ニッケイ新聞 2009年6月11日付け 鳥取熟年大学は十七日午後一時からブラジル鳥取交流センター(ドナ・セザリア・ファグンデス街323)で六月の例会を開く。今回は老ク連のJICAシニアボランティア、貞弘昌理さんが講演する。参加費七レアル。一般の参加聴講を歓迎している。
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ニッケイ新聞 2009年6月10日付け 一九六〇~七〇年代に土地取得などのためブラジルに帰化した移住者の日本国籍復活運動が、再び活発化しつつある。県連顧問の羽田宗義さんを代表とする運動推進委員会が〇六年に活動を始めた後、一時停滞していたが、昨年終わりごろから国政関係者に要望を行なうなど新たな展開を見せ始めている。 日本国籍復活運動は羽田代表と獣医の井料堅治さん、ブラスビア旅行社社長の石井久順さんらを発起人として〇六年から始まり、署名活動を展開。〇七年にはそれまでに集まった約二千の署名簿を在聖総領事館を通じ扇千景参議院議長(当時)へ送った。それ以後、目立った動きはなかったが、「まだ続いていることを知ってほしい」と石井さんは話す。同委員会では、石井さんが昨年十二月に訪日した際、同郷の町村信孝元官房長官に同件について要望。さらに井料さんの従兄弟である小泉純一郎元首相や、日伯国会議員連盟会長の麻生太郎首相にも要望を行なっていく考えだ。今年五月には石井さんから町村議員に文書で重ねて要請している。日本人移住者の帰化は、農地を購入する際にブラジル国籍が必要だったことから、当時の農協中央会などにより進められたもの。企業でも社員の三分の一がブラジル人でなければいけなかったことから、進出企業関係者で帰化した人もいるという。石井さんのところにはこれまでに約千八百人から連絡があり、中にはマット・グロッソやアマゾナスからもあるという。「『日本のパスポートで一度帰りたい』という声を聞く」と関係者の心情を代弁する。さらに国籍復活が実現すれば、「次の衆議院議員選挙で在外投票を行なうことが可能になる」とも話す。石井さんの推測によれば、日本人移住者の帰化人は「ブラジル全体で二万人はいるのではないか」という。「この機会により正確な調査ができたら」と話し、関係者の連絡を呼びかけている。詳細は石井さん(電話=11・5573・6262または9992・8474、メール=ishii.brazil@gmail.com)まで。
井戸知事ら日伯有志出席して披露式 【東京支社】移民の四割を送り出した神戸移住センターが再整備され、三日、「海外移住と文化の交流センター」(神戸市中央区)として生まれ変わり、そのお披露目が行われた。神戸市では、一九二八年に設置された神戸移住センターの建物を「国内に現存する唯一の移住関連施設」だとして、兵庫県、日伯協会、経済界とともに同建物の保存運動を行い、国土交通省の支援を受け整備工事を行っていた。このほど整備工事が終了し、お披露目の日を迎えた。 移住資料展示室も常設 寄付者氏名の刻字プレートも この日のお披露目では、最初に記念式典が行われ、式典に招待されたブラジル日本都道府県人会連合会(県連)、ブラジル日本文化福祉協会(文協)、ブラジル兵庫県人会など在ブラジル団体の関係者ら移住関係者百五十人が出席した。席上、井戸敏三兵庫県知事、植中進神戸市会議長とともにブラジル側を代表し園田昭憲県連副会長が「移民二百年のスタートの年に開館したことは大変意義深い」と祝辞を述べた。 県連はブラジル国内で同建物整備のために寄付金六万七千レアルを集め海外日系人会館協力委員会に贈っていたが、式典で海外日系人会館協力委員会、西村正委員長(日伯協会理事長)がブラジル側と日本側で集められた合計一千万円の寄付金目録を矢田立郎神戸市長に贈った。 「海外移住と文化の交流センター」に生まれ変わった旧神戸移住センターは、建物はそのままに内外がきれいに清掃整備され、出席者たちは一様に「きれいになった」と喜んでいた。一階の入り口奥には県連が贈った二百六十キロを超える大きな紫水晶が飾られ、日本からの出席者はその見事さに感嘆の声を上げていた。 館内の移住関係資料展示室では、昭和初期の神戸の街並みを、地図・写真・絵葉書で再現してあるほか、移住者が渡航時に持参した荷物や、移住先国で使用した道具類の実物展示、また移民たちが出発前に寝泊まりした室内も再現展示されており、懐かしそうに見入る人もいた。 二階には整備のために寄付した人の名前を刻んだプレートが貼られ、出席者たちは、プレートに刻まれた自分の名前を確認していた。会館には新しくエレベータが取り付けられ、昇降が楽になり、お年寄りでも楽に見学できるようになった。これから神戸移住センターは、移住資料の展示や国際交流の殿堂として活用され、第二の人生を過ごすことになる。 海外移住と文化交流センター歴史 昭和三年(一九二八年)国立移民収容所として開設(後の神戸移住センターの誕生) 昭和七年(一九三二年)神戸移住教養所と改称 昭和十六年(一九四一年)神戸移住教養所を戦時閉鎖 ※戦時中は短期高等海員養成所などとしても使用された。 昭和二十七年(一九五二年)神戸移住斡旋所と改称して再開 昭和三十九年(一九六四年)神戸移住センターと改称 昭和四十六年(一九七一年)神戸移住センター閉鎖、土地・建物を神戸市が買い取る。 昭和四十七年(一九七二年)神戸市立高等看護学院開校...
