06/03/2026

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ナタールでは、1年のうちに雨が降るのはわずか1週間程度だという。最終日は朝から大粒の雨が降るあいにくの天気となった。この日はピウン植民地での慰霊祭の予定だったが、前日の交流会の帰りが遅くなったことに加え、連日の予定を早朝からこなす参加者らの疲労度を考慮して有志のみが参加ということになった。 午前7時半ホテルのエントランスに有志18人が集合、同植民地へと向かった。 慰霊祭は、同植民地に住む松苗賢治さん(72、神奈川)の敷地で行われた。入植時に日本政府から与えられた13ヘクタールの土地と植民地を去った家族の土地の一部を含むという敷地は広く、たくさんの植物が生い茂り、釜戸まであった。 ピウン植民地には1956年に10家族が入植した。メロン栽培で成功したが水害などが続き、ほとんどの移住者は違う土地へと移って行った。現在は2家族しか残っていない。前日の交流会で出会った宮川富男さん(77、長野)は1年後の1957年に入植したが、「日本を出る時は、とにかく果樹がよくできると聞いていた。しかし来てみたら果樹ではなく、ブラジルの果物のカジュだった。思っていた土地とは違うなと思った」と同植民地について話していた。 慰霊祭はキリスト教形式で行われ、慰霊祭後には玉城道子団長から松苗さんに県連の事業報告書と日本祭りのパンフレットが贈られた。 松苗さんは8人兄弟の末っ子として生まれ、11歳の時も一家でピウン植民地へ入植した。父親は常々小さい日本ではなく、どこか広い国へ行こうと話していたとし、長兄や姉と相談しブラジル行きが決まったそうだ。 入植後は農業を始めたが上手くいかず、養鶏を始めた。しかし、何をしても上手くいかなかったため、兄姉は同植民地を出て行った。松苗さん自身はペドロ・ブラスで定年まで働き、現在も夫人のジゼルさんと2人で住み続けている。 「はじめはポルトガル語が分からず困ったが、ナタールの人は皆親切だったからいつも助けてくれた。苦労という苦労は感じたことがない」と入植当時を語ってくれた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月19日付
記者個人としては、ナタールでのリオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会で、本紙読者である請井正治さん(79、静岡)と出会えたことが印象深い。サンパウロから3000キロ離れたナタールでも本紙を読んでくれているとは、ありがたいことである。新聞が届かないことがあることと、誤字脱字が多いことのお叱りを受けてしまったが……。 請井さんは、第1次7回のコチア青年団員として1957年に「ぶらじる丸」で移住してきた。「特別希望や目的はなく、漠然と『日本にいてもなぁ』という思いがあって」ブラジルに来たという。 サンパウロ州ソロカバに入植後、みかんやジャガイモ栽培に4年間従事。「今思うと4年もいる必要はなかった気がするけど、僕は真面目でね」と話し、今でも嘘や人を騙したりすることは苦手。「ブラジルだとそれではダメなんだけどね」と笑った。 フォルタレーザに1年いた後、ナタールには1962年に移転して来た。「非の打ち所がないくらい、ナタールが大好き」と語り、54年間暮らしている。父親が百姓をやっており、農業が嫌で日本を飛び出したはずが、ソロカバの時からずっと百姓として働いてきた。これまで苦労したこともあるが、苦労と思ったことはない。結婚した当初はお金がなく、銀行への返済期限近くになると眠れない夜もあった。「やっぱり真面目なんでしょうね」と苦笑する。 最初の夫人をガンで亡くし、10年前に17歳年下の現在のマチコ夫人と再婚。「本当に再婚して良かった。俺は一人でやっていけないよ。ご飯も何でも美味しく作ってくれるし」と2人の生活に満足そうだ。 「人生で苦労は、少しはした方が良い。嫌なことがあると前向きになるのは難しいけど、それをバネにすれば良い結果がついてくる。人生は悲観するより、前向きに考えた方が得」という、人生観がブラジルでは必要なようだ。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月16日付
ニッケイ新聞 2016年4月15日 「熊本県庁と連絡を取っているところ。詳しい状況が分かり次第、臨時理事会を開く」――熊本県益城町で14日午後9時26分頃、震度7の地震が発生したことに関し、ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長は、取材の電話に息せき切ってそう語り、「とても心配している」と繰り返した。 同会長のもとには、朝から心配のあまり連絡してくる同県人会員が絶えず、冒頭のように臨時理事会を開いて何らかの対応をとる心構えだ。 熊本出身で伯国在住34年のジャーナリスト・日下野良武さんは、「テレビのNHKニュースで地震を知り、すぐ県内に住む姉に電話した。幸い誰もケガは無いが、余震が続いており、家具が倒れる危険があるため近所の人とともに外に出ていた」とホッとした表情を浮かべた。 24歳まで熊本に住んでいた日下野さんは、「知る限りでは、これほど大きな地震は初めて」と話し、「熊本からは大変多く移民が来ており、みんな心配している。被害が少ないことを祈っている」と沈痛な面持ちで語った。
