08/03/2026

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日系初の大臣、安田氏を生んだ地 3月15日午前9時、タウバテ市に別れを告げた一行は、バスで約1時間離れた隣町のピンダモニャンガバ市のピンダ日伯文化体育協会の会館を訪問した。 この地は「笠戸丸」以前の移住者である安田良一が米作を水田作で始めた地として有名であり、その息子で日系初の大臣となった安田ファビオ良治が生まれ育った地としても知られている。 会館の前で鮮やかな黄色い法被を着て一行を出迎えてくれたのは、同文協の会館で日本語を学んでいる生徒たちだった。 ピンダでの日本語教育事業は長い歴史を持ち、同文協の前身であるピンダ日本人会が1952年に創設される以前より、街にあった父兄会において行われていたという。第二次世界大戦終結後の勝ち負け騒動などの困難も乗り越えて続けられてきたが、8年ほど前にJICA(国際協力機構)による日系社会青年ボランティアによる日本語教師派遣の話を知り、条件を満たす生徒数の確保や専用教室を寄付金を募るなどして建設し受け入れを始めた。 現在日本語学校には約50人の生徒と6人の教師がいる。派遣教師(1期2年)の3期生として8カ月目を迎える神田和可子さん(28)は、かつてブラジル人に間違われたことでブラジルに興味を持ち始め、このプログラムに参加するに至ったそうだ。 学校の様子について聞くと、3~11歳の生徒がいる子どもクラス(現在18人)ではこれまで鬼ごっこや折り紙などをすることが多かったが、文章の読み書きの能力も付けてほしいとの思いから、新たな取り組みとして習得レベル別(早い人はウサギ組、遅い人はカメ組)に分けた座学での勉強を今年2月に始めたばかりだという。 定期的に行われる学習成果の発表会ではスピーチや紙芝居の一行読み、合唱などを行っている。神田さんは「この8カ月、子どもたちに囲まれて楽しくやって来た。何を残せるか分からないけど目の前のことを一生懸命頑張りたい。帰国後には日本にある在日ブラジル人コミュニティーで、これらの経験を生かせれば」と教えてくれた。 充実した日本語教育が行われていることがうかがえたが、このように力を入れる背景の一つとして考えられるのは、どうやら子弟が就学や就職等の理由で町から減り、青年会もそれに伴ってなくなってしまった背景があるようだ。 婦人会の中尾さんは「学校で日本語を学ぶ若い生徒たちが今後の日系社会を引っ張っていける存在となれるように今のうちから組織立てていけたら」と 期待を寄せており、初代青年会長の鈴木武氏は「先生方は熱心に丁寧に教えてくださり、生徒たちは日本語の中にある日本人の心、情緒などの雰囲気を自然に身 に付けつつある」として父兄一同感謝している。 ピンダ日本人会は64年の会館の落成を機会にピンダ日伯文化体育協会と改め、ピン ダ日系社会の親睦向上のためさまざまな活動を行っている。現在の同文協の会員は170人、婦人会は70人。今は無き青年会は49年に青年有志が話し合い街 を中心に結成され、同年に家長有志による日本語教育を希望する父兄たちの集いである父兄会と合同で運動会を実施した。以来、運動会は現在まで続き、毎年約 500人が集まるピンダ日系社会の伝統行事となっているそうだ。 年中行事の一つとしてよく行われるというカラオケ大会。我々ふる...
ニッケイ新聞 2014年4月12日 ブラジル日本文化福祉協会など34日系団体が「梅田邦夫日本国特命全権大使歓迎会」を10日午後7時半、同文協ビルで行った。各団体の代表ら約150人が集まり、2週間前に到着したばかりの梅田大使の着任を祝った。梅田大使は挨拶で「以前からブラジルで働きたかった」との喜びを表し、「三つの感謝と一つお願い」と前置きした。当日はまず、イピラブエラ公園の慰霊碑参拝や移民史料館視察をしたこともあり「100年以上に及ぶ移民の方々の苦労」に感謝した。二つ目が「W杯サンパウロ支援委員会の活動」、三つ目が「Jリーグなど日本サッカー振興へのブラジルからの協力」に心からの謝意を示した。続けて大使は「日伯修好120周年に向けて早く実行委員を作りたい」と述べ、福嶌教輝在聖総領事と話し合いを進めていることを明かした。「日伯間の政治経済連携を強化し、2004年以来行われていない首脳レベルの往来を実現させたい」との意気込みを語った。福嶌総領事は「今のブラジルにとって最高の人物」と着任を喜び、「課題であるビザのマルチ化や日伯修好120周年の新企画を一緒に進めていきたい」と語った。
ニッケイ新聞 2014年4月12日 1962年渡伯のグアタパラ移民、黒沢公義さん(60、茨城)は、67年からカラグアに住み、19年間のバナナなどのフェイランテ生活を経て、96年頃から商店経営に転じ、現在は最もにぎやかな繁華街にミニスーパー「フェイラ・リブレ」を経営している。 調理済みパック入り野菜など、手間のかかった商品の品ぞろえが豊富で、巻き寿司や弁当などの日本食品も充実しているのが特徴だ。黒沢さんは「この辺にはかつて12軒もキタンダがあったが、多くは淘汰された。僕は一クラス上向けのサービスを提供し、地元富裕層を掴んできた」と苦心の程を語る。冷凍庫を見ると東洋街と同じような韓国アイス「メローナ」も並び、自家製焼きそばソースも売れ筋だという。聖北海岸には聖市の富裕層向けの集合別荘地コンドミニオが次々に開発され増えている。従来のスーパーは観光客向けのものが多かったが、聖市で日本食に慣れた富裕ブラジル人層は、別荘でも同じものを求めると黒沢さんは考え、それが当った。「昔は日本文化とか日系らしさを出さない方が良いと思ってやってきたんだけど、今は逆。むしろ日本文化を強調した方がお客さんの関心を呼ぶんです」と壁にある日本語の額を指さした。◎「たしかこの辺なんだだがな…」。本橋幹久団長(鳥取県人会長)にとってカラグアのお隣ウバツーバは特別な思い出の場所だ。自由時間を利用し、タクシーを雇ってそこへ直行した。ウバツーバまで約40キロ、そこから更に5キロの地点では1970年から77年頃まで戸倉建設がウナギ養殖池を作って試行錯誤していた。その場所を一目見ようと40年前の記憶をたどってやってきたが、「こんなに辺りに家はなかった」と愕然とした様子。北大で畜産を勉強し1960年に東山研修生として来伯、南伯農協で仕事をしていた。