07/03/2026

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ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 【信濃毎日新聞】かつて外国籍市民が県内最多だった上田市で、ブラジル人市民が昨年度末、3町村と合併した2005年度以降の年度末統計で初めて1千人を割り込んだ。同市市民課などによると、08年秋のリーマン・ショック以降の景気低迷で、経済成長が続く母国に帰国したり、求人が多い他の都道府県へ移住したりする人が相次いでいるという。市内ではブラジル人を対象にした学校や食料品店が経営難で閉店するなどの影響が出ている。同課によると、ことし3月末の市内在住ブラジル人は前年同期比183人減の985人。05年度末の3202人の3分の1以下だ。外国籍市民全体でも03~09年までの7年間は上田市が県内市町村で最多だったが、10年末は4066人と前年同期より434人減少。松本市が4089人で7年ぶりに上回った。市内では、主にブラジルの香辛料や酒などを扱っていた食品店「エンポリオ・インターナショナル」(上田市常磐城5)が、3月上旬までに閉店。月1回ほど買い物に来ていた市内の50代の日系ブラジル人女性は「仲間が減るのは寂しいが、上田には仕事が少ない」と話す。同市材木町のブラジル食品店「リアル」の従業員で、日系ブラジル人の江川良美さん(49)は「同業者が閉店しても、客が増えない」とため息をつく。昨年12月には、上田小県地域のブラジル人の子どもらにポルトガル語の教育をしていたブラジル人学校「ノボ・ダマスコ」(上田市芳田)が閉校。江川さんは「ポルトガル語教育を希望して帰国した友人も多い」と説明する。1990年の改正入管難民法施行により日系2、3世の日本での就労制限がなくなったことを背景に、上田市には職を求めるブラジル人が増えた。市市民課によると、90年12月~2011年3月は同市の外国人登録者の中で最も多かったが、11年4月末に中国人が最多に。ことし3月末時点での登録者は多い順に中国、ブラジル、韓国・朝鮮籍となっている。県国際課によると、1989年以降、県内の外国籍市民は05年末の4万4726人をピークに減り続けており、11年末は3万3521人。ブラジル人も1万7911人から7679人に減った。伊那市と塩尻市のブラジル人学校が合併に向け動きだすなど、各地に影響が出ている。
ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 「父は数十年アメリカに住んでいたので英語の雑誌などは読めましたが、発音が下手だった。だから子供には先にブラジル語を覚えさせてから日本語を教えようと思ったんでしょうね」と西沢ミドリさん。当時の入植者について「アメリカから来た人が多かったのでみんなアベルタでしたね。家父長制のようなものはなかった」と振り返る。「32、3年頃、文化植民地ではコーヒーが売れず畑を焼いたりしたが、その後は綿やアメンドインを作っていた」。『消えた移住地』によれば当時コーヒーは大暴落したが、文化植民地では主作を綿に転換したところ数年後には綿景気が到来したという。この機をとらえ37年、「綿花協同販売組合」が創立され、39年には「パ・パラグァスー生産組合」に発展。精綿出荷量は、40年頃はバストスやアバレーを凌駕したほどだった。しかし組合は開戦とともに経営介入を受け、ブラジル人経営者のずさんな経営の結果、解体に追い込まれた。戦争が終わると綿景気は去り、残ったのは地力の低下した土地だけだった。結局、文化植民地には北米から入植を予定していた地主の半分も入植しなかったことになる。再移住を考えていた人が地権問題などに不安を感じ、教育の問題もあり米国を離れにくくなるうちに戦争が始まり、収容所に送られるようになってしまったからだ。戦争の前後から不在地主が土地を手放し始め、残った土地は山田氏が管財した。戦後は地力の低下に加え指導者らの死去、大霜、生産費の高騰などで多くの人が他地域へ転出し、65年には入植者は10家族程度に減っていた。西沢夫妻によれば現在、文化植民地時代に地主らが購入した土地は、今では牧場やサトウキビ生産のために貸し出されているという。