ニッケイ新聞 2016年5月3日 在サンパウロ総領事館が中心となって先月22日午後、リオ五輪サンパウロ連絡協議会が発足した。期間中の来伯邦人受け入れなどについて、各日系団体の代表15人と中前隆博総領事らが話し合った。 3月上旬にはリオで、サンパウロの母体となる官民合同組織が第1回会合を行なった。それを受けた今回の会合に関し25日午前、中前総領事が取材に応じた。 観戦に訪れる邦人の安全確保、治安やジカ熱などの情報共有、要人対応を目的とし、特設サイトで渡航上の注意や安全情報を発信する。緊急時の連絡先を明記したページを設け、来訪者が印刷して携帯できるような配慮も行なう。 2014年W杯では試合会場3都市の空港にブースを設置し、注意喚起のチラシを配布した。今回は大会期間の長さや、観戦者の移動がリオ以外は読めないことから、管轄内の空港にブースなどは設置しない。 また、聖市でも代表選手が直前合宿を行なう可能性が高いことから、「日本選手団が最大限の力を発揮できるような応援体制、環境づくりにも貢献できれば」と意欲を見せている。 委員には日系5団体に東京都友会、サンタクルス病院ほか、青年文協や留学・研修OB会のASEBEXなど若手団体も連なる。「幅広いネットワークを持つ日系の若者にも協力を仰いだ。最新の安全情報や関連イベントなど、広報には彼らの協力も不可欠だ」と狙いを語った。 日本政府は大会期間中、リオ市内の複合文化施設シダージ・ダス・アルテス内に、五輪ジャパンハウスを設置する。日本文化の紹介や、20年東京五輪の周知を促す考え。聖市では文協が中心になって、サッカー男子の第3戦、日本―スウェーデン(8月10日、サルバドール)で観戦会を企画中だ。 なお在伯公館は、6500~8千人の邦人が訪れると予測している。 □関連コラム□大耳小耳 リオ州で開催されていたフェンシング世界選手権大会が27日に閉幕した。五輪テストマッチのための2種目団体戦で、日本から男女8人の選手団が参加したが、女子フルーレ団体が12位、男子サーブル団体が16位という結果に終わった。この2種目は元々五輪では行われない。でも五輪種目の方のフェンシングでも、残念ながら日本代表は団体戦での五輪出場枠を逃した。個人戦ではメダル獲得が期待される太田雄貴選手含めて6人が代表に内定。リオ五輪まではや100日をきった。万全の態勢で試合に望めるよう、選手たちにエールを送りたい。ちなみに五輪本大会の個人戦は、8月6日から11日まで。
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ニッケイ新聞 2016年5月4日 若手民謡グループ「民」などが主催し、初となる『本荘追分ブラジル大会』が5月22日午前9時から、聖市の秋田県人会館(Av. Lins de Vasconcelos, 3390, Vila Mariana)で行なわれる。優勝者は8月、第33回本荘追分全国大会(秋田県由利本荘市)に伯国代表として派遣される。 昨年末に実施が決まり出場者を募っていた(15年12月16日既報)。記念すべき第1回大会には、8~88歳まで約60人が参加する。パラナやミナスからも駆けつけるという。 日本国外での大会は初といい、由利本荘市からも長谷部誠市長、鈴木和夫市議会議長ほか、本荘追分保存会の佐林公善会長、さらには前年度優勝者の三浦九十九さんら10人が来伯することになった。 案内に来社した秋田県人会の川合昭会長、同市出身の伊藤武さん、民謡家の北原民江、海藤司さん、娘の紀世さんは開催に喜びを示し、「記念すべき第1回大会には、全日本王者の三浦さんらによるアトラクションも予定します。本場の民謡を楽しみながら、大会出場者にも声援を送ってほしい」と呼びかけた。 問い合わせは秋田県人会(11・5573・4107)、紀世さん(電話=12・98149・1996、メール=cintiakaito@gmail.com)まで。
ニッケイ新聞 2016年5月3日 グァタパラ農事文化体育協会(茂木常男会長)が7月16日午前10時より、同移住地中央公民館(Av. 12 de Janeiro, 377)で入植54周年記念の『入植祭』を行う。モンブカ墓地での慰霊祭の後、中央公民館にて記念式典などが開催される。 農産展では同地特産の鶏卵や蓮根が扱われるほか、17日正午から演芸会、カラオケ大会が開催され、コロニア演歌歌手の伊藤カレンさんらが舞台に立つ。 来社した茂木常男会長(69、山形)と高木正人副会長(67、島根)は、「入植祭を通じて近隣地域へも日本文化を伝承していきたい」として「一般以外にも、移住地を出て暮らす若い世代の参加も心待ちにしています」と呼びかけた。 問い合わせは同協会(16・3973・0016)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月29日 毎年恒例の「グァタパラ移住地祭り」が7月16日に開催されるにあたり、県連はバスツアーを開催する。参加費190レ、申込みは6月30日まで。 15日夜11時15分にリベルダーデ地下鉄前に集合、午前7時に現地着予定。同移住地の入植祭に参加する。 午後3時半に現地発、午後8時半にリベルダーデ着。朝食、昼食は各自負担する。 申し込み、問い合わせはグローバル・ツーリズモ(11・3572・8990)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月30日 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)の「代表者会議」が28日、文協ビル同会議室内で行われ、県連創立50周年記念式典、第19回日本祭りの議題を中心に、熊本地震災害義援金などの報告が行なわれた。