当時、欧米の大型飼料会社が上陸した関係から、味の素社などが出資して67年頃に「ラッソン・ヅットラ」飼料会社を作り、本橋さんはそこに移って鶏のエサを担当していた。そんな時にウナギ養殖が始まり、日本まで研究にいってウナギ用飼料を作りあげ、毎週木曜日に納めにきていた。「でも、軌道に乗る前に戸倉が引き上げでしまった」と残念そうにいう。ラッソン・ヅットラ社は1982年頃まで続いたという。地元住民に聞くと、「今バウジール・ジャポネースが住んでるよ」とのこと。戸倉が手放した土地に奇しくも日系人が住んでいるようだ。「お~い、誰かいないか?」。呼び鈴を押しても、柏手を打っても残念ながら返事なし。門の隙間から中を覗くと、養殖池らしきものが確認でき、本橋さんは「池の上に網が張ってあるから、いまも何かの養殖につかっているのかも」と推測し、「とりあえず見られて満足しました」とほほ笑んだ。◎3日目の3月18日、一行はカラグアから15キロ南に下った古い港町にサンセバスチャン日本人会(森孝子会長、正式名称「アトランチコ文化体育協会」)を訪ね、昼食を御馳走になりながら交流をした。1944年にバストスで生まれた森会長は、当地在住50年を数え、会長6年目だ。「若い人はサンパウロなどの町に出ていくばかり。来るのは年金生活者だけ」となげく。1960年頃に創立した約30家族のこじんまりした世帯だ。父森又治さんが会館建設(1972年)の功労者で、森会長の娘サトミさんも飛び回って手伝っており、親子3代で奮闘している。この人数の団体が、130人もの一行を受け入れて交流する英断を下したことに勢いを感じさせた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月11日 「何事かと思って山を見たら、見渡す限りの山肌が真っ赤になっていた。あの光景が忘れられない」。由井誠吉会長は同地最大の惨劇を思い出す。カラグアタツーバといえば、1967年3月に降り続いた集中豪雨により19日午前に突如起きた山津波が、当時稀に見る大水害として記憶に刻まれた地だ。「忘れもしない、ちょうど僕の24歳の誕生日だった」。狭い海岸沿いの平地から山沿いにかけて、当時はバナナ園が広がっていた。「バナナやっていた人は全滅ですよ。日系人も含めて当時は400人が死んだって言われているけど、本当はもっと多かったでしょうね」。67年3月21日付パ紙は1面で「土砂の塊が幅2キロにわたりものすごい勢いでなだれ込んだ。低地帯では濁流が渦巻、悲惨さを一層盛り上げた」「死者四百、負傷者五百、被災家族一千五百にのぼった」などと一報を流した。さらに同28日付パ紙は「再起不能の烙印を捺された見るも無残な耕作地を前にする地元に人たちにとって、復旧への道はあまりにも長すぎるようだ」と報じ、仏連、赤間学院、生長の家、大本教、協和婦人会などのコロニア各団体が救援物資を送る運動に立ち上がった様子を刻々と伝えた。当時、町の外れにあったジェットゥーバ植民地も大被害に遭い、当時そこの日本人会長だった中西忠勇さん(後の石川県人会及び県連会長)が災害救助に活躍し、叙勲を受けた。地元の話では「あそこには15年ほど前からホーリネス教会のコムニダーデのようになってブラジル人も入っているね」という。◎長井秀夫さん(89、福島)は1948年からカラグアに住む一番の古株だ。家族に連れられて10歳で渡伯し、最初はモジアナ線、続いてグアイサーラ、プロミッソンには土地を買って2年間棉作、さらにサンタクルス・ド・リオ・パルドで7年棉作、終戦近くから直後まで2年間をツッパンで過ごした。まさに勝ち負け抗争の激戦地だった時期だ。「あの頃、ツッパンにユダヤ系のソウザ・レオンという大農場主がいた。彼の経理担当者の日系人が勝ち負けで殺されたとかで、近隣の日系農家を家探しして回っては鉄砲どころか、刃物類を根こそぎ持って行くんだ。農業に使うようなものまで。警察でもないのに、兵隊を連れてきて、それ同然のふるまいをするんだ」と思い出しながら憤る。「父も日本がまさか負けるとは思っていなかった。5年、10年したら日本に帰るつもりで来ていた。だから僕もブラジル学校に行っていない。父は日本語をしゃべったという理由だけで3、4回もカデイア(留置場)に入れられたよ。次の朝、迎えに行ってね。このままツッパンにいたら危ないと思って、カラグアに移った」という。由井会長は長井さんの肩を叩きながら、「この人は会館を作るときに寄付をしてくれた。本当に立派な功労者なんです」と横から解説を加えた。記者が「じゃあ、カラグアが長い旅の終着点ですね」と長井さんに尋ねると「まだ分からないね」と即座に答えた。移民人生の心構えがそこに滲んでいるようだ。「ふるさと巡り」のという何気ない出会いの場には、実に様々な歴史が秘められている。(づづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月12日 東京都友会(坂和三郎会長)が先月21日、聖市ベラ・ビスタ区の同会事務所で2014年度定期総会を行った。役員改選も行われ、坂和会長(80、東京)が6期目の続投となった。同会長は「一世会員減少の中、会員相互の親睦を深め、2020年東京五輪ツアーなどを企画中。後継育成や、04年に途絶えた留学・研修制度の復活も働きかけたい」と述べた。新年会、ピクニック、日本祭への参加など今年の行事予定に加え、来年の創立50周年に向けた記念誌の制作についても確認された。会計報告では、昨年の収入が9万2791・84レ、支出が6万7588・07レで、次年度繰越金は20万7975・66レと報告された。今年の予算案は、収入が9万6171・00レ、支出が7万7673・00レで承認された。 新役員は次の通り(敬称略)。【名誉会長】多羅間俊彦【会長】坂和三郎【副会長】第1=鈴木寿、第2=山下リジア【書記】林慎太郎、神田アントニオ【会計】右近昭夫、岩崎リカルド【理事】岡田本子、佐々木佳子、早川エイジ【監査】大沼博、本田さちえ、森原クリスチーナ、鈴木サユリ、坂和ユカリ、高井まゆみ
