ニッケイ新聞 2011年11月10日付け ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)は、恒例のピクニックを9月25日に実施し、聖州アンパーロ市の自然農法を実践するドゥアス・カショエイラス環境教育センターを訪れた。尾西会長はじめ役員や留学生・研修生OB、会員ら48人が参加し、爽やかな自然の中で親睦を深めた。 バスは山あいに続く赤土の道を進むと門が見え、センター長のガラシ・ジニズさん(48)が出迎えた。一行は澄んだ空気の山を散策しながら、環境に負担をかけない持続可能な農業の説明を受け、「この植物は何ですか」と熱心に聞く参加者の姿が見られた。今では自然の果物が溢れているこの土地も、85年頃まではガラシさんの祖父の代から続けたコーヒー単作で土壌は荒れていた。参加者は当時の写真と風景を見比べ、驚きの声を上げた。「ここを流れる川はきれいな海岸に注ぐ。多量の農薬を使えば、広範囲の自然や人に影響を与えるんです」とのガラシさんの言葉に一行は頷いた。「目を閉じて耳を澄ませてみて」と促されると、皆で目をつむり、風の音や葉のすれる音、鳥のさえずりなど、自然の音に耳を傾けた。山崎輝之さん(62、二世)は、「大農業より手間はかかるでしょうが、自然の力を借りることでこういった風景も残るんですね」と清々しい表情をうかべた。昼食は薪で炊いたご飯と同地で取れた新鮮な無農薬野菜のおかず。山を散策してお腹をすかせた参加者は列を作り、食事をしながら久々の再会に話を弾ませていた。羊毛織物の見学や牧羊施設での動物との触れ合いなど都市では不可能な体験もでき、充実した一日となった。「今日はたくさん笑って気分転換しました。来年どこへ行くか今から楽しみです」と谷口勉さん(71、二世)は感想を語った。バスが市内に到着し、尾西会長が「今年もありがとうございました。次は新年会でお会いしましょう」と挨拶すると拍手が起こり、参加者は帰路についた。
Blogs
ニッケイ新聞 2011年11月10日付け 宮城県人会(中沢宏一会長)は敬老祝賀会を13日午前10時から同会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で開く。約100人が出席する。母県から70歳以上の高齢者へ渡されていた祝い金制度が08年に廃止となったため、県人会から88歳以上の会員へと祝い金が渡される。太鼓やカラオケなどの余興、くじびきもある。サンパウロ仙台七夕祭り(7月)のため気仙沼から送られた短歌、俳句作品も展示する。問い合わせは同会(11・3209・3265)まで。
平成23年度兵庫県若手地域農業リーダー海外派遣団(藤本喜龍団長)15人(引率2人を含む)が、5日から16日間の日程で滞伯している。5日午後7時から聖市リベルダーデ区のニッケイパレスホテルで兵庫県人会(尾西貞夫会長)役員との懇談会が行われた。 同事業は今年で33回目。これまでに兵庫県内の農業高校生や大学校生467人が派遣されており、今年度の13人を合わせると480人となる。 一行の日程は、聖州ミランドポリスの弓場農場での研修後、聖州アプカラーナ市で地元農業高校生と交流。兵庫県加古川市と姉妹都市提携を結ぶパラナ州マリンガで5泊6日のホームステイを行った後、クリチーバ市を経由してイグアス、リオなども視察する。 今年度の一行のスローガンは「縁 すべての出会いに感謝」とし、研修生全員で決めたという。藤本団長によると、兵庫県内では「大地の会」と呼ばれる若手農業生産者の会があり、県産のブランド品確立なども実践しているそうだ。 生徒団長で兵庫県立農業大学校畜産課程で和牛の研究育成を行っているという衣笠優(きぬがさ・ゆう)さん(19)は、「ブラジルの牛のことも含めて、日本では見ることのできない大規模農業を自分の目で見てみたい」と意気込みを示していた。 藤本団長は、「16日間という短い日程だが、ブラジルに移住された先人の偉大な足跡を一部でもたどり、開拓精神を学ぶことで今後の若い人の育成に役立てることができれば」と期待している。 懇談会では、尾西会長、藤本団長のあいさつに続き、酒井芳樹兵庫県人会副会長の音頭で乾杯。食事の後、それぞれ自己紹介が行われ、生徒たちは「日伯農業の違いを知りたい」「バイオエタノールについて興味がある」などの希望を語った。 2011年11月9日付