50周年記念式典は当初9月18日に予定されていたが、8月7日に前倒しとなった。リオ五輪で来伯する日本政府関係者を招聘するためで、県連と縁の深い河村武夫衆議院議員が出席するという。 河村議員は山口県出身で自民党所属。麻生内閣では内閣官房長官等を歴任した政界の重鎮だ。県連創設の発起人で、日本海外移住家族連合会の会長を務めた故田中龍夫議員の地盤を継承した。川村議員も日系人との緊密な関係強化のため、「中南米の日系人を支援する議員連盟」を昨年設立し、会長を務めている。 本橋幹久元県連会長は、河村議員招聘を実現させた立役者だ。3月に本橋氏が訪日した際、同議員は9月出席に難色を示したが、県連を気にかけており、何とか出席したいとする意向は確認した。その後、在聖総領事とも密に連絡を取り合い、今回の再度の訪日で出席への確約を得た。 河村議員はこれまで5回ほど来伯経験があり、山口県人会訪問にも関心を示している。さらにリオ五輪では選手を送出す多数の県知事も来伯する可能性がある。来伯が確実な舛添要一東京都知事ほか、海外日系人協会代表者へも出席に関する交渉を行っている。 50周年式典会場には聖州議会の利用を交渉中で、州知事ら伯国側要人も招待する予定だ。同記念事業として、イビラプエラ公園の慰霊碑の整備や管理を強化するための基金設立を検討しているという。 また第19回日本祭り(7月8―10日、サンパウロ・エキスポ)については、資金面での厳しい課題があるが「今回の日本祭りが一つの分岐点となる。今こそ我々の結束が試される時だ」と山田県連会長は各県人会に対して、当日の運営ボランティアなどの参加を呼びかけた。 スポンサーからの支援については90%目処がついていると報告された。ただし今後、契約を締結するにあたって、来場者数やその属性別データなどが必要になるとの課題も提起された。 熊本地震災害については、熊本県人会の田呂丸哲次会長から「今もなお6万人が避難生活をしている。ふところは厳しいだろうが、小額からでも支援をお願いします」との呼びかけがあった。すでに義援金用口座が開設されている。 □関連コラム□大耳小耳 県連代表者会議では、リオ五輪開催時の日本人観光客の聖州での対応策についての報告もあった。14年のサッカーW杯での経験を踏まえ、各県庁からの宿泊施設問い合わせに対する情報提供や、24時間体制での日本語緊急連絡先を設置する。援協は期間中、24時間体制で事故・ケガなどの対応にあたるという。せっかくブラジルまで来るのだから、ぜひサンパウロの日系社会の様子も見ていってほしいところ。モジのお茶屋敷、移民史料館、東洋街、平野植民地、上塚公園、百周年を祝ったばかりのリンス市内観光などを組み合わせた団体旅行プランを日系旅行社が作り、日本からの観光客に売り込んでみたら?!
ニッケイ新聞 2016年4月30日 聖市ビラ・マリアーナ区の川魚料理専門店「ランショ・ダ・トライーラ」(Rua Machado de Assis, 556)は5月中、熊本地震の被災地支援のため、団体向け慈善サービスを実施する。オーナーの坂口功治さん(67、福岡)が27日、説明のため来社した。 先祖が熊本県下益城郡出身のため、「今回の被災はとても他人事だと思えない。何かできないかと考え、ピラルクーを使った支援を思いついた」と熱を込めて話す。 誕生日や結婚記念日など、16~20人の団体利用時に、熊本県人会を通じ売り上げの3割を寄付するという。ピラルクーの丸焼きにスープ、ファロッファなどを含むコースを1人100レアルで提供する。 約12キロのピラルクーを丸ごとバナナの葉で包み、炭火で4時間以上かけて焼き上げる名物料理。魚とは思えない濃厚な肉の味を堪能できる一品で、多人数での食事に適している。 坂口さんは「伯国でも食べたことが無い人が多い」と言い、「おいしいものを食べて被災地支援にもなります。皆さんぜひお越しください」と協力を呼びかけた。 実施期間は5月の日、月曜を除く夕食営業時。火~木は午後6~11時、金、土は午後7~12時。ただし祭日の26日は除く。問い合わせは同店(11・5571・3051)まで。 □関連コラム□大耳小耳 5月に熊本地震の支援サービスを行なう料理店「Rancho da Traíra」。ピラルクーは養殖に適しており、1年で10キロに成長し、また肺呼吸もできるため、少ない水でも飼育できるという。坂口さんは「飢餓問題を解決できる可能性を持った魚」と太鼓判を押す。コラム子も初めて食べたときに驚いたが、その魚肉は味わい豊かで、塩のみで調理していても「調味料は何を使っているのか」とよく聞かれるほどだとか。食べたことの無い人は、この機会に一度賞味してみては。