57年からパ・パウリスタに住む伊藤久年さん(86、北海道)は「30年代は伯人が日本語を覚える必要があるほど日本人が多かったようだが、今は一世の男は私くらい」とつぶやいた。「大学を出ても田舎には仕事がない。留守家族のようになりますね。若者はいますが、活動の中心にはならない」しかし現在の佐々田会長が活動の刷新を図っているといい、1997年9月に落成した会館は「田舎にしては立派ですかね」と伊藤さん。同文協ではプ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、オウリーニョスなどの団体と交流があり、ゲートボール、芸能祭、カラオケなどが行われている。よく行事を共に開催するという、同地から約30キロのアシス文協から交流会に訪れた西沢洋さん(69、二世)は「こことは兄弟のようなもんですね。運動会は今年で12回目になります」と笑顔を見せた。47年に同地に生まれ、サンパウロ州立大学の教員としてボツカツで働いた評議員会長の丸林オズワルドさん(65、三世)は「ここに日系人は少ないが、先人から受け継いできた日本の伝統を守ろうとしている。良い思い出を持って帰ってください」と舞台で一行に挨拶していた。「60年代、コロニアは大きかった」と振り返る。戦後は、気候や土地がよかったため商、農業、牧畜などをやるために他地域から移った人も多かったという。同地に現在日本語学校はない。幼少の頃通ったという丸林さんは「学びたい若者がいない。運営は難しいね」と静かに語った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=左から西沢洋さん、参加者のイデ・ムンドさん、丸林さん、西沢裕美さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
「今でん毎晩飲むばい(今でも毎晩(お酒)を飲むよ)」「ばってん、体にようなかろうもん(だけど、体に良くないでしょう)」―。バウルー文協が催した交流会では、テーブルを囲んで、普段口にすることのないという福岡弁が飛び交った。だが、ここは中洲(なかす)ではない。サンパウロ州のバウルーなのだ。今回、ふるさと巡りに参加した福岡県出身者は11人。ツアー参加者全体の約1割を占める。それに、バウルーに住む福岡県出身者が加わると、交流会の会場には十数人が集うテーブルが三つほど出来上がった。 「私は朝倉。おたくはどちら」「ウチは八女(やめ)ですたい」と出身地の話題で盛り上がり、コロニア語と博多弁、それに筑豊弁や北九州弁まで合わさったような、ブラジルでしか聞けないイントネーションの会話が印象的だった。 そんな中、「これぞ、デスティーノ(運命)」というべき、出会いを果たした人がいた。ツアーに参加した川口春恵さん(83)とバウルーに住む小坪崧(たかし)さん(74)だ。 川口さんと小坪さんは互いに相手が交流会に参加しているとは知らず、偶然「福岡県出身者」のテーブルに着いたのだ。2人は1959年2月12日に着伯したオランダ船「チチャレンガ号」の同船者で、対面するのは何と53年ぶりだった。 川口さんは「あっという間に記憶が53年前に戻った。交流会が終わった後もドキドキしたままで、興奮して夜2時まで寝れなかった」と、その時の興奮を語る。 53年前、2人が乗ったチチャレンガ号がブラジルに着いたのは、カーニバルの真っ最中で、小坪さんは家族10人でブラジルの土を踏んだ。川口さんは当時18歳で、崧さんの妹にあたる節子さん(現在の性は松山)と船の中で仲が良かったため、「家族構成や出身地を聞いた時に、すぐに、『あっ、せっちゃんのお兄さんだ』と分かった。今まで忘れていた船の中の思い出が一気に溢れてきた」という。 川口さんは渡伯後の生活をほとんどモジ・ダス・クルーゼス市で送り、80年代後半、旅行会社を開業。これまで6度、日本へ里帰りした。99年から2011年までは愛知県常滑市で、中部国際空港でルフトハンザ航空の通訳を務める息子と共に暮らした。 昨年、12年ぶりに帰伯した理由は、東日本大震災の発生だった。テレビで仙台空港が水に浸かっている映像を見た際、急に目まいがして、動悸(どうき)が収まらず入院した。退院後は、息子の反対を押し切り、すぐにブラジルへと戻ってきた。 川口さんは、バウルーでの運命の出会いを「ブラジルに帰ってきて、ふるさと巡りに参加したかいがあった」と喜びに震える声で振り返った。(つづく、植木修平記者) 2012年4月24日付
