昨年九月に来伯した京都府知事から「交流のシンボルに」と京都会に贈られた雪割桜の苗木六本。今まで検討していた植樹場所がようやく見つかった。 聖市ピニェイロス区プラッサ・ヴィクトル・チビタ(Praca Victor Civita, Rua Sumidouro,580)で七日午前十時から、植樹式が行われることに。まだ地に根を下ろしてなかった母県と同会のシンボルも、やっと根を張ってゆける状態になった。 引退前の杉山エレーナ会長も安心顔。
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ニッケイ新聞 2009年4月1日付け アマゾン入植八十周年の開始イベントとして、三月十四日午後八時からパラー州都ベレンの州立コンベンションセンターで「ミス日系パンアマゾニア」コンテストが盛大に行われ、米沢カミラさん(21、国立パラー大学医学部三年生)の上に、記念すべき栄冠が輝いた。出場者は十五人、トメ・アスーやカスタニャール、ベレンなどから選り抜かれた日系美女ばかり。一千人以上の観客や応援団の前で、着物、水着などの審査を行った。百周年の昨年に引き続き、第二回の今年も、優勝者は聖市で行われる全伯大会に出場できる。作年同様、日系タレントのケンジさんが司会を務め、賑やかに進行した。主催した汎アマゾニア日伯協会(生田勇治会長)の堤剛太事務局長はニッケイ新聞の電話取材に答え、「応援団がすごくて、かなり盛り上がりました」という。優勝の米沢さん以下、一位はカレン・鎌田・バレットさん(19歳、短大観光科卒業)、二位はサンドラ・かすみ・久島さん(17歳、予備校生)、ミス・シンパチアはカリーナ・高本さん(24歳・言語聴覚士)だった。コンテストの後には、パラー州出身の全伯で人気の高いバンダ・カリプソのショーが行われた。堤事務局長によれば、「中心の歌手が、用意したミニ着物を着て歌ってくれました。えらい気に入ってくれたみたいで、九月の八十周年式典にもぜひ呼んでくれ、といってくれました」と喜ぶ。八十周年は景気よく始まった。次は五月中旬に聖市の文協で行われるアマゾン写真展、生田会長の講演会が予定されている。
ニッケイ新聞 2009年4月1日付け ブラジル京都会は三月二十九日午前十時過ぎからリベルダーデのレストランで定期総会を開催し、二十人余りが出席した。前身の京都クラブ時代から舵取りをしてきた杉山エレーナさんが「会長は任期四年が最長」という会の定款に沿って勇退し、中野義雄さん(74)が新会長に就任した。先亡者への黙祷後、杉山会長は、昨年知事を迎えて開催した京都文化産業フェアや同会創立五十五周年記念式典の後も、聖州議会副議長が京都府庁を訪問するなど、母県との交流が続いていることを喜び、「人と人との温かい交流が続いていくよう、今後も出来る限り手伝いさせていただきたい」と勇退後も会を支えていくことを表明し、拍手が贈られた。西東一彦監査の進行で二〇〇八年度の事業報告が拍手で承認され、続いて会計報告へ。昨年度の日本祭の売上金と寄付金を柱とした収入は計四万九千レ。支出はほぼ同額で、残金は約二百レとなったことが拍手で承認された。杉山会長から、会員でジャクト創業者の西村俊治さんが今年から寄付を見合わせる意向であることが説明されると、出席者から「赤字経営にならないように」と懸念の声も上がった。今年度は、日本祭への参加や、中野新会長を中心にした文化教室の開講、七月に京都府からピアニストの宮下和夫さんを迎えることなどが確認された。役員改選では、前もって新役員らの名前が会場に張られていたものの、少ない会員の中からの選出のため最後まで埋まらず、ようやく決定。杉山会長の推薦で次期会長に大抜擢されたのは、「本格的に同会員になったのはたった三年ほど」という中野さん。一九六六年に来伯、建築設計士として計二十五年は「インドやカンボジア、ラオスなどでデカセギをしていた」という異色の経歴の持ち主で、現在は歌謡バンドでベースなどを担当している。「どのくらいのことができるか分からないが、アイディアはたくさんある。皆さんの力が必要なのでどうぞよろしく」と協力を呼びかけた。