2日目の夜は今回初めての公式行事となる、現地の日本人及び日系人との夕食懇談会が開かれた。 サント・ドミンゴ市内の中華レストランが会場となり、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹(たけがま・とおる)会長(75、鹿児島)、日本ドミニカ友の会の西尾孝志会長(71、広島)、日本に一時帰国中の佐藤宗一在ドミニカ日本国大使館特命全権大使の代理として植松聡領事夫妻、JICAドミニカ支所長代理の鈴木央(ひさし)事務所員をはじめ、サント・ドミンゴ市に在住する日本人及び日系人約20人が出席。ふるさと巡り一行76人と合わせて約100人が一堂に会した。 在サンパウロ総領事館首席領事や在クリチバ総領事などを歴任し、約20年間ブラジルで勤務して親しまれた佐藤大使は当初、ブラジルからの一行がドミニカを訪問するに際し、大使公邸での懇親会を予定していたという。しかし、日本に一時帰国することになり、この日の懇親会には出席できなかったが、「うまく時間が都合できれば、(後日の)慰霊碑参拝には佐藤大使が出席できるかもしれない」との話だった。 同地日系団体及び大使館代表者などのあいさつの後、本橋幹久団長がふるさと巡りと日本祭りなど県連の活動を説明。本橋団長から嶽釜会長に県連日本祭りのDVDや報告書などが記念品として贈呈された。 「日本とドミニカには移住協定がなく、我々は国(日本政府)から捨てられた棄民だった」―。あいさつの中で、とうとうと熱弁を振るったのは会員数約135家族を指揮するドミニカ日系人協会会長で、1956年7月にドミニカ移民第1陣としてダハボンに18歳で入植した嶽釜氏だった。 「ドミニカに残った我々移住者は、日本の国策の失敗が誰の責任だったのかどうしても納得できなかった」と同会長は2000年に日本政府を相手取っ て起こした裁判について説明。当時の小泉純一郎首相の和解案に「日に日に寄せる移住者の高齢化の波に苦渋の選択の末に和解案を受けた」としながらも、「ま だ移住問題が解決したわけではない」と語気を強めた。 提訴する前の1998年ごろに嶽釜会長は日本の外務省を訪問し、日本人移住 地で石が多くて耕作どころではなかったネイバの石と、土地から噴き出すドベルヘの塩を持参して「入植して40年以上たってもこういう状況だ」と訴えたとい う。「『祖国は自国民をだまして苦しめ、殺すんですか』と聞いた。簡単に言えば詐欺だったんですよ」と嶽釜会長たちの怒りは今も収まっていない。 97年には嶽釜会長をはじめ、ドミニカ側で「移住問題解決促進委員会」が8人で発足し、裁判への足掛かりとなった。委員会のメンバーで残っているのは現在 5人のみ。嶽釜会長は「我々1世が死んだら(日本政府と交渉する)後継者はいなくなる。その前に土地問題を解決しないとと焦っている」と現状を吐露する。 そうした中、国策問題の一環として日本政府に交渉して造らせたのが、今年1月に建立された「ドミニカ共和国国策ドミニカ日本人農業移住記念碑」だという。 「本当は昨年の7月29日の(同地の)『移民の日』までに建立したかったのですが、今年1月17日に落成式を行いました。今年8月25日には、記念碑横に 移民の家族の名前を刻んだ記念プレートも造ってもらいました」と嶽釜会長。しかし、裁判を起こした移民たちが本当に求めているのはあくまでも、「耕作でき る自分たちの土地だ」と強調する。(つづく、松本浩治記者)...
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ニッケイ新聞 2013年11月13日 ハラバコア移住地に向けて出発する。途中混雑していると思ったら、トラックが横転している。さすがドミニカ。ガイドに電話が入り、一人がホテルにまだいるという。すぐさま内藤さんがバスを降りる。後から聞くと、ヒッチハイクで迎えに戻ったという。さすが内藤さん。バスは北上する。自然のなかに、貧困や政治が見え隠れするのはブラジルと同じだ。途中、台湾系によるものだという水田がのどかな風景をかもし出す。ハラバコアは標高600メートル。別荘地としても知られているように、瀟洒な山荘がときおり見える。1958年に13家族68人が初入植。国内の農耕地としては恵まれているというが、他移住地からの転住が続き、移住者らがひしめき合う状態になってしまったという。現在は7家族が住んでいる。バスは2006年50周年を記念し建てられた日本庭園前に到着。鳥居や浮島もある立派なものだ。出迎えてくれたのは日高武昭さん(70、鹿児島)。ドミニカ鹿児島県人会の会長でもある。 しばらく行ったところにハラバコア友好会館がある。裏手に広がる芝生を見ながら「ここらへんに家があったようですけど…全く変わっていますね」と話すのは、野添(旧姓・富樫)美夜子さん(63、北海道)。6歳で移住し、11歳のときに聖州ブラガンサ・パウリスタに、その後もヴァルジェン・グランデなど転住を続けたという。近くに住んでいたという浜田京子さん(64、鹿児島)が51年ぶりの再会を喜び、「働きものでねえ。弟のヨッタン(世史郎さん)を背負って炊事、ドラム缶のお風呂も焚いていたよねえ」と涙をぬぐった。清流ながれるリゾートホテルで昼食。