ニッケイ新聞 2014年4月10日 聖州イトゥー市主催の『第3回イトゥー市日伯国際サッカートーナメント』が先月24日から30日まで開催され、日伯の全18チームが交流戦を行った。株式会社フッチボーラ(本社=東京、土井エジソン社長)が企画運営。14歳以下と15歳以下の2カテゴリーに分かれ、日本からは東京ヴェルディの下部組織を中心に8チーム約130人が、伯国からは地元イトゥアーノなどが参戦し、14歳以下はデスポルチーボ・ブラジル、15歳以下はポンチ・プレッタが大会を制した。 日伯間で対戦し日本グループ、伯国グループのそれぞれ上位2チームが決勝トーナメントに進出する方式を採り、14歳以下はヴェルディ・アジュントAとヴェルディ小山が、15歳以下はウィングス鹿沼とヴェルディ混成チームが勝ち上がったが、準決勝でどちらも敗退した。ヴェルディ・レスチの禿(かむろ)龍生コーチ(34、千葉)は「ボロ負けした試合も経験し、たくましくなった」と感想を語り、「親元を離れた生活を経て、むしろサッカー以外の成長が見られた」と喜んだ。来伯団代表を務めた折井健コーチ(43、千葉)はこれまで全3大会に参加。「年々強いチームを用意してくれている」と運営の土井代表に感謝し、「こっちのチームはゴールに向かう気持ちが強く、シュートが上手い。直に肌を合わせたことで、パス回しを繰り返すだけではダメだと日本選手らは自覚したはず」と喜んだ。選手らも同じことを感じたようで、ヴェルディ相模原の澤渡晴生くん(13、神奈川)、皆川柊二くん(同、東京)は「ブラジル人は強そうな雰囲気を持っていて、ゴールに向かう姿勢に迫力があった」と振り返り、「足は早かったが技術では負けていない。精神面を学び、体の使い方など工夫すれば戦える」と手ごたえを口にした。ヴェルディ・レスチの市瀬太郎くん(14、千葉)、平林小太郎くん(同、東京)は「体格やパワーの差に苦しめられた」と悔しがり、「次は当り負けしない体を作らないと」と捲土重来を誓った。滞在中は当地の有名指導者から講習を受け、プロの試合観戦も行い、2日に帰国した。日本勢のリーグ戦成績は1位から順に以下の通り。【14歳以下の部】ヴェルディ・アジュントA、ヴェルディ小山、ヴェルディ相模原、アジュントB、【15歳以下の部】ウィングス鹿沼、ヴェルディ混成、ヴェルディ・レスチA、同B   イトゥー大会=在聖総領事公邸で懇親会=成功裏に終り200人が祝宴 イトゥーサッカー大会終了後、在聖総領事館(福嶌教輝総領事)が来伯選手ら130人を含めた200人を招待し、3月31日夜に聖市モルンビー区の公邸で懇親会を行った。ゲストとしてサッカーロンドン五輪代表監督の関塚隆さんも出席し、「子どもらは多くの経験を積んだ。日伯それぞれの良さも感じることができ、協賛企業の協力にも感謝」とあいさつした。佐野浩明首席領事も関係者に感謝を示し、「子どもはこの経験をぜひ日本で伝えてほしい。W杯を機に日伯交流がより深まれば」と期待した。土井代表は「今年も無事成功に終わった」と安堵し、「接戦もあったが日本チームの決勝進出が叶わず残念だった。W杯年度で大会も盛り上がったが、来年はまた強いチームを呼びたい」と、さらなるレベルアップを図る考えを示した。主要日系団体や聖州、イトゥー市の行政関係者、元セレソンのジルマールらも出席して華を添え、サッカーを通じて日伯の親睦を深めた。
ニッケイ新聞 2014年4月10日 一行はその後、海岸山脈を下ってカラグアタツーバ(以下、カラグアと略)に降り、同文化体育協会(由井誠吉会長)の会館で午後5時半から一時間ほどの短い交流会をした。カラグア在住51年の由井会長(71、福島)は戦後移民で、写真館を40年間経営してきた。同会館は築41年で昨年改修工事を終えたばかり。「会員数は78家族、半分はアポゼンタード(年金生活者)、残りが農業と、八百屋、ガソリン・スタンド、時計屋などの商業かな」という。入会していない日系家族を含めれば市内に300家族はいる。日本人会時代からは60年間、正式団体登録してから48年になるという。老人会は月1回で、40人ほどが集まる。ゲートボールには週4回早朝集まって練習し、全伯大会にも参加している。「日本語学校は無くなった。日本語習うような若い人がみんな日本へデカセギに行ってしまった。帰ってきたと思っても、ここには仕事ないからすぐ日本へ戻る。30家族ぐらい行ったと思う」と由井さんは語る。同地の河田律子さん(かわだ・りつこ、91、北海道)は1923年に北海道で生まれ、9歳で渡伯した。最初マリリア管内のサンテンブレー耕地に入り、北パラナのマリアウバなどを経て、63年にカラグアに来た。当時、初めての日本人経営ホテル「サントアントニオ」を始めた。「姉妹みたいに話が合うの」と河田さんが目を細めながら言う無二の親友、三木スミエさん(92、岐阜)は90年前、家族に連れられて2歳でノロエステ線ビリグイに入植した。12~23歳をバストスで過ごし、56年前からカラグアにいる。44歳の頃、同協会初の婦人部長を3年間務めた。三木さんは「婦人部は当時50人ぐらいいたかしら。バザーとか忙しくて、藤間流の先生が聖市から来てくれて、日本舞踊もみんなで習っていた」と懐かしそうに思い出す。「今は老人会が一番の楽しみ」とニッコリ笑顔を浮かべた。08年の百周年時はカラグアでも盛大に祝ったという。当時会長だった原田アントニオさん(63、二世スザノ生まれ)は、市の方から申し入れがあって文化センターで百周年記念展示をしたという。「昔の移民が持ってきた行李とか鍋、大工道具を並べた」という。他にも「会館に高齢者を集めてお祝いしたり、ロータリークラブで記念晩餐会もした」というからにぎやかだ。河田律子さんのホテルや原田さんの名前にもあるように、市街地を見下ろす丘の上には、町の守護聖人サントアントニオの像が立っている。地元タクシー運転手に「何か云われはないのか」と訊くと、縁結びの聖人だけあって「独身者がお参りに行くと1カ月で結婚できる、膝で登ったら一週間だ」という言い伝えがあるとか。「俺も1カ月以内で結婚したから間違いない」と太鼓判を捺した。「年末年始の一カ月間で80万人の観光客が訪れる。町の人口の10倍だよ」と観光地としての繁盛ぶりを強調した。日本食レストランは4、5軒あるが日系人経営1軒程度とか。海辺の町だから海産物が新鮮だろうとほめると、「エビとかイワシは地元でとれるが、実は刺身にするような魚はウバツーバかセアザから持ってくる」とか。観光産業の拡大と共に町も大きくなっているようだ。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月10日 アルモニア教育文化協会(和田忠義会長)の「第19回アルモニア ブラジル・日本U―15サッカー交流大会」が、聖州アルジャ市の日本カントリークラブで先月24日から行われ、28日まで熱戦を繰り広げた。コリンチャンスとの決勝戦を2―2(PK4―3)でオザスコが制し、優勝を決めた。滋賀県選抜A、Bと札幌SSS・A、Bの約70選手が参戦した日本勢は、札幌SSS・Bチームの6位が最高。2桁失点の大敗など実力差を痛感する大会となった。アルモニアの本村マリオ事務局長は今大会を振り返り、「ブラジル勢はユニホームに誇りを持ち本気で優勝を目指した。日本の選手たちはサッカーへの姿勢を改めて考えさせられたのでは。悔し泣きもあったように良い経験になったはず」と成長を期待、「来年はもっと規模を拡大したい。今から準備です」と、次回を見据えた。総合順位は以下の通り。1位オザスコ、2位コリンチャンス、3位パルメイラス、4位レッドブル、5位ジアデマ、6位札幌SSS・B、以下7位札幌SSS・A、滋賀県選抜A、同B、日本カントリークラブ詳細はサイト(intercambioharmoniabrasiljapao.com)まで。
