め、土地を取り戻すための日本への送金を始めた。第1次大戦が始まって不況となり、レストランは倒産。最後の100クルゼイロ程度のお金を手にボリビアへ転住し、3人の共同経営者と共にホテルを購入して生活を賄った。《わずかな貯金ではあったが、その一部は必ず、実家へ送金していた。家族が恋しく心痛む孤独な夜は、幼いころのことを思い出しながら過ごした》とある。 そのボリビアも経済危機に陥り、商売も立ち行かなくなり、この国ではもう外国人にチャンスはないと決断し、ブラジルへ再転住を決意した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月9日 ブラジル東京都友会の定期総会が先月28日、東洋街のニッケイパラセホテルで行なわれた。2004年から会長を務めた坂和三郎さん(82、東京)が6期12年で退任。後任には尾和義三郎さん(75、同)が抜擢された。 坂和さんは就任当初を振り返り、「会費を徴収しない都友会にとって、最大の懸案事項は運営費の捻出。岩崎(秀雄)さんから引き継いだときには都の助成も打ち切りになり、非常に憂慮したことを覚えている。だが就任直後、運よく会所有物件の借り手が見つかった。貯蓄もでき安心して引き渡せる」と安堵した。 「役員、会員らが自然と集り協力するような雰囲気にしてほしい」と後進に託し勇退。新会長には1971年に移住した元パ紙記者で、現在はテレビ制作のコーディネート会社「南米通信社」で代表を務める尾和さんが就任した。 20年東京五輪に向け、リオ五輪には舛添要一都知事の来伯もある。同会にとっても重要な一年となりそうだ。7日、交代あいさつに来社した新会長は、「リオ・東京を結ぶ架け橋となるため、何かお手伝いできれば」と抱負を述べた。 なお、昨年に創立50周年を迎えた同会は、記念誌も作成中。最新版の都知事メッセージが到着次第、印刷へ回すという。都知事来伯に合わせ、リオ五輪までの完成を目指している。 昨年度の収入は約11万4千レ、支出は約8万1千レだった。今年度予算として収入約3万2千レ、支出約10万レと計上。所有不動産における借り主の家賃滞納により、大幅な赤字を見込んでいる。 新役員は以下の通り(敬称略)。【会長】尾和義三郎【副会長】山下リジア、林慎太郎【書記】佐々木佳子、森原クリスチーナ【会計】鈴木壽、早川エイジ【理事】小松パトリシア、大村順、神田アントニオ【監査役】正=島田政夫、岡田本子、本田スジ、補=高井まゆみ、坂和由香了、鈴木さゆり
8月のリオ五輪開催見据えて 在ブラジル大使館の梅田邦夫大使が3月31日にサンパウロ(聖)市を訪問し、同日午前に来社した。梅田大使は、2016年大使館・総領事館の主要課題と「日系社会との連携強化のための施策」について説明。ブラジルの国内情勢と対外関係の把握、8月から開催されるリオ五輪・パラリンピック業務に向けた邦人保護に関する日系社会とのさらなる連携の必要性を提言、強調した。また、連携強化のための人的交流、日本語教育、日本祭り、医療、スポーツ関連など8分野について実施していく考えを示した。 梅田大使は16年度の年間スケジュールとして、既に2月に東京で開催された「日伯政治対話」や同月21日に実現した日本の陸上幕僚長の来伯などを挙げた上で、来年にブラジルからの陸軍関係者が訪日する予定があることを説明。また、今月13日に東京で開かれる日伯領事当局間協議では、特に出稼ぎ子弟の教育問題や日系4世以降のビザ問題などが取り上げられる予定だという。 8月から開催されるリオ五輪に向けて、日伯相互の観光客の行き来を増やす考えで、5月26日に三重県で行われる伊勢・志摩サミットでは、ジカ熱などの感染症や世界的なテロについての協議が行われる予定。 特にリオ五輪については、ブラジルを訪問する日本人選手団及び日本人観光客の邦人保護対策と選手への応援などを目的に、3月に発足されたリオでの第1回目の「リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピック連絡協議会」に続いて、今月中にサンパウロでも同様の連絡協議会を立ち上げるという。 また、リオ五輪開催期間中は文科省大臣、スポーツ長官、東京都知事など日本からの要人の来伯が既に決まっており、梅田大使は安倍首相や皇族の来伯の可能性もあるとし、「ぜひ、この機会に来ていただきたい」と依頼を行っているそうだ。 「日系社会との連携強化のための施策」について梅田大使は、(1)人的交流(2)日本語教育(3)日本祭り(4)日本食普及(5)医療(6)スポーツ交流における協力(7)日系団体及び個人への助成(8)制度面での強化・充実の8分野での施策があることを説明した。 (1)は2014年の安倍首相の来伯がきっかけとなり、各種招へいプログラムの受け入れが増え、JICA日系社会ボランティアが倍増している状況だ。(2)でも国際交流基金及びJICAによる施策で訪日研修なども実施。各州での公教育機関での日本語導入や草の根無償資金による日本語教育支援なども行われている。 (3)は、聖市で開催されている日本祭りが全伯の日本祭りの模範となっていることや、(4)では全伯日系団体の婦人部が中心となって日本食普及に貢献していることを高く評価した。 (5)は日系人医師の多いブラジルで、各地の日系病院を通じてセミナーや設備面での支援及び人材面での協力を行っていくという。 (6)は、柔道、剣道、野球、卓球、体操などを中心に各種道具などの寄贈のほか、施設拡充や専門員派遣などがある。(7)は、日本全体での補助金が減少する中、1967年から行われているJICA移住者・日系人支援事業は2015年度で約2500万円、移住者保護謝金制度(2001年度から開始)は約6000万円となっているそうだ。 (8)について梅田大使は、現在領事事務所となっているベレンとレシフェの総領事館への格上げ要求は16年度予算でも引き続き行っているという。 また、人的交流の今後の課題として日伯間でのワーキング・ホリデー(相手国の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労を認める査証制度)の必要性を挙げ、「10年、20年と長い目で次の世代につないでいき、人的交流の新しい枠組みを互いに知恵を出し合って積み重ねていくことが重要」と述べた。 サンパウロ新聞 2016年4月8日付