ニッケイ新聞 2016年4月15日 一行のうちで最長老、92歳でしゃきしゃきと歩き回る武田勝喜さん(熊本県)は、14歳の時に渡伯した。「一緒に住んでいた叔父さん(父の弟)が結婚し、『どうしても移住したい』っていうんです。それには『働き手が3人必要』との条件があったので、僕が入れば構成家族ができた。だから5年したら帰る、一儲けしたら帰るという話で来た。だから来たばかりの頃は日本に帰りたかった。親、兄弟が懐かしくてね。いくら想っても帰れない。そのうち戦争が始まって、それどころじゃなくなった。帰れないのは辛かった」と遠い戦前を振り返る。 「ところが戦後、42歳の時にPL教会の関係でようやく訪日した。郷里の友人の家に挨拶にいったら、友人は二人とも戦死していた。友人のお母さんは『まあ、立派になって! ブラジルに行ったから命拾いしたんだね。うちの子は戦争にいって二人とも…』といって、僕に抱き着いて泣いたんですよ」。 それから友人の母と共にお墓参りした。「そしたら、僕と同年代の友人の多くが、お墓に葬られていた。うちの村から戦争にいったものはほとんど全滅。友達はほとんど生き残っていなかった。村中がお爺さん、御婆さんばかり。それをみて、僕も涙が止まりませんでいた」と振りかえる。 「だから今は、ブラジルに来てよかったと心底思いますよ。今までに7回日本にいった。来年もう一回行こうと思っている」とほほ笑んた。 12日午後3時、一行は恒例の「ふるさと」を全員で合唱し、セアラ―州日伯文化協会から集まった地元日系人60人と別れを告げた。その時、マイクで「ふるさと」を歌って先導したのは、武田さんだ。あの元気さなら、再訪日はきっと可能だろう。 田所マリオ第2副会長に聞くと、一行が日陰にしていたマンガ―の大樹3本は「藤田家がこのシッチオを50年前に買った時に植えたもの」と教えてくれた。藤田十作もこのマンガ―の樹の下で、人生を振り返り、敢えて生涯一度も帰らなかった「ふるさと」について想いをめぐらしたに違いない。 ◎   ◎ 夜の食事時、たまたま同じテーブルに座った一行の市田邦彦さん(75、広島県)は、聖州とミナス州の州境ソコーロ在住で、町唯一の画廊「Galeria Ichida」(電話=19・3895・2322、)を経営しているという。 県人会の呼び寄せで61年渡伯。最初のパトロンがソコーロに住んでいて、独立してもそのまま住み続けている。同地には日本人会も存在しないという。 「2008年、移民百周年を記念して個人的にオープンしたんです。ただの趣味ですよ。具象画を中心に100点ほど所蔵しているうち、上永井正、ドゥリヴァル・ペレイラなど80点を展示しています」という。入場料は20レアル。 「ぜひ見にきてください」と薦める市田さんの腕は、農業者らしく筋肉が張っている。人口4万人の地方都市で、趣味で画廊を経営するとは、いろいろな戦後移民がいるものだ。(つづく、深沢正雪記者)
ふるさと巡り一行の松本ヨランダさん(72、2世)は、リオ・グランデ・ド・ノルテ日本ブラジル文化協会との交流会会場で、幼い記憶を呼び起こす人物や奇しくも遠い親類に出会った。 同協会の会員で、ナタールで海老養殖をしている曽根原マリーザさんとの会話で、マリーザさんの祖母がサンパウロ州ジェツリーナに住んでいると聞き、父を思い出した。ジェツリーナという町は熊本県からの移民が多く、1926年に「らぷらた丸」でブラジルに移住した熊本県出身の松本さんの父もジェツリーナに入植。松本さんはジェツリーナ近隣のプロミッソン生まれだが、幼い時に父親から聞いた昔話とマリーザさんが祖母から聞いた昔話がよく似ており、懐かしい気持ちが蘇ったという。 また、同協会の青木ミルトン会長との会話では、青木会長の両親が福岡県大刀洗村(現=大刀洗町)で松本さんの遠い親戚であることがあることが判明した。 松本さんの母親も同村出身で旧姓は平田。同村では江戸時代に徳川幕府がキリスト教を禁じた後も、隠れキリシタンとしてキリスト教信仰を続けた村民がいたという。平田家と青木家こそがその隠れキリシタンの家系であり、「ブラジルで平田家と青木家と言えばほとんどは親戚と聞いている」と松本さんは話す。 松本さんは早くに母親を亡くし、平田家との付き合いは疎遠となったため、自分自身が隠れキリシタンである平田家の子孫という確かなことは分からなかったという。ただ、時折平田家の人間と会うと親戚筋の話をよく聞いており、その親戚を青木会長が知っていたことから「間違いなく親戚だろう」と青木会長は結論付けたそうだ。 「参加するのは2回目だけど、ふるさと巡りはすごいなとつくづく感じた。本当にすごい」と思わぬ親戚との出会いに、松本さんは驚きを隠せない様子。「言われてみれば見たことがあるような顔。父がよく『福岡の面(つら)』と言っていたが、そういう顔をしている」と笑い、「父も早くに亡くしたので、ここで色んなことがつながりジーンときた」と感激の面持ちだった。 青木会長はサンパウロ市の福岡県人会によく顔を出しているそうで、「サンパウロでの再会を約束しました」と松本さんは笑顔で話した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月15日付