ニッケイ新聞 2016年5月3日 やはり地元の松本カルロス幸夫さん(52、二世)にも話を聞くと、かつては450ヘクタールほどメロン栽培をしていたが、今は300だという。「9割が輸出。理想は輸出7割、国内3割だな」という。聞けばピラシカーバUSP農学部卒のエリートだ。 父・松本トシロウさん(福島県)はコチア青年で1955年渡伯。最初は奥ソロのプレジデンテ・ベンセスラウに入植し、カルロスさんはそこで生まれた。父はプレジデンテ・プルデンテ在住。1994年にモソローに転住した。 「1994年」と聞いて「もしや?」と思い確認すると、やはりコチア組合で農業技師として輸出の仕事をしていたという。「父は1967年頃から85年頃までメロン作りをしていた。農業技師としてコチア組合から派遣されて、ジュアゼイロにもきた経験があった。だから、コチアが潰れた時、大谷さんから誘われ、父がメロン栽培していたのを思い出して勇気を出して決断した」と振りかえる。 モソロー在住1年という赤木寿弘さん(57、熊本県)にも話を聞いた。弊紙前身パウリスタ新聞記者だった赤木数成さんの息子だ。建設技師で、日本の小野田セメントで5年半仕事をしてセメント設計を覚え、機械の設計と据え付け、運転指導などのチームトレーニングを行う。モソロー工場の立ち上げのためにやってきたのだという。 興味深いことに、みな聖州から70年代以降に移転してきた組だ。それぞれの想いを胸に希望をもって新天地で挑戦し、見事に花を咲かせた。 ☆ ☆ 翌3月14日(月)の午前中、一行は大谷農場を実際に視察した。真っ青な空が広がる中、見渡す限りのメロン畑。その花の蜜を求めて、無数の蝶々が飛び交っている。 大谷さんは作業効率化を図るために「メロン収穫機」を自作した。15メートルほどのボーリングのレーンのような運搬機が畑を横切り、かがんでメロンを収穫した労働者がそのレーンに転がして放り込むと、先にあるトラックに次々に運ばれて、別の労働者が一つ一つ積み替えて行く。みるみる5メートル、10メートルと収穫機は進んでいく様に、一行はしきりに感心していた。 常時150人を雇用し、多い時は200人もいるという。気候的には年間7カ月間生産できる。一度に全部植えるのではなく、毎週少しずつ植えて70日後に収穫というやり方を延々と7カ月間、約30週間繰り返すのだという。最初に種まきした70日後からは、毎週の種まきと同時に収穫も並行して行う。サンパウロでは収穫できるまで100日間かかるというので、ここの気候はメロンに適している。80%は欧州輸出向きで、残りは聖州へ出荷する。欧州向きと国内では品種が違うという。 欧州でメロンが一年を通して消費できる秘密は、世界中から季節をずらして出荷されるからだという。ブラジルのメロン生産は8月から2月まで、2月から5月までがコスタリカやグアテマラなどの中米、5月から8月がイスラエルやスペイン、ポルトガル産が出回る。「最近はアフリカでも生産が始まっている」という。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月30日 懇親会会場であるホテルには入来田純一さん(67、福岡県)が来ていた。彼の父が同地最初の日本人、邦男さんだ。1961年に家族で渡伯、当時純一さんはまだ中学一年、13歳だった。「こっちにきて殆ど学校に行っていない。農業だって本格的に勉強したことない。父も日本から農業の本を取り寄せては勉強していた」。 鞍手郡宮田町に住んでいたという。「父は貝島炭鉱で働いていた炭鉱離職者でした。仕事を求めてブラジルに。母は最初の何年か、『日本に帰りたい』っていう気持ちが強かったと思う。でも、今になったらこっちが良かった」。そこまでの心境に到達するにはいろいろあったのだろう。 貝島炭鉱は1883(明治16)年に開発され、1976年に閉山するまで一世紀近くに渡って筑豊石炭産業を支えた。入来田さんが離職した1960年頃には、まさに日本の産業構造が石炭から石油に構造転換する時期だった。1957年から深刻な炭坑不況となり、1962、3年に閉山炭坑数はピークを迎えていた。 入来田さんは渡伯当初、マイリポランでポンカン栽培を目指し、そこでブドウや桃作りも始めた。次にピラール・ド・スルのコロニア・バンデイランテに移り、そこで16年間いたが「トマトの雑作もやった。にっちもさっちも行かなかった」。そんな時に、モソロー行きの話が突然、降ってわいたように出てきた。 「来るのに不安はなかったけど、いざ来てみたらビックリ。セッカ期(乾期)に来たから緑がないんだよ。いわゆる〃カーチンガ〃で石ころばかりの灌木地帯。当時は誰も農業適地だと思っていなかった。僕らも、こんなところで本当に農業ができるのかと、あの頃は思った。でも石を取り除いてみると、実は土自体は素晴らしいことが分かった」。問題は水だった。「最初800メートルの井戸を掘って、灌漑で作り始めた」。かなり深い井戸だ。 「父は土地を段々買い足して、5年後に大谷さんを呼んだ」。今では土地は六つの農場に分かれて3千へクタールもある。「作っているのはメロンだけ。一時は450ヘクタール植えたけど、今は300ヘクタールだけ」という。 会場には地元の鈴木アルマンドさん(78、二世)も来ていた。「サンパウロはどこに行っても日系協会があるけど、ここにはない」とキッパリ。聞けばパウリスタ線トッパン生まれ、聖州ではトマト作りなどをしていたが、30年前にモソローへ転住したという。 「サンパウロでは霜ですべてを失った。ここでは霜が降りない。だからここは良い」。今はスイカを栽培し、ドイツやオランダに輸出している。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月28日 北海道と東北6県人会の青年部「グルッポ東北・北海道」による『第12回慈善運動会』が、5月1日午前9時からコレジオ・マリスタ・アルキディオセサーノ(Rua Afonso Celso, 840, Vila Mariana)で開催される。 徒競走や綱引き、そして二人三脚やリズム体操など子供から高齢者まで楽しめる種目を実施。各種バザーと和食をはじめとした食料品の販売、和太鼓やよさこいソーランなどの出し物もある。 