ニッケイ新聞 2016年4月8日 12日(土)午前9時半、一行約150人はフォルタレーザ市のはずれにある、先駆者・藤田十作の子孫が持つ別荘に到着した。入口には直径10メートルほどの大きな鳥の檻、見事な熱帯植物の木々、子供の遊戯場、テニス場、プールもある豪華な施設だ。 マンゴーの巨木3本に囲まれるようにしてできた木陰に、150人分の椅子が並べられ、その一角に祭壇が作られていた。 慰霊祭の準備をしていた天理教フォルタレーザ中央教会の大浜晃さん(48、二世、ペルナンブッコ州オリンダ生まれ)に話を聞くと、元々30年ほど前に父・伸三さん(2014年没)が始めた教会だという。父の没後、教会を継ぐために1年間奈良で研修し、戻って来た。この10月に正式に同地の教会長に就任する予定だという。 ペルナンブッコ州に教会は二つ、セアラー州は一つ。ここでの信者数は50人程度。「藤田十作さんと父の親交は数少ない日本人同志として深かった。その関係で、今日の慰霊祭をすることになった」という。 聞けば、晃さんは今回の奈良研修以前にも12年間も日本に住んでいた。埼玉県や群馬県の国際学校に勤務し、英語やポ語で数学を教えていた。「群馬のエスコーラ・パラレロでは生徒が350人ぐらい居て、ほとんどブラジル人だった」とペラペラの日本語で語る知日派だ。 天理教方式で、同地で亡くなった先駆者を供養するための慰霊祭がしめやかに行われ、一行は順々に花を供えた。 ◎   ◎ 藤田十作の子息、「カピトン(陸軍中尉)・フジタ」と呼ばれる藤田ジョアン・バチスタさん(79)とその姉ルジアさん(89)が現れた。最年長のルジアさんに聞くと、14人兄弟が生まれ、成人できたのは6人、うち4人が現在も生きている。 ルジアさんによれば、「父は熊本県出身。1979年3月19日に90歳でなくなった」という。奇しくも、一行が訪ねた日の一週間後が十作の没後37年、供養するには絶好の期日だ。 逆算すると1890年か翌91年に熊本県で生まれたはずだ。1908年に18歳で単身、日本を出てまずはペルーへ。続いてボリビアに転住し、アンデスを徒歩で越えて、アマゾン下りをし、ようやくパラー州ベレンに到着したという。今なら「冒険家」といわれそうな険しい、命がけの道だ。 「日本で祖父が亡くなり、家族の生活は厳しかったという。父は長男だったが、ブラジルの評判が大変良かったので、多分『何年か稼いで戻る』というつもりで南米へ向かった。でも、日本に戻ることは一度もなかった。戦後、お金ができた時、父は私たち兄弟をみな一度ずつ日本に送りだしたが、本人はけっして行こうとしなかった。私もジョアンも熊本の父が生まれた家に行ったことがあるわ」と思い出す。先人の生涯は茨の道だった。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月7日 イタイプーダムを救った「8人の侍」の一人、千田功さんは、湾岸戦争を機にメンデス・ジュニオール社の仕事を辞め、その後91年頃から日本にデカセギへ行っていた。「5年間は東京都の日野自動車社、残りの5年間は茨城県の旭ファイバーグラスで仕事をやっていた。ブラジルにいる妻とはときどき電話で話すだけ。10年間一度もブラジルに戻らなかった」という。 63年の渡伯以来、91年のデカセギが初めての帰国だったから30年ぶり近い。記者が「日本を一目見たいとか無かったんですか?」と尋ねると、「別にないね」とあっさり。戦後移住者に散見される「郷愁なき移民」タイプだ。 横から小山さんも「僕も1995年に35年ぶりに日本に帰ったよ。来て最初の2、3年は帰りたい気持ちもあるけど、そのうち慣れちゃうんだよね」と当たり前のように言う。 千田さんは日本から戻って以来、妻の実家があるフォルタレーザで年金生活。一行が午後に観光したモーロ・ブランコに別荘があり、毎週遊びに行っているとか。同地の巨大な風力発電施設について聞くと、「あれは、実は送電設備が完成していなくて、発電はできるが送電できない状態なんだ」と呆れた現状を教えてくれた。 発電施設は完成しても、環境関連の工事許可が下りず肝心の送電設備が手つかずなのだという。海際の砂漠に吹き抜ける風を電力に変えるすばらしい施設だと一行は口々にほめたたえていたが、その感動が一気に色褪せた。 千田さんは1200CCの排気量の二輪車ハーレーダビッドソンに乗り、友人らと隊列を組んでツーリングをしたりと悠々自適な生活をしているとか。これもまた、戦後移民の一つの姿だ。 ◎   ◎ 翌12日(土)朝、フォルタレーザのホテルの朝食で一緒になった五十嵐美恵子さん(83、新潟県)と話していると、「サンパウロで一緒に住んでいる孫がGOL機のパイロット。今回の帰りもリオからサンパウロまで彼が運転するのよ」と嬉しそうに教えてくれた。 五十嵐さんの娘は二人とも日本におり、孫の中原デニスさんは親と共に6歳で日本に行き、大学まで卒業。その後、米国に留学し、そこでパイロットになり、ブラジルのGOL社に就職したのだという。「だからブラジルの学校には一つも行っていないの」という不思議な経歴だ。デニスさんの妹も日本の航空会社で客室乗務員をしているという。 五十嵐さんの両親は1933年3月に渡伯し、彼女は6月に第二アリアンサで生まれて二重国籍になった。「父・五十嵐与多(よだ)は弓場農場の最初の頃、10年間ほど一生懸命に弓場勇さんを手伝ったんですよ」と振りかえった。 同じテーブルの村瀬昌子さん(88、滋賀県)は「日本庭園が立派だったのが印象的。あれだけの公園を作ってもらえる日本移民が、このフォルタレーザにいたということを知れて良かった。日本人として嬉しい」と誇らしげに語った。 その日、まさにその日本庭園まで作って顕彰された藤田十作の子孫のシッチオ(農場兼別荘)に、一行は向かう。(つづく、深沢正雪記者)