東京都友会の尾和義三郎新会長と坂和三郎前会長が来社し、会長交代のあいさつと定期総会の報告を行った。 坂和前会長は2004年から6期12年会長を務め、今後は名誉会長として同会を支えていく。12年間を振り返り「私が会長就任当時は東京都からの援助金で会は成り立っていたが途中から打ち切られ、管理費など経費を捻出しなければならなくなった。その時『次世代に引き継ぐには財政をしっかりしなければならない』と感じた」と話し、会の運営費確保に努めてきた。現在は安定した運営ができており「役員らが安心して活動できる」と胸を張った。 続けて「東京生まれの人は故郷という意識があまりない。そんな中で会を継続させるため色々と考え頑張ってきた。当会は東京を愛せる人なら誰でも入れる都友会。県人会も将来的には県友会のように変わっていくのではないか」と予測した。最後に「今後は関東ブロックが結集して若い人を取り込んで頑張ってもらいたい」と新会長を励ました。 尾和新会長は「今年はリオでオリンピックがあり、次の開催地は東京都。都知事など関係者が多く来伯するこの機会に親交を深めて行きたい。加えて東京都はサンパウロ州と友好提携を結んでいるので、両自治体の親密化も図りたい。そのためにかつての県費留学生や研修生に会に参加してもらい、若い人たちのアイデアをどんどん採用して東京とサンパウロの距離が近づいてくれれば」と就任の抱負を語った。 3月28日には2016年度の定期総会が同会会館で行われた。昨年度の収入は11万4017・07レアルあり、支出は8万1157・19レアル、3万2859・88レアルが繰り越された。 新役員は次の通り。(敬称略) 名誉会長=坂和三郎 会長=尾和義三郎 第1副会長=山下リジア 第2副会長=林慎太郎 第1書記=佐々木佳子 第2書記=森原クリスチーナ 第1会計理事=鈴木壽 第2会計理事=早川エイジ 理事=大村順、神田アントニオ、小松パトリシア 監査役=岡田本子、島田マサオ、本田スジ、坂和由香了、高木ますみ、鈴木さゆり サンパウロ新聞 2016年4月14日付
愛知県人会主催で大分、滋賀、和歌山、長野県人会、笠戸丸協会共催の「第20回屋台祭り」が17日午前11時からサンパウロ市リベルダーデ区の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74)で行われる。 会場ではお馴染みの各県人会の郷土料理(トリ飯、近江肉うどん、お好み焼き、椎茸ご飯、みそ串かつ、ニシン焼き)11種類が販売される。またストリートダンスやベリーダンス、サックスと12弦ギターの共演など若者向けアトラクションが多く披露され、老若男女楽しめるイベントになっている。 案内に訪れた滋賀県人会の山田康夫会長、和歌山県人会の谷口ジョゼ会長、愛知県人会の沢田功副会長、笠戸丸協会の吉加江正健さん、大分県人会の伊東信比古さん、長野県人会の杉本みどりさんらは「屋台祭りは各ブロックの枠を越えて行う『ミニ・フェスチバル・ド・ジャポン』のようなイベント。気軽に来て郷土食を楽しんで下さい」と来場を呼びかけた。 入場無料。問い合わせは愛知県人会事務局(電話11・3241・2682)まで。 サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月14日 同協会メンバーの桜庭セルソさん(61、二世)は20年前に仕事の関係で聖州から移り住んだ。ブラジル民謡協会の故桜庭喜太郎さんは伯父に当るという。「現在の会員は100家族ほど。多いときには運動会に700人が集まったこともある。でも費用の問題で2年前に中止した。セアラー州立大学には日本語コースがあり、学生は200人もいる」と現状を説明した。 話をしているうちに、セアラー州唯一のコチア青年に出会った。永浦二郎さん(宮城県、2期1回)は宮城県立宮城農学寮出身。「東北で有名な全寮制の農学校。農家の子供が送り込まれて、ビンタをされながら厳しく教育を受ける」と笑う。 「海外で大きくやりたい」という夢を持ち、東北新報の広告でコチア青年を見て興味を持ち、親に隠れて応募したという。長野県で一カ月講習を受けて、1956年に渡伯した。「あの頃、日本はまだ食糧難、厳しかった。農家の次、三男に良い就職先なかった」。イタケーラの組合員の農場で4年間を務めあげ、1961年に貯めたお金で「ポ語勉強してブラジル全体を知ろう」と旅に出て、結局は最初の町に居ついた。 「55年前、セアラーには何にも野菜なかったんだよ。だからコチア組合から種を取り寄せて、色々作り始めた」――そこからコチア青年の孤軍奮闘が始まった。 「コチア組合からいろいろな種を取り寄せて、野菜を作り始めた」という永浦二郎さんだが、「葉野菜を作って市場に持って行っても、誰も食べないんだ。食べる習慣がない。藤田さんの店でもその頃は花だけ。野菜はやっていなかった」と愕然とした。 もともと消費されていた野菜はコエントロ、セボリンニャ、アルファッセだけ。「今でも60、70歳以上の人は、野菜食べないよ。だから、お店に来る人に食べ方を教えて少しずつ広めた」。以前、ベレンやトメアスーでも同じ様な話を聞いた。北東伯では特にその傾向が強かったようだ。 「あと、レバノン移民の金持ちは野菜を食べる習慣があった。彼らの農場で雇われて、しばらく野菜を作ったこともあった。今じゃ、野菜作りがいっぱいいるよ。僕は標高の高いセーラ・グランデで無農薬野菜を作っている。うちの店はお客さんでごった返してるよ。ノルデスチは作れば、野菜でも果物でもとても良いものができる。サンパウロより品が良いぐらい」と見ている。 故郷巡り参加者の一人、元県連会長の松尾治文協副会長(77、福岡)は、「今回福岡県人は14人も参加しているんですよ。地方の文協や日系人との交流は、本当に大事ですね」と交流を楽しむ祝杯を重ねていた。 その場でマイクを使って一行150人に、戦後移民最大のグループ「コチア青年」の参加者がいないか呼びかけた。永浦さんは期待してしばらく待ったが、誰も名乗り出る者がおらず、少し寂しそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)