北海道祭り名物の焼きニシン。昨年売れ残った教訓からか、今年は百尾少ない四百尾を仕入れた。予想を超える人気ぶりで、前売り券を買いながら食べられなかった人もいたよう。海老、イカ、タコなどが入った北海チラシは、昨年より百個多い三百三十個を完売した。かつて、産卵のために北海道に押し寄せたニシンは別名、春告魚(はるつげうお)ともいうが、サンパウロの寒い冬はまだ続きそうだ。
【神戸新聞】「旧神戸移住センター」(神戸市中央区山本通3)を改築した「神戸市立海外移住と文化の交流センター」の開設記念式典があった三日、移住者らが駆け付け、ブラジルなど中南米に船出したころを懐かしんだ。 「当時のつらかったことを思い出す」 同区熊内町一の井上克さん(89)は涙を流しながら、センター玄関の円柱を触った。七十七年前、期待に胸をふくらませてやって来た時も、「立派な建物だなあ」と触った円柱だ。 岡山県出身で、一九三二(昭和七)年、姉の家族ら六人が移住することになり、「ブラジルに行ってみたい」と決意。十三歳だった。センターに約一週間滞在し、移民船で五十六日かけてブラジルに渡った。しかし、たどり着いたのは荒れ地。義兄は移住のための借金を抱えており、生活は困窮の極みだった。「毎日泣きながら、かまぼこを作って売り歩いた」と振り返る。 その後、綿の栽培で成功。一九四六年ごろからは雑貨店を営んでいたが、一九五六年、「母が元気なうちにもう一度会いたい」と帰国した。貿易の仕事をしようと神戸に移り住み、建築会社を営んだ。 懐かしそうにセンターを見学した井上さん。「一人でも多くの人が訪れ、移住者たちの流した涙や汗、苦労を知ってほしい」と話した。 また、サンパウロから駆け付けたブラジル兵庫県人会の尾西貞夫会長(66)は「センターが、日本にいるブラジル人の交流の場になればうれしい」と期待を寄せた。(河尻 悟)
熊本県人会(小山田祥雄会長)は十四日午前十時から、同県人会会館(聖市ビラ・マリアナ区ギマランエス・パッソス通り一四二番)で先亡者追悼供養を仏式で行なう。 参加者は、位牌を持参して出席のこと。 また、同県人会では八月二日午前九時から、熊本県人会芸能祭を行なう。 「日ごろの腕前を披露する機会」と、各支部からの出演を呼びかけている。 申込みは、同県人会事務局(電話11・5084・1338)まで。
ニッケイ新聞 2009年6月9日付け ブラジル北海道協会(木下利雄会長)主催の「第十四回北海道まつり」が、五月三十一日午前十一時から北海道交流センターで盛大に開催された。当日は一階大ホールに机と百八十席分の椅子が並べられ、来場者はニシンの他、焼きイカやハマナス会(婦人部)が作る北海ちらしなど北海道の味に舌鼓。その他、手巻き寿司やいちご大福、あんみつ、ヤクルト林檎、どら焼きなどが販売された。約六百人(主催者発表)が訪れ、家族連れも多く大変な賑わいをみせていた。祭りの名物は北海道から取り寄せた「焼きニシン」。炭火焼きの香ばしいにおいが会場に立ち込める。十一時の開始直後から長い列が出来、午後一時過ぎの完売の時点まで客足が途絶える事はなかった。四百尾のニシンは北海道協会の「おやじ会」(壮年部)と「ひぐま会」(青年部)の面々が煙に燻されながら、一尾三百グラムのニシンを炭火を使い、焦げ目がつくまで丁寧に焼く姿がみられた。ニシンを食べた有村ノリアキさん(45、三世)は「川魚とは違う味で、大きくて美味しかった」と感想を語った。マスクをしながら煙と奮戦していた北野春男さん(40、四世)は「卵も入っているし、中まで火を通すのが難しい」と話す。自らも会場の中を足早に動き回っていた木下会長は「焼きニシンは八~九年前から始めた。率先して若い人に焼かせているが、回を重ねる毎に焼き方も上手になっている」と語った。会場ではビンゴ大会やYOSAKOIソーランも披露され盛り上がりをみせた。祭りの進行を務めたひぐま会会長の藤田高史エリオさん(29、二世)は「北海道の文化を大きくし、残していきたい一心で準備してきました。思いは二世も三世も四世も一緒」と語った。木下会長は「今年も大勢の人が来てくれた。若い人が百人位手伝ってくれて成功できた。ありがたい」と語った。同会にとって今年は北海道人移住九十周年、協会創立七十周年、会館落成十周年の節目。八月三十日の記念式典に向け弾みのついた格好で祭りを締めくくった。
