07/03/2026

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在伯島根県人会(村上アンドレー光明会長)婦人部主催の「第11回慈善バザー」が11月8日午前10時から午後5時まで、サンパウロ市プラサ・ダ・アルボレ区の同県人会館(Rua das Rosas, 86)で開催される。 当日は31のバザリスタが出店し、折り紙の財布、陶器、パッチワーク、押し花などを販売する。会場では婦人部特製の巻きずしやいなり寿司、椎茸ご飯、まんじゅうなどが用意され来場者のお腹を満たす。 案内に訪れた村上会長と実行委員の浜野ビルマさんは「バザーの売上の15%はこどものそのへ寄付されます。クリスマスも近いので、プレゼントを買いにぜひ、お越しください」と来場を呼びかけた。 入場無料。問い合わせは同県人会(電話11・5071・0082)まで。 2015年10月31日付
ニッケイ新聞 2015年10月31日 ブラジル鳥取県人会(本橋幹久会長)が『県費留学・研修制度50周年並びに、ブラジル鳥取センター設立20周年記念式典』を8日午前10時より、同センター(Rua Dona Cesaria Fagundes, 323, Saude)で挙行する。 県費留学生と技術研修生制度のOB・OGは98人に上り、またセンターは広く文化事業の場となっている。来社した本橋会長は式典の目的を「母県への感謝をあらわすため」と語る。日本からは林昭男副知事や、斉木正一県議会議長をはじめとしたの慶祝団約30人が訪れる。 センター20周年に当たっては、増築事業や県人会コーラス部の訪日事業への助成も受けた。式典翌日には12年から継続している「サンパウロ・鳥取友好の森事業」のため、聖市オルト・フロレスタルで植樹を行う。 また新事業として「母県若人招聘事業」を発足。元留学生で設立した基金で、母県の若者を伯国に滞在させようという試み。3月の実施を予定しており、式典でも発表される。 問い合わせは同県人会(11・2276・6032)まで。
ニッケイ新聞 2015年10月30日 【既報関連】御来伯中の秋篠宮同妃両殿下は、28日午後3時頃、文協ビルを訪問された。秋篠宮様が同地を訪れるのは、1988年『移民80年祭』以来2回目で、両殿下揃っては今回初。移民史料館を御見学し、大講堂では1千人の聴衆を前に、日伯外交120周年の節目の御挨拶をした。 御到着に際し、出迎えには大志万学院、アルモニア学園、コレジオブラジリアの生徒約100人が両国の小旗を振って歓迎。 貴賓室では日系議員や叙勲受章者を中心とした関係者約50人と御懇談した。元文協会長の山内淳さんは「97年に天皇陛下来伯式典の際に、私が実行委員長を務めた頃の話を聞いてくださった」と懇談の内容を明かした。 続いて、移民史料館を御見学。山下リジア同運営副委員長の説明を受けながら、7階から9階まで、一つひとつ丁寧に御覧になっていた。以前にも同館を訪問されていた秋篠宮様は途中、紀子様に自ら御説明する一幕もあった。 大講堂では1千人の聴衆を前に、歓迎式典に御出席。両殿下が御入場すると、涙を流して迎える人もあちこちで見受けられ、文協コーラス部が両国家を斉唱した。 日系5団体及び、日系社会を代表して文協の呉屋春美会長が挨拶。「再びブラジルに御越し下さったことは日系社会にとって何よりもうれしい」と歓迎の意を表し、「移民107年が経った今では、各地で日系人が活躍している」と報告した。 秋篠宮様は「ブラジル政府や国民から暖かく迎え入れられたことに対して、皆様と共に感謝する」。また「先駆移住者に敬意を示し、日本ブラジル両国の友好親善が更に深まり、発展していくことを期待します」と話された。 秋篠宮様と紀子様はそれぞれ、両国旗を持って入場した川上ヒサナガくん(13、四世)、ジェシカ・レイテ(12)さんから、献上品と花束を笑顔で受け取られた。 