半世紀とはかくも長い年月なのだ。ピエダーデ・ケサーダ市長が歓迎の意を表し、広島との関係を強調する。聞けば「広島市から贈られたゴミ収集車が活躍している」のだとか。そういえば、広島東洋カープはドミニカに野球アカデミーを所有している。ドミニカ訴訟を扱ったテレビ番組のDVDを1枚10ドルで販売しているという。記者は買わなかったが、3枚組で10人ほどが買ったようだ。定番の「ふるさと」を歌い、一路サントドミンゴへ戻る。旅行先での楽しみといえば多くあるが、やはり食に尽きる。郷土食レストランで「サンコーチョ」が出るというので胸が高鳴った。数種類の肉や野菜を煮込んだハレの料理だとか。メレンゲによる男女二人の踊り。地元のラム酒を使ったカクテルも手伝い、ようやくドミニカに来たという気分が盛り上がる。すると、小さなカルド・デ・モコトのようなものが出た。ほかの参加者には、ジャガイモらしきものが入っていたが、記者のものにはスープ用の牛骨しか入っていない。ナイチンゲールが嘆いたというクリミア戦争での病院食をイメージした。その後、米とキュウリなどを切っただけのサラダ。しばし待つ。「サンコーチョは?」とガルソンに聞くと驚いたことに最初のカルドがそうだという。本橋団長も「え!あのソッパで終わり?」と目を剥き、状況を確認するためガイドの席に向かった。■文化に上下はない。あるのは違いだけだ。だが悲しい違いだ。ガルソンに値段を聞くと、3ドルのセットだという。ガイドに聞くとレストランには10ドルで注文したという。消えた7ドル×76人。レストラン側との交渉を尻目に一行はバスに乗り込んだ。やはり気が抜けない、ドミニカ。バスのなかで「ホテルの和食屋で口直しをして欲しい」と告げられる。初日夜に1時間待たされた経験もあってか、レストランに現れる人は少なかった。数人で飲んだ「プレジデンテ」は、ことさら苦かった。(堀江剛史記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
『第54回海外日系人大会 歓迎交流会』に県連から園田昭憲会長が出席し、秋篠宮殿下同妃殿下御臨席のもと「日本国民の健康と安全、全世界の平和を祈ります」とあいさつし、乾杯しました。 ◯ 記事と写真はこちらをクリック秋篠宮ご夫妻、海外日系人大会に出席 180人と交流(朝日新聞デジタル)
ブラジル福島県人会(永山八郎会長)は、2014年度短期研修生を急募している。 福島県主催の同研修の目的は、中南米に移住した県人会員やその子弟と県民との交流を通じて、将来にわたる親善・発展に寄与する人材育成。 今回の研修期間は14年1月末から2月初旬の約2週間。定員は中南米で10人だが、ブラジルからは5人が推薦される予定。東日本大震災後、3年間凍結していた同研修だが、今年2月に福島県で開催された「在外県人会サミット」を機に再会が決定した。 応募資格は、18~40歳の同県人会の会員または会員の子弟であること。日本語能力は問わない。また福島県内に親族がいることも条件で、渡航費、日本国内旅費、宿泊費は福島県庁が負担する。 申し込み締め切りは今月25日。応募者の中から面接などにより選考される。なお現在同県人会員でなくても、これを機に加入することで応募資格を得られる。 来社した永山会長と曽我部威同県人会事務局長は「日本、福島の今を肌で感じる絶好の機会。ぜひとも応募してほしい」と呼び掛けた。 予約・問い合わせは、同県人会事務局(電話11・3208・8499)まで。 2013年11月14日付
サント・ドミンゴ市内の中華街に到着。昼食は1号車、2号車の一行76人が一緒に取るため、場所の確保が大変だったようだ。 雑然とした雰囲気の中で同席し、「本当はドミニカに行くはずだった」と話してくれたのは、サンパウロ市内に住み本紙ビル内で大正琴教室に通っているという吉瀬(きせ)弘子さん(74、東京)だ。夫の吉瀬教通(のりみち)さん(75、東京)とともに夫婦で参加した。 戦前、満州開拓団として家族で海を渡り、3歳から6歳までを満州で過ごしたという弘子さん。父親の故大久保隆朝さんは「沢村高造」という歌舞伎俳優だったという。しかし、妻からは「役者では食べてはいけない」と諭され、満州開拓団に行くことに。歌舞伎のことが忘れられない隆朝さんは満州にも三味線を持って行ったほどだったという。 しかし、終戦により一家は1945年に日本に引き揚げ、千葉県の開拓団に入ることに。その開拓団で知り合った中に東京都三宅島の人がおり、一時は三宅島にも住んでいた。 戦後の不況の中でドミニカ移民の話があり、弘子さんたちも当初はドミニカに行くことを考えた。しかし、ドミニカから戻って来た移民たちから「ドミニカにはまともな土地もなく、農家として成り立たない」と聞かされ、断念。しかし、大陸の思いが強い弘子さんの家族は、58年に「あるぜんちな丸」でブラジルに渡った。その時の同船者が現在の夫である教通さんだったという。 現在、がんの症状があり、医師の許可を得て参加した弘子さんは「どうしてもドミニカには行ってみたかった」と強調していた。 昼食後、市内の中央市場で各自土産物などを買った後、一行は現地法人・ドミニカ日系人協会(嶽釜徹会長)傘下の日本語学校(上原邑子校長)を訪問した。 