ニッケイ新聞 2011年12月3日付け 【既報関連】10月26日~28日、東京都内で催された『第52回海外日系人大会』に参加した文協、援協、県連、CIATEの各代表による訪日報告会が先月16日、文協ビルであった。 今大会に参加した25カ国180人のうち、50人がブラジル人。被災地支援活動を行った日系ブラジル人によるスピーチもあり、県連の園田昭憲会長は「義捐金活動報告に熱心に耳を傾けてもらい、ブラジルの存在感の強さを感じた」と振り返る。 以前大会に参加したCIATEの二宮正人理事長は「9万人近くの伯人が帰国したが、在日ブラジル人が組織化してネットワークを作っており、権利意識が向上している」との感想を語った。 大会宣言では、東日本大震災の支援や日本語教育の推進を宣言する一方で、日伯両国間における査証免除協定締結などを要望した。 また、大会の前後には政府関係者との会談を行った。藤村修官房長官や輿石東民主党幹事長、衆参両議員らを訪問し、観光ビザ免除や県費留学生・研修生制度の継続を訴えた。 園田会長は「観光ビザについては藤村官房長官から『関係省庁のまとめには私が直接当たる』との返答があった。日語教師の本邦研修生制度については『継続を決定する』との発言が得られた」と手ごたえを感じたようだった。 会談で援協の菊地義治会長は日系高齢者の福祉や自閉症学級の取組みに触れ「政府は日系社会を通したブラジルへの貢献を」と発言した。 最後に園田会長は「訪日を通し、4団体の意思疎通が図れたことが一番の収穫だった」と締めくくった。
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いよいよ年末だが、年が明けると日系社会は各団体で役員改選に向けた色々な動きが出てくる。このうち県連の園田昭憲会長は「県連会長として2期目はない」と言い切る。本当なのかと問うと、「鹿児島県人会長としては2013年の創立100周年事業を成功させなければという気持ちはあるが、組織は絶えず変化しなければならない。私が長く上に立つべきではない」と自らの考えを述べた。 ◎ しかし、今年の3月にも日系社会の重鎮から推されて県連会長になった経緯があり、情にもろい園田氏の言葉を額面どおり受け取るわけにはいかない。また「県連基金の設立など、いろんなことで私が急いでいるのは私に2期目がないから。3月までに次に誰が県連会長になっても県連がしっかりとしたものになるような仕組み作りができればいい」と話すが、神輿(みこし)を担ぐ人はそう簡単には降ろしてくれないだろう。 2011年12月3日付
【既報関連】11月30日に来伯した広島大学の岡本哲治同大理事・副学長、下田脩二国際交流グループリーダー、平野祐次同グループ主査の3人が同日、本紙を訪れた。 今回の来伯の目的は「サンパウロ総合大学との交換留学生制度の確立」と「OB会の設立による産学官連携の礎を作ること」としている。 3氏は12月1日、同大学の新技術説明会を広島文化センターで行い、それ以外にも商工会議所を訪問した。3日に同文化センターで広島大学に留学したOB会の発足式も行われる。詳細は同センター(電話3207・5476)まで。 2011年12月2日付
ニッケイ新聞 2011年12月2日付け 亜国からは今回、最多の200人が参加した。大会取材3回目の『らぷらた報知』編集の崎原朝一さん(77、沖縄)は、「僕自身もう今回が最期かもしれないと思っている。一世はみな、そんな想いがあるから子や孫を連れてきた。だからこんなに人数が増えたんだと思います」と分析する。 最初の移民集団は笠戸丸移民であり、その意味で伯国とは兄弟のような関係だ。亜国日系社会は3万人、うち沖縄県系は7割以上だという。首都ブエノスアイレスで一番立派な日系会館は、在亜沖縄連合会(通称沖連)のそれだという。 「アルゼンチンと日本が正式な移住協定を結んだのは、実は1961年。その直ぐ後に日本の高度経済成長が始まる。つまり、アルゼンチンに直接入った人は少なく、戦前はブラジル、戦後はパラグアイ、ボリビアからの転住者が多いという特徴がある」と要約する。 ブラジルでは戦前、大半がコロノ(農業契約労働者)として生活を始めた。ところが亜国では転住者が多く、ブエノスアイレスなどの大都市で工場労働者、バールや洗濯屋などの自営業者が多かった。戦後、ミッソンイスでは開拓があったが、例外的だという。 ブラジルでは終戦後に勝ち負け抗争が起きたが、亜国では起きなかった。