ニッケイ新聞 2014年4月9日 日本から米作専門技師を呼び、《日本式水田で日本式の一等米を生産した》という。カンピーナス東山農場の山本喜誉司がこちらの農場長も兼務し、付近の農地を買い集め、一時は2500アルケールを誇った(『富流原94頁』)。安田良一が支配人をしたサプカイア耕地はコーヒー、牧牛、米作などを手広く事業を展開して成功したが、大戦中に敵性資産として処分され、残留した日本人はわずかとなったという。首都リオに近いこともあって、その存在は目立っていたに違いない。ネルソンさんは「両親は家庭内では子供とポ語で会話してブラジル式に育て、全員を大学に行かせた。私はタウバテ医科大学を卒業した最初の二世です」と安田式教育の一端を披露した。だから戦前二世だがまったく日本語をしゃべらない。安田良一は妻シヅノさんとの間に2女4男がおり、上から一枝(カズエ)、二枝(ふたえ)エリザ、ファビオ良治(りょうじ、長男、元商工大臣)、エドゥアルド良明(りょうめい、聖州自然環境局長)、ネルソン静雄(医師)、レナト幸男(USP歯科教授)だという。まさにブラジルに溶け込んでいった先駆移民の家系だ。会館建設時のピンダ文協会長の渡辺保国さんは《安田さんがピンダに落ち着かれてからピンダの日本人の歴史が始まっている~》(『富流原』122頁)と書いている。そして《一九六一年六月大先輩の安田良一氏が逝去されたのであるが、その葬送はピンダ始まって以来のもので、自宅から中央寺院まで三キロの道路が車の列で埋まった位だから相当の会葬者数であった》(同123頁)と書くほどだった。一行の代田正二さん(88、長野)はつかつかとネルソンさんに近寄って、ファビオさんの思い出話を始めた。「コチア産組時代にファビオを知っていた。どこか世俗を超越したような雰囲気を持っていた。彼の弟が目の前にいると知って驚いた」と語った。ファビオは1955年にコチア産業組合理事となり、1960年には専務理事、66年に中央会制へ改組するとともに中央会専務理事となって活躍した。その当時のコチアの存在感と強さから、1969年4月にマルフ市長に乞われて〃聖市の台所〃を取り仕切る聖市配給局長、同年10月にはメジン大統領により商工大臣(日系初の大臣、当時47歳)に指名された。ネルソンさんの娘ヨシエさん(47、三世)は「1992年に家族で訪日し、鹿児島の安田家とも交流を復活させました。おじいちゃんとは別のカミーニョ(道)を日本で歩んでいるのを見て来た」という。安田家はタウバテ市内に診療所「クリニカ・ヤスダ」を構え、ネルソンさんの妻、ヨシエさんは共に歯科医で一緒に働いているという。ヨシエさんは「百周年の時も父が顕彰され、とてもうれしかった」と爽やかな笑顔を浮かべた。最後に日本語学校代表者からビンゴへの協力のお礼が延べられ、全員で「ふるさと」を合唱し、別れを惜しみながら会場を後にした。一行の八木静代さん(77、兵庫)は、旅行の間ちょっとでも暇があれば司馬遼太郎著『義経』の文庫本を開いて読んでいる歴史好きだ。「神代の時代の先駆者の息子さんが、ああやって出てきてくれると歴史の現場を歩いたような感じがする。自分が一人で歩いてきたのじゃなく、神代からの土台があってこそと実感した」と充実感を噛みしめるように語った。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月9日 ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)が先月16日、宮城県人会館で定期総会を開催し、会員40人が出席した。元留学生で監査補の山本アナ・パウラ美代子さんによる開会の辞の後、昨年他界した会員の冥福を祈り、黙祷を捧げた。会計報告では、昨年度の収入が6万1千レアル、支出が5万8600レで黒字だったことが報告された。本年度予算は収入が5万500レ、支出は約4万9900レの予定。今年の事業は日本祭りでのたこ焼き販売や恒例のピクニックなどが予定されている。その他の議題では、松下マルリ監査が元留学生や研修生の県人会への参加の少なさに触れた。「親睦を図るため昼食会を開いたが、92人中20人の参加に止まった。これからはもっと参加の場を増やしていきたい」と述べた。閉会の辞でも、元留学生の上野聖二監査が「県人会の参加者を増やそう」と呼びかけた。その後親睦昼食会に移り、各参加者の寄付による賞品でビンゴなどを楽しんだ。
ニッケイ新聞 2014年4月8日 「創立期には日本人がほとんど全員入会した。青年会も盛んだった。でも父兄だけでは先生を雇う力がなかった。1964年に会館ができた後、68年から4年間、週2回我々が交代で先生をやって日本語教室もやった」と鈴木さんが言う通り、幾度も試みられたが、そのたびに困難に直面し長続きしなかった。しかし、なんとか日本語学校建設費用を協力して調達し二階建て校舎を建設、5年前からJICA青年ボランティアの派遣を受けるようになった。半数は非日系人で現在60人ほど生徒がおり、彼らが合唱などを一行の前で披露した。当日は婦人部特製のカレーが振る舞われ、日本語学校支援ビンゴが行われて、一行はこぞって協力した。鈴木さんは「今じゃピンダ文協に一世の役員は少ない。これは移民の運命なんでしょうね。まだ婦人会が盛んだからにぎやかだが、あと10年したらどうなるでしょうか。新しい後継者がどうなるか心配です」と将来に思いを馳せた。鈴木さんからそんな歴史を日本語学校の方で聞いていると、「安田ネルソンさんの家族が来られましたよ」と地元役員が呼びに来た。