リオ・グランデ・ド・ノルテ(北大河)日本ブラジル文化協会との交流会はホテルから20分ほどの所にある「エスパソ・ギンザ」で行われた。会場には同協会の会員12人、そしてナタール市の近郊にあるピウン植民地から北山初江さんが出席した。北山さんは現在95歳。1956年、「野菜を作るため」一家で他の10家族と共にピウン植民地に入植した。「来た頃は食べるものがなくて、最初は小さい土地に大根など日本の野菜を栽培していた」と当時の様子を話す。「言葉が分からず苦労した」と言い、仕事を終えた夜間に独学でポルトガル語を勉強し、少しずつ覚えていったそうだ。 移住して14年経った1970年には、主人を自動車事故で亡くすという悲劇に見舞われる。それでも「トマトやメロン、みんな一人で栽培した」が、野菜は作っても売れなかったため、花栽培に切り替えこれが成功。女手一つで子供7人を育て上げた。 一緒に入植した家族の多くはピウン植民地を離れ、現在残っているのは2家族だけとなった。北山さんは今も同地に一人で暮らしている。ただ半年前に足を悪くし、今は車いす生活。孫たちが面倒を見てくれている。この日も孫のアンドレさんが付き添って来場した。アンドレさんは「生活環境や、言葉など苦労がたくさんあったが、彼女は強い女性で、一人ですべてを成し遂げた。僕にとっても良い手本」と祖母への賞賛を惜しまなかった。 「たくさんの日本人、日系人が来てくれて嬉しい。知らない人ばかりだけど、同じ日本人。愛着が湧くね」と滅多にない日本人との交流に笑顔がこぼれた。会場では玉城道子団長が「150人も来て、皆さん驚いているかもしれませんね。この機会を利用して楽しんで交流をして下さい」とあいさつ。続いて同協会の青木ミルトン会長が協会の活動内容を一行にスクリーンを使って説明した。また青木会長からは北山さんを含む出席した会員一人一人が紹介され、それぞれあいさつをした。 その後出席者で炭坑節を踊り、最後は「故郷」を全員で合唱し、午後10時半交流会は幕を閉じた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月14日付
6日目。一行は午前8時にモッソロのホテルを出発し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州の州都ナタールへと向かった。道中、バスからはどこまでも続く、岩が突き出た緑の広野が見える。そこを過ぎると、人が住む集落がポツリポツリと点在していた。酪農農家らしき牧場があり、大都会サンパウロでは絶対に見られない牧歌的な景色だ。途中のラジェスで休憩となったのでバスを降り、周囲を散策すると馬が2頭放牧されていた。さらに、近くからは牛小屋の匂いがした。記者の実家の近くには牛の畜産農家があったので、すぐ分かった。これは懐かしい匂いである。 その後もバスは順調に走り、正午過ぎナタールへ到着。昼食後、バスでの市内見学となった。ナタールは思ったより都会だ。バスは街を通り抜け、真っ青な海を横目に2007年に開通したというニュートン・ナバーロ橋を横断。橋からはナタールの街が一望でき、都市部と森林地帯、ポテンギ川と海が共存する最高の景色がそこから見えた。 橋を往復した後、港とセントロ地区を通りナタール観光センターへ。センターの建物は19世紀末に建設されたもので、浮浪者の避難所、孤児院、刑務所と時代時代で姿を変えてきたそうだ。現在は観光センターとなり、民芸品の販売、ノルデステ地方伝統の音楽「Forro」のイベントなどが開催されている。小高い場所にセンターはあるので、テラスから美しい市内の景色を見渡すことができた。 センター内には民芸品を売る店が連なり、ここでも2日目同様に買い物に精を出す女性陣とベンチに腰掛け休憩する男性陣の対照的な姿を見られた。 センターを後にし、ポンタ・ネグラ海岸近くの土産物屋に移動。そこから遠くに見える、有名なカレカ丘をグループごとに見学。午後5時半、一行はホテルにチェックインし、同7時、現地日系団体との交流会へ出発した。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月13日付