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け ふるさと巡り一行が訪れたパラグァスー・パウリスタのエジネイ・ケイロス市長は親日家だそう。「コロニアを重視している。何かイベントがあれば来ますよ。交流会にも来たかったけど都合がつかなかったらしい」と文協会員。ちなみに同地ではこれまで二世の市長が2人、市議が4人出ている。交流会の最後、市役所に勤務する女性が記者の写真を撮りたいというので、「何に使うんですか?」と聞くと「市の新聞に載せます」とか。嬉しいやら恥ずかしいやら…。
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け パラグァスー・パウリスタ文協の会員数は約100家族。会長8年目の佐々田アントニオさん(42、三世)の歓迎の言葉で交流会は幕開けし、食事を交えた歓談が始まった。パ・パウリスタ市は聖市から北西に422キロで、人口4万2千人余り。この地にはかつて「ブンカ」と呼ばれた植民地(以下、文化植民地)が、ソロカバナ線パ・パウリスタ駅の北東約20キロの地点にあった。1920年代半ば、米国に住んでいた約100人の日系人が代表者と資金を送り作らせた。『消えた移住地を求めて』(小笠原公衛著、2004年)によると当時、米国の日系移民は人種偏見からくる排日運動で圧迫され「外国人土地法」で土地の所有を禁じられていた。彼らを救うためブラジルに再移住させようと考えたのが、移民が集中していた米国サンフランシスコに住んでいた森惇吉牧師(故人)だ。森牧師は1919年に各地を視察し、23年に再度訪伯した。これに同行したサンフランシスコに住んでいた輸入商、山田登幸氏(山梨県出身)とともに計画を煮詰め、移住希望者を募ると約100人が応じた。希望者はそのまま米国に待機し、山田氏は個人的な資金を持参して1925年、家族を伴って渡伯した。広さ2060アルケル(約5千ヘクタール)の原生林が生い茂る土地が、北米の応募者たちに分譲された。実際の開拓が始まったのは翌年6月。原生林の伐採、コーヒーの植え付けが進められ、ブラジル国内の他地域からの日系人コロノや「力行会」など日本からの呼び寄せ青年、ブラジル人労働者が作業にあたった。開拓資金は米国の地主から送られしばらくは潤沢にあったという。彼らが北米から入植するときは、コーヒーが収穫できる5年先の予定だった。ところが、27年に持ち上がった地権騒動で開拓作業が遅れ、山田氏が分譲済みの土地を担保に銀行から多額の借金をしていたことから植民地経営は火の車になった。北米の地主達が徐々に入植し始めたのは、騒動が一段落ついた後だった。交流会には、その当時の日系人入植者の子孫も姿を見せていた。西沢裕美さん(80)、ミドリさん(89)夫妻だ。裕美さんは日本生まれ。山梨県出身の父は独身で米国に移住し、日本で結婚。ミドリさんは22年に米国で生まれ、それぞれ3歳、4歳のときに文化植民地に入った。現在の会館のある場所から24キロのところにあった。「原始林で最初は家もなく、板間の家に住んでいました」とミドリさん。「父はアメリカで排斥を受け、土地も買えなかった。それでブラジルに来ていろいろ見て回り、土地と家を買ったみたい。二度とアメリカには戻らないつもりだったようです」。(つづく、田中詩穂記者) 写真=敷地の入り口に立つ鳥居。開拓が始まって7年目に文協ができた/挨拶した佐々田会長 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ボツカツ文協を後にしたふるさと巡りの一行が、次に目指したのは、同地から約95キロ離れたバウルー市。同市の人口は34万5000人で、平均海抜は526メートル。天理教のブラジル伝道庁があることでも有名だ。 1926年ごろ、バウルーはソロカバ、パウリスタ、ノロエステ3線の交差点となって開拓前線へ向かう人々が集う町として繁栄の途をたどっていたが、市の周辺は土地がやせており、日本移民の大植民地とまではならなかった。また、第二次世界大戦前は領事館が置かれていたこともあり、日系人の数も多いが、意外なことにふるさと巡りで訪れるのは初めてとなる。 