セアラー日伯文化協会での交流会会場では、同船者の再会もあった。セアラー州チアングァーに住む黒木(旧姓・松崎)聖子さん(71、福島)は、セアラー日伯文化協会の会員ではないが、この日会場を訪れていた。目的は福島県出身者で、東日本大震災の被災者が親類にいる人を探すため。黒木さんは、自身がチアングァーに持つ広大な土地を被災者に分け与えたいと思っていたが、情報の伝播をどうしたら良いか分からず、日本人や日系人が多く集まる交流会会場にやって来たのだった。福島県田村郡に住む黒木さんの叔母も被災者の一人で、現在ブラジルへの移住を打診している最中だという。 記者が黒木さんと話していると、近くにいたふるさと巡り一行の竹中清さん(80、神奈川)ら何人かも会話に参加した。会話を重ねるうちに、黒木さんと竹中さんが同船者だということが判明。「ぶらじる丸」でブラジルに到着し、1955年にパラー州サンタレン近郊のベルテーラに入植した12家族にいたのが黒木さんと竹中さんだったのだ。 竹中さんは叔父夫妻の養子になり、構成家族としてブラジルへ移住した。黒木さんは竹中さんの養父母をよく覚えており、「養父の方は細くてすらっとした男性で、養母の方は東京出身のお嬢様できれいな人。美男美女だった」と振り返る。「うちの親が生きていたらどんなに驚くか」と数十年ぶりの再会を喜び、入植したベルテーラなどの話で当時を懐かしんだ。 その頃、交流会はカラオケ大会も終了し、終盤に差し掛かっていた。参加者最高齢の武田勝喜さん(91、熊本)と玉城道子団長を中心に全員で「故郷」を合唱。最後に記念写真を撮影し、午後3時半に一行は会場を後にした。 セアラー日伯文化協会の山岸和(ひとし)さん(85、福島)は「5歳でブラジルに来たので、日本語はほとんど話さなくなってしまった。だから日本人を見ると、つい日本語を話したくなってしまう。たくさんの人がフォルタレーザを訪れ、先亡移民のために祈ってくれて嬉しい」と一行の訪問を喜んだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月8日付
慰霊祭に続いて、セアラー日伯文化協会との交流会が行われ、同協会の会員ら約60人が参加した。交流会には、藤田十作氏の長女であるルシアさんと弟のジョアンさんが訪れ、ふるさと巡り一行に紹介された。 紹介されたジョアンさんがあいさつに立ち、「今日はお越しいただきありがとうございます」と一行を歓迎した後、「戦後の藤田家が立て直せたのは姉(ルシアさん)のお陰。彼女が家族を復興へ導いてくれた」と一家の歴史を語り始めた。 戦争ですべてを失った藤田家だったが、戦後長女のルシアさんが大学に入学。後に続くジョアンさんの学費が免除されるように、大学側に嘆願した。ジョアンさんは「彼女のお陰で大学で勉強ができた。彼女をとても尊敬している」と感謝。ルシアさんが下の兄弟らの進学の足がかりとなったことを振り返った。 さらに「私が幼い頃、よく泣いていた父の姿を覚えている」とジョアンさんは続けた。藤田氏は自身が満足に勉強できなかった分、子供たちには勉強をさせたいと思っていた。しかし「戦争で家も何もかもを失った」と泣き暮れる藤田氏。その姿を見た幼いジョアンさんが「お父さん、なんでそんなに泣くの?」と聞くと、「心配するな。大丈夫だから」とジョアンさんにいつも言い聞かせたという。 「父はいつも『人はいつかこの世を去る。だからこそ、もっと人を大切にするべきだ』と言っていた。自分のした良いことは必ず返ってくる。そういうことを父から学んだ」とジョアンさんは話した。 ジョアンさんはブラジルの軍隊に入隊し、カピトン(大尉)まで昇進。除隊後は建設会社を起こし、実業家として79歳の今も活躍している。州知事に藤田十作日本庭園建設の要請をしたのも、ジョアンさんだそうだ。 あいさつの後、玉城道子団長から県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットとDVD、日本酒がジョアンさんに贈られた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月7日付
ニッケイ新聞 2016年4月6日 梅田邦夫駐ブラジル日本国特命全権大使が3月31日に来社し、リオ五輪や日系社会との連携強化について説明、「ブラジルが世界有数の親日国となったのは、日系社会の貢献によるもの。それが世代交代を迎えており、今まで一、二世は何も言わずとも協力してくれたが、若い世代にはこちらから働きかけることが重要」などと意欲的に展望を語った。 リオ五輪については、馳浩文部科学大臣、鈴木大地スポーツ庁長官のほか、次回の開催地として東京都の舛添要一知事、遠藤利明・東京五輪担当大臣らも訪れる予定。安倍晋三首相には再来伯してほしい旨を伝えており、「できれば皇族の方にも」と期待している。 日本人選手と観光客の安全対策では、テロ・強盗・ジカ熱等の感染症に重点を置く。伯国でテロ事件はないが「ヨーロッパで起こっていることを考えると、神経質にならざるを得ない」とも。この2月から観光ビザの数次化が実施されていると報告した。 