ニッケイ新聞 2016年4月13日 5県人会と笠戸丸協会による『第20回屋台祭り』が、17日午前11時から聖市の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74, Liberdade)で行なわれる。午後3時まで。 今回のメニューは味噌串かつ、抹茶アイス(愛知)、トリ飯、トリ天、牛たたき(大分)、近江肉うどん(滋賀)、お好み焼き(和歌山)、椎茸ごはん(長野)、焼きニシン(笠戸丸)など。 出し物も和太鼓、盆踊り、ボサノバショーにビンゴやカラオケと盛り沢山。案内に来社した関係者は、「日本祭りの縮小版。色とりどりの和食を楽しんで」と呼びかけた。 問い合わせ先は愛知県人会(11・3104・8392)まで。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 高知県からブラジルへ移民として渡り、農業を営みながら、農園の日常風景や家族の姿などを収めた写真家、大原治雄さん(1909―99年)の日本初となる写真展が、今月9日、高知県立美術館で開幕した。 大原さんは旧三瀬村(現・いの町)出身で、パラナ州ロンドリーナで農園を経営しながらアマチュアカメラマンとして活躍。98年には初となる個展を開催し、大きな反響を呼んだ。日本での開催は今回が初。昨年には、外交120周年記念としてNHKのドキュメンタリー番組でも紹介された。 開幕式には約90人が参列した。ブラジルのコレアドラゴ駐日大使は「大原さんの優れた作品を日本で初めて紹介できるのは大変喜ばしい」とあいさつ。大原さんの孫、サウロ治夫さん(43)も「祖父はいつも家族の中心にいた。写真の数々は生きざまそのものだ」と語った。 展覧会では、40~60年代に撮影された作品を中心に、約180点のモノクローム・プリントが展示される。大原展担当の影山千夏学芸員は、「写真というかたちで、彼の育んだ豊かな実りを故郷高知に届けてくれた。愛溢れる大原一家の家族の風景と、おおらかなブラジルの自然の光景をゆっくりと味わってもらいたい」と語った。 同展は6月12日まで。その後、兵庫県の伊丹市立美術館、山梨県北杜市の清里フォトアートミュージアムも巡回する。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 1969年から姉妹都市関係を結ぶ聖市と大阪の交流事業として、聖市在住の大貫純さん(21、四世)が先月25日までの約2週間、親善大使として訪日した。大阪・サンパウロ姉妹都市協会主催。 大貫さんは埼玉県に生まれ、2歳まで生活した。一家で聖市に移った後も日本語の勉強を続け、日本語能力試験N1を取得。昨年の日本語スピーチコンテストに出場し、優秀成績を修めて親善大使に抜擢された。 小さい頃は、新幹線のジグソーパズルで遊んでいたという。両親や親戚から日本の色々な話を聞いて育ち、「自分が生まれた国に行って、今まで聞いた話をこの目で確かめたい」という期待とともに渡日した。 滞在中は大阪を中心に、防災センターや博物館なども見学。大阪城、金閣寺、仁和寺などへ観光にも訪れた。 サンパウロ大学で環境について学ぶことから、下水処理場の見学時に強い印象を受けたという。「大阪市には浄化施設が12カ所あるが、聖市には半分以下の5カ所のみ。浄化率も大阪の90パーセント以上に対し、聖市は6、70パーセントで違いを痛感した」との感想を語った。 到着翌日には神戸へ。メリケン波止場にある希望の船出像を見て、サントスの「日本移民ブラジル上陸記念碑」を思い出し、胸が熱くなったという。 神戸移民センターでは曽祖父が1920年に渡伯した記録を発見。「その96年後に、曾孫である自分が日本に来るとは」と感激した様子だった。 2週間を振り返り、「日本人は細かいところまで注意を払って仕事をしている。それを見習ならわなければ。いつかは日本の大学に留学してみたいし、出身地の埼玉も訪れたい」と笑顔で語った。
ニッケイ新聞 2016年4月13日 ルジアさんは「戦中のこの記憶は、家族のトラウマとして残ったわ。私たち子どもの服や本まで無くなったのよ。壊された家のドアや窓を直して、ようやく戻れるようになるまで、親戚の家の、土間の家政婦部屋に家族で住まわせてもらった。両親ががんばり、親戚が支援してくれたから、私たちは学校に通い続け、決して退学や留年はしなかった」と昨日のことのように鮮明に思い出す。 1942年、まだ6歳だったカピトン・フジタもはっきりと略奪の時を覚えている。「苦労して新築した家の中に何もなくなってしまって、『こんなになっては子どもたちに教育が施せない。もうおしまいだ』って、父は毎日泣いてばかりだった。明日にでも死ぬんじゃないか、というぐらいに失望していた」。 そんな時、15歳だった姉ルジアが先頭に立って家族を引っ張り、家業の立て直しをした。「僕らは父に『絶対に家は元通りになるから、お父さんも安心して』と説得し、姉は教会が経営する学校へ、僕はお金がかからない陸軍の学校に進学した」。 カピトンは17歳でフォルタレーザ予備校からアグーリャス・ネグラス軍アカデミー(AMAN)に進学し、中尉になってから軍籍を離れ、建設技師としての経歴を築いた。 カピトンは「陸軍学校の卒業式で、将官の印として短刀を授与された時、父は涙を流して喜び、強く僕を抱擁した」と思い出す。 セアラー州日伯文化協会は、カピトンが1970年に創立し、今も会長を続ける。手にするタブレットには、何千枚もの写真が入っており、次々に有名人と撮った記念写真を見せる。見覚えのある顔が写っていると思ったら最高裁判事のジルマール・メンデスだった。「彼とはアミーゴだよ」と笑う。「レナード・アラゴンもこの町に帰ってきたら、僕と昼食を食べるんだ」とも。 それだけの政界、法曹界、実業会での顔の広さが、公園実現の背景にあった。「どうしても父十作を顕彰したかった」と振りかえる。停滞している時期も長かった同協会だが、移民百周年を機に息を吹き返し、公園建築を実現させた。 ポーボ紙によれば、十作は子供らに次の3点を常々説いていた。