安田良一の息子で、日系初の大臣安田ファビオの弟だ。◎急いで会館に戻ると舞台上に家族7人が立ち、ネルソンさん(87、二世タウバテ生まれ)が「父は通訳や農業指導者として、多くの日本移民を導いた。コロニアが今こんなに賑やかに続いていることを知ったら、さぞや父も満足に思うだろう」と、会館を埋めて座るふるさと巡り一行を前にして感無量の面持ちで語った。「父はピンダが故郷姶良(鹿児島県肝属郡)にどこか似ていると思って、ここに住むことに決めたそうです」。ネルソンさんは遥か移民創世記の時代の記憶をたどる。鹿児島県のエリート判事だった隈部三郎が、先の杉村報告を読んで家族を挙げて渡伯することを決意した際、時の鹿児島県知事・千頭清臣が各郡から有望な若者を一人ずつ選考して随行させた。その一人が安田良一(1885―1961で、1906(明治39)年8月にリオへ到着した。笠戸丸以前の〃神代の世代〃笠戸丸の2年前であり、聖市の麦藁帽製造工場やレストランで働いた後、1910年から日本人が一人もいないアラゴアス州都マセイオで農学校農場主任を3年務め、その後、聖州に戻ってモンソン植民地監督などを経て、1916年からピンダの伯人耕地で米栽培に成功した。人文研『移民史年表』を紐解くと、1915年7月に在聖総領事館が開設された時、《初代総領事の松村貞雄は同月にさっそく中央線のピンダ地方を視察し、サプカイア農場に安田良一を推薦して米作を試みさせる》とある。来年が入植百周年となる平野植民地開拓が、その年の8月だ。西原清東しかり、パライバ平野で米作を目指した日本移民は多かった。その一つ、東山農事はここで収穫された米を使って戦前、当地初の本格的日本酒「東麒麟」「東鳳」を醸造し、辛い現実に直面した移民の五臓六腑をふるさとの味で癒した(『富流原94頁』)。1906年に聖市に開店した「藤崎商会」の総支配人・後藤武夫が商界事業を清算し、1924年に安田良一と共営で500アルケールをサプカイア隣接地に求めて農界に転向した。しかし経営に困難が生じ、1928年に東山農事に売却したが、やはり安田が引き続き取り仕切った。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月5日 1930年代、リオや聖市近郊では3月播きトマトは不可能だったが、気候の異なるピンダ周辺では日本移民が実績を作りつつあり、市場価値の高いこのトマトに注目が集まっていた。ピンダが米、トマト、ジャガイモ、野菜の適地だと知られるようになり、1941年2月にコチア産組倉庫が開設された。この地域には特に戦時末期から戦後にかけて入植者が増加したが、カンポスにかけての登山鉄道沿線には特に入植者が多く、《カンポス沿線ではその後多くの勝組と言われた方々が流刑島送りとなりました》と鈴木文書にある。タウバテ日本人会発足の中軸を担った有馬純正さんは、《当時(1946年)の中央線のコロニアはカンポス・ド・ジョルドンが勝組の拠点といわれ、ジャカレイー以東の各地在住のコロニアには少数の勝組と大半は中立派という。タウバテには若干人の勝組と、他はどちらにも付かぬコーモリ組の様であった》(『富流原』120頁)と状況を説明する。そんな1947年、鈴木さんは同沿線のサントアントニオからピンダに移った。登山鉄道沿線から続々と山を降りてピンダやタウバテの周辺に移る動きの中で、日系団体が再編されていった。「ピンダに臣道聯盟支部はなかったが、勝ち負けではっきり分かれていた。それが1952年頃に団結することを決め、日本人会結成となったのです」。そんなコロニア再生の現場に居合わせた。鈴木さんは「ピンダでは過激な事件は起きなかった」という。その影にあったのは《戦後の混沌たる世相に鑑み、市内在住青年有志が奮起し、一九四八年三月に結束したのがピンダ青年会》(『富流原』99頁)という存在だった。日語教育と陸上を主たる活動とし、その初代会長を鈴木さんが引き受けた。「青年有志が話し合い、25人で青年会が結成された。それと日本語教育を希望する家長が集まった父兄会が合同で運動会を始めた」と証言する。52年4月には会員50人の汎ピンダ青年会となり、その初代会長も鈴木さんが担った。青年の動きに背中を押されるように、1952年3月に汎ピンダ日本人会(98人)が創立した。顧問が〃神代の世代〃の安田良一、会長が吉永宗一郎。いわば青年会活動や運動会が勝ち負けの荒んだ空気を和らげ、日本人会発足に向けた地盤を整えたような流れだ。日本人会発足以前から続く伝統の運動会は現在も続き、《来賓、帰省中の子弟も交じり、いつも4、500人ほど集まり家族全員そろって賑やかに一日を過ごす》(鈴木文書)という。これに加えて、年中行事は四つあり、他は母の日、父の日、会館落成の日を祝う祝賀会には200人が集まる。1963年に会館建設を決め、資金調達に苦労しながら翌64年11月に竣工した。これを機に日本人会を改め現在の名称になった。落成時の会長だった渡辺保国さんは、カンポスの人参出荷組合理事として敏腕を振るった後、山を降りてピンダでトマト栽培に従事した。生長の家地方講師として《正義に生きる燃えるような情熱》(『富流原』96頁)を持った人物だったという。その他、日本棋院より三段位を送られた(同)という井川衍さんなどの特徴ある人物がいた。1977~78年にピンダ文協会長を務めた鈴木さん自身も、全伯のど自慢大会で歌謡2位、民謡3位、娘秀子さんも童謡1位、唱歌1位という著名なコロニア歌手だった。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa4.html