亜国は南米では一番最期まで中立を保ち、3邦字紙が発行禁止にされたのは1945年3月末で、それまで日本の戦況が刻々と伝えられていた。 戦争の関係で、日本の報道機関の特派員は北米にはおらず、ブラジルが連合国側にたった1942年以降、アルゼンチンに特派員が集中していた。ドイツ移民、イタリア移民が多い国柄もあって欧州の貴重な情報はもちろん、欧米の動向に関するニュースもここから発信されていた。そのような特派員から直接、戦況を聞くことあっただろう。 『アルゼンチン日本人移民史』(06年、在亜日系団体連合会)の編集委員長も務めた崎原さんは「『南亜日報』の最期の新聞は3月28日付けで、米軍が慶良間諸島を攻撃し、沖縄侵攻が始まったというものでした」と説明する。 ところが、政府が許可した最後の日付の新聞は3月27日付けだった。「米軍の慶良間攻略を報じた新聞はひそかに印刷だけして、社員が手分けして秘密裏に配達した」という〃幻の28日付け〃だった。大勢を占める沖縄県系人にとっては「慶良間諸島まで来た」というニュース自体が衝撃的で、その後の展開は予想できるものだった。 それに「みな都会生活しているから、勝っていると信じたいが、実情も肌感覚でわかっていた。だから集団での勝ち組は生れなかった」と崎原さんはみている。 「戦場となり、占領された郷里を持つ沖縄県人はかえる場所を失い、家族の消息も不明になり、絶望のふちに追いやられた」。戦後徐々に手紙が届くようになり、状況が分かるようになる。「沖縄県人有志は自らの報道機関を求め、1948年に株式会社の新聞社を立ち上げた。永住の気持ちが広がっていた」という経緯から『らぷらた報知』は創刊された。 『亜国日報』が91年に幕を閉じて以降、『らぷらた報知』は同国唯一の邦字紙として週3回の発行を続ける。『亜国日報』が廃刊した直接の原因は、記者が居なくなったことでも、読者が居なくなったことでもなかった。「植字工がデカセギにいってしまい、代わりが居なかった」ことだった。南米に共通したデカセギブーム当時を髣髴とさせる逸話だ。同国コロニアの7割を占める県系読者をしっかりつかんだ新聞が生き残り、「沖縄系に偏らない日系社会ニュース」を社の方針としているという。(深沢正雪記者、つづく) 写真=慶良間攻略を伝える幻の『南亜日報』3月28日付け(アルゼンチン日本人移民史、戦後編、13頁) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
青葉健康福祉協会(中沢宏一会長)主催の「青葉祭り」の12月の開催は、3日と17日。両日とも午前7時から午後3時まで、宮城県人会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街152番)で行われる。 会場では、ADESC農協婦人部連合会とカッポン・ボニート地方の有機野菜や、手作りの大豆製品などが販売される。 4階の食事処では、3日は天ぷらうどん、油麩(ふ)うどん、17日はずんだ餅やはらこ飯といった宮城の郷土料理や、きなこ餅、さんま焼き定食、冷やし中華などが用意される予定。 2011年12月1日付
日系5団体(文協、援協、県連、老ク連、日文連)共催の天皇誕生日祝賀会が、7日午前9時から文協ビル9階の移民史料館(聖市リベルダーデ区サンジョアキン街381番)で開かれる。 文協では、「毎年天皇誕生祝賀会は2階の貴賓室で行われていましたが、今年は9階の移民史料館となりますので、お間違いのないようよろしくお願いします」と来場者への注意を促している。 詳細は文協事務局(電話11・3208・1755)まで。 2011年12月1日付
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け ブラジルでは1970年代前半以降、ほぼ新来者は途絶えたが、ハワイではまだ続いている。 ハワイには1924年までに20万人もが渡ったが、戦後もアメリカ人との婚姻者に加え、戦前移民の呼び寄せが3親等(現在は1親等のみ)まで認められていたことから数万人が渡った。 『ハワイパシフィックブレス』紙の仲嶺和男社長身も、琉球新報で記者として5年ほど働いた後、40年前に親戚の呼び寄せでハワイに渡った戦後移民だ。 仲嶺さんは戦後の特徴として、「米軍人と結婚した日本人女性が7千人もいる」という。それに加え、「今でも日本人は毎年、300人ぐらい抽選で永住権をもらって米国に移住しています。