「人的交流」に関して、14年に来伯した安倍首相の肝いりで、日系人を対象とした招聘や研修プログラムを新設、全体の採用人数も増加させた結果、93人から142人に枠が5割増しとなった。日系を含むブラジル人一般の交流事業「産業人材育成」では13年に232人から15年に311人、昨年新設された「JUNTOS!中南米対日理解促進交流プログラム」で、西森ルイス連邦議員、財界関係者、州政府関係者30人が3月に訪日した。 日系社会ボランティア派遣は13年には52人だったが、16年には97人と倍増した。日本語教育分野の取り組みには、パラナ、リオ、マナウス、南大河州の各連邦大学で4月から無料の日本語講座を開講予定だ。「草の根文化無償」による日本語教育施設支援も進めるという。 梅田大使は「県連日本祭りが見本となって、各地に日本祭りが生まれている」と高く評価し、今後も積極的に協力していく意向だという。「日本食が広まった理由は、日系団体の婦人部のおかげ」と分析し、今年から日系団体婦人部数人をJICAにより日本へ招聘して料理研修する枠組みを始める。同時に和食料理人の青年ボランティア派遣をする予定。 レシフェ、ベレンの領事事務所を総領事館へ戻す格上げを本省に要求中、今年度予算でも引き続き要求を行なう。 梅田大使は日伯の受刑者移送条約が2月に発効したことに触れ、「これで国外犯処罰、受刑者移送がそろい、日本で犯罪を犯してもブラジルへ逃げることは出来なくなった」との意義を強調した。日本の刑務所には220人ほどの伯人がおり、半数が帰伯を希望との調査もある。伯国内にも「数人程度」の日本人受刑者がいるようだ。   □関連コラム□大耳小耳 日本政府、現地日系社会、国際交流基金が協力してアマゾナス州政府を支援した結果、「ジジャウマ・バチスタ校」は州立学校ながらも、なんと日ポ両語のバイリンガル(二言語話者)教育を今年から始めた。梅田大使が視察した折も、「理科と算数の授業を日本語で行なっていた」という。公立学校でバイリンガル教育、しかも日本語は当地初。ぜひマナウスにある進出企業はそんな人材をどんどん採用してほしい。官民合同で日本語普及を。聖市の日系コレジオも負けていられない?!
ニッケイ新聞 2016年4月6日 湾岸戦争は1991年1月17日に多国籍軍の空爆から始まった。元をたどれば、前年8月にイラクがクエートに侵攻したのが発端だ。 「イラクではナッシリアという町に住んでいたんだが、秘密警察があちこちにいてね、嫌な町だったな。もし休暇をとってブラジルに帰っていなかったら、僕も人質になっていた。10カ月待っても工事を再開しなかったんで、それっきりメンデスの仕事を辞めた」と振りかえる。 青年隊の中で広まっていた「千田はアフリカかスイスに住んでいる」との噂に関し、「どうしてそんな話になったんだろう」と首をひねった。 千田さんは岩手県一関出身、一関工業高校を卒業後、東京都庁の本局の設計課に2年間勤務した。外国行きの夢が捨てられず、まず力行会に相談に行くと、「あなたは青年隊の方が向いている」と言われ、青年隊に決めた。「当時の上司、東大出の課長に『ブラジルに行くことに決めました』と辞職を願い出ると、『オマエはバカだ!』と言われた」と当時を思い浮かべて呵々大笑した。 青年隊の富士宮訓練所に入り、1963年に9期として渡伯した。同期の貝田定夫(かいたさだお)さんと「二人でアマゾンまでヒッチハイク旅行をしよう」と意気投合。途中バイア州まで来たところで、椰子を沢山植えている日系移住地に立ち寄り、千田さんは「農業をやろう」と考え直し、貝田さんと別れた。「あの頃日本で移住宣伝してた『金のなる木はCoco(椰子の木)にある』って言葉思い出してね。米を2アルケール植えたけど全然金にならないので、すぐに出た。一年かけてそこで稼いだ金がサンパウロで、1週間で無くなったよ。それで測量会社を探して就職したんだ」。 それがセルビックス・エンジェナリア社で、ソブラジーニョダム現場に送られた。そこでメンデス・ジュニオールの重役と知り合い、イタイプーダムに誘われた。「僕がイタイプーに行った77年、日本人は僕一人。工期が遅れて遅れて、なんとかしなきゃとなって、1年たって袋崎とか荒木さんとかエキッペがやってきた」と思い出す。 78年に送り込まれたのは、コンクリート型枠や支保工の設計を専門とする荒木昭次郎さん(9期)、『8人のサムライ』の隊長ともいえる袋崎雄一さん(10期)ら。新しい型枠工法を試して工期を大幅に短縮し、国家の命運をかけた大事業を完成に導いた。 「77年に僕は36歳、袋崎は33歳。彼はポ語がダメなんだが、現場で叩き上げた。メンデスの重役に気に入られ、現場のブラジル人何千人を動かす責任者に大抜擢された。普通のダム現場は2、3年だが、イタイプーには5年もいた。思い出深いよ」と一気に語った。 その後、メンデスの仕事でイラクへ行き、湾岸戦争が始まった後は国内のダム現場に移転したが、結局そこを辞めた。フォルタレーザ出身の伯人女性と結婚、なんと日本へ10年もデカセギに行っていたという。 国家的事業を救ったヒーローの一人が、すんでのところで湾岸戦争の人質にされそうになり、結局デカセギとは…。戦後移民の人生もなかなか波瀾万丈だ。(つづく、深沢正雪記者)