案内のため来社した北海道教会の薮内勇次実行委員長、佐藤竜也委員は、「会場は室内なので雨が降っても楽しめます。ご家族をお誘い合わせの上、お気軽にお越しください」と参加を呼びかけた。 入場料は5レアル、もしくは5レ相当の生活衛生用品。集められた寄付金と物品は日系福祉団体に寄付される。 問い合わせは北海道協会(11・5084・6422)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月28日 3月13日(日)午後、一行は北大河州モソロー市にあるホテル・テルマス・デ・モソローに投宿し、ゆっくりと温泉プールを楽しんだ。セアラ―州都フォルタレーザと、そのすぐ南に位置する北大河州都ナタルは約400余り離れているが、その中間地点だ。 夕方、同地で大規模メロン栽培をする大谷正敏さん(まさとし、68、愛知県)など、地元日系人が12家族いる中の15人余りが来てくれ、親睦夕食会を催した。 大谷さんはニコッと笑顔を浮かべながら、「生涯現役。90になったら畑でメロンと一緒にコロッと死にたい」と初対面の相手に何気なくいう。大谷さんは1960年、小学校を5年で中退し、両親に連れられて11歳で渡伯。最初はイビウナ、レジストロ、スザノなどを転々として、聖南西のピニャール移住地に落ち着き、17年間、家族でぶどう作りをしていた。 レジストロ時代は今も紅茶生産で有名な天谷家から500メートル、すぐ隣に住んでいたという。「子供の頃だから、裸足で学校に通っていたのを覚えているよ」。今ではモソローのメロン栽培は全伯的に有名になったが、70年代は誰も手掛けていなかった。 最初、セアザで「アチアイエンセ」という仲買店をしていた菊地軍平さんが北東伯を視察した折、大型農場経営をするモソロ・アグロインドゥストリア・リミターダ社から「資金は出すから、メロンを作る技術を持つ日本人を紹介してくれ」と頼まれ、知り合いだったピニャールの入来田(いりきだ)邦男さんに話を回した。 大谷さんの話では、同社の技師がスペインからもってきたメロンを食べて種を台所で捨てたら、自然に芽が出てきた。それを見て、「ここでもメロン栽培ができるはず」と思いつき、たまたまやって来た菊地さんに相談したようだ。 入来田さんは78年に、家族を連れてモソローに移り住んだ最初の日本人だ。そんなソグロ(義父)の話を聞き、5年後の1983年に大谷さんも移って来た。 大谷さんは「あの頃、資金がある人は皆、サンゴタルドやペトロリーナに移っていた。僕らはお金がなくて行けなかった。最初はブドウをやろうとおもったけど最初の収穫まで5年かかる。でもメロンは70日間。しかも大農場がメロン栽培の技術を求めていたから、僕らは収穫の何%をもらうという形で資金なしで始めることができた」という。 「ここにきて、日本人に生まれて良かったと思った。ジャポネースであるというヴァロール(価値)を再確認した。移民先輩の功績は大きい。その信用の恩恵をすごく受けている」と繰り返す。どういう時にそれを感じるのかと問うと、「日本人的には最初、借金をするのが怖かった。そんな日本人の真面目さは足かせになる。でもある時、借金取りから借金する事を覚えたんだ。借金取りから『借金払え』と言われた時、『もちろん払いたい。だからもう一回、来年の分も貸してくれ』と頼んだ。日本人だと信用してくれて貸してくれた。僕はそれから一回も遅れていない」との逸話を語った。 現在では3千ヘクタールの土地を持ち、うち800ヘクタールに灌漑設備を施し、うち毎年300ヘクタールずつメロン栽培をしているという。順繰りに土地を休ませながら緑肥を入れて輪作をしているという。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月27日 パ紙1954年1月15日付も、桜組挺身隊が前年11月から南聖のペドロ・デ・トレード、イタリリー、アナディアス方面に現れ、《「無料帰国」をエサに相当額の金子を搾取しているとの情報がある》と報じた。 詳しくは《これらは相変わらず「祖国救援のための帰国」を説き、無料乗船の交渉は我々が行うといって、希望者から一人当たり二コントを徴収したのち、土地、家屋などの不動産は日本政府が絶対保証することになっているので、不動産売却に必要な委任状を貰いたいと、アナジィアスのタベレオン(公証人役場)を通して約百人の邦人から白紙委任状を取った後、十二月中旬に無料乗船券獲得には、ぜひ本人の出頭が必要である…とその出聖を促して行ったので、同月二十日頃には約八十人の無料帰国希望者が出聖した事実がある―》と書かれている。 まさに中村家が騙されていた手法と同じだ。この一連の事件のロンドリーナ版に巻き込まれていたようだ。 中村伯毅さんの妻・伯子さん(のりこ、77)の家族はマリリアだったが、やはり20年間近く、堀沢に騙されていたという。 「マリリアからテコテコ(軽飛行機)に乗って、あちこちの植民地の上から、報告を書いた紙を落とすんです。ペレイラ・バレットぐらいまで行っていました。半分ぐらいの家族は10年ぐらいにで辞めて行った」。 伯子さんの証言も同様に興味深い。「堀沢さんは『自分は特務機関だ』って言ってました。だから当時、うちの家族も戦後移民の話を信用しなかったんです。パウリスタ線にも騙されている人沢山いました。正直なものばかり騙されるんです。何月何日に日本からお迎えの船が来るからって。桜組挺身隊の事件が終わった後も、ずっとこっちの詐欺は続いていたんです」。 桜組挺身隊事件は1955年4月に、警察によってサントアンドレの共同生活地は解散させられて終わった。