3大イベントへの協力求め 3月5日に着任した在ブラジル日本国大使館特命全権大使の梅田邦夫氏(60、広島)夫妻が10日、サンパウロ市を公式訪問し、イビラプエラ公園内の開拓先亡者慰霊碑を参拝したほか、日系団体との懇談を行った。同日午後4時過ぎには本紙を訪れ、6月から開催されるサッカー・ワールドカップ(W杯)、来年の日伯修好120周年、再来年のリオ五輪などビッグイベントが続く中で、日本政府機関を代表する立場として各種行事の成功に最大限の力を注いでいくとし、日伯関係のさらなる強化に全力を尽くす考えを表した。 前任地の外務省国際協力局でODA(政府開発援助)関連事業に携わっていた梅田大使は、中国をはじめとするアジア諸国での勤務のほか、北朝鮮の拉致問題などにもかかわった。中南米では1998年から約1年間、ペルーの在リマ日本大使館公邸襲撃事件後の大使館立て直し業務などにも携わったという。 日本サッカー協会の国際委員でもある梅田大使は、6月から開催されるW杯で日本代表の試合が行われるレシフェ、ナタール、クイアバの3都市とサンパウロ市で地元が中心となった支援委員会及び組織が形成されていることについて、「日本政府もサッカー協会も本当に感謝している」と強調。W杯開催で基本となるのが邦人の安全対策だとし、「(邦人保護が)我々の責任だ」と述べ、各都市の日系団体と連携していく考えだ。 また、聖市では日本代表の応援をどのようにやるのかなども考慮しているという。そうした中で、約1万人前後が来伯すると見込まれている日本からのサポーターの問題として一番に「言葉の問題」を挙げ、「日本国内ではブラジルの印象が良いだけに、日本人サポーターがブラジルで強盗などの被害に遭わないように注意を喚起する必要がある」としている。 安倍普三首相のブラジル初訪問については、「現在、ブラジル政府と調整中」とし、「(安倍首相)本人は(日本の)夏に来たいと思っているようだ」と説明するにとどまった。 また、日本とブラジルのノービザ協定の実現についても日伯間で現在交渉中の状態だとし、「(日伯両国の)人々が行き来するためにも必要で、ブラジル側も同じ意見を持っている」と近い将来の実現を示唆した。 6月のW杯、来年の日伯修好120周年、再来年のリオ五輪とビッグイベントが続く中、「この3年間で日伯関係をいかに強くするか」を考慮しているという梅田大使。特に来年の日伯修好120周年に向けて「サッカーでの交流をはじめ、コスプレやNHKのど自慢などさまざまなアイデアはあるが、それらの企画案をいかに実現していくかが大切」とし、早急に実行委員会を立ち上げる必要性を強調。日本政府も一体となった「オールジャパン」での取り組みに、日系社会への積極的な協力を求めた。 2014年4月12日付
日系34団体共催による梅田邦夫ブラジル特命全権大使夫妻の歓迎会が、10日午後7時半からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の文協貴賓室で開催された。会場には福嶌教輝在聖総領事、安部順二下議、羽藤ジョージ州議、野村アウレリオ、羽藤ジェオルジ両市議や各日系団体の代表者ら計85人が駆け付け、着任を祝った。 歓迎会でははじめに木多喜八郎文協会長があいさつし、「160万人といわれる日系社会を代表して歓迎する。ブラジルは日本から一番遠い国だがとても親日的。日系社会とのきずなを深めていただきたい」と激励した。 続いて安部下議は、「来年の修好120周年など大事な時期に来られた。日本を代表して日伯の友好を深めてほしい。サッカー好きと聞きうれしく思っており、日本に行ったコリンチャンスはご存じでしょうが、ぜひ(私が応援している)サンパウロFCを応援してほしい」と笑いを誘って歓迎の意を示した。 その後あいさつに立った梅田大使は、「以前からブラジルで働きたいと上司に頼んでいたので就任できてとてもうれしい」と述べた。さらに三つの感謝があるとして「これまで100年以上の歴史の中、尽力されてきた方々によって日本人が厚い信頼を得ていること」「W杯を控え日本からの観光客に向けた支援委員会の立ち上げ等の準備をしてくださっていること」「日本サッカーへ貢献してきてくれたブラジル人や日系人の存在」に対して感謝が述べられた。 閉式後の懇親会では、大使と名刺交換をするための長蛇の列ができていた。 本紙の取材に対し福嶌総領事は「今のブラジルにとって最高の人が来た。大使の人事としては異例の抜擢(ばってき)だが、それは彼の実力と熱意によるもの」と期待を寄せていた。 2014年4月12日付
今週末は日系歌手らのショーも開催 今回で29回目となるサンパウロ(聖)州モジ・ダス・クルーゼス市の秋祭り(5、6、12、13日の4日間)が開幕し、会場となった同市内ポルテイラ・プレッタ区の文協スポーツセンター(Av.Japao, 5919)には、5、6日の両日を合わせ約4万人(主催者発表)もの人が詰めかけた。 今年の秋祭りのテーマは間もなく開催されるサッカー・ワールドカップ(W杯)に向け「頑張れブラジル」となっており、会場には同市の特産品である野菜、果物、花などの農産展や自動車をはじめとする日本企業の展示ブースや日本食屋台が数多く出展された。 初日の5日、福島県人会モジ太鼓部「龍鼓太鼓」の演奏と日伯両国歌の斉唱で幕を開けた今年の開会式には約300人が参加し、初めにモジ文協の幸村ペドロ会長から「今年も開催できるのはさまざまな方たちのお陰」と感謝の意が述べられた。 在聖総領事館からは飯田茂領事部長が出席し、「秋祭りは今年で29回目を迎えるサンパウロ州を代表するイベント。日本文化の一端に触れて日本をより身近に知る機会となり、ひいては日伯の友好のきずなを深めてほしい」と述べた。 来賓にはほかに、安部順二、飯星ワルテル両連邦下議、羽藤ジョージ、西本エリオ両州議、ブラジル日本文化福祉協会の木多喜八郎会長らから祝辞が述べられた。 続いて行われた農産展会場のセレモニーでは法被姿になった来賓たちによって鏡割りが行われ、来賓たちは品評会を勝ち抜いた見事な出来栄えのオレンジ、花、レタスなどの各種農産品をじっくりと見て回った。 品評会の柿部門で1~3位を独占した細谷武雄さん(67)は「今年は生まれて初めての雨の少なさで作物への影響を心配したが、水分が少なくなったために甘い柿になった」とし、例年よりも早い段階で糖度が高くなっていると説明。良い柿作りのコツは「病気や害虫予防、剪定(せんてい)や肥料作りをしっかり行うことだ」と話していた。 12日には、2010年のNHKのど自慢大会で優勝した日本在住のロベルト・カザノバさんによるショーや、最終日の13日には盆踊りや平田ジョーさんらのコンサートが特設ステージ上で行われる予定となっている。 開催時間は12日=午前11~午後8時、13日=午前11~午後9時半までとなっており、入場料は14レアル。子供、学生、60歳以上、団体(20人以上)は半額。7歳未満は無料。駐車場代は20レアルとなっている。 問い合わせは、モジ文協(電話11・4791・2022)または同祭りウェブサイト(www. akimatsuri.com.br/)で確認を。 2014年4月11日付