サンパウロ日伯援護協会(菊地義治会長)は10月27日、10月定例理事会を聖市リベルダーデ区の援協福祉センターで開いた。菊地会長は公務のため不在だった。 会の中で、山下忠男副会長から県連の本部移転問題で、援協の書類不備が邦字紙で話題となっていることに関して、与儀昭雄財産管理委員長に説明を求める場面があった。 援協は、公益社会福祉法人の認可を受けているにもかかわらず、所有している文協ビル5階にIPTU(固定資産税)、PIS(社会統合基金)、COFINS(社会保険融資納付金)が課税されたことを受け、国を相手に訴訟を起こした。第1~3審とも援協が勝訴し、国が援協を公益団体として認知していることが証明された。当初は、9月中に売却に必要な書類がそろうはずだったが、未だ書類はそろっていない。 与儀委員長は「私より菊地会長が詳しいが」と前置きした上で、「問題が解決した旨が記載されている書類の複写を弁護士から預かっている。弁護士とは密に連絡を取り合っており、26日に連絡した際は『10月中には書類がそろう』と言っていた」と説明した。 それに対し「早く解決できないのか」との声が上がり「県連からも迅速な対応を求められている。問題の原因の一つ、IPTUに関しては、援協は手続きする必要はなく、文協が動かなければいけない」と、援協は関係各所から待たされている立場であることを改めて強調した。 2011年11月9日付
長崎県人会(川添博会長)主催の敬老会が、10月30日午前11時から聖市リベルダーデ区の山形県人会館で開催された。敬老会では75歳以上の高齢者が表彰され、この日は12人が会場に足を運び元気な姿を見せた。 会では、敬老者の名前が1人ずつ呼ばれ、紅白の饅頭などの記念品が配られた。この日、初めて県人会に参加した岩永エミコさん(77)は「今まで忙しくて県人会に参加することができなかった。友達を作ることができら」と話した。また、余興ではビンゴゲームやカラオケなどが行われ、会に花を添えた。終始活気に満ちあふれ、参加した高齢者たちは楽しい時間を過ごしていた。 2011年11月9日付
ニッケイ新聞 2011年11月9日付け 「日本に行って、南米の人の温かさを改めて実感した」と話すのは、参加者一行と積極的に会話し、写真を撮っていた津留アントニオさん(40、二世)=ラ・プラタ市内在住=。九州大学に留学経験があり、日本語が流暢だ。同地福岡県人会の会計も務めている。アントニオさんも学んだラ・プラタ日本語学校には現在、日系150人、非日系40人の計190人が在籍する。日本語をもう一度学びたい大人向けの「補習クラス」も週一回開かれている。かつて6校に散在していた日本語学校は87年に統合の動きが始まり、91年に本格始動した。1年後に統合校がラ・プラタ日本人会館内に設立され、現在ウルキーサのほかラ・プラタ、東部ラ・プラタ、エル・パト、サンタ・モニカの5カ所の移住地(約400家族)から生徒が集まっている。アントニオさんの父、浩さん(69、福岡)と話し込んでいた親が同郷の参加者、齊藤利治さん(70、二世)は、「色々と福岡のことを話しました。会えて嬉しかった」と笑顔を浮かべた。食事と歓談を楽しんだ一行は最後、全員で「ふるさと」を合唱した。馬屋原会長が「懲りずにもう一度来てください!」と声を張り上げると、大きな拍手が沸き起こった。交流会で本橋団長(鳥取県人会長)と歓談していた坪倉広加さん(77)と君枝さん(76)は、「レンガの家と倉庫、広い土地が最初から用意されていました。だからブラジルの人に比べたら苦労らしい苦労なんてしていないんです」と謙遜する。再来年には金婚式を迎える鳥取県出身の夫妻だ。君枝さんは、数十年前に婦人会の旅行で伯国を訪れた。「サンパウロ、アチバイア、オランブラに行きました。日系の人が多くて、きれいな町でよかったですよ」。市から約20キロの地点にあるウルキーサ移住地は、ペロン政権時代に国営農業審議会によって首都、およびその周辺都市への野菜供給地にする目的で造成され、一区画8ヘクタール余りの土地が住宅付きで用意されていたという。イタリアから数家族が入植したが、ペロン政権が崩壊したため約10年間中断、放置され、60年代に入って再入植が始まった。