でも、その後も帰国手続き詐欺自体は続いていたというのは驚きだ。戦後移民は1953年から入り始め、55年には戦後最大の集団であるコチア青年も入り始めた。時代は大きく変わり始めていたが、地方部の一部では、まだまだ詐欺師が跋扈していたのだ。 中村伯毅さんの父と伯子さんの父中村真夫さん(さなお)が同船者だった関係で、1964年に結婚したという。 中村真夫さんは10年以上だまされた末、最終的にわざわざリオに住む堀沢の家族に会いに行った。そこで「オカシイ」と思うようになり、それから堀沢の言葉に疑問をもつようになり、最後は本人に問い詰めた。 「うちの父は堀沢さんと議論して、やっぱりオカシイと感じて『もう辞める』と宣言した。そのうち堀沢さんが亡くなり、1965年ぐらいにその繋がりは消滅したような感じです」。 つまり〃コロニアの戦後〃が終わったのは、戦後移住の大波が通りすぎ、東京五輪(1964年)も終わった頃だった。あまりに壮絶な話だ。 聖州、パラナ州を中心にあちこちに被害者がちらばっており、その実数は300家族、1500人以上は居たのではないか。にも関わらず、まとまった記録が残されていないのは、被害者が恥だと感じて証言を残してこなかったからだろう。中村夫婦の話を聞きながら、二人の勇気を心から称賛した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月26日 終戦後、数年が経ち、中村伯毅さんは子供心に「何かおかしい」と思い始め、父を問い詰めた。「僕は何回も『お父さんは騙されている。もう止めてくれ』と考え直すように、お願いしたが、父は聞いてくれなかった。僕がそんなことをいうと、父は母をイジメた。母はどちらの見方も、家を出ることもできない。辛かったろうと思う」 当時、中村さんは日頃の憂さを晴らすように柔道の練習に打ち込んでいた。「パラナ大会でも優勝し、全伯大会にも出たことがあった。2段だった」という。 そんなころ、決定的な父の一言が放たれた。「兄は6歳年上で日本生まれ、1歳でブラジルに来た。僕はバストス生まれでしょ。それで、ある時、父は僕に『オマエは敵国人だ』と言ったんです。堀沢に騙されていたんでしょ。子供心に本当にショックでした」。 堀沢憎さのあまり、「15、6歳の頃でしょうか。彼はDOPSに追われて、サントアマーロに隠れているという話を聞き、『そこまで堀沢を殺しに行こう』と決心したことまでありましたよ」と血気盛んだった遠い昔を思い出す。もちろん、決行はしなかった。 この「堀沢」という名前は従来の移民史にも新聞にもほとんど出てこない。いろいろ探してみると、ロンドリーナの重鎮が書いた『信ちゃんの昔話第8部、戦争と移民』(沼田信一著)に、若干の記述があった。《ロンドリーナ地方には堀沢某、川崎某、馬の目某、等々の分子が、勝組として相当長くうごめいていた様であった。従って勝ち組にだまされていた人達は、人生の相当長い間を無駄にしたのであった》(電子版70頁)。やはり、存在したようだが、フルネームが分からない。 ノンフィクション風に書かれた小説『大日本国民前衛隊、思想戦回顧録・前記』(1945年、多田幸一)にも、《斯かる情勢下にある聖州を遠方の火事視してパラナ方面には其の頃、堀澤なる者の手に依って盛んに帰国手続きが始まって居る事が聞こえて来たものであった》という部分がある。でも名字だけだ。 ニッケイ新聞の過去記事データベースでもネット検索でも、この名前はひっかからない。この詐欺師は、どうも謎の多い人物のようだ。 54年12月21日付パ紙「挺身隊を解散」記事で、ようやくそれらしい名前が出てきた。桜組挺身隊が〃同志〃としている《加盟者は一四七家族、一〇二五名(妻子を含める)であるが、、中には加藤、川崎事件に関連するもの、堀川文蔵の例の土地白紙委任状問題に関連しているものあり、思想的にはまったく統一をかき、貧困者の寄り世帯である》と書かれている。定かではないが、おそらくここに出てくる「堀川文蔵」が「堀沢」ではないか。 中村伯毅さんは男兄弟5人、女2人だった。「僕らが頑張って働くから、一番下の弟だけは大学にやらせてくれって、父のお願いした。だけど堀沢は『ブラジルの学校なんか行くことない』って反対したんだ。家族にポルトガル語が分かるのが出れば、自分が言っていることがウソだとばれるから困ったんでしょ」。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月23日 中村伯毅さん(ひろき)の話は、終戦直後に起きた「帰国手続き詐欺」だ。土地証書など一式をブラジル政府に預ければ、日本への帰国船の手続きをしてくれるというもので、その手続き料、必要経費などと称して毎月のように金をせびりとられた。 中村さんの両親は1929年渡伯でバストスに入植し、そこで伯毅さんが1934年9月に生まれた。10年間そこでいたが、戦争中にロンドリーナ市内から7キロの所に移り、コーヒー農園50アルケールを始めた。「日本人ばっかりすんどるルア(通り)があって、そこでは戦争中でも日本語しゃべっても何にも問題なかった」という。 「堀澤さんは東大卒の農業技師という触れ込みで、父は『彼が書類を作ってくれる。信用していれば、すぐに日本に帰れる』と大そう信用していた。土地財産再登録詐欺というんでしょうか。周囲の100家族ぐらいが彼に手続き代行のお願いをしていた」。中村さんの父は「覺」(さとる)と言い、福岡県八女郡出身、1965年頃亡くなったという。 帰国手続き詐欺の件は、あまり記録が残っていない。