ニッケイ新聞 2009年6月5日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(県連)が主催、七月十七日から開催される第十二回日本祭(フェスティバル・ド・ジャポン)。今年「環境」をテーマに開催されるのにあわせ、移民百周年を記念した植樹活動を進めるブラジル・ニッポン移住者協会と協力して「県連の森」作りに取組むことを決めた。「世界環境デー」を翌日に控えた四日、関係者に話を聞いた。来社したのは、県連の与儀昭雄会長、移住者協会の小山昭朗会長、松井英俊さん、河村武夫さんと、同協会と植樹活動を行なうオイスカ・ブラジルの花田ルイス副会長。百周年を記念して〇七年十月から始まった「21世紀の森」作り全伯植樹キャンペーン。全伯で多くの日系団体が参加しており、聖州立公園内に「日伯・友情の森」を設立。昨年六回の植樹事業など、今まで三万本ほどを植えたという。今回は、フェスティバル・ド・ジャポン開催を機に県連と同協会が協力して千本の植樹をする。「ブラジル県連の森」と名付けられ、「日伯・友情の森」内に作られる。植樹はフェスティバル終了後の予定。また、今年のフェスティバルでは移住者協会と県連、聖州・市政府、環境局、CESPが協力して環境に関する取り組みを紹介するテントを設置。環境に関するスライド上映や、パンフレット配布などの広報活動を行う。さらに、(社)国土緑化推進機構の協力を得て、二十万本の緑の羽根募金活動を同ブースで実施する。この活動では一本一レアルの募金を呼びかけている。今回のフェスティバルではゴミ処理にも力を入れており、県連ではJICAや姉妹都市提携で大阪市から技術を学んだ聖市の協力を得て、ゴミの仕分けを実施する計画だ。与儀会長は「フェスティバルを催すだけでも、二酸化炭素が発生し環境破壊に繋がる。県単位でゴミの整理やリサイクルをしていき、県連としても積極的に関わっていきたい」と語った。
ニッケイ新聞 2009年6月4日付け ブラジル熊本県文化交流協会(小山田祥雄会長)は十八日の「移民の日」に先立ち、十四日午前十時から同会館(ギマランエス・パッソス街142)で恒例の先亡者追悼法要を営む。同法要は二〇〇三年に始まり、現在まで続けられているもの。例年百人ほどが訪れるという。案内のため来社した小山田会長は、「先人の苦労を忘れないためにも、先祖の供養は続けていかないといけない」と話し、参加を呼びかけた。法要は仏式。同会では位牌を持参するよう呼びかけている。問い合わせは同会(11・5084・1338)まで。
ニッケイ新聞 2009年6月4日付け 【神戸新聞】国内で唯一残る移住事業の施設「旧神戸移住センター」(神戸市中央区山本通3)の改修工事が完了し三日、「神戸市立海外移住と文化の交流センター」として開館した。同日午後から一般公開される。午前中の記念式典では、ブラジル移民関係者ら約百五十人が施設の新たな船出を祝った。 旧神戸移住センターは一九二八(昭和三)年、国立神戸移民収容所として設立。七一年に閉鎖されるまで、移住者が出発前に宿泊、出国手続きや語学研修などをした。九四年に建物閉鎖後、ブラジルの日系人団体などから保存要望を受け、神戸市が二〇〇七年度から再整備に着手。名称を変更し、日本在住の外国人支援や国際芸術交流の場としても活用することにした。 式典で、ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲副会長(61)は「私も十四歳のときにここからパラグアイに渡っただけに感慨深い。移民にとってこれからの百年がスタートする年にオープンすることに大変意義がある」と祝辞を述べた。 式典参加者らは、移住者が寝泊まりした居室を再現したコーナーや、移住体験者のインタビュー映像などを紹介する「移住ミュージアム」を見て回った。 交流センターの入場は無料。開館は午前九時-午後十時(移住ミュージアムなど展示部門は午前十時-午後五時)。会議室などの貸し出しもある(有料)。同センターTEL078・272・2362(河尻 悟)