日本人移住者としては61年に伯国から1家族、62年にドミニカ、ボリビア、パラグアイからそれぞれ1家族、63年に4家族、同年に日本から派米短期農業労務者制度(派米短農)で7家族が入植した。この制度は、外務省が農村の中堅青年を米国カリフォルニアの農家に3年間派遣し、実習と研修を通して米国農業を習得させ、日本の農業の近代化を図ったもの。その派米青年がウルキーサ入植に適格だと考えられた。君枝さんは、この制度を利用して米国で研修を行った夫の広加さんとともに63年、ウルキーサ移住地に入った。主に花作りに従事し、カーネーションから始まり、現在はガーベラを生産している。野菜も栽培するが頻度は1~2年に一度。野菜作りは、ここでは主にボリビア人が行っているという。現在、息子のホセルイス正弘さん(46、二世)が主に引き継ぎ、全収入の2割を稼ぎ出している。坪倉さん宅を訪れると見渡す限り、7町歩の土地にハウスが広がっていた。7町歩のうち1町歩をガーベラ専門に使用し、ハウスの数は全部で42、そのうち32を使用している。「アルゼンチンの景気も決して良いとは言えない。でも花はいつの時代も必要。製品勝負でやっています」と広加さん。そんな夫とともに日本を出た君枝さん。理由を尋ねると、「新聞に載っていた花嫁募集の広告を見て、これだと思った」という。(つづく、田中詩穂記者) 写真=坪倉さん一家(左から広加さん、ホセルイスさん、君枝さん)。ガーベラのハウスで(上)/会館で交流を祝し乾杯する一同 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2011年11月8日付け 3日目の8日午前10時、ホテルを出た一行はラ・プラタで現地の日本人会と交流を行うため、ブエノスアイレスから南東に約65キロのラ・プラタ市へ向かった。アルゼンチン移民の始まりには諸説あるが、1886年にイギリス船に乗って上陸した牧野金蔵氏を第一号とするのが一般的だ。笠戸丸移民のうち160人が亜国に転住していることから、伯国移民とも関係が深い。戦前から野菜や花卉栽培が盛んに営まれており、戦後の混乱期を経て48年、花卉業者は土地を購入し始め、50年代初期には約50%を自作農が占めていた。野菜栽培も同じ時期に事業を拡大、独立を目指した日本人雇用者による近郊地域の土地探しが始まった。「ウルキーサ移住地」では花卉栽培が発展し、69年に日本語学校がスタート。仮校舎は日本人クラブの集会場として利用された。その後日本人クラブは「ラ・プラタ日本人会」になり、新会館が80年6月に完成。地域一帯は切花の主産地として経済力が充実、世代交代と重なり生活範囲が広がっていった。現在約160家族が住む。同地では毎年1月、一万人前後が集まる盆踊りを10年前から開催している。多くの屋台を設置、ブエノスアイレスからも、日本文化に興味をもつ非日系人が多数訪れるという。その他運動会を開催したり、移住地間で陸上やサッカー、卓球、バレーなどスポーツを通し交流が行われている。ラ・プラタ周辺には全部で14の日系移住地が開設され、戦後移民が入っている。その一部からも当日は交流会に参加した。『アルゼンチン日本人移民史』(社団法人在亜日系団体連合会発行)によれば、戦後の外務省実習生制度では57~62年の間に43人の実習生が来亜。移住事業団に管轄が移されてからは「公募単独青年」と呼称が変わり、73年までに計300人以上の青年が渡来、それら移住地に入っているという。市の中心から南東に15キロほど走ったところで、右手に花卉栽培のハウス、左手にレタス畑、スーパーマーケット「HATANAKA」、「ラ・プラタ日本語学校」という文字がー。バスは12時半過ぎ、「ASOCIACION JAPONESA de LA PLATA」と書かれた会館前に到着した。待ち受けていた多くの現地日系人が一行を出迎え、一人ひとりと「こんにちは」「お世話になります」と握手しながら挨拶を交わしていた。会長は馬屋原進さん(62、広島)。58年に8歳でパラグアイへ渡り、70年、25歳で亜国に移った。「パラグアイで生きるのは大変だった。景気も悪かったし…。子供の教育を考えて移りました」と当時を振り返った。広い会館内に4列に並べられた長いテーブルに、同会会員や周辺の移住地から集まった約200人、伯国側からの参加者がずらりと座り、午後1時から交流会がスタート。