同地に邦人が第一歩を印したのは、14年5月。郊外ブラジリア耕地に入植した高知県人の桑名正樹氏であるといわれている。翌15年にはペルーから来た滋賀県人、沢尾磯七氏と北山吾一氏が共同で駅前に旅館を開業した。17年には、福岡県人の柳実太郎氏が雑貨商を開店している。第1回移民の香山六郎氏が同市で「聖州新報」を創刊したのは21年だった。 このころ、在住日本人の数は5家族のみだったが、33年には116家族が同地に移り住んだ。25キロ離れたチビリッサ移住地にも17家族が入り、同市郊外にバタリア移住地などができ、しばらく綿花栽培が盛んになった。現在、同市には2400家族の日本人及び日系人が住んでいると言われている。 一行がバウルー日伯文化協会会館に着いたのは午後7時過ぎ。市内中心地に建つ同会館には約160人の会員が集い、ふるさと巡りの一行を出迎えた。 最初に、先没者追悼法要が行われ、南米東本願寺の伊藤功導師による読経がなされる中、全員が焼香を行った。伊藤氏は愛知県出身で、日本でブラジル人女性と結婚。数年前に妻の故郷であるバウルーに移住した。日本では家業を手伝うなどしており、バウルーに来てから住職の道を選んだ新移民。「まだまだポルトガル語は上手ではないが、バウルーの日系人の皆さんに助けられている」と話していた。 法要の後、あいさつに立った老人クラブ副会長の益山義則さんは「同じ県人ならば家族のような温もりがある。故郷の話をして楽しい夕べを過ごしましょう。できるだけ同県人同士で座ってください」と、臨時で「同県人の集い」を提案した。益山副会長によると、「バウルーで最も多い県人は福岡で、続いて北海道、新潟、和歌山」だという。 またボツカツに続いて、本橋幹久県連副会長が、バウルー文協会長の園田ネルソン会長に県連のフェスティバル・ド・ジャポンのDVDなどを渡し、同地でも県連の活動を伝えた。 この後、各県別に分かれて座った食事会では、ふるさと巡りの醍醐味(だいごみ)の一つで、本人が「まさに、デスティーノ(運命)。どきどきして午前2時まで眠れなかった」という奇跡の出会いが待っていた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月21日付
沖縄県と世界をつなぐ人材の輩出などを目的とした「第1回世界若者ウチナーンチュ大会」が7月25日~同29日、聖市のブラジル沖縄県人会館及びジアデーマ市の沖縄文化センターで開催される。 同大会は、昨年10月に沖縄県で開かれた第5回世界のウチナーンチュ大会で初となる「若者国際会議」により世界8カ国の代表が議論した結果、開催を発表したもの。 世界の懸け橋となる人材輩出をはじめ、交流を通じたウチナーグチ(沖縄方言)、沖縄人としてのアイデンティティー及び伝統芸能の継承や、ネットワークを活用した事業展開によりビジネスへと発展させることなどが大きな狙いだ。 今年3月現在で、日本、ブラジルをはじめ、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、アメリカ(ハワイを含む)、イギリスの7カ国が参加を表明しており、メキシコ、フランス、フィリピン、中国が調整中だ。 大会では、スポーツ交流、シーサー作り、映像フェスティバル、ウチナーグチ替え歌カラオケ大会、国際会議、移民勉強会や郷土祭りなどが5日間にわたって実施される。 同大会開催について与那嶺真次沖縄県人会長は、ブラジルで若者たちのウチナーンチュ大会が初めて行われることの大切さを強調。現在、伯国内に留学生OB組織の「うりずん」、各市町村留学生OB、ジュニアスタディツアー、ニーセーター(青少年)ツアーなどで日本での生活を体験した数多くの県系子弟がいることに触れ、「今はインターネットで国際的なネットワークが築ける時代。若い人たちが三線や太鼓、琉球舞踊など沖縄の文化に関心を持ってもらえることはうれしいこと」と述べ、喜びを示している。 なお、母県の沖縄県人子弟11人をホームステイ方式で受け入れるブラジルで初めての「ホストファミリー事業」も7月21日から同31日まで実施され、第1回世界若者ウチナーンチュ大会のプログラムの一部に参加するという。 2012年4月21日付