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 琉球民謡保存会ブラジル支部(仲村善正支部長)は七日午後一時から七時頃まで、「創立十五周年記念式典」(崎間達雄実行委員長)をリベルダーデのブラジル沖縄県人会館サロン(トマス・デ・リマ街72)で挙行する。当日は、沖縄の本部から久高友吉会長をはじめとする四人が祝賀のために来伯する。式典後は、約二百人いる会員が民謡、琉球舞踊、三線を舞台上で発表する。また、創立時から会を支え、四世や非日系人にも琉球民謡を広めるため貢献した故亀谷安雄さん、故照屋マリオさん、故安毛名信夫さんら六人に功労賞が贈られる。案内のために来社した仲村支部長、崎間実行委員長、山城パウロ理事は、「当日は、日本から来る先生方の独唱、合唱も聞ける滅多にないチャンス。こぞってご来場ください」と呼びかけた。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 【中国新聞】ブラジルとの交流を続けている広島日伯協会の創立三十周年記念式典が五月二十九日、広島市中区のホテルであり、カストロ・ネーベス駐日大使や日系人、ブラジルからの留学生、会員たち約百人が節目を祝った。一九七九年の発足以来の歩みをスライドで振り返った後、筒井数三会長が「〇三年、ブラジル・サンパウロに完成した県人会館の建設費用を負担するなど親善と交流を深めてきた」と成果を紹介。サンパウロの邦字紙「ニッケイ新聞」の高木ラウル社主は「現地でも協会の活動は高い評価を受けている」とたたえた。ブラジルにある広島県人会の大西博巳(ひろむ)会長たち五人に感謝状も贈られた。これに先立ち、ネーベス大使は「日伯関係―今後のビジネスチャンス」と題して講演。「バイオ燃料や情報技術などについて、日本とさらに協力したい」と語った。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 「おでんせ岩手へ―」。ブラジル岩手県人会(千田曠暁会長)は五月三十一日午前十一時から、リベルダーデの同会館で「第二回わんこそば食べ放題」を開催した。そばを目当てに約三百人が訪れ、大賑わいを見せた。午後から行われた「わんこそば早食い大会」には合計十九人が出場し、お椀に入った一口分のそばを二分間で何杯食べられるか競った。白熱した会場は老若男女の笑い声や声援で溢れた。女子の部は、二十代から五十代までの四人が出場。鹿児島県研修生の中村瞳さん(29)が四十二杯という記録を樹立し、ダントツで優勝した。二位を十四杯も引き離し、ガッツポーズの中村さん。会場を大いに盛り上げた。男子の部では、四人ずつ三回に分けて行われ、五十五杯の同記録だった長谷川嘉憲さん(30、横浜)と下向井稔史さん(21、兵庫)が決勝戦へ。予選を上回る七十五杯を飲み込むようにして平らげた長谷川さんが堂々の優勝。その食べっぷりに、「そばが間に合わない」と嬉しい悲鳴をあげるのは千田会長。長谷川さんは、地元横浜で行われたわんこそば大会で、三十分で二百十五杯を食べた記録を持つという。「勝負事は負けられないの一心でした。まだいけます」と余裕の表情だ。子供の部には三人が出場し、二十八杯を食べた中北ケイイチくん(11、三世)と辻・知念・セイキくん(14、三世)が決勝戦へ。必死に一分間で十八杯を口に詰め込み、最年少の中北くんが優勝した。昨年に続いて二連覇した中北くんは「嬉しい」と喜びを表し、トロフィーを受け取った。用意したそば五十キロ、おにぎり十五キロ、餃子六百個はほとんどなくなり、会場は午後三時過ぎまで賑わった。「皆さんに楽しんで頂けて良かった」とホッとした様子の千田会長。超満員の客への対応にてんてこ舞いだったスタッフも、「盛り上がって本当に楽しかった」と満面の笑みだった。