この機会にしっかり残そうと気合を入れて中村さんの話に耳を傾けた。 1945年末頃、「ブラジル政府が法令で、外国人移民が所有地を政府に提供したら、本国に送り返す手続きをしてくれる」という噂が流れた。「子供の頃の記憶だけど、堀澤さんが言ったことをはっきり覚えているよ。ミズーリ船上の終戦の調印式の写真を見せて、日本軍人は帯刀しているのに、米国人は丸腰。だから『日本は勝っている』と説明していた」。 思春期の頃の話だが、記憶は鮮明だ。「堀澤は普段、サンパウロにいて、1カ月に1回ぐらいやってきては報告し、お金を持って行った。でも、1年、2年と経つうちに、だんだん騙されていると気付き、辞めて行く人が多かった。数年で半分ぐらいに。でもうちの父はうまく丸め込まれて信じていた」と悔しそうにいう。 当時、日本は勝ったはずと思いこんだ人は多かった。「戦争中、父は薄荷をやって大分儲けたが、それも全部、彼に盗られた。手続きのためといって、彼はリオやサンパウロに頻繁に行き来し、『すぐ帰れる』と父は騙されて続けて、一年間の収穫を全部とられたことも度々。そんなことが20年間も続いたんですよ。同じく騙された人の中には、サンパウロに出て桜組挺身隊に加わった人もいました」という一節から、桜組との関連が疑われる。 1954年12月14日付パウリスタ新聞(パ紙)は連載《桜組挺身隊を探る2》の中に、こんな一節がある。《天野、吉谷らの首謀者「ロンドリーナ時代」は相当生活にも困窮していたといわれるにも関わらず、サントアンドレではハデな生活を営んでいた~》。つまり桜組挺身隊の首謀者、天野恒雄、吉谷(よしがい)光夫はロンドリーナに住んでいた。55年1月28日付パ紙には、吉谷のことを挺身隊の〝隊長〟と書き、《精神分裂症の兆候》と書いている。 さらに同連載には、《彼らは一斉検挙の際に、当局が押収した「献金簿」に十月中だけで四百三十余コントに達していたとの報道はあくまで一笑に付し、その百分の一でも今あれば大助かりだとうそぶく、その反面では「今まで各方面へ送った願書の翻訳料や請願のため代表を派遣した費用は相当に上る、殆どは人件費」だと言い金を費つたことだけは肯定する》という。 何気ない昼飯時に、壮絶な移民の歴史が語られるのは、まさに移民の故郷巡りの真骨頂だ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月23日 熊本県を中心とした地震発生を受け、ブラジル熊本県文化交流協会が22日、義援金用口座を開設した。 振込先はブラジル銀行リベルダーデ支店(Agencia=1196―7)、口座番号42479―X、名義は「Associacao Kumamoto Kenjin do Brasil」。 県人会事務局(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)でも、現金での受付を行なっている。また寄付者の名前を同県に報告するため、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原健児副会長は、「すでに事務局への直接寄付もあった」と素早い支援に感謝を示し、幅広い協力を呼びかけている。 熊本地震は14日夜、熊本地方を震源に発生。震度7を観測し、死者は48人、避難者は10万人近くに上っている。 問い合わせは同県人会(11・5084・1338)まで。
県民の窮状に県人会が立上がる 14日午後9時26分に熊本県益城町を震源地に震度7の地震が発生。現在も余震は続いており、死者59人、不明者13人、負傷者は千人以上(20日午前現在)にのぼる。この事態を受け、ブラジル熊本県文化交流協会(田呂丸哲次会長)では被災地への義援金募集運動を開始することを決定した。同県人会の田呂丸会長と清原健児副会長、日下野良武理事長、赤木数成書記が来社し、現在の状況を説明した。 同県人会では地震発生から2日後の16日、理事ら20人が集まり臨時理事会を開いた。田呂丸会長は「理事らと相談し、どういう形で母県を支援できるか意見を募った」と述べ、「県人会館を建設時に県からはかなり協力してもらった。また県人会では2年ごとに熊本県に訪問団を送っており、その際は各市町村から大変お世話になっている。みんなの気持ちということで義援金を送ろうということに最終的に決まった」と経緯を話した。 同県からの移民は震源地となった益城町周辺出身者が多い。田呂丸会長の問い合わせに熊本県庁国際課からEメールで返信があり、「まだ(地震そのものの)全体的な被害状況すら把握できておらず、移住関係者にどのような被害が出ているかは分からない」と連絡があったという。赤木書記は「妻の兄弟は全員熊本にいるが、連絡が取れず数日電話してようやく声が聞けた。家は倒壊していないようだが現在は避難所に避難しており、昼間自宅に帰ってきた時に偶然電話に出たようだ」と現地と連絡が取りづらい状況を話した。 19日午前現在で避難者は延べ18万3882人、避難所は855カ所に及ぶ。 すでに同県人会にはブラジル各地に住む同県出身移住者や子弟らから問い合わせの連絡が入っており、「待ちきれなくて会館にお金を持ってきた人もいた」と田呂丸会長は話す。 「熊本県出身者や県人子弟、留学生OB、研修生OBなど関係者一人一人が一つにまとまって、協力していかなければならない」と一行は決意を語った。 義援金受付の連絡先は同県人会「熊本地震」義援金募集係(Rua Guimarães Passos 142, Vila Mariana, São Paulo – SP,...