市内でも高級住宅地であるピアンティーヌ区にある日本語学校に到着したのは午後3時半。一行が訪問することを聞いたのは数時間前だったらしく、出迎えてくれたのは、同日本語学校教師や高齢者福祉士など今年7月からJICA日系社会青年ボランティアとして派遣されている女性たちだった。 その中の先輩格であり、同地に赴任して1年3カ月が過ぎたという小出知子さん(38、香川)が同校の説明をしてくれた。それによると同校には6~18歳の 日系子弟31人が在籍し、土曜のみ授業が行われているという。それ以外の曜日は日本語教師たちが地方を巡回して教授しているとし、年間行事はお話大会、盆踊りや6月には学期末となる学芸発表会も行われているそうだ。 教師は上原校長を除く現地の日系人教師が2人と、日本からの青年ボランティア6人を含めた計8人。また、成人クラスもあるが、日系人との配偶者であるドミニカ人は対象となるが、非日系人は基本的に受け入れていない。 日本語学校の2階建て立派な建物は日本政府の資金援助などで建設され、隣接する建物内では高齢者福祉施設と日系子弟の学生寮も完備されている。ガイド役の 内藤さんによると、大学に近い治安の良い場所として同校建設地の選定には苦労したと言い、同地から約2キロの場所にはサント・ドミンゴ自治大学(公立)が ある恵まれた環境だ。 また、ドミニカにはJICAの日系社会ボランティア、青年海外協力隊を含めて全体で約70人が派遣されており、ドミニカ日本人移民の日本政府を相手取った裁判での損害賠償請求が少なからず影響しているとの話も聞かされた。 ブラジルでは日本政府からの援助が年々少なくなる中、「有るところには資金援助は有るものだ」とブラジルからの参加者の一部からはため息交じりの声も聞こえた。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月14日付
2日目の10月18日、朝から快晴。一行は午前9時に2台の大型バスに分かれてホテルを出発し、サント・ドミンゴ市内を観光した。 1号車に現地ガイドとして同乗してくれたのは、前日にも内藤さんとともに空港まで出迎えてくれた安岡誠夫さん(53、2世)。父親は第1次ダハボン入植者で、安岡さんは同地で生まれた。 同市内にあるドミニカ国家警察本部、中央銀行などを通り、一行は大統領府前で早速下車。各自記念写真などを撮る。 大統領府前の小広場で2号車に乗車していたサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市在住の八巻達夫さん(64、福島)が、安岡さんにドミニカ移民の消息を聞いていた。 八巻さんは1957年、当時6歳の時に第2次入植者としてダハボンに家族と入植。「ダハボンはハイチとの国境近くで、父(八巻茂さん、89年に89歳で死去)は米作りをやっていましたが、(ラファエル・トルヒーヨ)大統領が(61年に)暗殺されてから治安が悪くなり、ブラジルのほうがいいと63年にブラジルに渡りました」と説明してくれた。 八巻さんは今回、母親の八巻タツさん(87、福島)と2人で参加。「自分は本当はあまり来たくなかったんだけど、ママイ(母親)がぜひ来たいというので」と本音を語る。 50年ぶりにドミニカを訪れたというタツさんは「(ダハボンで)水田を作るのに夜に交代で水を入れたりしてね。来たころは嫌気が差して日本に帰ろうかと大分迷いました。大統領が殺されてから女性がいると襲われる恐れもあると言われてブラジルに行きましたが、今回の(ふるさと巡り)旅行でドミニカに行くと知って来てみたいと思いました」と参加動機を話してくれた。 現地ガイドの安岡さんの説明によると、ドミニカ共和国の総面積は約4万8000平方メートル。人口は約1000万人で、そのうちの400万人が北米などに出稼ぎに出ているという。 サント・ドミンゴ市は1496年、コロンブスの弟であるバルトロメ・コロンによって建設されたとし、市内のサンタ・マリア大聖堂や要塞などは1990年ごろに世界遺産に登録されたそうだ。 一行はサンタ・マリア大聖堂をはじめ、要塞施設やスペイン広場などを見て回る。社会見学の授業なのか地元の小学生たちが数多く、日本人及び日系人の団体を珍しがって無邪気に声を掛けてくる。 午前11時まで同地で観光を行った一行は、オサマ川沿いでドミニカ日本移民たちが最初に上陸した場所に建てられている「ドミニカ共和国 国策ドミニカ日本人農業移住記念碑」へと立ち寄る。 同記念碑は今年1月に日本政府の援助で建立されたとし、4人の家族の像がブラジル・サントス港の「移民上陸記念碑」をほうふつとさせる。 記念碑の左横には移住者の氏名が刻まれた記念プレートもあった。 一行は昼食のため、市内の中華街へと向かった。(つづく、松本浩治記者) 国策移住記念碑前で記念撮影する一行 2013年11月12日付