ニッケイ新聞 2009年6月3日付け 「第二十一回気仙沼海の俳句全国大会」開催にあたって宮城県の気仙沼地方俳句協会からサンパウロみちのく俳句会(栃沢千秋代表)へ参加の呼びかけがあったことを受け、中沢宏一宮城県人会長(65、宮城)と栃沢代表(94、岩手)が案内に来社した。今年で二回目の参加だが、きっかけは百周年式典のおり、中沢会長が気仙沼地方俳句会に対して、サンパウロ仙台七夕祭俳句大会への投句を依頼したことから。昨年の大会では日本から二人が第四位と六位に入賞した。応募は宮城県人会に二十六日までに送ると大会事務局に送付してくれる。投句要領は、当季雑詠三句一組で、誰でも応募できる。原稿用紙で応募すること。投句料は無料。送り先は、「ブラジル宮城県人会」(住所R.Fagundes,152 Liberdade Sao Paulo CEP01508-030)。問い合わせは同会(電話=11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け 九州八県の集まりである九州ブロックは、十七日午前九時から、ジアデマ市の沖縄文化センターの運動場で第七回目の親睦運動会を開催した。当日は天気にも恵まれ、リベルダーデから二台のバス、そして担当県である福岡県人会がスザノからバスを出すなど、のべ約八百人が来場した。まず、来年の担当県人会の小山田祥雄熊本県人会長が開会宣言。続いて国旗掲揚、先没者への一分間の黙祷、大会挨拶は福岡の南アゴスチーニョ会長、来賓には新しくサンパウロ文化福祉協会会長になった木多喜八郎氏、そして長くモジ・ダス・クルーゼス市長を務めた安部順二氏が挨拶した。ラジオ体操協会の指導員のもとにラジオ体操が行なわれ、日頃体を動かしていない人も、スピーカーから流れるラジオ体操に体を動かして楽しそうな様子。競技は七十歳以上の宝探しで始まり。すず割り、土産探し、おもしろいのは魚釣りで、昨年担当した佐賀県人会が普通のビン釣り競走では面白くないと、有明海に棲むムツゴロウをかたどって口に針金で輪を作ったものを、魚釣りの魚とした。昼休みには佐賀の健康体操、それとレキオス沖縄太鼓の演技、玉入れそして最後は綱引き、県人会対抗リレーで一日を楽しんだ。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け 在伯茨城県人会(小林操会長)は、五月三十一日午前十時から同県人会館で第二十三回敬老会を催した。約九十人が集まり、娘、息子や孫ら家族と訪れる人が多くみられた。黒澤儀人副会長の司会で始まり、小林会長は「集まってくださった方に感謝したい。杖をついてでも遠くから出席して下さった高齢者方の情熱に胸が熱くなる」と挨拶した。宮崎正弘モジ支部長、鈴木満枝婦人部長の挨拶が続き、七十五歳以上の出席者三十五人に祝儀を贈呈。小林会長から一人一人に祝いの言葉が送られた。男性最高齢の小橋健児さん(92、常陸大宮市)、女性最高齢の富田くにさん(93、常総市水海道)も元気に出席、会場で花束が贈呈され、小橋さんが謝辞を返した。その後は生田流の琴、尺八、三味線による演奏が行われ、「さくらさくら」、「故郷」、「七つの子」、茨城民謡「磯節」などが披露された。会場全体で合唱する場面も見受けられた。多くの人から、出身の茨城県を思い出し懐かしいという声が聞かれた。若松孝司さんの発声で乾杯後、昼食会へ。婦人部心づくしの寿司、刺身、煮物が出された。料理には茨城県名産のこんにゃくも使用。食事後は午後二時半ごろまでビンゴ大会で盛り上がった。健康の秘訣を聞くと、小橋さんは「西式健康法を五十年間続けていること」。富田さんは「毎日のんびりテレビを見、新聞を読むこと。若い頃はジョギングもしていた」という。