(1)《天皇陛下は神の子》《日本国という大家族の父》という言葉の元は、おそらく天皇陛下を「現人神」と呼んだ時代の雰囲気、戦前の家族国家観「八紘一宇」を思わせる。さらに(2)《日本帝国は戦争に負けたことがない》(3)《年上を敬うこと》と。 とはいえ、実際にカピトンや姉と話した実感としては、〃明治の日本精神〃を感じさせるものは特になかった。唯一、藤田十作日本庭園に立つ四つの柱に鋳抜かれた文字「訓育」「我慢」「決心」「苦心」「献身」「根気」が、明治男がセアラーに遺した気概を伺わせるのみだ。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月12日 ルジア説ではこの時にアマゾン下りをし、最初はベレンに住み着いた。おそらく1920年頃だろう。 1922年頃に、友人の中国人に誘われてセアラ―に南下し、日本人が誰もいないフォルタレーザに居つき、近郊のプクリペにあるオタヴィオ・フロッター農場の菜園で働いた。そこで現地の娘コスマ・モレイラ(通称ネネン)と出会い、1926年2月に結婚、12月にルジアさんが生まれた。教会で式を挙げるために洗礼を受け、「フランシスコ・ギリェルメ・フジタ」と名付けられた。 1927年にフォルタレーザ市セナ・マドゥレイラ街に土地を賃貸し、菜園を経営、子供が次々に生まれた。 「父は死ぬまでスペイン語交じりのポルトガル語だった」。ルジアさんの話では、父十作は最初、野菜を作ってカロッサ(荷車)で市場に持って行って売り始め、花にも手を広げた。 「父は勉強しろ、と口うるさく言った。なんでも祖父は父が18歳の時に亡くなり、自分は勉強できなくて苦労したから、子どもにはしっかり勉強させ、同じ苦労をさせたくないと言っていた。おかげで私は歯科医、次のエジマール(没)は医者で血液銀行『富士』の創立者。その次のフランシスコ(没)も歯科医、マリア・ジョゼは教師、ニザロウは建築技師、最後のジョアンも建築技師になった」。 十作が単身で同市に乗り込んでから、一族はすでに約80人を数えるほどだという。日本人が他に誰もないこの町で、子どもをみな大学にやることは生半可なことではなかっただろう。最大の困難は戦争中に訪れた。 「一番大変だったのは、1942年8月よ。今でも昨日のことのように覚えているわ。昼過ぎに、学校に行く準備をしていたら、近所の人たちが押し寄せてきて『敵国人の家を壊せ!』って騒ぎ始め、苦労して2年前に新築したばかりの家だったのよ。それを全部壊された。金目のものはみんな取られ、窓枠からドアまで外して持っていかれたわ」と憤る。 1942年8月15日からの3日ほどの間に、ブラジルの商船がナタル沖でドイツ潜水艦に5隻も沈められた時だ。ナタルに近いフォルタレーザでも枢軸国側移民の商店や家が一斉に暴徒に襲われた。 この時、聖市のセー広場でも20万人が集まって反枢軸国大集会が行われた。その直後の18日、今度はアマゾン河口のベレン沖で、ブラジル商船が同様に撃沈され、ベレン市民が暴動を起こして、日本移民らを中心に枢軸国側移民が、トメアスー移住地に強制隔離されたことは有名だ。 「叔母さんが助けに来てくれて、セントロの親戚の家に連れて行ってくれた。ドイツ人の商店、イタリア人の靴屋とか、みんな壊された。私たち家族はこれですべてを失ったの。親戚の援助でゼロから仕事をやり直して…。大変な苦労だったわ」と生々しい証言だ。 ルジアさんの記憶は残酷なまでに鮮明だ。「母はその時に身重で凄いショックを受けたけど、11月30日に生んだ。父は敵性国人だからといって、牢屋には入れられなかった。でも毎週、警察署に出頭して所在証明をする必要があった」。 聖市やベレンは聞いていたが、フォルタレーザでもこのような被害を受けた日本人がいたことは、今回初めて聞く話だった。(つづく、深沢正雪記者)
交流会にはモッソロ周辺の日系人24人が集まった。代表してメロン栽培を営む大谷正敏さんが歓迎のあいさつを述べた。モッソロには日本人会のような団体はないそうだが、大谷さんは「日系家族は全部で10家族くらい。みんな仲良くやっています。先の移民が頑張ってくれたお陰でリオ・グランデ・ド・ノルテ州は日系人をとても大切にしてくれる」と当地の様子を話してくれた。続けて、参加したモッソロの日系家族一人一人をふるさと巡り一行に紹介した。 翌日は朝7時にホテルを出発し、大谷さんのメロン農場を見学。はじめに工場で収穫されたメロンの箱詰めの様子を見学し、保管庫など工場内部を案内された。農業関係者が多いからだろうか、見学の間中、参加者らは大谷さんを囲むように質問攻め。その様は、話題の政治家や有名人が報道陣に取り囲まれているようだった。その輪から少し離れて具志堅清吉さん(82、2世)も熱心に大谷さんの話をメモしていた。具志堅さんは主に野菜を栽培しているそうだが、同じ農家同士、何かと参考になるのかもしれない。ふと大谷さんに盛んに質問していた男性が気になったので「お百姓さんなんですか」と聞くと、「いや百姓じゃないけど、なんか興味があって」との返事。いくつになっても好奇心の塊というのは素敵なことだ。 その頃、女性陣は工場横の畑に飛ぶチョウチョウ観察に夢中。記者にはよく分からなかったが、シジミチョウやモンシロチョウが飛んでいたそうだ。 森下和代さん(75、福岡)「昔は額縁に入れて日本に送ったものよ」と教えてくれた。また畑の一角には昔ながらの汲み取り式のトイレが設置されており、移住当時を思い出したのか、参加者らは非情に懐かしんでいた。これもある種の「ふるさと巡り」だったと言えるかもしれない。 その後、工場から車で5分ほどのメロン畑へ移動し、収穫の様子を見学。最後に大谷さんから参加者に1個ずつお土産のメロンが配られた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月12日付