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け ブラジル茨城県人会(小林操会長)は敬老会を29日午前10時から、同会館(Rua Bueno de Andrade, 756)で開く。75歳以上の会員が対象で参加費は無料。毎年開催されているもので、昼食を食べながらの歓談や、ビンゴなどレクリエーションもある。家族の同伴も可能。詳細は同県人会(3209・8515)まで。
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 松尾芭蕉の遺徳を偲び、芭蕉翁顕彰会(三重県)が『芭蕉翁献詠俳句』を実施するにあたり、作品を募集している。投句料無料、締め切り7月31日(必着)。【募集作品・部門】①一般の部=季節は問わない、②テーマの部=「水」にまつわるもの。未発表の自作に限り、類句・類想句・二重投句は受け付けない。【応募方法】郵便葉書または同型で同様の厚みの用紙を使用し、部門別に応募する。1枚につき2句まで記入、各部門10句まで投句可能。楷書で丁寧に記入し、難解な文字にはふりがなをつける。表に自分の郵便番号・住所・氏名とふりがな・俳号(ある人だけ)・電話番号、裏には希望選者名を明記の上、次のあて先に送付する。作品は返却されない。芭蕉翁献詠俳句係〒518―8770 三重県伊賀市上野丸之内117―13【選者】①一般の部=有馬朗人、稲畑汀子、茨木和生、宇多喜代子、岡崎光魚、小澤實、鍵和田?子、金子兜太、倉田紘文、塩田薮柑子、西村和子、長谷川櫂、星野椿、正木ゆう子、三村純也、宮田正和、②テーマの部=片山由美子。【賞】特選者には賞状および副賞、入選者には賞状を授与。受賞式は10月12日の芭蕉祭で行なわれ、同日サイト(www.ict.ne.jp/~basho-bp)でも発表がある。問い合わせは広田さん(11・2362・2903)、同会(Eメール=basho-bp@ict.ne.jp)まで。
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 2日目の4月1日の朝8時。早々に起きて朝食を済ませた一行はホテルをチェックアウトし、バウルー近くの次の目的地「ピラチニンガ温泉」へ向けて出発した。約30分後に到着。入ってみると広々とした施設は緑があふれ、朝の爽やかな空気がすがすがしい。プールのほか、テニスやバスケットコート、遊歩道などもある。椰子の木が両脇に並ぶ道を歩きながら、一行は施設の説明を受けた。従業員によると同地に温泉があることがわかったのが1970年代。石油を採掘していたときに偶然発見されたという。990メートル下から湧き出る天然温泉で、42度の湯が36度ほどに調整され、プールに流れているとか。その他冷たい真水や塩分が含まれている水など様々な露天のプールがあり、入浴希望者はおのおの持参した水着に着替え、簡単な健康診断を受けた。少し入って「出ると寒いね~」と言いながら引き返したり、入浴しなかった人は施設内のバールで軽食を取ったりと、それぞれ楽しんでいた。「バウルーには沖縄の人がたくさん来ていたね」と話していたのは一行の高良幸一さん(76、沖縄県那覇市)=聖市在住=。県人の会が2つあるほど沖縄県人が多いバウルーで交流を楽しんだようだ。1955年にいとこと2人で来伯した高良さんは、聖州オリンピアに1年滞在した後、12年住んだジャーレスでの知人と17年ぶりに会ったという。「向こうから話しかけてくれた。バウルーに住んでいると知らなかったので驚いた」町に出るときは、よく一緒に待ち合わせて出かけていった仲だった。「沖縄でも二、三世が多くてあまりわからないようだったけど、良かったね」と笑顔を見せる。ふるさと巡りに、夫の保己さん(84、鹿児島)と初めて参加した中山道子さん(77、二世)は「塩で体が浮いて気持ちよかった! 肩こりが治りましたよ」と嬉しそう。バールでビンゴ大会を楽しみ、昼食を済ませた一行は午後2時頃、施設を出発。約200キロの道程をバスは走り約3時間後、パラグァスー・パウリスタ市に到着した。閑静な民家の中から見えてきたのは、静かにそびえ立つ素朴で大きな鳥居だ。「ACEPP 1933年設立」という文字が刻まれている。「パラグァスー・パウリスタ文化体育協会」会館がある敷地内には運動場やいくつかの建物があり、広々としている。