その多くがまずはハワイで慣れてからと寄っていくので、実はけっこう新しい日本人が今でも増えている」と米国ならではの事情を説明した。 ☆ ☆ 米本土からの参加者の中にもアメリカ人の夫を持つ女性の比率が高く、やはり進駐軍と結婚した女性が移り住んでいる割合が高いことを反映しているようだ。米国日系人の特徴の一つだろう。 米国在住40年のサンフランシスコ沖縄県人会(約200人)のルズフォード千鶴さん(72、沖縄)は4回目の参加だ。「ただのウエルカム(いらっしゃい)ではなく、ここではウエルカム・ホーム(お帰り)といってもらえるのが嬉しい」としみじみ語る。 カリフォルニア州だけで沖縄県人会は4つもある。千鶴さんは近くのサクラメント県人会にも顔を出すという。「毎月集まるグループもあって、ウチナー同志食べて笑って楽しむ。20~30人集まる時もあるんですよ」と楽しそうに笑う。 ただし、「50州もあるから全米の県人会員がみんな集まるのは難しい」とも指摘した。世界のウチナーンチュ大会前夜祭の帰還パレードでも、人数の上では最多の米国勢は各地域ごとにバラバラにシャツを作っており、ハワイ以外の米国勢が圧倒的な存在感を見せることはなかった。 その点、伯国は聖市の沖縄県人会とジアデマの沖縄文化センターが全伯の本部機能を担い、南麻州カンポ・グランデのような遠距離でもものともせずに、統一行動をする点に特徴があるようだ。 千鶴さんは「息子はテキサスに住んでいて、年に一度会うだけ。進駐軍だった夫とは英語ですが、息子は幼い頃から日本語を話して聞かせたので会話はできる」と胸をはる。3回目の参加のオーバーホルサー敏子さん(71、今帰仁村)は在米30年、米国籍に帰化しているが、「毎年沖縄に帰ってくる。自分ではアメリカ人というよりウチナーンチュだと思っている。向こうの土に骨を埋めるつもりだが、元気なうちは毎年帰りたい」との気持ちを吐露する。 敏子さんは進駐軍だった夫と1970年に結婚、「夫が大の沖縄好きで、日本語も日常会話ならOKなので、家庭の中は日本語で通した。子供が日本語を話せるようにするというのは、彼の願いでもありました。普通の夫は英語にこだわるので、特別な環境だった」と微笑む。 「子供にも行こうと誘ったが今回は断られた。きっと次回は連れてくるつもり」とのこだわりを見せた。(深沢正雪記者、つづく) 写真=オーバーホルサー敏子さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け 青葉健康生活協会(中沢宏一会長)は「青葉祭り」を3、17日の午前7時から、宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で開く。 同県人会婦人部による天ぷらうどん、油麸うどん(3日)、はらこ飯、きな粉餅、ずんだ餅、さんま焼き定食、イカポッポ焼き、親子丼、冷やし中華(17日)などが販売される。 農協婦人部連合会(ADESC)が産地直送有機野菜や手作り製品を販売、小児ゼンソクを患う子供に背骨矯正治療、指圧や灸の施術、家紋やこけしの展示販売も。 問い合わせは同県人会(11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け ブラジル日本文化福祉協会(木多喜八郎会長)は『天皇誕生日祝賀会』を12月7日午前9時から、9階の移民史料館(Rua Sao Joaquim, 381, Liberdade, 9o. andar)で開く。参加自由、申込み不要。 サンパウロ日伯援護協会、ブラジル日本都道府県人会連合会、ブラジル日系老人クラブ連合会、日伯文化連盟の共催。 肖像画を掲げ、今年で78歳を迎えられる天皇陛下の誕生日を祝う。国歌斉唱、文協女子コーラス部によるコーラス、挨拶の後乾杯が行なわれる。 問合せは文協(11・3208・1755)まで。