第一副会長に就任した県費留学生OBの花山みどりエリアナさんは、「会長と一緒になっていろいろやりたい」と抱負を話していた。総会終了後は昼食会に移り、和気藹々とした雰囲気の中歓談を楽しんだ。勇退する杉山会長は二〇〇四年に、それまで五十二年の歴史を持ちつつも法人化されていなかった京都クラブを法人化、県連にも加盟したほか、昨年の創立五十五周年式典で初めて母県から府知事を迎えるなど、大きな業績を残した。ニッケイ新聞の取材に対し、「みんなを集めることが一番大変でした」と苦労を振り返りながら、「四年間やり終えてホッとしています」と笑顔を見せていた。新役員は以下の通り。(敬称略)【会長】中野義雄。【副会長】第一=花山みどりエリアナ、第二=吉岡良男パトリッシオ。【書記】第一=三宅エリオ、第二=新井直人レオ。【会計】第一=吉岡みどりクリスチーナ、第二=計良パウリーナ。
ニッケイ新聞 2009年4月1日付け 琉球民謡保存会ブラジル支部(仲村善正支部長)は五日午後二時から沖縄県人会サロン(トマス・デ・リマ街72)で「第十五回琉球民謡大会」を開催する。新人、優秀、最高、グランプリの各部門のほか、今年から十一歳以下のチビッコ部門も設置。計九十人の愛好者が沖縄の着物に身を包み、日頃の成果を発表する。また、同大会でベテラン五人が沖縄の本部から免許を授与され、一人ずつ独唱する予定。プログラムの合間には沖縄舞踊も披露され、様々楽しめそうだ。今年で創立十五周年を迎える同会では、六月七日、沖縄から五人の師を迎えて記念祭典を開催する予定。今から練習に気合が入っているという。案内のために来社した仲村支部長、大城文正大会実行委員長、座嘉比昇会計は、「年々レベルも向上しています。皆さんお誘い合わせのうえ聞きに来てください」と呼びかけている。入場無料。問い合わせは仲村支部長(11・4991・6761)まで。
沖縄県人会(与儀昭雄会長)と玉城流扇寿会・斉藤悟琉舞道場共催の琉球芸能公演「絆~心を結ぶ踊り」(呉屋春美実行委員長)が、二十二日午後四時から聖市リベルダーデ区の文協記念講堂で開催され、会場は立ち見客も出るなど超満員となる約千三百人が詰めかけた。 熱気を帯びた公演は三時間半にもおよび、伝統の琉舞を継承しつつも、友情出演団体の協力を得て、異なる文化を結束させた舞台となった。 公演は二部構成。第一部のオープニングでは、舞台上にスモーク(霧)が立ち上る幻想的な雰囲気の中、同琉舞道場主宰の斉藤氏が女形的な妖艶な個人舞踊を披露。観客の心をつかんだ。 公演は、一転して勇壮なエイサー太鼓(レキオス芸能同好会)や、華麗な衣装が目を引く「四つ竹」など琉球王朝時代の伝統舞踊「唐の世」から始まり、明治以降の廃藩置県による日本から新しい文化が導入された「大和の世」へと続いた。 さらに、一九四五年の沖縄戦後、アメリカの統治下として再出発した「アメリカ世」、七二年の日本復帰後の沖縄をイメージした「ウチナー世」の四つの時代で表現された。 二部では、友情出演の「花柳寿美富浩」一門、昨年四月から一年間にわたって滞伯した歌手・具志恵さん、大嶺初枝琉舞道場や琉球民謡保存会教師の米須正氏らが舞台をつとめた。 特に後半は、琉舞と北海道の「ソーラン節」、エイサー太鼓とアラブ舞踊の「ベリー・ダンス」、黒人音楽の「ラップ」と琉舞など異なった文化を融合したエネルギー溢れる舞台に、観客の目は釘付けとなっていた。 演目の締めくくりは、参加者全員による「絆」。これまでの稽古の集大成を、心を一つにして表現した。 舞台監督から出演まで八面六臂(はちめんろっぴ)の活動をこなした斉藤氏は最後に花束を受け取り、「今日はありがとうございました」と感極まりながら関係者への感謝を示した。 聖市ジャバクアラに住み、この日は開演一時間前の午後三時から会場入りしたという花城エルザさん(七二、二世)は「悟のことは小さい時から知っています。その頃から『天才』と言われてきたけれど、本当に立派な舞台で感動しました」と感無量の様子。 沖縄県人会元理事の国吉次郎氏(八四)は、「ブラジルでこういう立派な芸能祭ができたことは、沖縄県人の発展に大きな影響を与えると思う」と話し、充実した表情を見せていた。