ふるさと巡り3日目も快晴。午前8時45分に集合し、セアラー日伯文化協会との交流、先亡移民慰霊のために「シチオ・キャプテン・フジタ」へと向かう。 到着すると、同文化協会会員の桜庭ミノルさん(61、2世)がふるさと巡り一行を案内してくれた。桜庭さんの話では、セアラー州には現在1200の日系人家族がおり、そのうち会員は200家族ほど。現在は2、3世が中心で、4世ではかなり混血が進んでいるそうだ。ノルデステ地方の日本人移民の記録は乏しく、多くのことは分かっていない。何人かの日本人がペルーなどから転住してきたという記録が、わずかながら残っている。その中で、日本人移民の先駆者的存在である藤田十作氏ついて、桜庭さんが一行に話してくれた。 藤田氏は1908年に熊本県からペルーへ移住。その後、ボリビアへ移住し、現地で働いていたレストランの同僚からブラジルのセアラー州を勧められ、1923年にフォルタレーザへと移住してきた。 現地のブラジル人女性と結婚後、百姓として成功した藤田氏は、自宅の建設や子供たちの教育に尽力した。しかし、そんな上昇機運のさなかに第二次世界大戦が開戦。ドイツ軍の船がブラジルの船を沈没させたことから、ドイツの同盟国日本の日本人移民もブラジル人から家を破壊されるなどの報復を受け、藤田氏一家はすべてを奪われた。 それまで築いてきたものをすべて失うも、知り合いや妻の親戚に世話になりながら、藤田氏は百姓として再び成功。6人の子供全員を大学に進学させた。桜庭さんは「その後、子供らは各分野において活躍し、フォルタレーザの発展に尽くしています」と話を締め括った。 続いて、慰霊祭が天理教の教義に則り行われ、大浜晃モッソロ教会長の慰霊に続き、玉城道子団長、松尾治氏らが慰霊、献花した。 斉藤利治さん(75、2世)は「藤田さんの話に感動し、献花させてもらった。私たちは先祖や親世代の移民のことを忘れがちだが、当地の日系人は忘れずに感謝している」と何かに気づかされた様子だった。藤田氏の話は一行の心に強く残ったようで、旅の終盤でも参加者との会話で話題に挙がることが多々あった。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月6日付
日本と南米つなぐ活動続けて 福島県喜多方市の大和川酒造海外営業部として、日本酒の販促活動で2月9日から同25日まで来伯していた武藤啓一さん(65、福島)。元JICAシニアボランティアとして、2011年7月から2年間、野球指導員として滞伯したほか、福島県人会(永山八郎会長)と連携してブラジルで喜多方ラーメンを普及するなど様々な顔を合わせ持つ。現在は、喜多方市で地域・家庭医療センター「ほっと☆きらり」の事務長を務め、定年退職後も多忙な毎日を送っている。 武藤さんは元々、喜多方市役所に40年間勤め、福島県内外からの企業誘致を担当したほか、地域振興及び観光振興に力を注いできた。その一環として1990年代初頭には中国との国際交流を行い、旧塩川町(現・喜多方市)で第1回日中競演花火大会を実現させた。 「若い頃からブラジルへの興味はあった」という武藤さんは80年代半ばごろ、福島県海外派遣事業の一員としてペルー、ブラジル、アルゼンチンの南米3カ国を3週間かけて訪問。さらに、95年にはオランダ航空が主催した懸賞論文で、ペルーの青少年育成のために文房具や運動用具を提供する内容を書いて優秀賞を授与し、副賞の往復チケットでペルーに16日間滞在した経験もある。 その後、喜多方市の産業部マーケティング部長として喜多方ラーメンをはじめ、米、味噌、醤油、アスパラガスなどの市産品を中国、韓国、香港、台湾などのアジア諸国へ市の物産や観光を売り込む交渉を行ってきた。 60歳で市役所を定年退職した後、思いのあったブラジルに行くため、JICAシニアボランティア制度を受けて合格。野球・ソフトボールの審判資格を生かしてコーペル・コチアなどで指導を行ってきた。その合間に、2013年2月に福島県で開催された「在外県人会サミット」に出席したブラジル福島県人会の曽我部威事務局長と知り合うなどし、喜多方ラーメンのブラジルでの普及を実践、協力してきた。 13年7月ニシニアボランティアの2年の任期を終えて帰国した武藤さんは、喜多方市地域・家庭医療センター「ほっと☆きらり」の運営を行う医療法人社団「福寿会」の武田尚寿理事長から「今、何やっているの」と声を掛けられ、「(同センターの)事務をまとめる男性がいないので、少し手伝ってほしい」と言われたという。武田理事長とは、市役所時代に福島県内のIT関係企業誘致推進事業などで知り合った。 また、今回の来伯で海外営業部の肩書をもらった大和川酒造とも、同酒造社長が喜多方市の物産会長だったことから関わることになった。 武藤さんは「色んな顔を持っていたことが結果的に良い方向に来たのだと思う。今後はブラジルでの日本酒販売など商売は厳しい面もあると思うが、継続性のないことはしたくないので、別の機会にまたブラジルに来たい」と意欲を見せた。 サンパウロ新聞 2016年4月5日付
新役員は9割が2世、3世で構成 ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、本橋幹久会長)は、3月31日午後4時からサンパウロ市リベルダーデ区の文協ビル5階同事務所で3月度代表者会議ならびに第50回定期総会を開き、各県人会代表ら約60人が出席した。総会では役員改選が行われ、出席者により山田康夫氏(65、滋賀県人会長)を会長とするシャッパ(候補者連記名簿)が拍手で承認された。2016年度の県連の新体制は14人の役員で構成され、約9割が2世と3世となっている。7月の日本祭り開催が迫る中、県連のさらなる活躍が期待される。 代表者会議では本橋会長(80、鳥取県人会長)が議長を務め、16年2月度事業報告ならびに会計報告など各種報告が行われた。その後、会長訪日や、約150人が参加した第45回移民ふるさと巡り、第19回日本祭りなどの報告が行われた。そして、各委員会の中で最も重要な任務を担う日本祭り実行委員を務めた山田氏と、市川利雄氏(富山)に拍手が送られた。その後、各県人会情報紹介が行われ、代表者会議は終了した。 総会では原島義弘氏(千葉)が議長を務めた。物故者への1分間の黙とうに続いて昨年度の事業および収支報告、今年度の事業計画、予算案の審議が行われた。 