地元の藤本氏と花嫁移民の福元さん タウバテのヘリコプター基地で最新モデルの輸送機を見学している途中、ふいに興奮気味の2人の元に呼び寄せられた。そこに居たのは参加者の福元美代子さん(82、宮崎)とタウバテ日伯文化協会の藤本隆男さん(74・熊本)。何かと尋ねれば、2人が同じ移民船仲間だったことが分かったのだという。 1959年9月28日に「あめりか丸」に乗ってサントス港に到着して以来、約半世紀を超えた邂逅(かいこう)であった。陽気な藤本さんは初めは誰か思い出せなかったというが、一人で船に乗っていたという彼女のことを「べっぴんさんだったけど他人の女性だったから」とほろ苦い笑い話と共に回想した。 だが、なぜ一人だったのか見当がつかない若い記者に「私は写真結婚だったのよ」と福元さん。「コチア青年だった夫に写真を送り、夫不在の結婚式を日本でやった」というから驚いた。 渡伯からの人生を「いい結婚ではなかったかな」と冗談交じりで振り返ったが、ふるさと巡りの醍醐味(だいごみ)の一つである思いがけない再会は、思い出話に花が咲くだけでなく、それぞれの人生を報告し合い、苦労をねぎらい合うそんな瞬間なのだろう。 基地を後にした一行は、タウバテ生まれの有名な童話作家モンテイロ・ロバットの旧実家で、現在は彼の代表作「シチュー・ド・ピカパウ・アマレーロ」の名前を取った記念公園を訪れた。 同作品に登場するキャラクターのモニュメントや、樹齢200年以上のジャッカの木などさまざまな植物に囲まれた建物の中に入ると、そこは小さな劇場になっていた。所狭しと一行が席に着くと有名なエミリア、ドナベンタ、アナサーセの3人によるにぎやかな寸劇が披露され、会場は同作品の世界観に包まれた。 再びタウバテ文協会館へ戻った一行は、午後7時過ぎから交流会を行い、初めに東日本大震災で亡くなった人々、移住し歴史を築いてきた先輩「先亡者」に対し1分間の黙とうが行われた。 あいさつに立ったタウバテ文協会長の漆畑オスカル氏(62・2世)によると、タウバテに住む日系人は約500家族おり、会員は約200家族。日ごろは週4回のゲートボールや毎日手芸を行うなどして活動しているという。 続いて本橋団長が「この移民ふるさと巡りも今回で41回目。1世にとってふるさととは日本だが、親と来た人やここで生まれた人など背景はさまざまでも、植民地には皆の心に響くものがある。それが(ふるさと巡りが)長く続く理由だろう」と述べた。 サンパウロ民謡協会の理事を務め、タウバテ市で民謡教室を開いている海藤司氏の息子夫婦らによって日本舞踊や太鼓などの本格的な日本の伝統芸能がステージ上で披露され、締めの一曲には出身地山形県の民謡「花笠音頭」が選ばれた。 山形県とタウバテ市には実は深いつながりがある。山形県米沢市とタウバテ市は74年より姉妹都市の提携を結んでおり、会場に設けられたタウバテ市紹介コーナーには、ある人形の写真が載った本紙の過去の記事コピーが紹介されていた。 その時の団員で元タウバテ文協会長の田尻清隆さん(85、鹿児島)に聞いてみると、「両市の友好のシンボルとしてもらった人形だが、初めは古くて気持ち悪 い人形だなと思っていた」という。けれども「この人形は、1927年にアメリカから日本に贈られた『青い目の人形』のお礼として同年日本からアメリカに送 られ、2003年に山形に里帰りしたもの」であり、「日米の友好のシンボルをいただいたということをタウバテに戻ってから知って驚いた」そうだ。 終盤にはタウバテ文協関係者と一緒に大きな輪になって「炭坑節」が始まり、皆の一糸乱れぬ完璧な踊りに驚いていた記者に「お年寄りはみんな遊んでいるか ら」の一言。最後に「ふるさと」の歌を合唱し、本橋団長は「別れは再会の始まり。次のふるさと巡りにでもまた一緒にどこかへ行こう」と締めくくった。...
ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)は3月16日、サンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会会館で2014年度の定期総会を開催し、会員など約40人が出席した。 元留学生で監査補の山本アナ・パウラ美代子さんによって開会され、参加者全員へ感謝を述べた後、昨年亡くなった会員の冥福を祈り1分間の黙とうを捧げた。 尾西会長はあいさつで、会長としては次の総会まで継続したいとの意向を表明。「20年の間会長を務め、創立式典も40周年、45周年、50周年を行い、記念誌も発行できたことは皆様のお陰」と感謝を表した。また、県人会の運営は県庁からの補助金のお陰と強調、兵庫県パラナ州事務所所長の山下亮氏にも特別に感謝を述べた。 議長の松下大谷マルリ瞳監査がポルトガル語、酒井芳樹副会長が日本語で昨年度の事業報告。7月の日本祭りでは恒例の前田房徳氏のたこ焼きのほか、元留学生たちが兵庫海苔を販売。9月には45人が参加して恒例の親睦ピクニックを行った。11月には兵庫県農業海外研修生13人が来伯。尾西会長、尾崎俊彦副会長が出迎えたほか、奥地での各農場案内を斉藤修三監査が務めたことなどが報告された。 天野右郷会計による昨年度会計報告では、補助金を含む収入が約6万1000レアル、支出が約5万8000レアルと発表され、斉藤監査によって承認。今年度は収入約5万1000レアル、支出約5万レアルの予算を計上した。 今年度も日本祭りでのたこ焼き販売、恒例のピクニックを行うことが尾西会長から発表された。 自由発言では、松下マルリ監査が元留学生・ 研修生たちの県人会への参加の少なさについて触れ、親睦を図るため昼食会を開いたが92人中20人の参加にとどまったため、今後はもっと参加の場を増やしていきたいと述べた。 このほか、県庁が誇れるように県人会を運営し継続していくこと、留学生制度もアルゼンチン、パラグアイ3カ国から受付を開始しているが、応募者が減少していることなどを報告した。 閉会の辞で上野聖二監査(元留学生)は、県人会の参加者を増やそうと決意を発表。その後親睦昼食会では各参加者の寄付による賞品でビンゴも楽しみ、和気あいあいの中に解散となった。 2014年4月10日付