静岡県人会の役員は次のとおり。 名誉会長=鈴木静馬、相談役=後藤宗治、会長=杉本教雄、副会長=杉山久司、石切山加代子、理事=加藤武男、伊藤和子、平野パウロ、滝波幸子マリナ、石切山節子、榛田利郎セザー、本田容子、中西レアンドロ、永田文子、青木浜中マリーナ、鈴木幸男、原長門、佐野克行、柿の花明ダニエル、山本茂、鈴木仁ラウロ、監査役=奈良橋洋五郎。 鈴木理事の話では『県人会定款第五章第十三条の「総会」は本会の最高機関である。会員の総意に拠って構成される』に則って合法的に行われた―と述べた。
ニッケイ新聞 2009年3月28日付け 昨年四月五日に亡くなった福田康雄氏(熊本県人会元会長、ブラジル日本都道府県人会連合会元副会長)の一周忌法要が四月四日午後四時からモジ市の本派本願寺(セナード・ダンタス街886)で行なわれる。当日は熊本県人会がバスを用意する。希望者は三十一日までに同会(電話11・5084・1338)まで連絡が必要。
ニッケイ新聞 2009年3月28日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(与儀昭雄会長)は二十六日午後、聖市の栃木県人会館で第四十三回定期総会を開き、各種報告・議題を審議した。七月に控えた県連最大行事、フェスチバル・ド・ジャポン(日本祭)の予算は、昨年度支出より約六十万レアル低めに押さえた百万レアルを計画。今年は「環境」をテーマに実施される見通しだ。与儀会長は総会後の懇親会で、経済危機の影響に懸念を示しつつも、「皆さんで助け合い、今年のフェスチバルが今までよりさらに良くなるよう頑張りましょう」と団結を呼びかけた。▽ ▽東京都友会の坂和三郎会長が議長をつとめ議事を進行した。昨年の収支は収入約百九十八万四千レアル、支出約百九十二万四千レで、約六万レを繰越した。大半は第十一回フェスチバルによるもので、収入約百七十二万レ、支出約百六十二万レ。一般会計は収入約十九万二千レ、支出約十八万八千レ。今年度予算は十三万四千九百五十レ。七月十七~十九日に行われる第十二回フェスチバルの予算は、経済危機の影響を考慮して百万レアルと約四割低めに抑えられた。しかし一般会計を見ると、一昨年の第十回フェスチバルでの未収金が加えられているため、実質的には赤字。今年度予算でもフェスチバルからの繰り入れを前提としており、〃フェスチバル頼み〃の運営状況が浮き彫りになっている。今年のフェスチバルでは、経済危機がスポンサー集めに及ぼす影響が懸念されているが、与儀会長によれば、現在まで訪れた企業はいずれも協力の意思を見せているという。今年度事業としては「移民の日」法要やアマゾン入植八十周年にあわせた「ふるさと巡り」(九月十五~二十一日)を実施。新たな試みとして六月二十一日に県人会対抗マレット・ゴルフ大会を主催する予定だ。昨年度の事業・収支報告および今年度事業計画・予算案ともに拍手で承認。続いて補充監事の選出が行なわれ、出席者による互選で大西博巳(広島)、南アゴスチーニョ敏男(福岡)、有北陽一ジョージ(奈良)の三氏が就任。昨年度補充監事の尾西貞夫(兵庫)、豊田瑠美(愛知)、原島義弘(千葉)三氏が正監事に就任した。当日はまた、新県人会長の小林操さん(茨城)、高野ジョルジさん(山梨)の二氏が自己紹介。会長交代により執行部から離れる加藤恵久(鳥取)、長友契蔵(宮崎)両副会長がそれぞれあいさつした。なお、加藤氏は副会長退任後もフェスチバル実行委員長を務める。ほか、園田昭憲副会長が、改正定款が現在最終チェックの段階になっていることを報告。山田康夫副会長からは、旧神戸移住センター改修事業への募金活動について、県連での受付け期間を四月末まで延長することが発表された。現在まで県連が受け付けた募金総額は、約二万四千レアルとなっている。総会後、午後七時から懇親会が催され、上原幸啓文協会長、後藤猛領事、森口イナシオ援協会長など関係機関・団体代表ほか、銀行などフェスチバル後援企業代表、西本エリオ聖州議なども訪れた。