バスを降りた一行は、集まった30人ほどの地元日系人に握手で迎えられた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=ピラチニンガ温泉でリフレッシュした一行/パ・パウリスタ文協会館入り口で出迎えを受けた この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 京都ブラジル文化協会の森田嘉一会長が昨年4月、中米ニカラグア共和国の、在京都名誉総領事を拝命し、同国駐日全権大使のサウル・アラナ氏から任命状を授与された。京都ラテンアメリカ協会が年に一度発行する会報で報じられている。森田会長は1978年から既に在京都メキシコ合衆国名誉領事も務めており、2カ国から名誉ある地位を委嘱されるのは極めて異例だという。
ボツカツ文協には約120家族の会員がおり、日本人の多くは(サンパウロ州立総合大学(UNESP)などの教育関係の仕事に従事している。近年では、若年層は仕事で聖市に出ることが多いが、退職後にボツカツへと戻ってくる人も多いという。 文協の活動は日本祭り「友達」だけにとどまらず、ゲートボール、運動会、餅つき、敬老会、パソコン教室など幅広い。この日は婦人部を中心に、約40人が交流会に出席した。ふるさと巡りの一行は、婦人部が昨晩から作った日本食をほおばりながら「各地の婦人部の食事が食べたくて参加しているようなものだ」と笑い合っていた。 同地は梅の栽培でも知られており、「第39回山本喜誉司賞」を受賞した台湾移民の孫河福さん(83)が、ブラジルでこれまで誰もできなかった梅干(台湾梅)の普及に成功している。交流会に参加した孫さんは「日本の梅はサンタ・マリーナ耕地に合わなかった。小粒な台湾梅だと育った」と当時を振り返った。 会ではコチア青年同士の出会いもあり、ツアーに参加した上林よしたかさんと荒木しげたかさんは、ボツカツのコチア青年と初対面ながら、これまでのブラジルでの人生について花を咲かせていた。「初めて会ってもコチア青年同士なら家族のような気持ちになる。これまでの生活を聞き、『お互い頑張ってきたよな』と思い、うれしくなる」と話す。 食事の後には、ボツカツ婦人部による花笠音頭が披露され、最後には炭坑節を輪になって全員で踊り交流会は幕を閉じた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月20日付
ニッケイ新聞 2012年4月20日付け ブラジル京都会(杉山エレナ会長)の「2012年度定期総会」が29日午前10時半(第二次召集)から、松原ホテル(Rua Cel. Oscar Porto, 836, Paraiso)のレストランで行われる。今年は、同会の前身「ブラジル京都クラブ」創立60周年を迎えるにあたり、総会後正午から記念祝賀会が開かれる。会費は50レアル。問い合わせは大野(11・3209・5905)、杉山(同・5011・8134/同・8632・9526)まで。
ブラジル京都会(杉山エレーナ会長)は29日、聖市パライゾ区の松原ホテル(Rua Coronel Oscar Porto, 836)で2012年度定期総会を開催する。第1次招集は午前10時。第2次招集は午前10時半から。 総会では11年度会計及び事業報告が行われ、12年度の予算案が事業計画と共に審議される。同会は今年、京都クラブ時代から数えて創立60周年に当たる。 2012年4月19日付
リベルダーデ広場から出発したバスは、1人の遅刻者により若干出発が遅れたが、約4時間をかけ聖市から約240キロ離れたボツカツ市に定刻通り到着した。朝早いこともあり、バスの中はしんと静まり返り、ほとんどの参加者が眠っていた。 ボツカツ市は人口約13万人の小さな街だが、最初に笠戸丸で渡伯した人が入った六つの配耕地の内の一つ。一行が同市で最初に訪れたのは、ボツカツ日伯学生寮。バスを降りると、ボツカツ文協の坂手実評議員長が参加者を出迎え、「1989年にサンパウロ州立総合大学(UNESP)に通う日系の子弟のために建設され、現在は男性20人、女性17人の合計37人が入居している」と学生寮について説明した。参加者らは熱心に聞き入り、「立派な寮ねえ」と建物を見上げていた。 同市はUNESPの農学部など4学部を抱えており、学生寮には非日系の学生も多く入居している。