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け 聖州立カンピーナス大学(UNICAMP)の日本人留学生らが設立したボランティア団体『サンパウロFor Japan』が13日、ブラジル日本文化福祉協会大講堂で東日本大震災の復興支援コンサートを開催し、約260人の観客が訪れた。 同大学内で震災の状況を伝える講演会、募金や千羽鶴作りから始まった活動は、メンバーの柴田大介さんが指揮学を選考していたことから今回の企画へと繋がった。 文協、援協、在聖総領事館、宮城、福島両県人会やフジフィルムなど20団体が協力した。 同大およびサンパウロ大学、パウリスタ大学の音楽学生にプロの演奏家を加えた約30人のオーケストラを組織した。 リオ連邦大学副学長で音楽アカデミー会員でもあるマルコス・ノゲイラ氏が、宮沢賢治の詩を基に作曲した「Shizuka~雨にも負けず」は今回初公演、緊迫感ある演奏に合わせて学生が詩を熱唱した。モーツァルトの「ジュピター」では曲調が一転し、明るく爽やかな音で観客を和ませた。 ヴィラ・ロボスの「ブラジル風バッハ第9番」のほか「からたちの花」など日本の曲も披露、学生らの堂々たる演奏や指揮に観客は立ち上がって拍手を送った。 来賓として訪れた山下譲二文協副会長は「音楽は国境がない。音楽を通じて大震災の復興支援に参加できたのは、私たちにとっても貴重な機会だった」と語った。 谷口康史さん(30、岐阜)=聖市=は、どの曲もすごくよかった。宮沢賢治の曲はチャレンジしている感じがよくでていた」と話した。 コンサートの収益金5176.46レアルはすでに同総領事館に送金されており、日本赤十字社を通して被災地に届けられる予定。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け 全47都道府県人会が県連に――。唯一県連に加盟していなかった富山県人会(市川利雄会長)が27日、アクリマソン区の同会会館で開いた役員会で県連に再加盟することを決議、正式に復帰した。会に出席、定款の確認などを行った県連の園田昭憲会長は「欠けていた部分がようやく埋まった。積極的に活動に参加して欲しい」と明るく語り、県連の結束力向上に期待した。 市川会長は脱退の理由を次のように説明する。「当時、県連の定款には会計に関する説明がなかった。県連主催『日本祭り』には00年の第3回まで参加したが、同祭の赤字分を各県人会に負担させると決めたことへの不満が県人会役員内で高まった」。 当時の会長で現会長の兄、市川良一氏が県連に手紙を出し、01年に正式に脱退した。 「毎月の代表者会議で一方的な報告が多かったことも一因だったようです」(市川会長)。 その後、県人会内では何度も復帰の検討がされたが、県連の運営方法や定款に不安を唱える声もあり実現しなかった。 進展があったのは今年6月。県連の新定款について市川会長と園田昭憲県連会長で話し合い、会計面を含めた内容の改善を確認したことで復帰に向けて準備を開始した。今月、県連と同県人会との間で合意に達し、役員会での承認を待つのみとなっていた。 役員会には園田会長が出席し、新定款や県連基金などに関して説明。役員による採決が行われ、全会一致で復帰が決定した。同時に県連からも加入が自動承認され、12月度の代表者会議から出席する。市川会長は「以前の県連から大きく変わったと感じた。『第15回日本祭り』への参加は未定だが、他県人会への行事参加や若い世代の交流を期待したい」と話した。 ■ 富山県人会は1960年に創立、現在会員は300家族。昨年8月には県人移住百周年、県人会創立50周年を祝う式典を開催、記念誌「富山県からブラジルへ」(日ポ両語)を刊行。また県費留学・研修生の派遣を毎年行うなど活発に活動を行っている。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け 第1回ハワイ移民団27人をのせて1899(明治32)年12月5日に那覇港を出港した薩摩丸は、1900年1月8日にホノルルに到着した。これを結成したのが〃沖縄移民の父〃當山久三(きゅうぞう)だ。 当時の奈良原繁(しげる)第4代知事(1892―1908年)は薩摩藩出身であり、強権を持って県政に望んだとウィキペディアにはある。明治政府は1879年に実施した「琉球処分」で琉球王国は消滅し、沖縄県が新たに設置された。この時に〃王国〃をなくした喪失感が代々に受け継がれ、沖縄県人の強い同族意識の原点を形作ってきたようだ。 移民送り出しに「時期尚早」と否定的な知事にとって、東京で自由民権運動の影響を受けた當山は政敵ともいえる存在だった。「移住する権利」を獲得することは県民への差別撤廃を意味し、當山の悲願だった。そんな強い向かい風の中、ハワイ移民を実現した。 『沖縄県史7・移民』(沖縄県教育委員会、1974年、以下『県史7』)によれば、初移民の後、3年間の中断期間を経て、出移民が全盛になったのは1903年以降、1904年には日本全体の移民総数の5・7%を占めるようになり、翌1905年以降10%以上の年が多くなる。 