日系軍人輩出の街、タウバテへ ブラジル日本都道府県人会連合会主催の第41回移民のふるさと巡り(本橋幹久団長=鳥取県人会長)が3月14日から17日まで行われ、スタッフを合わせた126人がバス3台に分かれてサンパウロ(聖)州東部の5都市を訪れた。一行が向かったのは、聖市から97キロ離れたサンジョゼ・ドス・カンポスの東部に位置するタウバテとピンダモニャンガーバ、南部で沿岸に位置するカラグアタツーバ、サンセバスチャン、そしてイーリャ・ベーラだ。(倉茂孝明記者) 14日午前9時半にリベルダーデ広場を出発した一行はリオ市へと続くヅトラ街道(BR―116)に乗り、約130キロ離れたタウバテの日伯文化協会の会館に正午ごろ到着した。 ここタウバテの街は17世紀前半に探検隊バンデイランテスによって興され、ミナス・ジェライス州で取れた金を運ぶ道の宿場町として栄えた。現在、人口は伯国では23番目の約27万人と多い。一行はまず昼食を取った後、市内にあるブラジル陸軍のヘリコプター基地の見学へと向かった。 日系人にとってタウバテの街は、日系2世で初めて将官となったブラジル陸軍の小原彰少将、同参謀長となった木原義一大佐、タウバテ陸軍飛行基地司令官となった清田一大佐らが活躍した地として有名。 1988年に建てられたブラジル陸軍航空基地とパイロット養成学校があり、ここで日系2世の3人の軍人たちが5カ所の基地を統括し、ブラジル全土の防衛と指揮責任のある任務に就いていた。 軍人の街らしく整然とした道を通り抜けて約170万平方メートルある広大な基地へ入った一行は、まず初めにブラジル陸軍航空隊の先駆者で士官学校の校長ともなったリカルド・カーク中尉を祀った記念碑の前にバスを止め、一行を代表して本橋団長と玉城道子氏(青森県人会長)が献花を行った。 当日説明を担当したロナウド・ロペス中佐によると、「カーク中尉はブラジル軍初めての飛行士となり守護的な存在。このモニュメントは96年に造られた」ということだ。 次にヘリコプターが管理されている大きなガレージへと案内された一行は、目の前に現れた多くの機体を前に目を輝かせた。この施設では陸海空軍すべてのヘリ コプターの整備、パイロットの養成、伯国全土を管轄した救急救難活動などを行っているそうで、現在80機のヘリコプターを整備しており、今後はより大型の ものを70機ほど整備する予定だという。 続いて30人乗りで4000馬力以上の力を持つ巨大な最新モデルの輸送機(EC725機)に案内された一行は、その大きさに息をのんだ。 機体などについて説明するロペス氏を囲む一行の一番前に立ち、ひときわ熱心に話を聞いていたのはヘリコプターを愛してやまない浜口洋さん(61、三重)。 20代で通信技術生として伯国に渡り、今では「自分で作ったヘリコプターやグライダーのラジコンを持って毎週日曜に仲間と飛ばして遊んでいる」というなか なかのマニアだ。一行がEC725の機内にも入らせてもらえる段になると先陣を切って機内に乗り込んだ浜口さんは、他の参加者同様、普段目にすることので きない操縦席などを背景に写真を撮り、生き生きとした表情で楽しんだ様子だった。 ヘリコプターから降り、ふいに「早くこっちへ来い」とある人に呼び掛けられた。「何かしてしまったか」と一瞬不安になったが、その後まさかの感動的な再会に遭遇するとは思ってもいなかった。(つづく)...
ニッケイ新聞 2014年4月4日 ミナス州アルフェナス市からふるさと巡りに参加した福元美代子さん(81、宮崎)は、「タウバテの芸能はすごかった。あれだけのレベルを地方で維持するのは大変な事」と感想を語った。コチア青年の第1回花嫁移民12人の一人として1959年に渡伯した。3年前からミナスに住む娘夫婦に世話になっており、その町には他に日本人がいないそう。「普段日本語が使えないから、この旅では日本語で冗談を言って通じるのがうれしい」としみじみ。中原浩平さん(83、長野)=リベロン・ピーレス在住=は「芸能も料理も充実していた。地元の人が一生懸命やってくれている姿が印象に残った」と満足した様子をみせた。◎♪花は、花は、花は咲く、わたしは何を残しただろう――ふるさと巡り2日目の15日昼、東日本大震災で深く傷ついた日本を元気づけた『花は咲く』をピンダモニャンガーバ日本語学校生徒約30人が合唱すると、同日伯文化体育協会(森ジョルジ会長、会員170家族)の会館を埋め尽くした一行約130人は静まり返った。タウバテから32キロほどリオ寄りの町、通称〃ピンダ〃だ。ここからカンポス・ド・ジョルドン(以下、カンポス)行の登山鉄道が分岐する。最初に全員で同地の先亡者に黙とうを捧げた後、稲垣秀子さんが朗々と『川の流れのように』を歌い上げ、続いて久保田香代子さんが同地の〃生き字引〃鈴木武さんが書いた同協会の歴史(以下、鈴木文書)を朗読した。◎大正12年生まれの同地〃生き字引〃の鈴木武さん(91、東京)は、「ピンダにはなかったけど、カンポス沿線には臣道聯盟支部があってアンシェッタに島流しになった人が6、7人いたね。僕も1945年から47年頃までサントアントニオ・デ・ピニャル(以下サントアントニオ)に居たけど、気候の関係でリオに良い値段で野菜を出荷できたから、一時期は30家族もいた。今は10家族ちょっとかな」と終戦直後の緊迫した状況を振り返った。鈴木さんは1934年に11歳で渡伯した。いわば移住最多期〃団塊世代〃の子供移民だ。1893年生まれの父彦一郎は神奈川生まれだが、東京の世田谷に住み、東芝で働いていた。その後、父は独立して編み物工場をやっていたが、「従兄がブラジルに行くというのを聞き、商売の方がまあまあという感じだったので、それに乗った」という。「あの頃の移民は9割がデカセギ。父も10年働いて儲けたら日本に帰るつもりだった」。来伯当初は平野植民地に1年、パウロ・モンテイロ植民地に2年、プロミッソン管内のジョン・コンデ植民地でも8年間過ごしたという。「ところが父は戦中の1942年、不治の病と言われていた風土病に罹り、それ以降15年間も闘病生活を送った」。東京の工場労働者が、過酷だった当時のノロエステの風土に簡単には適応できるはずもなかった。それに加え、「僕もマラリアに罹って、医者から根治するには土地を変えた方がいいと薦められた。義兄がサントアントニオに居たので、45年に呼ばれてやってきた」とこちらに来た経緯を説明した。サントアントニオのすぐ20キロ先に、マンチケイラ山脈に抱かれた高原都市、結核保養地等で有名なカンポス(標高1630メートル)がある。《40年代に入ってから登山鉄道に沿い、日系人が山脈の谷沿いに登っていき、一時は全伯一の人参産地として名を挙げるに至ったことも忘れてはならない》(『富流原』95頁)という土地柄だ。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html