積極的人材交流で日伯をつなぐ ブラジル愛媛県人会(西村定栄会長)は、10日午前10時よりサンパウロ市ビラ・マリアーナ区の北海道協会会館で創立60周年記念式典を開催した。母県から中村時広知事(53)や井上善一愛媛県海外協会会長(68)ら35人の慶祝団が出席し、節目の年を祝福した。また式典の前日にはイビラプエラ公園内開拓先亡者慰霊碑の参拝、献花が行われ、西村会長と慶祝団一行は先人たちに静かな祈りを捧げた。 9日午前8時、開拓先亡者慰霊碑前では中村知事と竹田祥一愛媛県議会議長(78)の献花後、1分間の黙とうが捧げられた。慶祝団一行は県連の本橋幹久副会長と木原好規理事の移民の歴史についての説明に耳を傾け、一人ずつ慰霊碑前で手を合わせた。 父親と伯父が移民として来伯し、当日いとこを含め20人以上の在伯親族と夕食を共にした中村知事は「ブラジルには深い縁がある。3度目の来伯だが、また戻ってきたという感覚」と話し、初来伯の竹田議長は「歴史を自分の目で確かめに来られてよかった」と語った。 ◎ ◎ 10日午前10時過ぎ、350人の来場者を集め60周年式典が幕を開けた。県人先亡者への黙とう、伯日国歌斉唱に続いて西村会長は「愛媛を愛する先人たちが発足した県人会を、会員同士のきずなと関係各位の支援、指導により守ってこられた」とあいさつした。 祝辞は、最初に慶祝団を代表して中村知事、竹田議長、井上会長が述べた。 中村知事は前日に訪問したという移民史料館で「長い歴史の足跡と並大抵でない1世の苦労を感じた」と同県人会を発足させた先人たちにも敬意を示し、母県の特産物や観光名所も紹介。「愛媛県の発展ぶりをぜひ実感しに帰ってきてほしい」と来場者に呼び掛けた。 続いて福嶌教輝在聖日本国総領事、本橋県連副会長、今治市にルーツのある羽藤ジョージ聖州議員、安部順二連邦下院議員がブラジル側の来賓を代表して祝辞を述べた。 式典では、功労者や高齢者の表彰、県人会と母県・海外協会の記念品の交換、安部議員から西村会長への感謝状授与、井上会長から県人会への祝い金贈呈、母県から日系コロニア三団体への功労金贈呈などが行われた。 その中で母県からは、船で移民として来伯した先人に思いを込めたという、四国中央市の伝統工芸水引細工で作られた船が贈られた。 その後県費留学生代表あいさつと記念ケーキカット、万歳三唱が行われ、2時間半の式典は幕を閉じた。 来賓による祝辞の中などで、同県人会が高い評価を受けていたのは県費留学生や技術研修などの人的交流だ。県連の本橋副会長は「県連の中でも数少ない」と評し、福嶌総領事も「日本に素晴らしい日系社会の存在を知らせる機会になる」と話した。 来場者の梅宮真美さん(21、3世)はその一人。「すべてが楽しい思い出だが、特にそば打ちが印象的」と貴重な経験ができたことを語った。 また中村会長は県人会が母県に果たす役割について「人的交流や経済交流で県人会が間に入ってくれると安心感が生まれる」と語ったが、現地民間企業もまた県人会に期待するところは大きい。 式典内でも紹介を受けたブラジル初の愛媛の企業ミウラボイラー・ド・ブラジルの渡邊力社長(46)は「人と人とのつながりや口コミがビジネスの発展に重要なブラジルにおいて、県人会を通して広がる人間関係がある」と話した。 式典終了後には記念午餐会が開かれ、サンバチーム「アギア・デ・オウロ」が中村知事以下慶祝団一行を巻き込んで盛り上げると、今度は慶祝団が「松山名物野 球拳」で会場を一つに。「ジャパニーズ・サンバ」に会場は笑いに包まれた。最後は知事自らもマイクを持ちカラオケ大会が行われ、午後4時にすべてのプログ ラムが終了した。 午餐会で、愛媛県議員の福田つよし氏に「おせったい」という言葉を聞いた。愛媛県も含む四国地方のお遍路文化でサービスを無償でする精神を指すという。 この日の式典は、来場者を楽しませる県人会と母県の「おせったい」の精神がよく体現されていた。...
県連主催の2013年ふるさと巡り忘年会ツアーが11月29日から12月1日までの3日間、ミナス・ジェライス州カシャンブ市を訪問して行われる。 同市は「泉の町」として知られ、ツアーではカシャンブ市及びサンロレンソ市のミネラルウォーターパークなどを訪れる。 料金は1人670レアル。 詳細についての問い合わせ、申し込みはグローバル・ツーリズモ(電話11・3572・8990)まで。 2013年11月13日付
サンパウロ新聞社が新潟日報社(本社・新潟市、高橋道映社長)と結ぶ国際交流拠点としての協力協定が3年目を迎えたのを機に、23、24両日、サンパウロ市アクリマソン区の新潟県人会館(Rua Pandia Calogeras, 153)で「新潟日報フェアinサンパウロ」(主催=新潟日報社、後援=新潟県人会、サンパウロ新聞社)が開かれる。 会場では、1974年の田中角栄首相のブラジル訪問や、82年の上越新幹線開通時にブラジル新潟県人会一行が一番列車に乗車した様子などを伝える新潟日報紙面などを約40枚のパネルにして展示する。 また、インターネットで同社の記事データベースに接続し、27年以降の新潟日報の朝夕刊紙面を検索し印刷するサービスも実施。現在ブラジルで活躍する新潟県人が、誕生日や日本を出発した日などの記念日に、故郷でどんなニュースが報じられていたかなどを知ることができる。 このほか、23日午後1時半より、新潟日報社の渡辺隆・取締役編集局長が「新潟県の今、そしてこれから」と題して講演する。 また、昭和の新潟の様子を撮影したフィルム映像の上映も併せて行われる。上映する映像は次の通り。 ◆昭和30年代の「日報ニュース」(新潟地震直後の映像など)。 ◆新潟大学地域アーカイブセンター収集の映像(昭和20~30年代の魚沼地方の小正月行事の記録など)。 23日は午前11時開場で午後5時まで。24日は午前10時開場で午後4時まで。入場無料。 2013年11月13日付