しかし、坂手評議員長は「最近は寮が増えてきて、この寮に入る学生はだんだんと減少している」と話した。 ボツカツ文協では、3年前から日本文化を紹介する日本祭り「友達」が行われており、今年も6月1~3日に実施される。県連との結びつきも強くなっており、今後は聖市の団体とさらなる交流の活性化が期待されている。今年の日本祭り「友達」では1万5000人の入場者を見込んでいる。 学生寮を後にし、一行を乗せたバスは、大人の背丈をはるかに越えるほど大きく成長したミーリョ(トウモロコシ)畑の中を進んでいく。畑の中に突然現れた木製の鳥居に参加者らは驚かされたが、その場所がボツカツ日本文化協会会館だった。バスの運転手が長年培った運転技術で車体ギリギリの鳥居をすり抜けると、そろいの法被を着た会員らが笑顔で迎えた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月19日付
ニッケイ新聞 2012年4月19日付け 土曜日(21日) 第20回全伯虚子忌俳句大会、午前10時、リベイロン・ピーレス文協(Rua Primeiro de Maio, 56)◎青葉祭り、午前7時、宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade) 日曜日(22日) ペデレイラ文協家族慰安大運動会、午前9時、マウア市ジャルジン・マリンガ区の運動場(Av. Benedita Franco da Veiga)◎愛知、和歌山、滋賀、大分県人会共催「屋台祭り」、午前11時、愛知県人会館大サロン(Rua Santa...
ニッケイ新聞 2012年4月19日付け 『歩み』によれば、バウル―に領事館が設置されたのは1921年1月。28年には市内に22家族、30年には34家族が住み、31年頃から日本人植民者が棉栽培のため借地を始めた。33年にノロエステ、パウリスタ、ソロカバナ三線在住日本人の連絡機関として領事館内に連合日本人会が組織され、バウル―の日本人会の創立は36年2月。2年後は「バウル―中央日本人会」が発足した。そんな時代にバウル―に住んでいたのが参加者の草川一郎さん(79、二重国籍)=マリンガ在住=だ。聖州ドアルチーナ生まれで、1935年から5~6年同地で過ごしたことから、バウルー在住の市川千恵子さん(70、二世)と会話を弾ませていた。千恵子さんの父はバナナの行商をしており草川さんの父も店を経営しながら手伝った。バウルーから約50キロ離れたジャウー市で生産され、汽車で運ばれてきたものを売ったという。「バナナは早く熟れるから早く売らないといけないので、大きな声で二人して売り歩いていましたよ。あの頃はコーヒーも棉もよく取れた」(草川さん)戦後、草川さんは家族と共にマリンガーへ。41年にバウルーで生まれた千恵子さんを伴い、市川さん一家も同時期に移り顔見知りになった。「あの頃マリンガはセントロしかなく、まだまだ田舎。道はアスファルトじゃないから、赤土で洗濯物が真っ赤になった。道路も汽車もなくバスもない。バウルーに帰りたいと思っていましたね」と笑う千恵子さん。草川さんも「我々の親たちの時代は本当に苦労したはず」としみじみ。千恵子さん一家は1年半後に再びバウルーに戻ったが草川さん一家はマリンガーに留まり、野菜作りやバール、パダリアを経営するなどした。天理教の教会でたまに会うこともあったというが、千恵子さんの夫でバウルー生まれの哲夫さんとは初対面。二人は同地で結婚後、養鶏や不動産業などを営み、5年前に引退した。哲夫さんはかつて文協会長も務めたが「日本語ができず苦労しました」と3人は談笑していた。バウルー在住の小坪崧さん(74、福岡)と一行の川口春恵さん(愛媛、80)=モジ在住=は同船者で、半世紀ぶりの再会。59年2月「チチャレンガ号」で着伯。小坪さんは当時20歳で家族は10人だった。「お父さんの面影があるなって、見てすぐに分かった」と喜んだ川口さん。笑顔で写真に収まっていた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=和気藹々と会話を楽しんだ草川さん、市川さん夫妻(左から) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