ニッケイ新聞 2009年3月28日付け 沖縄県人会のエイサー太鼓団体「琉球國祭り太鼓」(浦崎直秀代表)が今年十周年を迎え、記念発表会「島に戻てぃ(De Volta as Origens)」を四月五日午後一時から午後四時まで、アニェンビー国際会議場大講堂(Av.Olavo Fontoura,1209)で開く。レアル銀行が協賛。入場無料。上原テーリオ実行委員長、上江田エドゥアルド、新崎マリオ両副実行委員長が案内のため訪れ、来場を呼びかけた。県人会関係の行事をはじめ、各地のイベントなどで人気の高い同団体。正式発足から十年を記念した同発表会にはサンパウロ市・州内だけでなく、南マ州カンポ・グランデ、ブラジリア、クリチーバなど国内各地、さらにボリビア、メキシコ、ペルー、アルゼンチンの中南米各国から合わせて五百人が出演する。ブラジルでの祭り太鼓は一九九〇年代前半、沖縄県を訪問して本場のエイサーに触れたビラ・カロンの関係者により持ち込まれたもの。それまでブラジルにはなかった芸能だった。浦崎氏が指導にあたり、九八年に正式な団体として発足。最初十六人だったメンバーは現在、全伯各地で約六百人にまで増えた。そして今年、十周年の記念公演を二千五百人収容のアニェンビー会議場で開催するまでに成長した。同グループでは現在、七歳から二十歳までの子供たちが所属、県系だけでなく非日系の子供たちも練習に励む。最初のグループの一員だった上原実行委員長は、「今は子供たちの世代になりました」と笑顔を見せる。今回の発表会では最初のグループも〃特別出演〃するという。上原委員長ら一行は、「今まで発表したことのない新しい演目もあります。ぜひ足を運んでほしい」と呼びかけた。当日は、琉球舞踊協会、カンピーナス獅子舞と県系バンド「トントンミー」も特別出演、歌と太鼓、獅子舞など盛りだくさんの公演になりそうだ。入場無料だが、主催者では一キロの保存の効く食料品の持参を呼びかけている。集まった食料品は希望の家に寄付される。問合わせは電話=11・8494・5350(ロベルト)または9104・7002(タチアーネ)まで。同団体のホームページは、www.rkmd-brazil.com
ニッケイ新聞 2009年3月28日付け 在伯埼玉県人会(根本信元会長)は五日午前十時半(第二次招集)からビラ・マリアーナ区の「SOHO源氣」(ドミンド・デ・モライス街1425)内の同事務所で二〇〇九年度定期総会を開く。主な議題は二〇〇八年度事業・収支報告および〇九年度事業計画・予算案の審議。役員改選など。総会後、正午から昼食会を催す。
ニッケイ新聞 2009年3月27日付け パラナ州都クリチーバ市にある兵庫県ブラジル事務所の会館の正門に設置された「平成」と刻まれた記念碑に、特別な大注連縄(おおしめなわ)がかけられ、四日午前十時半から「弥生祭(やよいまつり)」が行なわれた。祭主は同事務所代表の山下亮さん、神主はブラジル大神宮の藤好諒山宮司。一九九七年六月六日、天皇皇后両陛下がクリチーバへご行幸された折に同会館へ立ち寄られ、ご来伯を記念して建立されたこの記念碑を除幕された。その時に、天皇陛下は、日本移民先没者の慰霊と日系社会の安寧と繁栄を祈願された。同地の日系人らは、両陛下の深い思いやりといたわりの尊いお言葉に感涙しながら万歳を叫んだという。今回の弥生祭のために新たな大注連縄が設置された。当日は佐藤宗一クリチーバ総領事をはじめ、同大神宮総代長の西井良雄さん、同大神宮副総代長の国府増二さん、パラナ連邦大学の細川ロベルト教授らが参加し、厳粛に執り行なわれた。藤好宮司によれば、毎月の月初めと月半ばに「月次祭」が斎行されているほか、歳旦祭、新年祭、祈年祭、弥生祭、例大祭、移民祭、独立記念祭、春秋皇霊祭、新嘗祭、大晦祭なども斎行されているという。