在ブラジル日本国大使館に今年9月に赴任した中前隆博公使(53、広島)が7、8両日、赴任後初めてサンパウロを訪問し、日系各団体へのあいさつとイビラプエラ公園内開拓先亡者慰霊碑への参拝を行った。 7日午後6時半ごろ、佐野浩明在サンパウロ総領事館首席領事の案内で来社した中前公使は、ブラジル就任は今回が初めてだが、1998~2001年にアルゼンチンに駐在した経験があり、出張ベースで来伯したことがあるという。 今後の日伯関係について「政治問題がベースとなるが、ブラジルの経済も拡大しており、100年以上にわたる歴史を持つ日本移民という資産がある。三輪(昭)大使の口癖は『大きな柱は人的交流』で、日本がブラジルに向いていることは明らか」と言明。また、ブラジルなど南米諸国の多くが日本式の地上デジタル放送を導入していることを例に挙げ、「商売の面だけでなく、互いの能力を一緒になって世界に貢献できることは貴重なこと。日本が中南米の改革に取り組むことへの可能性はまだあり、(日伯両国の)互いの経済のアップダウンはあるが、極東と南米の反対側の国が手を組めたことで今後も『攻めの仕事』ができる」と意気込みを示した。 さらに、日伯間のノービザ協定の実現については「各方面での調整や省庁間での責任問題があり、どう調整されるかは今後の動きによる」と言明を避けたものの、「個人的な気持ちとしては(協定実現に)強いものがある」と述べた。 そのほか、今年10月から4年半ぶりに再入国が認められるようになった「日系人帰国支援事業」への日本政府の対応については、「これまでの日系人の実績を踏まえ、良い意味で人的交流が広がれば」と話した。 2013年11月13日付
48年間で通算146人が受賞 第43回山本喜誉司賞受賞の授賞式が、8日午後7時からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の文協ビル2階貴賓室で行われ、新宅義美氏(76、2世)、松原宗文氏(75、2世)、岡島博氏(72、群馬)、堀田ワルテル幸夫氏(50、2世)の4人に記念プレートと記念品が手渡された。初代文協会長で農学博士だった故山本喜誉司氏の名前を冠した同賞は1965年、ブラジル農業技術研究会(ABETA)によって創設され、48年となる今年で通算146人が受賞した。 授賞式には来賓として、福嶌教輝在サンパウロ総領事、深野昭国際交流基金サンパウロ日本文化センター所長、遠藤浩昭JICAブラジル事務所次長、菊地義治援協会長、本橋幹久県連副会長、山本喜誉司氏の孫に当たる山本ルイス氏が出席したほか、受賞者の家族や友人、関係者など約150人が出席した。 日伯両国歌斉唱、協力者紹介の後、山添源二同賞選考委員長があいさつ。同賞がブラジル農業分野で最も古く、受賞者の大部分が日系である中、一部研究者など非日系も対象になってきたことを説明。「日系の多様化と食生活の変化の中で農業の技術革新が行われてきたが、今回はパラー州、バイア州、マット・グロッソ州、サンパウロ州とブラジルの東西南北から受賞者が出たことは、日系人がいかに広いブラジルで活躍しているかが分かる」と述べ、4氏の功績を褒めたたえた。 山下譲二文協副会長の式辞に続き、今回初めて受賞者の功績がビデオ上映で紹介され、一人ずつ記念プレートと記念品が本人と夫人に手渡された。 福嶌総領事は4人の受賞者への祝辞を述べ、同賞を支えてきた文協及び選考委員会への感謝の意を表し、「ブラジルは世界の農業大国として掛け替えのない国。日系社会の汗と涙でその地位を勝ち取ってきたが、その中でも特に農業分野で活躍する人々には心から敬意を表したい」と激励した。 パラー州カスタニャール市で絶滅危惧種に指定されているブラジル・マホガニーの植林やカカオ栽培に取り組む岡島氏は「北伯日本人移住者として精一杯生きて きましたが、思いもかけぬ栄誉をいただきました。この栄誉を一生の宝とし、最後の命の炎が消えるまで最善を尽くします。尊敬する南伯農業組合の理事長だっ た中澤源一郎氏の教えを基に今後とも生きていきます」と謝辞を述べ、思いを新たにしていた。 バイア州バレイラス市で大型機械農業を実践 し、綿、大豆、トウモロコシの栽培面積が9万3000ヘクタールに及ぶという堀田氏はポ語で謝辞を述べ、「この賞を受けたことをまずは父親に報告したい」 とし、「この国(ブラジル)の農業を良くすることで世界の農業が少しずつ良くなれば」と、さらなる躍進を進めていく考えを示した。 マッ ト・グロッソ州北部開発に貢献した松原氏は、ブラジルの農地開発が1970年代に当時の田中角栄首相がブラジルとのナショナル・プロジェクトとして実践し た「セラード開発」が大きな影響を与えたことに言及。同賞受賞については既に他界している父親から「よくやったと思ってくれているのでは」と語り笑顔を見 せた。 聖州マリリア市で養鶏技術を駆使し、高品質の卵を生産している新宅氏は、農業生産以外にマリリア文協会長として90年代にJICA...