「特に何もしていないけど」という武藤文子さん(83、常総市水海道)は、邦字紙を毎日楽しみにしているそう。中村千代子さん(91、旧上妻村)は「コーヒーにはちみつ、きなこを入れて飲むこと」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年6月2日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(与儀昭雄会長)は五月二十八日午後、文協ビル会議室で月例代表者会議を開催した。園田昭憲副会長の進行の下、木多喜八郎文化福祉協会新会長のあいさつがあり、先の会長選挙での礼を述べ、「日系社会のために尽くします。フェスティバル・ド・ジャポンの準備などで忙しいですが、頑張ってください」と語った。同じく会長選挙に出馬、惜敗した小川彰夫さんも会議を訪れ関係者へ謝意を表わした。また、今年は衆議院議員選挙が予定されていることから、在サンパウロ総領事館の飯浜輝雄相談員が在外選挙制度について案内。投票には在外選挙人登録が必要なため、飯浜相談員は登録促進への協力を呼びかけた。五月度事務局報告、四月度会計報告に続き定例の議題へ。本橋幹久副会長が十八日の移民の日法要・慰霊祭について説明した。イビラプエラ公園内開拓先没者慰霊碑での法要は、十八日午前十時半から同碑前で開催。当日は文協ビル前(入口を少し上った所)から午前九時~九時半に一般参加者向けのバスが二台出る。バスは先着順。同日午後一時半からは、文協大講堂で開拓先亡者追悼大法要が開催される。続いて園田副会長より二十一日開催の、県連主催マレットゴルフ大会の案内があった。「団体戦の五人に満たなくても、混成チームを作るためまずは応募を」と参加を呼びかけた。続いて、七月十七日から開催のフェスティバル・ド・ジャポンの予算について、大手銀行の協賛の返事を待っている段階と報告。合わせて各県人会に対し、参加費一千レアルの早めの納入を要望した。また、九、十日にセントロのCOVISA(R.Santa Isabel,181,10andar)でフェスティバルの衛生面について注意事項説明会が開かれることが連絡され、各県人会にいずれかの日程で参加するよう要請があった。また十八日午後二時からは、栃木県人会で規則の説明会も予定されている。その後各県人会から行事の案内などがあった。その際、園田副会長は「週末の行事は同じ日に重なる事が多く、参加したくてもできない場合が多い。予定はなるべく早く事務局に知らせて。今後、カレンダーを作っていきたい」と語った。次回の代表者会議は六月二十五日。このほか、六月三日に開館予定の「海外移住と文化の交流センター」(旧神戸移住センター、神戸市中央区)への寄付金で県連が受け付けた六万七千四十レアルが、本橋副会長から澁谷吉雄カワサキ・ド・ブラジル社長へ手渡された。
ニッケイ新聞 2009年5月30日付け 多くの移住者が日本最後の数日間を過ごした旧神戸移住センター。神戸市が中心となって同センターを「海外移住と文化の交流センター」として改修・再整備する事業に対し、ブラジル側に呼びかけられていた募金がこのほど締め切られた。ブラジルのほか、パラグアイからも寄せられた寄付は計約二十八万レアル。当初の目標額二千万円には及ばなかったが、個人・団体からの多数の寄付に対し、ブラジル側で連絡役をつとめた澁谷吉雄カワサキ・ド・ブラジル社長は喜びと感謝のコメントを寄せた。 六月三日に開館予定の「海外移住と文化の交流センター」(神戸市中央区)への寄付金は、昨年来伯した西村正日伯協会理事長(同協力委員会委員長)がブラジル側に呼びかけ。同センターに設置が計画されている在日ブラジル人や中南米の日系人を対象にした教育設備に充てられるものとして、昨年末から募金運動が本格化していた。ブラジル側ではカワサキ社ほか県連、文協、百周年協会が窓口となって募金を受け付けた。