ニッケイ新聞 2016年4月20日 ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長らは19日朝来社し、「熊本県とは活発に交流を行なっており、大変お世話になっている。今こそ恩返ししたい」と真剣な表情で話した。清原健児副会長、赤木数成書記、日下野良武理事長らと共に来社した。 熊本地震発生二日後の16日午後、同県人会では臨時理事会を緊急招集し、義援金募集運動を決定した。「熊本の皆さんを元気づけたい。日系社会の皆様、日本と関係のある方、ぜひ協力をお願いします」と支援を呼びかけた。 臨時理事会には20人が参加し、義援金募集運動を決定し、現在、専用の銀行口座の開設を交渉中。義援金は同県人会事務所(Rua Guimaraes Passos, 142, Vila Mariana)に直接持参も可。寄付者の名前は同県に報告するが、銀行振込の場合はレシーボ送付が必要。 清原副会長によれば、日系社会からも熊本県を気遣う声は多く、遠くはベレンやポルト・アレグレから同県人会に電話で問い合わせが来たという。 赤木書記によると、県庁にメールを送っても返信がなく、フェイスブックを通じて連絡をとったという。また同県の知人に連絡をとったが、「生存を確認するために電話をかけた場合、携帯は通じるが、固定電話はつながらない人が多い。おそらく皆、避難所で待機しているのでは」と心配そうに語った。 本紙の取材に対し、プロミッソン在住の安永和教さん(69、三世)によると、熊本県玉名市の親戚は飲料水などが不足しているだけでなく、「家は無事だったけど、いつ再び地震が来るか分からないから、高齢者も車の中で寝ている状態」だという。 今回の地震では、熊本県益城町で現地時間の14日午後9時26分頃、震度7の強い揺れがあった。その後も16日未明に震度6強を観測、多数の家屋倒壊が見られ、一連の地震による死者は47人以上、県内の避難者数は10万人前後で推移している。 問い合わせは同県人会事務局(11・5084・1338)まで。 □関連コラム□大耳小耳 19日付のNHKニュース電子版によると、今回の熊本地震を受けて、米国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で18日、39の県人会から成る南加県人会協議会が緊急会合で義援金の送付を決定した。今後、他の日系団体にも呼びかけて義援金を募り、被災地に送るという。なお11年 3月の東日本大震災時には、18万米ドルを送っている。伯国の熊本県人会も義援金の募集運動を開始した。米国にならって、当地でも日系コロニア全体で協力し、被災地支援の〃輪〃を広げていっても良いのでは。
ニッケイ新聞 2016年4月21日 竹中芳江さんの家族の話は実に興味深い。「グァポレに到着した時、他の家族はみんな泣いていたけど、母だけは歌っていた。だってアマゾンにきて初めて、家族が全員そろって御飯食べたのよ。あそこにいた3年半で家族の団結が一気に強まった。ある時、日本の祖父から『旅費を全額負担するから日本に帰ってこないか』と母に連絡があったが帰らなかった」ということもあった。 3年半でグァポレを諦めて、二日がかりでクイアバに南下し、そこからサンパウロに出た。 「母はサンパウロで魚の行商をして生活を支えた。手相見はみんな『あんたたち夫婦は分かれる』と言ったが、両親は最後まで別れなかった。母は自分では『苦労した』とかまったく言わない人。そんなお母さんの勇気はすごいと思うの。私にその何分の一かの勇気があればイイなと、今でも思うわ」。肝っ玉母ちゃんというのか。すごい個性的な女性だったようだ。 良江さんの娘ロザナさん(55、二世)は今回の故郷巡りに関して「藤田十作が子供に日本人の精神を伝えたことが、息子たちの立ち振る舞いの上品さから分かった。ノルデステでも日本移民の歴史が残っていることが分かって嬉しい」との感想を述べた。 翌3月13日朝、わざわざブラジリアから参加した吉田富士子さん(67、高知県)に話を聞くと、「とにかく旅行が大好き。故郷巡りも4回目」とのこと。9歳の時、チチャレンガ号で家族移住した。「3年前かしら、トルコにツアー旅行したら、その一週間後にシリア内戦が始まって驚いた。なんといってもカッパドギアが凄かったわね。トルコじゃ全然言葉が通じないかと思ったら、現地人が『奥さん、奥さん』って日本語で言ってくるじゃない。ビックリよ」との体験談を披露した。 ホテルを出発した一行は、途中、アキハース地区で「カーザ・デ・ヘンデイラ(編み物の家)」という土産物センターに立ち寄った。そこでは母娘3代に渡ってセアラ織りをする名物女性マリア・ジウダ・モレイラ・メレイラさん(68)が、実演をしていた。目に見えない早業で、重りの付いた編み棒を左右に行き来させて編んでいく。 なんと1日で50センチしか織れないが、すでに1300メートル分も仕上げ、2千メートルを目指しているという。「ギネスブックに入れるのよ。母から教わって、娘にも伝えた。もちろん孫にも伝えるわ」と誇らしげ。 午前10時過ぎにはアラカチに立ち寄り、エビ養殖場「ミランテ・ドス・ガンボアス」を見学した。約33年前に創立し、630ヘクタール分の養殖池があるという。90日で出荷可能に育ち、毎日25トンを「Maris」ブランドで生産販売している業界最大手の一つだ。 そこで昼食時、フランカからの参加者、中村伯毅さん(ひろき、82、二世)と話をしていると、「父は終戦直後、ホリサワという帰国手続き詐欺師に20年間も財産を騙されていた」という驚愕の話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