五十嵐、具志堅、平田3氏が受章 平成25年度在外公館長表彰伝達・祝賀式が、7日午後3時からサンパウロ(聖)市モルンビー区の在聖総領事公邸で開催され、同総領事館管内で今年度受章した五十嵐司氏、具志堅茂信氏、平田藤義氏を祝福するため日系5団体各代表や受章者の家族、友人らが訪れた。 3氏は日伯間の相互理解及び友好親善に寄与し、その功績が顕著であることが認められ、福嶌教輝総領事から表彰状が手渡された。福嶌総領事による受章者の紹介に続いて、3氏がそれぞれ感謝のあいさつを述べ、五十嵐氏は「まだまだ、育ち学ばせてもらった故郷へ恩返ししていきたい」と抱負を語った。 その後、呉屋新城春美文協副会長が乾杯の音頭を取って祝賀会が開かれ、出席者らは歓談の一時を楽しんだ。 本紙の取材に対し具志堅氏は「日系社会は繁栄していると思いきや、一方で困っている人が多いのも事実。実は2、3年でやめるつもりだったが彼らを助けたい一心で定年まで30年近く頑張ることができた。これからも援協を通じて社会貢献していきたい」。平田氏は「ブラジル経済の天国から地獄を体験した私の経験を基に、次世代のブラジル進出を応援したい」とそれぞれ意気込んだ。 受章者の経歴は次の通り。 ◆五十嵐司(いがらし・つかさ)氏(88、東京、ブラジル日系熟年クラブ連合会会長)。ブラジル日系老人クラブ連合会の会長として日系高齢者の生きがいと生活の質の向上に尽力。同会創立35周年記念歌及び新会章の制定を行い、2012年にはブラジル日系熟年クラブに名称変更。また、東京農業大学サンパウロ校友会支部長として同大とサンパウロ大学農学部の学術提携をとりまとめたほか、文協図書館副委員長やブラジル日本移民100周年表彰委員を歴任した。 ◆具志堅茂信(ぐしけん・しげのぶ)氏(72、沖縄、サンパウロ日伯援護協会理事)。1982年から援協に入り要職を歴任。事務局長として援協社会福祉センター建設、自閉症療育学校事業を推進。援協50周年式典の責任者として同式典を成功に導いた。 ◆平田藤義(ひらた・ふじよし)氏(68、鹿児島、ブラジル日本商工会議所事務局長)。2002年からブラジル日本商工会議所事務局長を現職。進出日本企業のビジネス支援に尽力し、日伯経済関係の強化に努める。民間団体としてはブラジル国内初となる品質管理協会を創設したほか、「現代ブラジル辞典」や同会議所70周年記念誌編纂に携わるなど日伯経済関係全般に貢献した。 2013年11月12日付
サンパウロ(聖)市内での交通事故が原因で10月2日に亡くなり、宮崎県人会会長やブラジル日本語センター前理事長などを歴任した谷広海さんの四十九日法要が、10日午後4時から聖市シャカラ・イングレーザ区の西本願寺で執り行われ、谷さんの家族をはじめ、友人・知人ら約250人が参列した。 この日のために在りし日の谷さんの大型遺影(40×50センチ)を提供した「FATOS BJ」編集長でカメラマンの望月二郎さんによると、谷夫人の涼子さんら家族は同写真を大いに気に入った様子だったとし、「まるでそばに居るようで、毎日写真に向かってあいさつしたい」と話し、大切に持ち帰ったという。 法要では、長男の彬さんが遺族を代表してあいさつし、出席者への感謝を示していた。 2013年11月12日付
ニッケイ新聞 2013年11月12日 福島県人会(永山八郎会長)が、本年度の『短期研修生』の募集を行っている。申し込み締め切り25日。東日本大震災以降中断していたが、3年ぶりにようやく再開した。 2014年1月末から約2週間、同県でホームステイをしながら、県民との交流や県内の歴史文化施設の視察研修を行なう。 対象となるのは、同県人会の会員もしくは会員の子弟で、同県に親族がいる18歳~40歳の人。定員10人(ブラジルからは5人を予定)。日本語力は問わない。渡航費、日本国内旅行費、宿泊費は県庁が負担する。 曽我部威事務局長は、「急きょ再開が決まったので、12月1日には選考を行なう。希望者は早めにご連絡を」と呼びかけている。 申し込み、問い合わせは同県人会(11・3208・8499)
ニッケイ新聞 2013年11月12日 土産物屋が並ぶメルカド・モデーロに立ち寄り買い物を楽しむ。琥珀が有名なようだ。しかし、英語で話しかけてくる売り子がうるさい。左右前後からの攻撃をかわすのに疲れ、外の立ち飲みでカフェを飲んでいると、目の前にツアーに参加している女性が通ったので「カフェどうですか?」と言ったら見事に無視された。売り子に間違えられたのかも知れない。 「1962年の集団帰国時、このあたりに民宿があって、みんなで見送りに来たんですよ」と内藤さん。残る人と去る人。涙の別れが繰り広げられたのだろうか―。 周りはメレンゲの軽快なリズムが流れていたが、記者の頭のなかでは、かつて女性らが自嘲を込めて浦島太郎の節で歌ったという歌が流れていた。 むかしむかし母ちゃんは/ぶらじる丸に乗せられて/ドミニカ移住をしてきたら/難儀、苦労が待っていた オヤジ殿が移住など/考え付いたばっかりに/若き時代は夢の間に/今は白髪のお婆さん 「祖国は、自国民を騙し、苦しめ、捨てるのか」―。ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長(75、鹿児島)の堂に入った語りに参加者らは真剣な表情で耳を傾けた。夜にあった中華料理での歓迎夕食会。 帰国もせず、南米諸国への再移住もしなかったのは47家族。土地配分を巡る日本政府との交渉を続けるなかで、98年新たな土地の提供が決まったが、農耕に適さない粘土質の土地で、現地住人との問題もあった。 これを受け、2000年、現地に留まった移住者らを中心にした126人が日本政府を提訴、賠償額は31億円までになった。 06年、東京地裁は国の責任を認めたが、「損害賠償は20年が時効」とし棄却。原告らは即提訴したが、小泉純一郎首相(当時)は謝罪の談話を発表、原告170人を含む移住者1300人に特別一時金を支払うことで〃和解〃している。 嶽釜会長は「この涙金で問題解決はない。当初の目的を達成すべく我々はやっていく」と語り、慰霊碑に関しても「両国間には、移住協定がなかった。我々は〃難民〃だった。移住協定を結ぶよう日本政府に要請してきたが、『国策』を入れるよう要求した」などと話した。 植松聡領事(東京、59)はあいさつで「隣で肩身の狭い思いで聞いた」と苦笑いをしながら「大使館と日系社会の関係は改善している。解決しなければいけない問題があり融和を進めようと努力している」という。 嶽釜会長に〃問題〃とは何かと聞くと「最初に約束した300タレアの土地提供です。約束した土地を下さいということ。一時金で和解したのも原告の高齢化と裁判費用を鑑みてのこと。今後も日本政府に対して追及していきます」と口をへの字に結んだ。97年に結成した「移住問題解決推進委員会」の8人のうち、すでに5人が鬼籍に入ったという。 ■ 当初、ふるさと巡り一行は、ブラジル駐在が長く最後にはクリチーバ総領事も務めた佐藤宗一大使の招待で、公邸での歓迎会が予定されていた。しかし直前に中止となり大使は「諸般の事情」で訪日。予算問題とも裁判を巡って二分するコロニアとの関係とも言われたが、現地関係者も奥歯に物が詰まった様子。「一度招待したのに…」と訝る本橋団長に、同席していた現地日系人は「ブラジルでは知りませんが大使館っていうのはこちらではそうです。平気で約束を破るんですよ。もう慣れてますが」(堀江剛史記者) 写真=歓迎会。嶽釜会長のスピーチに身を縮こませる植松領事(左) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