ニッケイ新聞 2009年3月27日付け 鳥取県人会(本橋幹久会長)主催のやきそば会が、四月五日午前十一時から、ブラジル鳥取交流センター(ドナ・セザリア・ファグンデス街323)で開かれる。婦人部特製のやきそばの値段は十四レアル。そのほか、ギョウザやデザートなども販売。同県人会で実施している文化講座の生徒たちによる発表などもある。午後三時ごろまで。問合わせは同会(11・2276・6032)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月26日付け なにげなく波止場の海面をのぞき込むと、エメラルド色に透き通った水底を、甲羅が四十センチはあるウミガメがゆったりと泳いでいった。先駆者の一人、仲真次牛助が入植前に現地視察に来た時、「噂に違わずイーリャ・グランデは魚影が濃く、バケツで掬えるほどだったという」(『リオ百年史』二百六頁)からすごい。今でも前述のように十分にきれいだが、入植当時には、とんでもなく豊かな自然があったに違いない。島の入植史を確認すると、「日本人が住みはじめたのは一九三一年のことで、山西逸平を先駆者として、すぐにサンパウロで塩鰯の卸売りをしていた道広、上原牛助、仲真次牛(なかまじ・ぎゅう)、仲真次牛助なども移り住むようになった」(同二百七頁)とある。最初は「ダシ粉」と呼ばれる乾燥鰯の粉末、その後、鰯の缶詰産業が起きた。体調を崩した先駆者の山西さんは、一九四〇年に塩鰯や鰯節の事業を蛭田徳弥さん(後のパウリスタ新聞社主)に譲り、さらにその後、蛭田さんの缶詰工場は、仲村ツル子さんに譲られ、当時としては最大規模の生産を六〇年代から八〇年代にかけて行っていた。最盛期には、二十二~二十三カ所もの鰯加工工場がたち、一大産業を形成していた。同島の最古参の上原ブンゾウさんによれば、最も日本人が多い時で三十家族、一九六〇年代だという。現在は、島とアングラ市内を合わせても三十家族ていどだという。しかし、六〇年代後半から徐々に漁獲量が減った。あれほど魚影の濃かった海だったが、長年乱獲を続けた結果、ついに枯渇してしまった。八〇年代には工場をたたんで転出する人が増え、八九年頃からポウザーダのような観光業が中心になった。上原さんいわく、現在は日系のポウザーダだけで八軒あるという。午後二時、波止場で全員が「ふるさと」を海に向かって合唱し、アングラ・ドス・レイスのホテルに戻った。参加四回目、パラナ州マリンガ在住の草川一郎さん(77、二世)は「テレビではリオといえばファベーラばかりのイメージだが、実際見るととてもきれいだった」との感想をのべた。☆ ☆翌十一日は帰路、昨年創立六十周年を祝ったモジ市のイタペチ植民地へ向かった。会館では、モジ西本願寺の清水円了導師により、先亡者約百二十人を顕彰する物故者法要が厳粛に行われ、本物の位牌が並べられた仏壇に向かい、一行は列になって焼香し、最後に老人クラブの坂本定次会長が閉会の辞をのべた。スザノ生まれの武吉行雄ネルソン会長(45、二世)によれば、昨年六回目だった柿祭りは今年から取り止めにする。五月にはヤキソバ祭り、七月にはスキヤキ祭り、十月にもう一つイベントを検討しているというので忙しい。現在六十三家族の会員がいるが、全部では七十五家族ぐらい日系人が同地区にはいると推測される。「四十五周年にやったような日系実態調査を今年もできたら」との抱負をのべた。同地在住四十四年の荻野茂さん(87、兵庫)は、「ここは永住の地、ええとこです。遠くから先亡者に線香上げに来てもらってありがたい」と手を合わせた。一行は、最後に同地区内にある「花の杜(もり)」公園へ立ち寄った。モジ市は伯国最大の蘭栽培地であり、年間八十万鉢が出荷される。観光農村化を図るために、芳賀七郎さんが七年前に始めた同公園には蘭即売場があり、一行は最後の買い物に勤しんでいた。午後七時半には、聖市リベルダーデ広場に帰着。三々五々、家族などに出迎えられ、今回も参加者は充実した表情で帰路についた。(終わり、深沢正雪記者) 写真=イタペチ植民地での先亡者供養で焼香する一行 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
次回の県連ふるさと巡りは九月。 アマゾン入植八十周年式典の三会場訪問を中心に行われるのは既報の通り。ところが、ツアーを組んでいるサービス・グローバル旅行社によれば、「皇室ご来伯の可能性もあり、現地式典の開始時間が二転、三転している関係から、出発日時が当初の十六日から一日早まった」という。 十五日午後に聖市を出発し、夜中にベレン到着。そのままバスに乗って、十六日早朝にトメ・アスーに着くように調整されている。しかも、参加者数は通常百人程度だが、今回はすでに百四十人に膨れ上がっており、みんなで盛大に祝う八十周年になりそうだ。