大志万学院の宮本敏幸さん(13、四世)、イザベラ・マシさん(13)が青少年を代表して日本語で「日伯の架け橋になっていきたい」と挨拶した。 両殿下は退場の際にも、両国の小旗を振る子どもたちや聴衆に見送られつつ、話に耳を傾けられていた。米光ミヨ子さん(74、二世)は、「去年、日本を訪れた際の話を聞いてくださった」と喜んでいた。 呉屋会長は式典後、感動した様子で、「いつも見守って下さる皇族の皆様へ『感謝を伝えること』が式典の目的。私たち日系人は日本人の血が流れていることに誇りを持っているとわかっていただければ幸せ」と話していた。   □関連コラム「大耳小耳」□ 文協歓迎会にご出席された秋篠宮ご夫妻。正面玄関と大講堂前のサロンには日系児童以外にも、一般約30人も小旗を振ってお出迎え。その中には今年99歳を向かえる高齢者も。車椅子に乗る林原ヨシエさん(99、大阪)は「紀子さまから白寿のお祝いをして頂きました」と笑顔を見せた。充分な元気をもらったはず。◎殿下が以前執筆された鶏の家禽化に関する学術論文がある。サンタクルス病院では、この論文をポ語訳した本が石川理事長より贈呈された。日本の鳥類研究所の総裁でもある殿下らしい非常に専門的な本。表紙を飾っている絵は、妃殿下がお描きになられた雌雄の鶏だ。羽の一枚一枚まで細かく描写され、翻訳した二宮正人さんも「まるで写真のように精密」と驚いていた。2ページ目の写真では、陽だまりの中で微笑まれる両殿下のお姿も。
先駆者移民の苦労を偲ばれ 日系団体主催の歓迎式典が、28日午後5時1分からサンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会の大講堂で行われ、会場は若干の空きが見られたが、976席ほぼ満席になる来場者が訪れ、秋篠宮ご夫妻をお迎えした。ご夫妻と共に日系5団体の会長、国松首席随員、横田随員、名井随員、梅田邦夫駐ブラジル日本国大使夫妻、中前隆博在聖総領事が登壇した。 ◆文協正門からご入場【羽田和正記者】秋篠宮ご夫妻は同日午後3時15分、ブラジル文化福祉協会の正門前に到着された。正門階段から赤の絨毯(じゅうたん)が敷かれ、文協の呉屋春美会長が先導し、ご夫妻を丁重にお招きした。ご夫妻は溢れんばかりの笑顔を振りまかれ、時折、来場者と握手をしながら一段一段階段を登られた。 正門階段脇では、アルモニア学園の生徒(5年生)らが日伯両国旗を振って歓迎。ご到着1時間前に生徒らは目を輝かせながら、「午後2時から待ってる。秋篠宮さまについて特に勉強はしていないけど、緊張しています。名誉です」などと話していた。 ご夫妻が階段を登り終え、建物内に入られると、白寿者や百寿者ら99歳以上の高齢者が着席のまま出迎えた。両夫妻は高齢者一人一人の顔を見ながら握手をされ、貴賓室へと向かわれた。 ご夫妻と握手した佐藤誠仁さん(100、沖縄)は「よく、おいでになられたと思います。会話はできなかったが、拝見できて大変に嬉しい。気持ちが高揚して昨晩はよく眠れなかったのですが、今夜はゆっくり眠れそうです」と微笑んだ。 ◆日系代表者とご懇談【佐久間吾朗記者】午後3時18分、秋篠宮ご夫妻は日系5団体の会長らと共に文協ビル2階の貴賓室に到着した。 在サンパウロ日本国総領事館の中前総領事の案内で、集まった叙勲者や日系団体の関係者ら65人一人一人と握手をし、お話を交わした。杖をついた叙勲者には、腰をかがめて同じ目線でお話をされ、ご夫妻の優しさがにじみ出たご懇談となった。 この日の紀子さまは薄いベージュのジャケットとスカートの上下に真珠のネックレスとピアスをあしらったお姿。気品ある装いが印象的だった。ブラジル相撲連盟名誉会長で叙勲者の赤木政敏さん(84、宮崎)は「初めてご夫妻とお話しした。秋篠宮殿下から『どちらに入植されたのですか』と聞かれ、ここから600キロ先の山奥に入ったとお答えした。『昨年の秋には天皇陛下から旭日小綬章をいただき、ありがとうございました。