コロンビア経由の大型グループ一行63人もサント・ドミンゴ市に到着したが、航空会社のミスにより約10人分の荷物がコロンビアに取り残されたまま、到着していないハプニングが発生。サンパウロから同行した日系ガイドの柳沼セリアさんが、そられの人々の下着などを買いに、早速ショッピングセンターなどに走ることになった。 一行はとりあえず、宿泊先のホテルへと向かうため、専用の大型バス2台に分かれて乗車。空港を出ると、北半球ながらさすがに北緯約19度という熱帯に近い場所であるためか、むわっとした熱気が広がる。 ホテルにチェックインし、カード式の鍵(カードキー)を受け取る。治安上の問題から、同ホテルのエレベーターは各階のボタンの上にある所定の場所にカードキーを当てて客としての認証が行われないと、階上に上がれない仕組みになっている。そのことを知らずに、エレベーター前で一行が混雑しているすきに、ドミニカ人とみられる4人組の女性が無理やりエレベーターに押し入った際、スリ行為により参加者の男性らが約40ドルの被害を受けた。 ドミニカ共和国到着後の間も無いハプニング続きに、一行もどっと疲れが出ていたようだ。 そうした中でホテル内では、前述の南沢法子さん(70、福岡)と現地法人・ドミニカ日系人協会傘下の日本語学校校長である上原邑子(くにこ)さん(70)が10年ぶりの再会を果たして喜び合っていた。上原さんはアグアネグラ移住地時代の幼なじみだった。 夕食はホテルで取ることになったが、現地側が気を利かせて日本食とホテル食の2通りを選択できた。せっかくドミニカまで来たのでホテル食を選んだ記者たちのテーブルには、ブラジル在住のドミニカ出身者が集まった。 「頑張るかごんま―移り来て100周年」(10月19日付)でも掲載された大村順子さん(63、鹿児島、旧姓村田)は、51年ぶりに同地を訪れたという。 1956年に第2次入植者として当時6歳で、首都サント・ドミンゴ市から北西に約140キロ、標高約1300メートルのコンスタンサ移住地に入植 した大村さん。7年間同地に居住した後、ブラジルに再移住。サンパウロ(聖)州ジャカレイのジャミック移住地に入った後、現在は聖市リベルダーデ区で日本 食レストラン「千代(せんだい)」のママとして活動していることは有名だ。 食事をしていると、大村さんのいとこで現在サント・ドミンゴ市に住む広光ツヤコさん(61、鹿児島)とその夫の正照さん(73、高知)夫妻が訪れ、大村さんと約20年ぶりの再会となった。 正照さんは56年7月、ダハボンの第1次入植者。大村さんとはコンスタンサ移住地時代の知り合いだ。正照さんの父親は元々、高知県に「米蔵が二つもある」農家だったが、戦後の農地改革で土地を接収され、家族でドミニカ移住に応募した。 15歳でドミニカに来た正照さんはダハボンで米作りの手伝いなどをしたが、土地が悪く水が不自由のため「ドミニカ社会に入って野菜の販売をしたり、鹿児島 県の家族が置いていった漁具を買って漁師もやったり、バナナ園の支配人もやった」という。JICAの農業研修でブラジルにも行った経験もあり、ドミニカの 日系企業で2年働いた後、スペイン系の電線工場の工場長として39年勤め、現在はサント・ドミンゴ市やハラバコア市に土地を所有してバナナやレモンの栽培 のほか、肉牛の飼育も約15年前から行っている。 「今は少しは楽になったけれど、最初の10年は何をしていいか分からない状態...
コロニアの宝に感謝と敬意 平成25(2013)年度100歳以上高齢者表彰式が、5日午後3時からサンパウロ(聖)市モルンビー区の在サンパウロ総領事館公邸で行われた。今年度の同館管内表彰対象者(1914年3月31日までに出生)は33人で、会場には当事者12人と代理5人が出席し、安倍晋三内閣総理大臣からの祝状と記念品を福嶌教輝総領事が出席者に手渡した。 来賓に呉屋新城春美文協副会長、菊地義治援協会長、本橋幹久県連副会長、五十嵐司熟年クラブ連合会会長を迎え、表彰者の親類ら約50人も参加した。福嶌総領事は表彰者に対し、「無事に100歳を迎えられたことは誠にめでたく、心からお祝い申し上げます。人は人との関係なくして生きられるものではなく、愛情、交流があって100歳を迎えられたと思う」と敬意を表した。 祝状と記念品授与後、乾杯の音頭を菊地会長が取り「日系社会の大先輩、コロニアの宝に感謝、敬意する」と述べ、「100歳バンザイ、サウーデ、ビバ、バンザイ」と音頭し、会場を盛り上げた。その後記念撮影が行われ、別室に用意された食事を取りながら、出席者は長寿の喜びを分かち合っていた。 表彰者の一人、聖市在住の松村ヒサエさん(101、宮崎)に長生きの秘訣について聞くと「毎日民謡を歌っています。30年前くらいに民謡大会で優 勝して日本に行ったことがあります」とはっきりとした口調で答えた。加えて「まあ、歌はもちろん、息子や孫らのお陰ですよ」と語り、参加した親類らの笑い を誘っていた。 同じく表彰を受けた小橋タマヱさん(101、岡山)は15歳でブラジルに渡り、ポ語より日本語が得意。「今でもサンパウロ 新聞を読むのが日課」だという。また「日本が恋しくないですか」と問うと、「ブラジルのほうが暖かくて住みやすいし帰りたいとは思わない」と答え、食べ物 については「100年たてば日本料理でもブラジルの料理でもどっちでもよくなる」と笑って返事した。 なお日本における同表彰対象者は9月1日現在で2万8169人(厚生労働省発表)。海外在留邦人の同表彰対象者は57人(在聖日本国総領事発表)で、海外在留邦人の半数以上が同館管内での表彰者となった。 管内表彰者33人は次の通り(敬称略)。 【本人出席表彰者】小 橋タマヱ(101、岡山)、松村ヒサエ(101、宮崎)、伊藤古とみ(100、広島)、二神房江(100、愛媛)、佐野常男(100、三重)、金城ツル (100、沖縄)、岡崎絹恵(100、広島)、田鍋義美(100、高知)、青木しな(99、山口)、梶山サチコ(99、山口)、池森敏子(99、広島)、 相原ハル(99、福島)。 【表彰者】佐藤政子(102、青森)、中川トシヱ(101、広島)、壁谷雪枝(100、愛知)、山本文...