ふるさと巡り4日目。一行は午前7時半にホテルを出発し、一路フォルタレーザから約150キロの地点にあるアラカチへ。アラカチは「Cidade do colonial(植民地時代の町)」と呼ばれ、18世紀にポルトガル人移民が持ち込んだ様式の家屋や町並みが今も残る。道路には石畳が敷かれ、当時の雰囲気を偲ばせる。 バスは同10時過ぎ、アラカチにある複合施設「ミランテ・ド・ガンボアス」に到着。ここで海老の養殖所を見学後、レストランで食事となった。 レストラン内にある階段は展望台へつながっており、そこから海岸の方まで広がる視界いっぱいの海老の養殖所が見渡せた。養殖所では3つのグループごとに見学し、その後はお待ちかねの食事の時間。中にはてんこ盛りの海老を皿に載せた参加者も。旅を通して感じたが、参加者からの魚介類人気は非常に高い。特に海老の人気は高いようで、食事となれば海老を食べたがる参加者もいた。 午後2時にミランテ・ド・ガンボアスを後にし、1時間半かけリオ・グランデ・ド・ノルテ州のモッソロに到着。2泊する「テルマス・ホテル」には温泉施設があり、参加者らは早速水着に着替え、温泉で旅の疲れを癒していた。温泉は温度34度のぬるま湯から、最高52度の熱湯まであり、全6カ所。見た感じは日本の温泉とは違ってプールのようだ。実際、プールも近くに併設されており、他にもジムやビーチバレーコート、バーが隣設されていた。 記者は水着を持って行かなかったので、温泉に浸かるのは足だけ。水着に着替えたかつての美女たちの麗しい姿や「極楽、極楽」という表情の参加者、沈む夕陽を眺めて過ごした。一応、52度の温泉にも足だけ入ってみたが、慣れるまでは強烈な熱さ。その熱湯の中を泳ぐ強者の参加者もおり、のぼせはしないかとこちらがヒヤヒヤしてしまった。 たっぷりと温泉を楽しんだ後は、ホテル内のレストランでモッソロ周辺に住む日系人らとの交流会が同7時から行われた。(つづく、佐久間吾朗記者) サンパウロ新聞 2016年4月9日付
ニッケイ新聞 2016年4月9日 藤田十作日本庭園を2012年に訪れ、その存在を最初に記者に教えてくれたのは、元文協会長の山内淳さんだった。 彼からその時に受け取った資料によれば、フォルタレーザ市で発行されている新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号は同市に移り住んだ外国人家族の連続レポートの特集を組み、その第1弾として藤田十作を報じていた。 それは、ルジアさんの話と微妙に食い違う。同紙によれば藤田は1893年生まれだが、死亡時の年齢に確信を持つ娘の説(1890年生まれ)方が正しいだろう。 ルジアさんもカピトンも「ジュウサク」の漢字が分からなかったが、県連職員の伊東信比古さんからもらった『アグロ・ナッセンテ』誌のコピーには《一九二二年に、ペルーからアンデスの峰を越え、ボリヴィアを経てセアラ―州のフォルタレーザに移住した、熊本県八代市出身の藤田十作さん》との記述があり、それに従うことにした。 ポーボ紙によれば、家長が借金を残して行方不明になり、藤田家の土地が差し押さえられ、経済的危機に直面していた。居間に集まった母、4人の息子と二人の娘、親戚が緊迫した話会いをした結果、「長男を送り出して稼がせ、借金を返済する」ことが決断され、《まだ15歳だった十作が1908年にペルーへ送りだされた》と同紙にあるが、おそらくルジア説の18歳が正しい。 ポーボ紙の記事の最後には《ギレルメ・フジタはもう繁栄を成しとげた成功者で、穏やかな生活を送っている。日本に残った実家のことは片時も忘れたことはなく、何年か前、本人が遺産相続するはずの土地を贈与して、ようやく差し押さえを親戚に返済できたと語った》とある。 ポーボ紙から分かることは、父親が親戚から金を借りていたが、返せなくなって蒸発した。親戚は借金のカタに藤田家の土地を差し押さえたという図式だ。それを返済するために長男の十作が一人南米に旅立った。当時の移民には往々にしてある事情とはいえ、大変な覚悟が必要だったに違いない。 1912年にはペルーのチンタ・アルタ市で小さなレストランを開くほどの資金を貯め、土地を取り戻すための日本への送金を始めた。第1次大戦が始まって不況となり、レストランは倒産。最後の100クルゼイロ程度のお金を手にボリビアへ転住し、3人の共同経営者と共にホテルを購入して生活を賄った。《わずかな貯金ではあったが、その一部は必ず、実家へ送金していた。家族が恋しく心痛む孤独な夜は、幼いころのことを思い出しながら過ごした》とある。 そのボリビアも経済危機に陥り、商売も立ち行かなくなり、この国ではもう外国人にチャンスはないと決断し、ブラジルへ再転住を決意した。(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2016年4月9日 ブラジル東京都友会の定期総会が先月28日、東洋街のニッケイパラセホテルで行なわれた。2004年から会長を務めた坂和三郎さん(82、東京)が6期12年で退任。後任には尾和義三郎さん(75、同)が抜擢された。 