県連では五月二十八日現在で六百三十五の個人・団体・企業などから六万七千四十レアルが集まり、同日文協ビルで開かれた代表者会議の席上、本橋幹久副会長から澁谷社長に手渡された。県連が受け付けた寄付金には、沖縄県人会(二千レアル)など各県人会、南米産業開発青年隊協会、日本海外学生移住連盟ブラジルOB会など聖市にある各団体だけでなく、パナソニック・ド・ブラジル、モトベル重機販売、ヤンコール山本商会、岡島農工商亊、ホテル&レストランセンタロウスなどの企業、マナウスの西部アマゾン日伯協会、エフィジェニオ・デ・サーレス自治会など地方団体からのものもあった。文協、百周年協会で受け付けた募金額は、今月十三日現在で四万三千五百三十五レアルに上った。澁谷社長によれば、そのほか、リオの日系四団体から一万レ、パラナの日系団体から二万九千レ、パラグアイ日本人会連合会から二万五千レ、またヤンマー・ド・ブラジル社長、ブラジル日本商工会議所会頭などを務めた後藤隆さん(現商議所顧問)から五百万円の寄付があり、合計約二十八万レアルの寄付が集まった。澁谷社長はニッケイ新聞の取材に対し、「目標額に近づき、みなさんの協力に感謝する。昨年暮れにはほとんど集まっていなかったので驚き慌てたが、これだけ集まって大変良かった」と感想を語った。改修落成後の同センター内には、寄付者、または寄付者が希望する氏名が刻まれる。なお県連からは、園田昭憲副会長が落成式典に出席する。
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 駐ブラジル日本国第三代公使の杉村濬(ふかし)をブラジル移民政策へと駆り立てた背景には何があったのか――。杉村公使は一九〇五年四月にリオ州ペトロポリスに着任早々、ミナス・ジェライス州とサンパウロ州を視察し、「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」「伯剌西爾移民事情 附・貿易状況」などを提出。初代、二代目公使の珍田捨巳、大越成徳の否定的な報告とはうってかわって日本人移民導入に肯定的な内容だった。当時は北米における日本人排斥の動きの中、一八九七年にハワイ移民が上陸を拒否され、一九〇〇年には日本外務省が北米・カナダ移民を禁止した時代。日露戦争に勝利したものの十分な賠償金を得られず、国民の不満を抱えていた日本にとって、同報告書は明るい手を差し伸べるものだったと言える。「ブラジルは移住に適したところである」。報告書は政府によって刊行され、大阪朝日新聞に掲載されるなど、多くの人の目にとまった。「〃移民の父〃水野龍、〃最初の移住者〃鈴木貞次郎、〃最初の入植者〃隈部三郎、〃最初の商店開業〃藤崎三郎助、〃最初の一般渡航者〃三宅栄次郎。ここに挙げた者たちは皆、この報告書を読んで渡伯を決意した」(リオ州移民百年史)。一方の伯国側も、奴隷解放後の労働力として期待していたヨーロッパ移民が、劣悪な労働環境などの理由からつぎつぎに政府によって禁止されている。労働力確保の矛先が、大国ロシアに勝利した日本へと向いたのだった。杉村公使自身、一八八九年から二年四カ月、在カナダ領事館に赴任し移住促進のために働いたが、日本人排斥運動の風潮の中、忸怩たる思いで帰国している。ブラジル移民導入の条件は揃っていた。杉村公使があらゆる視察先で受けた歓迎ぶりは相当なものだったようだ。「通過したどの駅でも多数の群集が一行の到着を待ち構え、口々に『日本バンザイ!』と叫んだ」。リオ州移民記念史は半ページに渡って熱狂的なまでの歓待の様子を伝えている。さまざまな時流が合致し、その要を演じきった杉村公使。そして、赴任して一年一カ月後の〇五年五月十九日、ドラマチックなまでの突然の死。享年五十八歳だった。その死はブラジルでも偲ばれた。政府によって霊柩列車が特別用意され、ペトロポリスの公使館からリオへと棺が運ばれた。国葬といっていいほど敬意を払われたものだったという。 ▽ ▽ コルコバードの丘からリオの街を見渡すと、ポン・デ・アスーカルの手前に杉村公使の眠るサンジョアン・バチスタ霊園が見える。