ニッケイ新聞 2013年11月8日 サントドミンゴの旧市街はドミニカ唯一のユネスコ世界遺産。1492年にコロンブスが到着、96年に弟のバルトロメが建設した新大陸初のスペイン植民地の町であり、日時計、大聖堂など様々なものに「新大陸初」の冠がつく。 ちなみにコロンブスは、マルコポーロの「東方見聞録」にある黄金の国ジパングを目指しており、当初この島と勘違いしたのだとか。 コロンブスのサントドミンゴに対する思いは強かったようで、遺言どおり遺体は大聖堂に安置された。現在は1992年の新大陸発見500年で建設されたコロンブス記念灯台で眠っているというが、ジパングから来た一行の喧騒に、目を白黒させたかもしれない。 そんな思いを馳せながら大聖堂を見学していると、常連の小山徳さん(64、長野)がガイドに「この石を接着しているのは鯨の油?」と極めてマニアックな質問。「…知りませんよ」と返されていたのがちょっと面白かった。 教会、劇場、タバコ倉庫などを経て、大統領や歴代総督、国民的英雄が眠る霊廟となったパンテオンへ。参加者が持っていたガイドブックによれば、ラフな格好だと入り口で注意されると書いてある。ちょっと身を引き締めて入ると、日本人が珍しいのか、いきなり学生たちに囲まれ、記念撮影、サイン会に誘なわれそうになったので、そそくさと退散する。国家建設に命を捧げた英霊たちに敬意を表し、衛兵が規律正しくブーツの音高らかに銃の交代式を行なっている。それを尻目に通りに出ようとすると、さきほどの学生たちに記念撮影を頼まれた入り口の儀丈兵が女子学生の腰にしっかり手を回している。記者が上官だったら往復ビンタの上、懲罰房送りである。 オサマ川を左手に見ながら、カリブ海に至るとすぐ右手に『ドミニカ共和国 ドミニカ国策日本人農業移住記念碑』が、かつて移民が降り立った港の前にある。今年1月に落成式が行なわれ、若林健太外務大臣政務官、JICA理事、ドミニカ政府関係者も出席した。 〃国策〃と入っているのは、碑の建設委員長で、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長の強い要求だったことを本人から聞いた。しかし、外務省HPのリリースなどには、その文字はない。不思議なものである。 一行はいざ中華街へ。内藤さんによれば、2008年にできた世界8番目、中南米3番目の規模だという。とはいえ東西南北2ブロックほどの大きさだ。到着前、すでに注文しているという店で、やたらに待たされる。到着日夜、ブッフェ組と和食組に分かれたのだが、先に注文しておくので―と空港で注文を取ったにも関わらず、天麩羅ソバが出るのに1時間ほど待たされたとか。 ヤレヤレ。飲む気はなかったのだが手持ち無沙汰なのでビールを頼む。「プレジデンテ」には低アルコールの「ライト」と普通の「ノーマル」がある。どちらがいいか? とガルソンが聞くので後者を頼んだのに何故か「ライト」が来た。不平を言うと首を傾げ、これしかないという。 記者の感覚でいうとバイーアの田舎の調子だ。コーディネーターやガイドは大変だろう。すると内藤さんが「ドミニカ人はね、メートルは分かるんです。ただ、センチは無理かな」となかなか上手いことをいう。 待ちに待って登場したのは、ヤキソバ、あんかけヤキソバ、ヤキメシ。とんだ「炭水化物祭りinドミニカ」だ。 不思議なことに、かなりの空腹だったにも関わらず、味覚障害になったかというほど味を感じない。塩がないのか、しょうがないのか。店頭で鳥のから揚げを買って食べる。これは旨い。内藤さんが一句。「ドミニカは/明けても暮れても/ポージョ(鶏肉)です」 ■ 市内観光の中途、日本語学校(上原邑子校長)にも立ち寄った。JICA青年ボランティアの小出知子さん(38、香川)が説明してくれる。JICAが把握している国内70人ほどの日本語学習者に対し、6人の青年ボランティアが派遣されているというのでみなで驚く。首都、ハラバコア、コンスタンサ、ダハボン、ヴィセンテ・ノブレ、ラ・ヴェガの6カ所を巡回、指導にあたる。介護福祉士として小角尚子さん(32、山形)が派遣されているが、近隣に老移民は住んでおらず「これからデイサービスなどを充実させたい」とのこと。 写真=ドミニカ国策日本人農業移住記念碑の前でパチリ この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