帰国の際はよろしくお伝え下さい』とお伝えした」と話した。 在聖日本領事館前顧問弁護士で叙勲者の大原毅さん(79、2世)は「どこで生まれ、どの大学に行ったか、ずっと弁護士をしているのかなどを聞かれた。私の名札をよくご覧になって質問してくれたのだと思う。丁寧な対応で、こちらに緊張感を与えない優しさが感じられた」と感激した様子だった。 ◆移民史料館【羽田和正記者】秋篠宮ご夫妻は7階から9階までの日本移民史料館を視察され、7階では「開拓者の家」に午後4時26分に到着され、続いてパンタナールの動物の剥製(はくせい)を鑑賞された。9階には午後4時40分にご入室。天皇皇后両陛下の御真影のほか、皇室関連のパネルが展示された会場内を一周された。 ご夫妻の案内役を担当した山下リジア史料館運営副委員長は「感激でした。緊張しすぎて、順序を少し間違えてしまいました。とても、おしとやかな印象を受けました」と感想を話した。 ◆日系社会歓迎行事【佐久間吾朗記者】開会に先がけ、モルンビ学校のヒサナガ・カワサキ・レオナルド君とピネイロ学校のジェシカ・テイシェイラ・フェレイラ・レイテさんが両国旗を持ち、入場。掲揚し、続いて吉田エリザベスさんのピアノ伴奏で両国歌斉唱を行った。国歌斉唱にはピッコロ、パイネイラ、文協コーラスの3つの合唱団から参加した45人が美しいハーモニーを聴かせた。 文協の呉屋会長は「今回両殿下が再び来てくれたことを何より嬉しく光栄に思う。今日こうして式典を開催でき嬉しい。私は5歳の時に家族と共に移民して来た。夢と希望を持って移民した人々は厳しい環境の中でも日本に対する愛情と尊敬を忘れたことはなかった。現在では子弟の一人一人がブラジル各地で活躍し、社会に貢献している」とあいさつを述べた。 続いて秋篠宮殿下から「私たちは先ほど(28日午後1時15分)、イビラプエラ公園内開拓先亡者慰霊碑に献花をして参りました。日伯両国の発展に尽くされた先駆移住者に対して改めて敬意を表します」とお言葉を述べられ、前回訪れた1988年の移民80周年式典での思い出を挙げ、「30年近く経った今でも鮮明に覚えています」と語った。「当時、私と同世代だった日系人の皆さんも今では社会の中心として活躍されています。また、若い世代の皆様がこれからも両国の友好の懸け橋として活躍されることを心から祈っております」と話された。 殿下は来場者が聴きやすいようにマイク位置を直すなど、さり気ない配慮を見せられた。会場は静まり返り、殿下のお言葉に耳を傾けた。 その後、レオナルド君から殿下へアララ・アズールの石の置物が贈呈され、ジェシカさんが紀子さまへ花束を贈呈した。...
「100周年記念学校」で大歓迎 アカコヤグアにある日系協会会館(文化センター)内では、浴衣を着た10歳前後の地元の女の子8人が「もみじ」を合唱し、一行を歓迎してくれた。 その後、あいさつに立った春日カルロス氏は「私が榎本殖民団入植90周年(1987年)でここ(アカコヤグア)に来た時、椰子の葉でできた学校に当時13人の生徒がおり、その中の5人は日系人の名前を持つ生徒がいたことに感動した」というエピソードを紹介し、その後の98年4月に日本政府からの機材協力などを得て、同協会を建立したことを説明。さらに、移住100周年(97年)を記念して地元の中学・高校を「日本移民100周年記念学校」と名付けたとし、同校の卒業者には1週間、メキシコシティに招待しているという。 「美しい花を咲かせるには枝、幹、根を大事にしないといけない。それと同じ思いで、この町を栄えさせたいと思って頑張っている」と春日氏は自らの熱い思いを語った。 同協会のすぐそばには生徒たちの寄宿舎があり、それも春日氏が寄付したという。そのことを教えてくれたのは、パラグアイのピラポ移住地で生まれ育った村久木(むらくき)由美さん(44)。主人がアカコヤグア出身の日系3世で、日本で出会った。