昨年度の収入は約368万レアル(うち第18回日本祭りは約341万レアル)、支出は約351万レアル(うち日本祭りは約322万)で約17万レアルの黒字を計上した。今年度予算は約344万レアルでいずれも承認された。 役員改選では、山田氏を会長とする12人の役員で構成されたシャッパと、山田氏の指名により第3会計と第3書記の2人が追加され、14人の新役員体制が拍手で承認された。 山田氏は通信関係の仕事で1971年に渡伯。その後はレストランを経営するなど多岐にわたって活動。県連では10年近く役員を務め、滋賀県人会では、04年から会長を務めている。また、山田氏は本橋会長に2期目も続投してほしかったというが、本橋会長が継続できないとのことで周囲からのバックアップもあり、会長を務めることを決意した。 就任あいさつで山田氏は「県連50周年という節目の時期を迎える今、会長に選ばれたことを有り難く思う。県連の事業で一番大切な日本祭りが差し迫っており、日本祭りが成功しない限りは何を語っても無駄だろう。3人の実行委員のメンバーは非常に辛い立場だと思うが、一致団結して乗り切らなければならない。また、本日は4人の歴代会長が出席しており重圧を感じているが、新しい県連の姿を示すいい機会でもある。そのためには皆さんの協力なしにはできない。一緒に新しい県連を盛り上げていただきたい」と会員らに協力を呼び掛け、意気込みを語った。 14年から1期2年会長を務めた本橋氏は、自身及び家族の体調の問題などで勇退。退任のあいさつで「会長に就任してから早いもので2年。県連の役員14人で一生懸命務め、皆さんの協力もありここまでやってこれた。新しい事業を始めて成功させることも悪くはないが、県連の現状を見て今やっている日本祭りやふるさと巡りなどの事業をさらに充実させていくことが重要だと思い、その面に力を入れてきたつもり。これからも県連の名を広めていくにはそれなりの行動をしなければならない」と語り、次の世代を担う新しい県連に向けてエールを送った。 新執行部は次の通り(敬称略)。 会長=山田康夫。副会長=高田隆男アルマンド(長野)、坂本アウグスト進(栃木)、島袋栄喜(沖縄)、森永正行ジェラルド(石川)、高野ジョルジ(山梨)、谷口ジョゼ眞一郎(和歌山)、市川利雄(富山)。第1会計=田呂丸哲次(熊本)、第2同=松村マキシミリアノ滋樹(鹿児島)、第3同=川合昭(秋田)。第1書記=菅原パウロ農夫男(香川)、第2同=中矢伝(愛媛)、第3同=四條玉田イウダ(大分)。正監査=篠原俊巳(山形)、西山実(佐賀)、松下大谷瞳マルリ(兵庫)。監査補=平崎靖之(広島)、平山イナシオ(福岡)、杉本教雄(静岡)。 サンパウロ新聞 2016年4月2日付
気温31度の暑さの中、ふるさと巡り一行はフォルタレーザ市内の海岸を望む日本庭園へ到着。この庭園は日本移民100周年を記念して作られたもので、現地の日本人移民の先駆けである藤田十作氏の名前が付けられている。赤い鳥居をくぐった先には社(やしろ)のような建物があり、庭園内には椰子の木やバイアーナの人形も置かれ、日伯折衷の庭園という趣だ。 日本庭園で30分過ごした後、一行はフォルタレーザから85キロの地点にあるベベリベに移動。レストランで食事を済ませた後はそれぞれ近くの海岸「モロ・ブランコ」周辺の散策に出かけた。 記者はバギー車のツアーに申し込み、名嘉正良さん、中村博毅・博子夫妻らと一緒に海岸ドライブへ。右手には赤い岩山、左手には海が見える広大な砂浜をバギーは予想以上に速いスピードで駆け抜ける。後部座席には手すりがあるだけで囲うものは何もない。後部座席に座った記者ら男性陣は、振り落とされないよう捕まるのに必死だ。 バギーは途中で停車し、ガイドが岩山の間を案内してくれた。白い砂の大地を歩き奥へ進んで行くと、巨大な岩山が連なる壮大な景色が目の前に現れる。その風景はまるで、違う惑星かハリウッド映画の1シーンのようだ。上空に広がる青空とのコントラストも美しい。奥にさらに進むと岩山の頂上へと達し、崖っぷちとなっている。崖から一望する大西洋は殊更に美しい。眼前にはどこまでも続く岩山と砂浜、濃い青色の海が広がる。モロ・ブランコは美しく壮大な景色の連続である。 その後もバギーは海岸線を走り、復路では砂漠ような砂地を走り、ドライブ終了となった。 ベベリベを後にした一行はホテルへと戻り、海やプールで過ごす人、卓球やトランプで深夜近くまで遊ぶ人など思い思いに過ごしていた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月2日付
6泊7日の日程で149人が参加 ブラジル日本都道府県人会連合会(本橋幹久会長)主催の「第45回ふるさと巡り」が3月10日から16日の6泊7日の日程で行われ、今回はノルデステ(東北伯)地方のフォルタレーザ、アラカチ、モッソロ、ナタールの4都市の日系団体や移民、文化に出会う旅となった。人気ツアーとなっているふるさと巡りには今回、サンパウロ州を中心にリオやブラジリアからの参加者合わせ総勢149人が参加。熱帯地方の暑さの中、一人もケガ人や病人を出さず無事全行程を終えた。(佐久間吾朗記者) 重たい曇り空が広がった旅行初日。サンパウロ周辺の参加者は午後3時半にリベルダーデ広場近くのマクドナルド前に集合し、グアルーリョス空港へ向け出発した。 バスが空港に着く頃には曇天から雨模様へと変わった。ふるさと巡り一行は、午後7時55分のフライトでフォルタレーザへ向け飛び立ったのだが、その後雨足が強まった影響で飛行機の運航中止や、遅延になった便もあったと聞いた。雨は翌日まで降り続き、サンパウロ市周辺の市町村で水害が出た地区もあったそうなので、日程通り出発できたことは、ある意味幸先の良い旅の始まりと言えた。サンパウロの様子を聞いた参加者の一人は「最近の神様はヒステリーを起こしてるとしか思えない。