14日午後9時26分に熊本県で発生した地震は震度7を記録。日本時間16日の午前1時25分頃には阿蘇山付近で震度6の余震が起きており、現地では予断を許さない状況が続いている。 熊本県人会の田呂丸哲次会長は本紙の電話取材に対し「今朝熊本県庁へメールを送った。まだ会員からの問い合わせはないが、16日に丁度理事会があるので、そこで意見や質問が出てくると思う。全員で話し合って今後の対応を考えて行きたい」と回答。 また「テレビで現地の様子を見て驚いている。あんな光景は見たことがない。日本は美しい良い国だが、震災がある恐ろしい場所でもあると改めて感じた」と話した。 続けて「2年前には熊本県内の13市町村を回り、地元の方々には大変お世話になった。手紙や物資など、何かしらを送りたいと思っている」と述べ、対応を検討していく。 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)では地震への対応についてはまだ未定だそうだが、熊本県人会からの要請があれば協力していくという。 サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月20日 12日の夕食時、大崎康夫さん(77、高知県)=ピエダーデ在住=に話しかけると、「僕は葉山村(津野町)出身、下元健吉と同じ部落なんです」との言葉にググッと心を引き寄せられた。 「川向いが下元の実家。子供のころから下元の成功譚を聞かされ、刺激を受けてきた。コチア組合の監事の川上嵩(たかし)さんが昭和25年頃に一時帰郷して、清酒を買ってきて二晩も村人を集めて大宴会をやったんです。当時は闇で焼酎を買って飲むのがせいぜいの時代でしょ。ブラジルはなんと景気がいいことかと、村中に強く印象付けました」と思い出す。 「源平合戦で平家が逃げ込んだような山奥だから、畑と言っても段々畑ばかり。畑の横幅より壁の高さの方が長いぐらい。当然、機械も入らない。戦後、アメリカの農業紹介の映画とかみて、外国に出て広い所で自由に農業をやりたいと思っていたところだった」。 1954年9月、中学を出たばかり15歳だった大崎さんは、親戚の呼び寄せで念願の渡伯。イビウナにあった親戚の農場で25歳まで働き、独立してピエダーデに農場をかまえた。「当時、ブラジル来るのは〃永遠の別れ〃だから、水杯ですよ。同じ部落から30軒も来てますよ。みんなイビウナ、サンミゲル、ピラールとかに入った」。 当時、年に一回「葉山会」という集まりがあった。葉山出身者の家に順繰りに集まり、親睦会を開いた。「下元健吉さんも来て、皆で一緒に酒を飲んだ。誰とでも気さくに話す人だった。コチアが続いていたら、コロニアも違っていただろうと思うよ。コチアが解散してからコロニアもバラバラになってしまった」。 1986~90年の頃、バイーア州バレイラスのセラード開発に入った。「開拓が終わって、あとは肥料を入れて種を植える段階になった時、組合に融資申請したら『自分の力でやれ!』との返事。当時はインフレ率1千%の時代、銀行から借りたら大変なことになる。涙を呑んで撤退せざるを得なかった。広い土地でいい勉強をさせてもらったよ。50万ドルぐらい突っ込んだかな。今は柿と栗だけ続けているよ」と豪快に笑った。 参加者一行にこそ、玉手箱のようなコロニアの歴史が詰まっていると実感させる話だ。 別のテーブルにいた一行の竹中芳江さん(旧姓北川、74、熊本県)にもとに移り、話を聞き始めると、なんと「グァポレ移民」だという。北伯のロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ(旧グァポレ)移住地のことだ。戦後移住が始まった翌年1954年に12歳で家族と入植した。 何気なく「なぜ移住を決断したんですか?」と問うと、「両親は韓国からの引揚者なんです。父は何人も使用人がいるような金持ちの家庭に育ち、サント(聖人)のような人だった。ただし、かけ事が好きで、競馬、競輪に目がなかった。私たち兄弟6人をほったらかしにして、週に1回しか風呂に入れてくれないような生活。母(北川房江)は『こんなだったら私は出て行く』って。ブラジル移住は母が言い出して決めたの。母は父のかけ事癖を辞めさせるためにアマゾン移住したんじゃないかしら。だってアマゾンにはないでしょ、かけ事するようなところが。移住が決まった時、母は布団の上をキチガイのように飛んで喜んでいた」という驚くような話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)
慰霊祭有志一行はピウン植民地を後にし、午前10時ホテルに戻った。ふるさと巡り一行は同11時にホテルから出発することになっているので、記者は最後の1時間だけでも自由時間を取りたいと思ったが、なんだかんだと時間はあっという間に過ぎ、ホテルを出発した。レストランでの昼食後、時間があれば「プライア・ドス・アルチスタス」の見学だったが、先を行く第2グループのバスが空港についていないという連絡を受け、時間に余裕を持つため空港に直行となった。 午後2時45分頃サンゴンサーロ・ド・アマランテ新国際空港空港に到着。2年前にできたばかりの空港は真新しく、近代的なデザイン。周囲には森林が広がる。フォルタレーザから一緒だったバスの運転手ともここでお別れ。旅行中、記者は彼らと一緒に温泉で遊んだり、何かノルデステ地方土着の魔術のようなものをかけられたりと交流する機会が多かったので別れるのが名残惜しかった。 チェックインをし、飛行機は予定通り午後5時13分に空港を離陸。第3グループはリオで乗り換え、同11時グアルリョース空港に到着した。グループの何人かはここから直接帰宅し、残りのメンバーはバスでリベルダーデへ向かい、現地解散となった。 全行程を終えた玉城道子団長は「病人も事故もなく終了できて良かった」と安堵の表情。 仲曽根正信さん(72、沖縄)は「フォルタレーザに日本庭園があるとは思いもしなかった。ノルデステ地方の日系人と交流できて良かった。映画やテレビでよく見るカレカ丘を見れたのも思い出の一つ」と旅を振り返った。 大崎康夫さん(77、高知)は「クラッシャーに出身地だけでなく、現住所も書かれていると参加者同士の話がもっと盛り上がるのでは」と今後改善して欲しい点を挙げた。(おわり、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月20日付