馬屋原会長が「遠路遥々お越し頂き有難うございます。良い交流を」と挨拶した後、開拓先亡者、東日本大震災の犠牲者に黙祷が捧げられた。本橋団長は、「多くの方にお集まりいただき、嬉しい」と挨拶した後、県連や日本祭り、ふるさと巡りについて紹介した。「我々は移住者として境遇を同じくしている。同郷の人がいれば、ぜひ交流を」と話した。乾杯の後一同は、婦人部や青年部の皆さんが用意した食事を楽しみながら、歓談に花を咲かせた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=参加者一行を出迎えた現地の皆さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2011年11月8日付け 岐阜県人会(山田彦次会長)は餅つき大会を12月11日午前9時から同会館(Rua Bueno de Andrade, 446, Aclimacao)で開く。入場無料。終了後は忘年会が催される。一品持ち寄り。餅の購入を希望する人は12月2日までに事務局(11・3209・8073)へ連絡のこと。
07/11/11 (16:55) Yashiro Aki surgiu com um vestido branco (1º show) e pinkLágrimas, aplausos, gritos, risos e...
ブラジル熊本文化交流協会(小山田祥雄会長)は、10月19日午後7時から聖市ビラ・マリアーナ区の同会館で、母県から来伯した上塚周平顕彰「イッペイの会」(米原尋子会長)の来伯歓迎会を行った。歓迎会は、同県人会が9月2日から行った「九州新幹線全線開通記念慶祝使節団ツアー」で一行が母県を訪れた際、熱烈な歓迎で出迎えた「イッペイの会」の米原会長と会員の井(い)美和子さん(48、熊本市)が来伯することを受け、ツアー参加者が催した。 「イッペイの会」の2人は、10月21日から25日にかけてパラー州べレン市、アマゾナス州パリンチンス市、マナウス市でそれぞれ執り行われた高拓生80周年の祭典に出席するため、同15日から29日まで滞在していた。しかし、そのほとんどをサンパウロ市外で過ごすため、歓迎会は送別会も兼ねて行われた。 歓迎会は、赤木数成書記の司会で進行。米原会長は、用意した紙を見ながら「ボアノイテ。先月、熊本にいらしたみなさんとの再会を本当にうれしく思う」とポルトガル語であいさつした。 続いて日本語で「6年前に初めてブラジルに来て以降、今回が3度目の来伯だが、来るたび少しずつブラジル人になっていくように感じる」と話すと、会場は大きな拍手で沸いた。 その後、小山田県人会長から2人へ記念品の贈呈、柳森優県人会名誉会長の音頭で乾杯と続いた。柳森名誉会長は「2人の来伯を祝うと同時に、無事の帰国を願って乾杯、サウーデ、万歳の3回行おう」と働きかけ、来場者は掛声に合わせてコップを3度掲げた。 乾杯の後は、同県人会婦人部による食事で会食が開かれた。夫婦で来場した清原健児さん(66、2世)は「米原さんとは、来伯の度(たび)会っている」と話し、互いに体調を気遣い合っていた。 小山田県人会長は「ツアー参加者約60人のほとんどが来場した。大勢集まり良かった」と笑顔で話した。両手いっぱいに手土産を手渡された米原会長は、ブラジルの習慣にならい来場者と抱擁とキスを交わし「もうちょっと(交流の)時間があれば」と宴の閉会を惜しんだ。 ◎ 上塚周平顕彰「イッペイの会」(米原尋子会長、会員数約50人)は、米原会長を含む有志4人が2006年、熊本出身でブラジル移民の父とも呼ばれる故・上塚氏の功績や生き様を広く知らしめることを目的に設立した。 年に4、5回、熊本の小、中学校で上塚氏についての講演を行っているほか、最近の活動では、熊本市塚原歴史民俗資料館で開催中の「上塚周平展」へ、収集した資料を提供している。 米原会長は「上塚氏がその生涯を人のために捧げたことを紹介し、志しや夢、希望を持ち、くじけず頑張ることの大切さを今の子どもたちに伝えたい」と思いを語った。 2011年11月5日付
Escrito por Kenia Gomes Seg, 07 de Novembro de 2011 11:47 A JICA – Agência de Cooperação...