1885年に始まった本土からの移民事業に遅れること17年、堰を切ったように沖縄の移民は増加した。そんな1908年、米国政府はハワイ行き日本移民を禁止した。つまり、笠戸丸が出港した1908年は沖縄から見た出移民が助走を終えて最高速になった頃だ。米国での日本移民排斥が強まるに従い、ブラジル行きが急浮上した。笠戸丸移民の半分近くが沖縄県人だったのには、そのような背景があった。 1925年時点で、都道府県別に見た住民1万人当りの出移民数統計(『県史7』12頁)の堂々の1位は、沖縄県の429人だ。単純計算すれば25人に一人、一族に必ず一人は移民がいるという状態だった。2位は和歌山県110人、3位は広島県69人、4位は熊本県59人だった。 さらに時代が進むと沖縄の移民比率はもっと高まる。母県人口に占める海外在留者の人口比率統計(同13頁)によれば、1940年時点で海外在住者5万7283人に対し、沖縄県人口は57万人余だったので、人口の1割にも達していた。熊本県は4・8%、広島でも3・9%だから断然トップの比率といえる。 海外移民は母県の家族に必死で送金し、家計を支えた。沖縄県の場合、移民送金額を1929年の県歳入総額に比較すると、なんと66・4%に達していた。逆にいえば、それだけ母県の経済は疲弊しきっており、移民する以外に生活手段がなかった。移民事業はまさに母県経済の大黒柱であった。他県ではありえない依存度、移民との関係といえる。 1908年から1922年までの期間の最多送り先は1位がハワイ、2位がブラジル、3位がペルーで、この3つだけで全体の86%を占めた。1924年に米国が全土で排日移民法を実施するにいたり、行き場を失った移民はブラジルに集中するようになった。 1935(昭和10)年の調査で、沖縄県の市町村別にどれだけの人がハワイに渡ったかを調べた調査がある。トップは沖縄本島の中頭郡からの47・9%で、実に出移民の半分がハワイへ渡った。2番目が島尻郡の35%、3位は国頭郡の16%となっている。同じ地域出身者が固まって移住し、海外でも集団を維持した。沖縄県人会に多くの村人会という独特の存在があるのは、このような歴史に由来する。 世界のウチナーンチュ大会は移民大県だった歴史を逆手にとった発想だ。歴史をふり返り、そこから未来を発想する。ここに現在に至る県人の強いつながりの秘密があるのかもしれない。(深沢正雪記者、つづく) 写真=〃沖縄移民の父〃當山久三 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け 財団法人オイスカと宮城県が東日本大震災で壊滅した仙台市名取の松林再生運動を実施するとし、そのキャンペーンの一環として日本の歌手・岡史朗さんを招いて19日、宮城県人会でチャリティーコンサートが開かれ、約100人が訪れた。ニッケイ新聞が主催、海外友好協会および飯星ワルテル連邦下議が後援した。 1987年から始まった岡さんによるコンサートは今年で10回目。今回は19日の聖市公演を皮切りに、サントス、グアルーリョスなど全9市でコンサートを行なっている。 初めに全員で被災者に黙祷を捧げた後、岡さんが岩手県、宮城県それぞれの名曲「北国の春」、「青葉城恋歌」を歌って犠牲者を追悼した。 同県人会の中沢宏一会長が、「震災の被害は甚大で1年や2年ではどうにもならないが、一緒に根気よく運動していきたい。こうした特別な年に来てもらったことに感謝する」と挨拶をした。続いて10回目を記念し、岡さんおよび同協会の奥田敏子会長に表彰状を手渡した。 岡さんは「知ってる歌は大きな声で歌ってくださいね。長生きしますから」「皆さん今何歳?お若いね」などとユーモアを込めて観客とやり取りを交わしながら、「親メドレー」、師匠の曲を集めた「岡晴夫メドレー」、「川の流れのように」や「千の風になって」など、人気曲もふんだんに盛り込み約60曲を熱唱し観客を楽しませた。 昨年度も見に来たという金子多恵子さん(74、二世)=聖市=は、「師匠の晴夫さんの歌を若い頃から聞いていた。今日も好きな歌がたくさんあった」と喜んでいた。 三島せいさん(85、北海道)=聖市=は、「私たち移民のために、好意で来てくれたと思うと嬉しい。本当に心にしみて、一生に一度の思い出になった」と感激した様子で話した。 なお、集められた保存食はサントス厚生ホームへ寄付された。