雨を全然降らさないと思ったら、降らす時は過剰なくらいに降らす」と呆れた様子で漏らしていた。 飛行機は午後11時半頃セアラー州フォルタレーザ市のフォルタレーザ空港へ到着。冷房が効き過ぎた空港から外に出ると、もわっとした熱気が肌にまとわりつく。ここでリオとブラジリアからの参加者6人も合流し、市内で人気の海岸「プライア・ド・フトゥーロ」近くにあるホテル・オトン・パレスへ移動。記者がチェックインを終え部屋で荷物を解く頃には、時計の針は既に午前1時近くになっていた。 ◎   ◎ 2日目は午前8時にホテルを出発。旅の全行程を参加者は3つのグループに分かれ、グループ単位で行動する。記者はグループ3の一員となり、快晴の空の下、その日最初の行程である市内観光のためバスに乗った。 グループ3の現地ガイドはシーダ・オリベイラさん。彼女がフォルタレーザの歴史を語る中、バスは街の中心部を走り最初の目的地セアラー博物館に到着した。しかし、いざセアラー博物館に向かおうとした矢先、大粒の雨が降り出す。バスの停車地から博物館入り口までは距離があり、この雨の中を傘も差さずに歩いたらびしょびしょに濡れてしまう。杖をついて歩行する参加者もおり、短い距離であっても雨の中の移動は困難を極める。しばらくバスの中で待機するが止む気配はなく、「あと1時間は降るだろう」というガイドの判断で見学は中止。次の目的地の中央市場訪問に予定は変更された。 博物館からすぐ近くにある中央市場へと向かう数分の間に、雨はさっぱりと上がり再び太陽が顔を出した。「こんなことなら博物館へ行きたかった」と不服そうな男性陣と、「これで買い物に時間を費やせる」と笑顔の女性陣。対照的な表情が面白かった。 地上階から5階まである巨大な中央市場には所狭しと店が並ぶ。機能性よりデザイン性を追及したような建物の造りは記者好みだ。名産であるカシューナッツや、手編みの洋服やカバン、現地の伝承をまとめたコルデルという小冊子だけでなく、ハンモックやTシャツ、靴など多彩な商品が売られていた。 半年かけて編まれたという黒のドレスを購入した女性の参加者は「手作りだから同じものが一つとしてないし、売ってるものがサンパウロと比べて格段に安い」と戦利品を手に満足気。参加者の多くは名産のカシューナッツを購入したようだった。 午前10時にバスは中央市場を発車し、次の目的地である藤田十作氏を称える日本庭園へと移動した。(つづく) サンパウロ新聞 2016年4月1日付
ニッケイ新聞 2016年4月5日 11日午前中に一行は、フォルタレーザ市内の高級別荘地が立ち並ぶメイレーレス海岸にある「藤田十作日本庭園」を観光した。鳥居やスズラン灯、滝のある日本庭園も造られ、一等地にある立派な公園だ。プレートを見ると、観光省から予算をもらって、移民百周年を記念して建設したものだ。 当時の記事を読んでみると、08年にセアラ―州日伯文化協会(藤田ジョアン会長)が構想を打ち出し、1900平米の土地を市が提供し、観光省がなんと約200万レアルの大枚を投じて建設し、11年4月11日に完工式を行った。 庭園奥の部分には4本の柱があり「訓育」「我慢」「決心」「苦心」「献身」「根気」などの古風な言葉が鋳抜かれている。藤田十作とは一体、どんな人物だったのだろう。 午後は、真っ白な砂浜が広がるモーロ・ブランコに行き、バギーや散歩を楽しんだ。バギーでは巨大な風車の様な風力発電施設が立ち並ぶ様子や、洞窟、海岸にある淡水池などにも足を延ばした。川上三枝子さん(74、二世)は「バギーの後ろで風に吹かれて、とても気持ち良かった」と喜んだ。 ホテルに戻ると、故郷巡りらしい劇的な出会いが待っていた。午後5時過ぎ、ロビーで一人ソワソワしている小山徳さん(のぼる、76、長野)に、なにげなく声をかけると、「千田功(ちだいさお)って知ってるでしょ。君が昔書いたイタイプーダム建設で活躍した青年隊の連載『国家事業救った8人の侍』の一人だよ。先日、連絡先がようやくわかった。偶然このホテルから4キロ先の所に住んでいるから、会いにくるっていうんで、待ってるんだよ」というので驚いた。 小山さんは南米産業開発青年隊の8期。千田さんは9期でイタイプー工事の後、青年隊とは連絡を断った状態になっており、小山さんは「彼はアフリカに行ったとか、スイスに行ったとかの噂で、全然連絡が取れなかった」という。「ウマラーマ訓練所以来だから50年ぶり。僕が日本語でメールを書いても、ポルトガル語で返事を書いてくるんだ。どんな生活をしているのかと思って…」という。 ほどなく、さっぱりした表情のスマートな男性が回転扉を回して入って来た。「千田か!」「小山さんか」と二人は顔を見合わせ、固く握手を交わした。そこへ偶然にも一行の一人で青年隊4期の曽我義成さん(78、岐阜)も通りかかり、事情を聴いて驚き、一緒にテーブルに座って、千田さんのイタイプー後日談を聞いた。 「サダム・フセイン時代のイラクに、メンデス・ジュニオール(大手建設会社)から派遣されて2年間、ペトロブラスの仕事で行ったよ。ユーフラテス川の下に地下用水路を作って、チグリス川の水を流す大規模な灌漑設備を作る仕事だった。でも、たまたま休暇でブラジルに帰って来た時、湾岸戦争が勃発したんだ。フセインは『外国人を人質にする』って宣言し、あの時、現場に残っていた仲間はみんな捕まった」。平和な北東伯の海岸に立つホテルのロビーで、衝撃の体験談が始まった。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月2日 ブラジル日本都道府県人会連合会(本橋幹久会長)が主催する第45回「移民の故郷巡り」一行149人は、3月10日から16日までセアラー州都フォルタレーザ、北大河州モソロー、同州都ナタルを観光し、現地日系人と交流した。「どこに移民の故郷が?」