Escrito por Célia Abe Oi Seg, 07 de Novembro de 2011 17:55 No começo da noite, domingo,...
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け ウルグアイの治田守さんと楽しげに会話していたのは、一行の大和司さん(86、徳島)だ。35年12月、「らぷらた丸」で家族と共に10歳で渡伯し、フェルナンジアス、マリリアなどを経て、トラックを購入しモジで運送業に従事、現在は聖市に住む。「ウルグアイにいる日本人なんて珍しいからね。興味があった」と顔をほころばす。「旅行好きだった親父に似て、私も出歩くのが好きなんです」。コチア青年の神林義明さん(75、長野)は21歳で、57年に来伯した。「コチア青年の仲間がまだたくさんいる。モンテビデオでも会えて嬉しい」と笑顔を見せた。モンテビデオ滞在中に「人生を変えた大事な友人」と51年ぶりの再会を果たした参加者がいる。田中義文さん(71、島根)=ミナス州サンゴタルド在住=だ。ふるさと巡りは2回目で、妻の峯子さん(64、愛媛)と参加した。友人の名は平田臣吉さん(71、島根)。小学校時代の同級生だ。現在モンテビデオから約90キロのサンホセ・デ・マヨ市に住んでいる。「私が今ブラジルにいるのは彼のおかげ」と断言する田中さん。渡伯以前、田中さんは「日本を出よう」と渡米を漠然と夢見ていた。ある時バスに乗り遅れたため、島根の都市部から故郷へトラックの荷台に乗って戻ってきていた平田さんは、たまたまヒッチハイクで都市部へ向かおうとしていた平田さんと偶然会った。これが「運命の再会」だった――。田中さんは1カ月後に北海道開拓移民の研修に入る予定だった。その時、平田さんが「俺はウルグアイへ行く。許可が出次第、出発する」と宣言したことに衝撃を受けた。当時、ウルグアイがどこにあるのかも知らなかったが、思わず「自分も行けないか」と勢いで言った田中さんに、平田さんは冷静に「わからない。それならブラジルへ行ったらどうだ」と助言した。それまでまったく選択肢になかったはずのブラジルだったが、その言葉を聞いて、田中さんはすぐに県庁に申し込み、60年にコチア青年として渡伯した。長年平田さんとの再会を願っていた田中さんは、今回のふるさと巡りでモンテビデオ訪問が予定されていることを知り、すぐに申し込んだ。その後は連絡先を何とか入手しようと模索していた田中さんはある時、新聞のコロニア欄にあった南米ゲートボール大会の記事で、ウルグアイの国旗を掲げている平田さんの写真を見つけた。また田中さんの妻・峯子さんはインターネット検索中に、平田さんの息子と思しき人物について書かれた卓球の試合の記事を見つけた。記事の顔写真が平田さんに瓜二つで、「父は第2次大戦が終わったとき5歳だった」とのコメントがあるのを読み、「彼の息子だ」と確信した。記事を書いた記者に問い合わせると、数日後に息子本人から「父はあなたをよく知っています」という電話が入り、平田さん本人とも電話越しに「元気か!」と51年ぶりに会話したという。ふるさと巡り当日は移住以来、初めて顔を合わせる機会となった。田中さん夫妻は一行とは別行動を取り、治田さんが運転する車で平田さんの自宅へと向かった。平田さんが同地に渡ったのは61年。子供は全員独立し、花作りを営んでいたが現在は引退している。平田さんはいま脳梗塞を患い遠出をすることは困難なものの、思いのほか元気な様子を見せて再会を喜び合い、お互いに「最高の人生だった」と意気投合したという。(つづく、田中詩穂記者) 写真=平田さん宅で再会を果たした田中さん(右端)、平田さん夫妻(中央)。左端は治田さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け 兵庫県人会の世話役として活動を支えた葛山正一さんが4日未明、聖市内カルロス・シャーガス病院で老衰のため逝去した。享年99。 兵庫県小野市出身。1912年生まれ。