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け 富山県人会の県連復帰で、全都道府県人会が加盟したことになる。「そういえば岐阜は…」との声を聞き、山田彦次会長に確認したところ「08年に復帰している」とのこと。というのもリベルダーデでも飲食店を持つ岐阜県人が「日本祭り」で出店するため〃便宜〃を図ったよう。その証拠に県連会議には参加していない。11月の段階で19県人会が会費を未納となっているが「会費は会が払います」とのこと。色んな加盟の仕方があるものだ。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け ブラジル佐賀県文化協会(吉村幸之会長)は恒例の忘年会を来月18日午前11時から、同会会館(Rua Pandia Calogeras, 108, Aclimacao)で開く。参加費会員25レアル、非会員30レ。 ブッフェ式昼食の後、カラオケやビンゴなど余興も用意される。 問合せは同県人会(11・3208・7254)まで。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け 広島大学(東広島市)はこのたびブラジル校友会を設立するにあたり、同大出身者、元留学生に呼びかけ、来月3日午後7時から、広島文化センター(Rua Tamandare, 800, Liberdade)で「設立会合・懇親会」を行なう。同大の岡本哲治副学長らが出席する。 同大学国際センターは「ブラジル在住の卒業生、留学生の連絡先を把握しておらず、これを機会に連絡を密にしていきたい」と話している。 詳しくは広島県人会(11・3207・5476)まで。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け やはり年末は紅白歌合戦、そして被災地の子供たちに愛の手を―。ブラジル日本アマチュア歌謡連盟(NAK、北川好美会長)は『第17回ブラジル紅白歌合戦』を来月4日午前9時から、文協大講堂で盛大に開く。在聖日本国総領事館、汎米日系人協会の後援。入場無料。 1995年の日伯修好百周年を記念して始まった同イベント。今年で17回目を数える年末コロニアの風物詩ともなっている。 NAKバンドの伴奏で老若男女各30組が、03年にNHKからブラジル紅白歌合戦に贈られた優勝旗を競いあう。総合司会は井川ルシアさんと渡辺美枝さん、紅組は原房子さん、白組は小島一夫さんがキャプテンを務める。 なお、午後に予定される震災支援特別イベント「がんばれ援歌―東日本大震災を想う」では、ゲスト司会に藤瀬圭子さんを迎え、母県への支援活動を行なうブラジル宮城県人会の中沢宏一会長や、今年6月に訪日、日本アマチュア歌謡連盟・東北連合会(正木章会長)に約83万円の義捐金を手渡した北川朗久NAK名誉会長らが復興に対する思いを語る。 会場では千羽鶴も飾られ、募金した人には折鶴一羽が贈られる。今回寄せられた浄財全額が宮城県人会を通して、被災地の子供たちへ千羽鶴と共に届けられる。 作詞家もず唄平さんによる「がんばれ援歌」をポ語で歌う北川会長は「今年はどちらに軍配が上がるか予想もつきません。年末のひと時を楽しんで欲しい」と話しながらも「イベントを通じて被災地にコロニアの思いを伝えたい」と多くの来場を呼びかけている。 問い合わせは志田若代実行委員長(11・9655・6636)まで。
29日付本紙で「10月16日に開催された九州ブロック芸能祭に、県連(園田昭憲会長)設立の『県連・県人会活性化基金』が助成された」と掲載したが、園田会長によると「県連で余っていた水を提供したが、基金からの助成金は出ていない」という。 同基金は、日本祭りの収益金を県人会や地区ブロックのほか日系団体の活性化に向けて有効的に使おうと発足した。 現在は、運用に向けて詳細な助成基準を作成している段階。来月15日に予定されている12月度代表者会議までの間に3度開かれる執行部会で、ポルトガル語と日本語の助成基準が決定すれば、代表者会議で通知される。その後運営委員会を設立し、同委員会が基金を運用する。 委員会設立後は、すでに県連が持っている複数の口座のうち一つを基金用とし、積み立てを始める。積み立てる資金は用意できており、積み立ては、早ければ12月度代表者会議後に始まる計画だ。 園田会長は「現段階では、基金の積み立てを行っていないので助成金は調達できない上、どこの団体からも申請を受けていない」としている。 