と首をかしげるほど日系人が少ない北東伯だったが、〃アマゾン下り〃のセアラー州の先駆移民・藤田十作の子孫、メロン栽培で有名なモソロー、入植者の大半が町に出てしまった戦後移住地ピウンなどを巡るなかで、一行は「ここにジャポネースあり!」との誇らしい気持ちを新たにした。加えて一行参加者を取材し、戦争前後の出来事を中心に、まるで〃歴史の玉手箱〃の様にキラキラと輝く貴重な逸話の数々を聞いて回った。 記者が同行した第3グループは10日午後8時のGOL機で一路フォルタレーザへ、北北東へ約3100キロを一っ飛び。南米大陸が大西洋に最もせり出している地点のわずかに北だ。149人という大人数のため、一行は聖市からの飛行機、現地バスも三つに分かれて行動した。 翌11日(金)から観光開始。現地ガイドは「セアラーは1885年に最初に奴隷解放をした州。4年間ほとんど雨が降っていない。首都の人口は300万人。ここは踊りフォホーで有名だし、有名なユーモリストが沢山生まれた州よ。例えばシッコ・アニジオ、レナート・アラゴン、ファルコン(歌手)、あと連邦議員になったチリリッカもそう」と早口に説明した。 北東伯の半砂漠地帯カアチンガの55%は同州にあり、戦前にはカンガセイロ(匪賊)が大活躍した。午前中に訪れた市営手芸品市場には、民衆から義賊と親しまれたカンガセイロの首領ランピオンと妻マリア・ボニータの土産物人形がいたるところで散見された。 目の細かい独特のセアラー織物(renda do Ceara)は人気が高く、一行女性には200、300レアルのテーブルクロスやワンピースを「安い、安い」と勝って行く姿も。スカートとテーブル掛けを買った大村順子さん(65、鹿児島県)は「一枚編むのに半年かかるって。サンパウロで買ったら高いのよ」と初日からの収穫を喜ぶ。ワンピースを買った森小百合さん(71、鹿児島県)も「偶然に店主が日系二世で日本語が達者だった。『負けて負けて』ってお願いしたらサービスしてくれたわ」とホクホク顔を浮かべた。 州南部のジュアゼイロ・ド・ノルテは、地元では熱烈な信者が多いシセロ神父の本拠地だ。青年時代フォルタレーザで学んだ人物で、長年バチカンから反逆者扱いされ、昨年末にようやく聖人への筋道が認められたばかり。いわばセアラー州はブラジル史の主要な歴史舞台の一つだ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月2日 ブラジル日本都道府県人会連合会の第50回定期総会が先月31日午後、文協ビル内の県連会議室で行なわれた。本橋幹久氏(80、鳥取県)が1期2年で会長職を勇退し、山田康夫氏(65、滋賀県)の就任が決定した。今年50周年の節目を迎える県連の新役員は、会長こそ一世が引き継いだが、副会長以下は二世が圧倒的多数を占めた。 本橋氏は「思い起こしてもこれといった功績はない」と前置きしながらも、「首相官邸に4度お願いに上がり、ようやく日本政府が日本祭りに参加してくれるようになった。自ら足を運び、働きかけることの大切さを思い知った」と振り返り、関係者に感謝を述べた。 後任の山田氏は、滋賀県近江八幡市出身の65歳。71年に飛行機で工業移住し、NECの下請け企業で通信事業に従事した。16日の締め切りまでに山田氏のシャッパしか提出されなかったことから、挙手によって会長就任が信任された。 山田新会長は「重い責任を感じる。まず7月の日本祭り成功が大切だ。役員には二世が多く、副会長で言えば島袋さんだけが一世。創立50周年を迎える県連の新しい姿を見せる良い機会になる」と決意表明した。 なお2015年度の通常収入は約26万6千レ、支出約28万3千レ。今年の第19回分への前払い金を含む昨年の日本祭りの収支は、順に約341万レ、約323万レだった。16年度の通常収支23万6400レと30万4700レ、今年の日本祭りのみの収支は292万7千レと314万1千レで赤字を計上。 今年度の事業として50周年式典を9月18日に予定。記念事業には、県人会活性化セミナーが企画されている。次回の第46回ふるさと巡りは訪問地を検討中。 総会前に行なわれた3月度代表者会議では、日本祭りの議題も。本橋氏が先月上旬に訪日し、世耕弘成内閣官房副長官と面会した報告があった。「昨年は場所代として1750万円の支援があったが今年は金額、面積、内容は未定」とし、4月中に決まる見込み。 県人会による郷土食広場は45の参加が決定。茨城と、創立式典を同月に控える新潟は見送りが濃厚となっている。 2016―17年度の新執行部は次の通り(敬称略)。【会長】山田康夫【副会長】高田アルマンド陸男(長野県)、坂本アウグスト進(栃木県)、島袋栄喜(沖縄県)、森永正行ジェラルド(石川県)、高野ジョルジ(山梨県)、谷口ジョゼー(和歌山県)、市川利雄(富山県)【書記】田呂丸哲次(熊本県)、松村滋樹(鹿児島県)、川合昭(秋田県)【会計】菅原パウロ農夫男(香川県)、中矢伝(愛媛県)、四條玉田イウダ(大分県)【監査役】正=篠原俊巳(山形県)、西山実(佐賀県)、松下大谷瞳マルリ(兵庫県)、補=平崎靖之(広島県)、平山イナシオ秀夫(福岡県)、杉本教雄(静岡県)   □関連コラム□大耳小耳 県連の本橋幹久前会長は、自身と妻の健康状態を考慮し1期2年で退任。最後のあいさつでは、連合国軍最高司令官だったマッカーサーの引退演説から「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という一節をもって勇退した。そういえば2年前の就任あいさつでは、ケネディ元米大統領の演説「国家(県連)に対して何を望むかよりも、自分が国家(県連)に何を奉仕できるかを考えるべき」から引用した言葉があった。最後は決まり文句である「弥栄!」で締めくくり。最後まで〃らしい〃本橋さんだった。