県人会発足時から参加、法人認可を受けた74年から、財務理事や総務理事などを務めた。76年兵庫県海外移住者功労賞。 葬式は5日午前10時から、コンゴーニャス墓地で執り行われる。初七日法要は未定。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け 福島県人会(小島友四郎会長)が先月30日、同会館で開催した「第2回喜多方ラーメン祭り」。今年は前売り券だけで昨年の倍の約200食、当日分も合わせると計約320食が売れる人気ぶりを見せた。 「母県の文化を当地で紹介したい」との思いで、曽我部威事務局長が中心となって昨年始めた。 あっさり醤油味に縮れ太麺が特徴の喜多方ラーメン。JICAシニアボランティアで滞伯中の武藤啓一さん(元喜多方市役所産業部マーケティング課長)が参加、麺の茹で方や盛り付けなどの指導にあたり、「喜多方市内にある人気店『坂内食堂』の味に近づけた」と自信を見せる。 「一番大切なのは麺の茹で方。たっぷりのお湯で躍らせ、短時間で手際よく」など熱心にコツを伝授。整理券も配布し、昨年混乱気味だった厨房の動きも改善した。 味については「しっかり鶏ガラスープで透明感のある薄め醤油味という喜多方らしさが出た」との自己評価しながら「本場の味を出すため、来年は麺を輸入したい。スープはもっとコクを出せるよう研究する」と来年への意気込みを見せた。 大志田良子さん(86、岩手)は「スープの濃さもちょうどよくて、チャーシューも美味しかった」と笑顔。 志賀勝さん(73、愛知)は「味は70点。高くてもいいから具をもっと増やして、日本の麺を使ってもらいたい」と次回に期待を寄せた。 よく喜多方ラーメンを食べていたという奈良輪信男さん(74、横浜)は「スープはまあまあだが、麺がダメ」と厳しい評価を下した。 スープは美味しいとの声が多い一方、麺は「柔らかい」と、コシを求める声が多かったようだ。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け 東日本大震災で福島県からの補助金が見込めないことから「活動資金に充てよう」と会員らの熱も入った『喜多方ラーメン祭り』。厳しい評価もあったが、指導にあたった内藤啓一さんによれば「麺の手作りは難しい。日本でもほぼ機械製」と来年からは輸入する考え。しかしながら手持ち器具を最大限活用し、茹で方にも工夫を凝らした。スープは同県庁から1箱贈られた土産用商品を試食し味を吟味。曽我部事務局長が再現を試み「ようやくできた納得の味」。みんなの地元への味への思いが詰まった一杯、第3回目にも期待したい。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け 島根県人会(足立操会長)は『第7回慈善バザー』を11月6日(午前10時~午後5時)に同会会館(Rua da Rosas, 86, Praca da Arvore)で催す。入場無料。売上げは希望の家へと寄付される。 29のバザリスタが工芸品、パッチワーク、装飾品など多くの手作り品を出品。同会婦人部による軽食も販売する。 来社した浜野稔監査、宮村徑行理事、婦人部の平方静枝さんは、「全て手作り品。少し早いですがクリスマスの贈り物を探しにきては」と来場を呼びかけた。 問い合わせは同会(11・5071・0082)まで。
県連の基金について概要が発表された。だが、県連が日本祭りでの収益を活用して「基金を始めました」ということだけで基金の内容についてはほとんど未確定。これでは内容について判断できかねる。基金自体は素晴らしいもの。趣旨はほとんどの人が理解するだろう。県連はこれからどんどん大きなお金を動かして行くことになる。突き詰めた議論をしっかりとしなければ誤解や疑問で足元をすくわれかねない。それでは一枚岩の県連を形成した与儀前会長にも申し訳が立たない。少なくとも、良い施策ならもっと議論し、みんなに分かりやすく説明すべきだろう。「おいしい肉ですので食べてください」と、「モーモー」と鳴いている牛1頭を丸ごとレストランで出されてもどうしようもない。 2011年11月4日付