また、ある執行部の役員は「日本語は、ポルトガル語に付随するものなので『県連・県人会活性化基金』という日本語での表記自体、正式に決まってはいない」と指摘した。 ただ、同基金では申請の段階で使い道を記載する必要はなく、催しや事業の名称と、希望する助成金の金額のみ提出することになっている。そのため、「助成金で飲料水を購入しても構わない」と園田会長は話している。 園田会長はさらに、基金の助成額について「申請額の全額は適用されない。また、焼きそば祭りやカラオケ大会など、団体の運営費を捻出する催しに対しては助成しない」と強調した。 2011年11月30日付
27日の富山県人会の支部合同役員会に出席し、説明を行った園田県連会長によると、現在46県人会で構成される県連傘下団体のうち、半数近い22県人会の会長が2世。執行部14県人会の代表のうち、8~9人が2世会長と1世の数を上回っているとか。そのため、定款など書類のチェックはブラジルの法律に従って行うが、毎月の代表者会議は日本並みに時間通り実施していると強調していた。富山県人会の市川会長は流暢な日本語を話せる2世。県人会の形態もこの10年でかなり変わってきたと言えそう。 ◎ 富山県人会が大筋で県連復帰を決めたことで、47都道府県人会がそろう形での県連となりそうだが、今後次世代の会長がさらに増えると思われる中、各県人会は生き残りをかけてどのように活動していくのか。連合体であるならば、その辺の共通した議論(留学生問題、親睦としての団体のままで良いのかなど)をもっと行い、各県人会の存在意義を強めることも必要なのでは。「御三家」と呼ばれる聖市での日系団体の勢力図も変わりつつあり、県連としての今後の一挙一動が問われる。 2011年11月29日付
来年の日本祭り参加も視野に若い世代同士の情報交換や交流も 【既報関連】伯国の47都道府県人会の中で唯一、県連(園田昭憲会長)に属していない富山県人会(市川利雄会長)は、27日午前10時から行われた支部合同定例役員会の中で、約10年ぶりに県連に復帰することを大筋で決定した。役員会には園田県連会長も出席し、現在の連合会の立場を説明した上で、同県人会の復帰を熱望した。同県人会は早ければ今週中に正式決定し、今後は若い世代同士の情報交換に力を注ぎ、毎年7月に開催されている日本祭り参加も視野に入れている。 聖市アクリマソン区の同県人会館で開かれた役員会では、県人会顧問の根塚博氏が10年ほど前に県連から脱退した経緯について説明した。それによると、当時の県連が「計画もなしに行った行事(日本祭り)の赤字分を各県人会に負担させたこと」について同県人会では、「県連が県人会を食っている状態になる」として反発。「けんかをしたわけではなく、当時の県連執行部と考え方が違った。永久に辞めるのではなく、いつかは県連が新しい組織になってくれれば改めて戻る気持ちだった」という。 これに対して園田会長は、現在の県連が特に前任の与儀昭雄会長時代から「非常にオープンになった」とし、昨年度から発行している県連の事業報告書の中に富山県人会の項目を作って準備していることに言及。さらに、県連の定款上、「ブラジルに存在する県人会は、自動的に県連に入会できる」という内容を説明し、「定款の単項では(県連)執行部の判断により、代表者会議で協議しなくても(富山県人会の復帰を)許可することができる」と述べた。 また園田会長は、富山県人会が脱会した当時の県連が、日本祭りで出た赤字分を各県人会に負担させたことについて、「定款には『県連が背負った赤字については、会員である県人会に対して影響しない』とある」と述べ、県連の負担を県人会に押しつけることができないことを強調。「富山県人会に戻ってきていただくと、47都道府県人会がそろうことになり、県連として日本に対してさらに物事を言える会になると思う。来年の日本祭りにはぜひ、ブースを出していただきたい」と県連復帰を熱望した。 同県人会では役員会で検討したところ、大筋で復帰することを決定。早ければ今週中に正式決定し、県連との話し合いを行う考えだ。 市川会長と根塚顧問は県連への復帰について、「今は県連の定款も改正され、いつまでも脱会している理由もないと考えた」とし、「(富山県人会の)若い世代が、ほかの県人会の若い人たちと情報交換して交流し合い、今後は県連のイベントにも積極的に参加していきたい」と意気込みを見せた。 2011年11月29日付