ニッケイ新聞 2009年3月25日付け 「みんな親切にしてくれるから一回行くと続けて行きたくなる。今度は終いかと思いながら、もう三回目」。そう原口ますこさん(80、熊本)は笑う。十日朝、一行はイーリャ・グランデに向かっていた。コリンチャンスで活躍する有名サッカー選手の別荘が立つ小さな「ロナルドの島」を右手に見て、一行を乗せた船は、高級保養地アングラ・ドス・レイスの鏡面のような内海を進む。ガイドはあの島は某歌手、こっちは政治家と説明に忙しい。三百六十五もの島があり、七割が有人だ。原口さんは一九六一年にパラー州トメ・アスー移住地に入り、十年をそこで過ごした。「私たちが入植した頃は全盛期で、パトロンの家は御殿のようでしたよ。でも一~二年で根腐れ病が出てきて…」。そのため、七〇年代最初に出聖した。波のない海面を見ながら快い風を浴び、原口さんは懐かしいアマゾン川を思いだしているようだった。☆ ☆正午前、パッサ・テーラ地区の、交流会の会場となるポウザーダ・マリア・ボニータの真ん前の波止場に船は着いた。アングラ・ドス・レイス・クラブの波田間ヨシオ会長(50、三世)ほか八人が待っていた。「平日で仕事があるから、あまり集まれなかった。でもみなさんを歓迎する」と同会長が申し訳なさそうにあいさつし、長友団長が続いた。同会長の妻・ハツコさんが、自身の父親で最古参の入植者の上原ブンゾウさん(75、二世)を横に、簡単な入植史を説明した。「おじいさんは六歳でリンスから移転し、そこから家族の歴史が始まった」。三四年の入植当時、ほとんど沖縄県出身者だった。一部でこの島の反対側にあった刑務所に勝ち負け抗争当時に拘留された人が連れてこられたとの噂話があったので、乾杯のあと、上原さんに直接、確認すると、「ここにはブラジル人政治犯だけ。日本人はいなかった」と証言した。しかし、「戦争中、海岸部には敵性国人は住んではいけないことになり、私の父はドイツ人移民と一緒にニテロイに拘留された」という興味深い話をはじめた。四四年頃に父、上原牛助さんら家長だけが警察に連れて行かれた。その少し前、四二年には母カメさんが四十二歳で亡くなっていた。「なぜ父が捕まったのか、なんの説明もなかったんですよ。その時は。島にはラジオも新聞もありませんでした。世界で何が起きているのか、私たちはまったく知らなかった」。突然の拘留に、残った家族は心底驚いたという。「後から知りましたが、戦争だったらしかたないと思いながらも、残された私たちは、日本に戻るかどうかで大変悩みました」と苦難の日々を振り返る。「父は当初、お金を儲けたら沖縄に帰るつもりでした。いつもサウダーデを強くもっていたようでしたが、七三年に七十六歳で死ぬまで、結局、帰る夢は一度もかないませんでした」一九一八年に二十歳ぐらいで渡伯した。出身は両親とも沖縄県糸満市だ。郷里でも漁師をやっていたので、伯国でも、と考えていた。「父は拘留所で、ブタの餌やりをするなどして四カ月を過ごした後、無事に帰宅した」という。(つづく、深沢正雪記者) 写真=島での戦争体験を語る上原ブンゾウさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
ふるさと巡りの昼食時、南麻州カンポ・グランデから遠路参加している名嘉正良さんの前に座った。 最初の入植地は大変な僻地で、土地も痩せており、数年で全員が退去したことで有名なカッペンだ。 「別に苦労したとか思わなかったね。沖縄で戦争も体験してきたし」という言葉が逆にずしんと響く。「目に見えんぐらい小さいボハシュード(ぶよ)がいてね、寝ている間に顔とか刺されて、起きたら人相変わってるなんてこともあったね。昼間重労働しているから、ドロのように寝ていて刺されても気付かないですよ」。 何気ない昼食時にこんな入植話が聞けるのは、まさにこの旅行の醍醐味か。