「内容がよく分からない」との声も ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲会長は10月20日、聖市ビラ・マリアーナ区の三重県人会館で行われた10月度代表者会議の席で、執行部会において「県連、県人会活性化基金」の設立を承認したと発表した。初年度である今年の基金額は5万レアルで、運用期間は2011年10月から12年9月まで。基金からの助成金を希望する団体は規定の応募用紙に必要事項を記入し、県連執行部会で過半数以上の賛成があれば認められる。返済の必要はない。 同基金の設立は、県連がフェスティバル・ド・ジャポンで出た収益を有効に活用して、県人会や県連を活性化させることを目的としており、さらなる日伯交流の拡大を目指すもの。 対象となるのは、各県人会、県連、県連関連団体(ふるさと創生協会、ASEBEX)など。年度別に基金を県連口座に積み立て、次年度以降は基金増額を計画している。 基金利用の条件としては、福祉、文化、スポーツ、親睦、出版、交流のいずれかに基づくもので、県連会員は会費の滞納がない者。県連は申請額の20~80%の交付を行う。 基金について9月度会議で園田会長は「この際きちんと立ち上げてはどうだろうか」と設立構想を明らかにし、それから約1か月で基金を設立したことになる。 当日、基金について園田会長が説明するも、会議出席者からは「助成基準など決まっていないことが多すぎて内容がよく分からない」との声が続いた。これについて山田康夫副会長は「詳細については、今後決定して報告する」と述べるにとどまった。 県連の財政状況を危惧「金がなかった頃を忘れるな」 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)は7月に行われた第14回フェスティバル・ド・ジャポンで約30万レアルの利益を計上し、10月20日には「県連・県人会活性化基金」を立ち上げた。 しかし、同基金の制度や内容については不透明の部分が多く、特に助成金扶助基準などは全く定められていない。この部分を突き詰めて議論することなく見切り発車で基金を運用すると、いずれ大きな問題になることが容易に想像できる。 ある県人会の会長は「金のことで県連がゴタゴタするのは嫌だ。今、県連はようやくフェスティバル・ド・ジャポンで黒字を出せるようになってきた。舞い上 がってしまい、お金のない頃を忘れてしまっている。きちんとした制度を確立しないと絶対に問題になる」と現在の県連執行部の振る舞いに対してくぎを刺し た。 また、基金は資金を貸し付ける利子で運用していくものだが、同基金は返済義務がないことから県連がフェスティバル・ド・ジャポンで黒字を出し続けることが基金継続の条件となる。 また、「県連の利益は執行部が自由に使える金ではない。基金設立は定款に本当に則しているかよく議論しなければならない。執行部会だけではなく臨時総会の承認も必要なのでは」と疑問を投げかけた。 さらに、二転三転した県連事務所移転についても「接客対応に不都合が生じているというが、そんな偉い人が年に何回来るのか。将来、もし県連が文 協を出ようとすると誰がその場所を買うのか。商業施設は入れないのだから、おそらく誰も入ることはないだろう。買い手のない、価値のない資産になるのは目...
宮城県人会(中沢宏一会長)は、13日午前10時から午後2時まで、同会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街152番)で70歳以上を対象に、敬老祝賀会を開催する。 同祝賀会は、同県人会主催で40回以上続いており、毎年サンパウロ州各地から100人以上が来場する。昼食が振る舞われ、歌や踊り、太鼓といった余興が予定されている。 中沢会長は「来場者には記念品として紅白餅を用意している」と話し、来場を呼びかけた。入場無料。問い合わせは同県人会(電話11・3209・3265)まで。 2011年11月4日付