日本移民の植民地を巡るブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の「移民のふるさと巡り」が3月31日~4月3日の3泊4日の日程で行われ、旅好き122人がバス3台に分乗して聖州内の移住地を周遊した。同ツアーには毎回参加する人も数多くおり、回を重ねるごとにファンを増やし続けている。37回目を迎える今回は、かつてコーヒーや綿花の栽培で有名だったボツカツ、バウルー、パラグアスー・パウリスタの3カ所を訪ね、各地の移住地で日本人会の会員らと交流を深めた(植木修平記者)。 中には数十年ぶりに運命の再会を果たす参加者もおり、「参加して良かった」と笑顔を見せていた。一行は、オランブラⅡの果樹園ではビニールハウスいっぱいに咲き誇る色とりどりの花に酔いしれ、アバレーでは聖市では味わうことのできない静かな環境で自然を満喫。晴天に恵まれた4日間の旅で様々な人と出会い、見聞を広めていた。 ふるさと巡りに同行したサービス・グローバル旅行社の渥美誠社長は「今回はサンパウロ州内の旅で、これまでと比べてゆっくり巡ることができたと思う」と話す。同ツアーは高齢化が進む日系社会に反比例して、年々参加者が増えているという、県連の「大当たり企画」。 1908年以降、約70年にわたって日本からやってきた日本移民はブラジル各地に散らばったが、「ふるさと巡り」はそれぞれ入植した土地でどのような生活をしてきたのか、彼らの足跡をたどる旅であり、その土地で築いた歴史を知る貴重な機会だ。 1988年の日本移民80周年を記念して始まり、県連が訪問先の移住地を選定し、同社が日程などを組む。第4回までは聖州内の移住地を巡っており、98年に初めて外国の移住地ペルーを訪れた。 この企画に長年携わっている県連の伊東信比古さんは、今回の移住地の選定について「今回のツアーはサンパウロから近い所を巡るが、バウルーなどは、これまでふるさと巡りで行っていなかった。ボツカツも笠戸丸移民が入植した場所。どうしても交流を持ちたかった」と話す。 3月31日午前7時半、参加者を乗せた3台のバスは、薄い霧のかかった聖市のリベルダーデ広場を出発し、最初の目的地であるコーヒーの移住地、ボツカツへと向かった。(つづく) 2012年4月18日付
【福岡発・吉永拓哉福岡支局長】福岡県福岡市を訪れた谷広海さん(日本語センター前理事長)と涼子夫人を歓迎しようと、ブラジルにかかわりの深い友人たちが集い、16日夜、本紙福岡支局横のレストランで『南米の集い』を行った。 これには板橋元昭元福岡県議会議長、高山博光福岡市議、学移連OBら約50人が参加した。南米の集いでは、はじめに谷さんの講演が行われ自身が暮らすマセイオ市の写真などをスクリーンで紹介しながら、異国の地でリゾートホテルなどを築いた経営哲学を話し、参加者たちも熱心に聞き入った。 また、現地で生まれた4人の息子らと共同でマセイオ市に建築会社を設立し、70歳を過ぎた今でも現役で仕事に励む谷さんに参加者たちは元気付けられた。 続いて東京から駆け付けた日系ペルー人2世の有富ビクトルさんが講演した。有富さんはフジモリ政権時代にペルー駐日大使を務め、日本大使公邸人質占領事件ではフジモリ氏の片腕として日秘両国のパイプ役となり、テロ撲滅に尽力した。 講演では南米の日系人たちの活躍ぶりを伝え「現在はベネズエラ、ボリビア、パラグアイの駐日大使が日系人。日系が飛躍する南米諸国だからこそ、日本人は南米に目を向けなければならない」と呼びかけた。 会場では、音楽で日本と南米日系社会を結ぶ福岡の夫婦デュオ『ハル』がラテン音楽を披露し、参加者たちが谷さんを囲んで夜遅くまで語り合った。谷さんは「昔の友と再会できることが本当にうれしい。また福岡に来たい」と楽しそうだった。 2012年4月18日付
茨城県人会(小林操会長)は、75歳以上の高齢会員を対象とした敬老会を29日午前10時から聖市アクリマソン区にある同県人会館(Rua Bueno de Andrade, 756)で行う。 同県人会では「家族の方にも一緒に来ていただき、食べて飲んで積もる話をして午後はビンゴなどで楽しく過ごしたいと思います」と当日の来場を呼びかけている。詳細は同県人会事務局(電話11・3209・8515)まで。 2012年4月18日付