坂和さんは就任当初を振り返り、「会費を徴収しない都友会にとって、最大の懸案事項は運営費の捻出。岩崎(秀雄)さんから引き継いだときには都の助成も打ち切りになり、非常に憂慮したことを覚えている。だが就任直後、運よく会所有物件の借り手が見つかった。貯蓄もでき安心して引き渡せる」と安堵した。 「役員、会員らが自然と集り協力するような雰囲気にしてほしい」と後進に託し勇退。新会長には1971年に移住した元パ紙記者で、現在はテレビ制作のコーディネート会社「南米通信社」で代表を務める尾和さんが就任した。 20年東京五輪に向け、リオ五輪には舛添要一都知事の来伯もある。同会にとっても重要な一年となりそうだ。7日、交代あいさつに来社した新会長は、「リオ・東京を結ぶ架け橋となるため、何かお手伝いできれば」と抱負を述べた。 なお、昨年に創立50周年を迎えた同会は、記念誌も作成中。最新版の都知事メッセージが到着次第、印刷へ回すという。都知事来伯に合わせ、リオ五輪までの完成を目指している。 昨年度の収入は約11万4千レ、支出は約8万1千レだった。今年度予算として収入約3万2千レ、支出約10万レと計上。所有不動産における借り主の家賃滞納により、大幅な赤字を見込んでいる。 新役員は以下の通り(敬称略)。【会長】尾和義三郎【副会長】山下リジア、林慎太郎【書記】佐々木佳子、森原クリスチーナ【会計】鈴木壽、早川エイジ【理事】小松パトリシア、大村順、神田アントニオ【監査役】正=島田政夫、岡田本子、本田スジ、補=高井まゆみ、坂和由香了、鈴木さゆり
8月のリオ五輪開催見据えて 在ブラジル大使館の梅田邦夫大使が3月31日にサンパウロ(聖)市を訪問し、同日午前に来社した。梅田大使は、2016年大使館・総領事館の主要課題と「日系社会との連携強化のための施策」について説明。ブラジルの国内情勢と対外関係の把握、8月から開催されるリオ五輪・パラリンピック業務に向けた邦人保護に関する日系社会とのさらなる連携の必要性を提言、強調した。また、連携強化のための人的交流、日本語教育、日本祭り、医療、スポーツ関連など8分野について実施していく考えを示した。 梅田大使は16年度の年間スケジュールとして、既に2月に東京で開催された「日伯政治対話」や同月21日に実現した日本の陸上幕僚長の来伯などを挙げた上で、来年にブラジルからの陸軍関係者が訪日する予定があることを説明。また、今月13日に東京で開かれる日伯領事当局間協議では、特に出稼ぎ子弟の教育問題や日系4世以降のビザ問題などが取り上げられる予定だという。 8月から開催されるリオ五輪に向けて、日伯相互の観光客の行き来を増やす考えで、5月26日に三重県で行われる伊勢・志摩サミットでは、ジカ熱などの感染症や世界的なテロについての協議が行われる予定。 特にリオ五輪については、ブラジルを訪問する日本人選手団及び日本人観光客の邦人保護対策と選手への応援などを目的に、3月に発足されたリオでの第1回目の「リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピック連絡協議会」に続いて、今月中にサンパウロでも同様の連絡協議会を立ち上げるという。 また、リオ五輪開催期間中は文科省大臣、スポーツ長官、東京都知事など日本からの要人の来伯が既に決まっており、梅田大使は安倍首相や皇族の来伯の可能性もあるとし、「ぜひ、この機会に来ていただきたい」と依頼を行っているそうだ。 「日系社会との連携強化のための施策」について梅田大使は、(1)人的交流(2)日本語教育(3)日本祭り(4)日本食普及(5)医療(6)スポーツ交流における協力(7)日系団体及び個人への助成(8)制度面での強化・充実の8分野での施策があることを説明した。 (1)は2014年の安倍首相の来伯がきっかけとなり、各種招へいプログラムの受け入れが増え、JICA日系社会ボランティアが倍増している状況だ。(2)でも国際交流基金及びJICAによる施策で訪日研修なども実施。各州での公教育機関での日本語導入や草の根無償資金による日本語教育支援なども行われている。 (3)は、聖市で開催されている日本祭りが全伯の日本祭りの模範となっていることや、(4)では全伯日系団体の婦人部が中心となって日本食普及に貢献していることを高く評価した。 (5)は日系人医師の多いブラジルで、各地の日系病院を通じてセミナーや設備面での支援及び人材面での協力を行っていくという。 (6)は、柔道、剣道、野球、卓球、体操などを中心に各種道具などの寄贈のほか、施設拡充や専門員派遣などがある。(7)は、日本全体での補助金が減少する中、1967年から行われているJICA移住者・日系人支援事業は2015年度で約2500万円、移住者保護謝金制度(2001年度から開始)は約6000万円となっているそうだ。 (8)について梅田大使は、現在領事事務所となっているベレンとレシフェの総領事館への格上げ要求は16年度予算でも引き続き行っているという。 また、人的交流の今後の課題として日伯間でのワーキング・ホリデー(相手国の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労を認める査証制度)の必要性を挙げ、「10年、20年と長い目で次の世代につないでいき、人的交流の新しい枠組みを互いに知恵を出し合って積み重ねていくことが重要」と述べた。 サンパウロ新聞 2016年4月8日付