ニッケイ新聞 2009年3月25日付け 斉藤悟琉舞道場(斉藤悟代表)と沖縄県人会が主催する琉球芸能公演「絆~心を結ぶ踊り(KIZUNA:CORACOES UNIDOS PELA DANCA)」(呉屋春美実行委員長、監修=斉藤悟、レアル銀行協賛)が二十二日、聖市の文協大講堂で行なわれた。沖縄の歴史を創作舞踊で描く同公演。県系子弟たちが中心となって、伝統芸能を残しながら、日本本土、ブラジルの文化との融合まで織り込んだ新鮮な舞台に、会場から盛んな拍手が送られていた。祖母が沖縄出身の斉藤代表は幼い頃から玉城流扇寿会で琉球舞踊を学び、県費留学から帰国した翌年、〇六年に同道場を開設。一昨年には沖縄県人会館で発表会を行ない約八百人が訪れた。今回は会場の二階席まで満員、千三百人以上が詰め掛ける人気を見せた。今回の作品は、琉球王朝の始まりから、明治時代の日本への編入、そして第二次大戦の沖縄戦と戦後のアメリカ統治、一九七二年の本土復帰から現代へと至る沖縄の歩みを創作舞踊、歌と太鼓で描いたもの。そこには「沖縄の人はいつの時代も歌と踊りを忘れることがなかった」という思いを込めたという。幕開けでは、五百年前、琉球王朝の首里城建設のため伐採した木材を運ぶ様子を歌った民謡「国頭サバクイ」にあわせ、レキオス芸能同好会がエイサー太鼓を披露。王朝の発展とともに生まれた古典芸能として宮廷舞踊の「四つ竹」が続き、さらに庶民の間で生まれた芸能として、豊作を祈る「繁盛節」、豊漁を祈る「豊漁」などが次々と舞台を彩った。時代は移り明治時代、日本に編入され沖縄県となった第二部「大和の世」では、沖縄に入ってきた日本本土の文化として日舞の花柳寿美富浩さんと門下生が登場。よさこいソーランをエイサー太鼓でアレンジするなどの試みも。そして一九四五年、唯一の地上戦となった沖縄戦を描く場面へ。薄暗い照明、爆撃や米軍との戦闘、死者の映像がスクリーンに映し出される中、旅立った夫を思って糸を巻く若妻の舞い「かせかけ」を斉藤代表が踊ると、会場は静まりかえり、やがて大きな拍手に包まれた。民謡教師の米須正さんが、物資のない時代に生まれた空き缶で作った三線で、戦後の収容所で生まれたという「屋嘉節」を演奏。戦後、アメリカ統治下の場面に移ると、一年間ブラジルで音楽活動を続けてきた歌手の具志恵さんがギター奏者のフラビオ・ラーラさんと三線で共演、会場を盛り上げた。伝統的な琉球舞踊を中心にしながらも、音楽のアレンジやアップテンポのダンスを交えた同公演。ストーリー性のある舞台に加え、エイサー太鼓とアラブのベリーダンスの共演など、多民族国家ブラジルならではの演出もあり、来場者を楽しませた。「世界に一つだけの花」に続いて、出演者全員で「絆」を踊り、三時間半の公演はフィナーレ。関係者一人一人に花束を渡した斉藤代表は、涙声で「ありがとうございました」と来場者に感謝の言葉を述べていた。公演後は出口に並んだ出演者と握手を交わす人たちの長い列ができた。琉球舞踊との共演に初挑戦した花柳寿美富浩さんは、「習慣も違うし、いい勉強になりました。たいへん良くしてもらい、人の温かみを感じた」と笑顔。会場を訪れた斉藤代表の祖母、新垣春子さん(73)は「嬉しくて、涙でいっぱいになりました。これが自分の孫かと思うくらい」と喜び、「皆さんのおかげです」と話していた。
■人マチ点描/53年ぶりの感激の再会 ふるさと巡り参加者同志で偶然の出会いがあった。1956年9月11日にサントス到着のオランダ船チサダネ号の同船者が、リオ市のコルコバードの丘に登る登山電車の駅で、下船以来、実に半世紀ぶりの再会を果たした。 渡辺文子さん(82、福島)と再会したのは、上原正一さん(74、沖縄)とその妻トヨさん(71、同)、弟の上原正昌さん(69、同)の3人だ。 トヨさんは「桑鶴さんがダーバンで、よその軍艦に上がって大砲ぶっ放して裁判になり、終わるまでそこで一週間またされた。結局は『外国で勉強中』とのことで無罪放免だったけど、一時はどうなることかと心配したね」と鮮明に思いだす。今でこそ笑い話になったが、当時は大変な話題をコロニアに振り舞いた一件だ。 そんな思い出で話が弾み、正一さんが「うれしいですね、53年ぶりで」というと、渡辺さんも「半世紀は長い。よかった。滅多に会えない」と固い握手を交わした。 お互い若かった半世紀前に過ごした船中の日々の記憶は鮮烈だ。移民にしか分からない〃同船の絆〃は、かくも強い。(深)