岩手県人会(千田曠曉会長)一行は、杉村公使墓参旅行二日目の二十三日午前八時、キリスト像から真っ青な空の下に広がる絶景を楽しみ、サンパウロから持参した花と線香を手に墓参りへと向かった。旅行団団長の多田マウロ副会長(45、二世)は途中、記者にこう気持ちを語った。「先輩たちが昔から大事に守っている墓。自分もそうしていきたい」。杉村公使の働きを後世に伝える使命に溢れていた。「ほら、あんな高いところからキリストが見守ってる。公使は幸せですね」。墓から景色を見渡して、参加者の女性はそう笑みを浮かべた。杉村公使の墓碑は、昨年、岩手県人会が会創立五十周年と移民百周年を記念して改修したものだ。六月十三日、式典参加のため来伯した達増拓也県知事らとともに除幕式を行った。「大地に広く受け入れられるようにね」。千田会長の言葉どおり、建てられた黒御影の石碑は空に向かって両手を広げるように円を描き、杉村公使の遺影がはめられている。「杉村公使がこの地に亡くなり百三年。みなさんと墓参りできて感激しています。遺族や母県の方々も喜んでくれているでしょう」と千田会長。十一歳から八十九歳までの三十一人は線香をあげて、またの再訪を約束して帰路についた。 (おわり、渡邉親枝記者) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 「評価ゼロの土地」から州随一の養鶏集団地へ―。南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地は今月二十三日、「入植五十周年記念祭」(沖島義智実行委員長)を約五百人の出席者を迎え、盛大に執り行った。アンドレー・プチネリ州知事、ジェルソン・ドミンゴ州議会議長、同移住地のあるテレーノ市のウンベルト・ペレイラ市長、JICA聖支所の千坂平通支所長らが出席した。第一陣として入植、現在も同移住地に住む金崎英司さん(71、山口)は、「開拓中に亡くなった人や移住地を後にした人もいるけど、みんなで五十年を祝うことができた」と喜んだ。 バルゼア・アレグレ移住地は、旧海外移住振興会社(JAMIC)が一九五八年、約三万六千三百六十三ヘクタールを邦人自営農受入地として購入、造成した。翌五九年の五月十五日、第一陣九世帯五十四人が入植した。小沢太郎山口県知事(当時)が造成中に視察、移住者には長期貸付金を融資したこともあり、同県出身者が多く入り、「山口村」とも呼ばれる。入植後三年間、雨が降らず、不作が続いた。移住者の中には、代替移住地を求めたり、訴訟を起こす者もいたという。こうした動きから、六二年に外務省、JAMIC、在伯山口県人会(現・ブラジル山口県文化協会)などによる共同の実態調査が行なわれ、「(土地の)評価ゼロ」の判定が下されている。米やフェイジョン、綿などを作ったが、どれも移住地を潤すことはなかったが、飼料用のミーリョが安かったことから始めた養鶏が当った。六二年に産業組合を設立、年々成長を続け、現在では八十万羽を所有する州内最大の採卵養鶏集団地に成長した。文協会館で行なわれた式典では、先没者に一分間の黙祷、日伯国歌斉唱、記念碑の除幕が行なわれた。プチネリ州知事は、五十年間の貢献を褒め称え、来年には国道から養鶏場までの一・七キロをアスファルト舗装することを確約。「五十一年目はピンガの『51』同様、いいことがある」と会場を笑わせた。歴代文協会長、婦人部長、教育関係者への功労賞授与、七十五歳以上の高齢者への表彰状、記念品が手渡され、会場から拍手が送られた。第二部の食事会では、乾杯の後、それぞれが半世紀の歴史に思いを馳せながら、和やかに食事を楽しんだ。余興では、児童、婦人の舞踊などが行なわれ、最後はバルゼア・アレグレ音頭に合わせ、来場者が笑顔で踊りの輪を作った。八〇年代にJAMIC職員として二年間、同移住地に滞在した千坂JICA聖支所長も約三十年ぶりに訪れた。「若かった自分も色々ご指導頂いた。懐かしい、元気な顔を見て安心した」と話していた。