ニッケイ新聞 2009年3月24日付け 「いやあ、ひょっこり会うもんですね、びっくりしました」。リオ在住三十年になる斉藤光さん(71、群馬)は以前、一九六〇年代にミナス州イパチンガでウジミナス創立時に一緒に働いていた仲間とも、ふるさと巡り一行との交流会で偶然再会した。さらに五七年の同船者の知人とも二十年ぶりに再会し、驚いた様子でそう語った。リオ日系協会の交流会では、懐旧談に華を咲かせる姿があちこちでみられた。お互いに予想以上に懐かしい人や縁者がいたようだ。市内で書店を経営していた太田郁子さん(82、東京)もその一人だ。ふるさと巡り参加経験者であり、「私が一行に加わった時もあちこちで歓迎され、感激しました。今回は、歓迎する側の立場でお迎えしようと張り切ってきました」と微笑む。ふるさと巡り三十一回中の二十七回も参加し、最多回数を誇るソロカバ市在住の和田一男さん(84、二世)は、太田さんに持参した昔のふるさと巡りの写真を見せながら、懐かしそうに話し込んでいた。一昨年、ポ語版『移民の父 上塚周平』(能美尾透著、ニッケイ新聞)を出版した時に、妻の園尾ローザ登喜子さんが翻訳したが上梓前に亡くなり、その代わりに出版記念会でサインをしていた夫の彬さん(70、福岡)も顔を出した。リオ市内で日本語学校を経営している。「面白いですね。みなさんと話していると、ブラジルより日本の終戦当時の話になる。やっぱり戦争は忘れられないんですね」。聖州サンビセンテ市で金曜だけ営業する風変わりなレストランを十七年間やっている一人、有坂艶子さん(73、二世)は「偶然、十五年ぐらい会っていなかった編み物の藤本先生に会えて驚いた」という。藤本さんは以前、サンビセンテで編み物教室をし、有坂さんも習っていたという。午後一時半頃からリオ日系太鼓のショーが始まった。〇三年から活動をはじめ、昨年の聖市百周年式典の千人太鼓にも参加した。演奏者の七~八割が非日系人だ。最後に、同協会役員がステージに上がって「北国の春」を熱唱してみせ、それに応えた県連一行は恒例の「ふるさと」を全員で歌い、惜しみながら会場を後にした。参加七回目の原ルシアさん(74、二世)は「みんなとても良くしてくれた」と満足そうな笑みを浮かべた。〇四年までサンパウロ日伯援護協会の事務局長を務め、現在は専任理事の山下忠男さん(75、京都)夫妻は初参加だ。一九五三年に渡伯し、同年末から一年間、この会館のある地区周辺に住んでいたという。「昔はほとんど日本人がいなかった。ラランジェイラスのペンソン一力とか懐かしい。そのおかげでポ語を覚え、後に援協で役にたったんですよ」。青春時代まっさかりの十九歳、伯国生活の原点を思いだしていたようだった。(つづく、深沢正雪記者) 写真=「北国の春」を熱唱するリオ日系のみなさん(右から2番目が鹿田連盟会長、右端が松浦ミノル協会会長) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html
岩手県人会の二〇〇九~二〇一〇年度の役員は次のとおり。 ◎名誉会長=菊地義治、◎相談役=熊谷泰志、高橋昭二郎、栃沢千秋、亀ケ沢梅吉、佐々木憲輔、千葉直 義、高橋義見、高橋凡児、伊藤春野、千田まさ、 ◎会長=千田曠暁、◎副会長=多田孝則マウロ、田口精基、藤村光夫、◎書記=藤沢裕、峰きよこソフィア、会計=昆野昭仁ワシントン、平野マリア、◎監査役=(正)及川益夫、大志田寿、児玉道義ミルトン、(補)川村益夫ネルソ ン、手嶋ジョージ、袰岩毅、◎理事=高橋宏二カルロス、渡辺正、山口しのぶセシリア、千田輝海、袰岩毅、千 田健一ロベルト、亀ケ沢アメリア、◎地方理事=菊地達郎、藤堂勝次、猫塚司、村松弘一。 なお、二OO九年度の四月以降の主な事業としては△四月二十六日=第四十回会員交流懇親会、△五月十五日~十七日=杉村濬駐伯公使墓参旅行(リオ)、△五月三十一日=第二回わんこそば祭り、△七月十七日~十九日=日本祭り参加、△八月=第四十一回会員交流懇親会。