主人の仕事の関係で由美さんも日本に住んでいたが、2011年3月に発生した東日本大震災により、4年前に幼い子供2人を連れてアカコヤグアに来た。主人はまだ日本で単身赴任で働いており、「1年に4回ぐらい、春日さんがアカコヤグアに来る時にお手伝いしているんですよ」と流暢な日本語で教えてくれた。 春日氏の案内で協会から歩いてすぐ近くの「日本移民100周年記念学校」に行くと、炎天下の蒸し暑さの中で日墨両国旗とともにブラジル国旗を振りながら、学校の制服やジャージを着た生徒たちが明るい笑顔で一行を迎えてくれた。学校の外から中へと列をなして続く皇室関係者のような大歓迎を受けた一行は、中学校の中庭広場で学校関係者手作りのメキシコ料理をご馳走になった。 その後、生徒たちのマリンバ演奏と民族舞踊が披露され、色鮮やかな衣装と踊りに見入っていた。 同高校の野村マルチンス校長によると、同校の生徒は中高合わせて約1500人が在校し、高校には約600人が通っているそうだ。 同校の中学校に通っている小向まゆみさん(14、3世)は、日本で生まれて11年間を日本で過ごし、祖母が病気のため3年前に母、兄と一緒にアカコヤグアに来たという。「スペイン語はまだまだですが、友達もできてすごく楽しいです」と笑顔を見せながら、同級生たちと親しんでいる様子だった。 一行は、生徒たちとの名残を惜しみながら午後4時過ぎに同校を出発。「榎本殖民団」がメキシコへの最初の一歩を踏みしめたマデロ海岸へと向かった。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月30日付
慰霊碑前で先人への思い偲び 「権力者の場所」の意味を持つというアカコヤグアではまず、午後0時40分に「カサ・デ・ディスカンソ(安らぎの家)」でバスを下車し、地元の日系人たちの出迎えを受ける。バスの外に出ると青空に白い雲が浮かんでおり、熱帯の蒸し暑さを感じた。 1987年、「榎本移民団」入植90周年を記念して建てられた同所の敷地内には、榎本移民とその子孫たちの墓があり、市役所が管理しているという。その周りにはメキシコ人の土葬の墓もあり、水色やピンクに塗られた原色が目にまぶしい。 屋根があるだけの「カサ・デ・ディスカンソ」には、正面の壁に先人の遺影などが奉られており、本橋幹久県連会長と同行した和久井伸孝日墨協会会長が献花した。 メキシコシティの日墨協会での夕食歓迎会にも出席したメキシコ日系社会の名士「ドン春日」こと春日カルロス氏も姿を見せ、118年前の1897年に36人の日本人移住者が最初の入植地として足を踏み入れた経緯を説明。「残念ながら現在はほとんどの日系人が混血で、日本語も話さないが、心はまだ日本人である」と強調した。 本橋県連会長は「ブラジルの笠戸丸移民の11年前にこの地に、中南米初の日本人が最初に移住されたことに敬意を表します」とあいさつ。アカコヤグア市役所を代表してあいさつした職員のガブリエル・クルス・アントニオさんは「アカコヤグアに日本人が入植したことに感謝しており、今回(ふるさと巡りの)皆さんが来てくれたことでブラジルとメキシコと日本をつなぐパイプがつながったことを嬉しく思う」と述べ、歓迎の意を示した。 アントニオさんたち職員の案内で敷地内にある初期移民たちの墓を見せてもらうと、「カサ・デ・ディスカンソ」の奥まった所に、ひときわ丁寧に日本人及びその子孫たちの墓が安置されていた。時間の関係でゆっくり見ている暇がなかったが、メキシコ式の墓石には「MATSUI」「KOMUKAI」「HORITA」など日本人の苗字が刻まれているのが見えた。 その後、一行は中央公園にある「榎本殖民記念」と書かれた記念碑にバスで移動。午後1時過ぎから同記念碑前で慰霊セレモニーが行われた。それにしても暑い。真上からの陽射しが照り付ける炎天下の中、汗がしたたり落ちる。 セレモニーでは、市長を2回歴任したことがあるという日系3世のガリレオ・コムカイ氏(59)が、同碑が1968年6月に地元日系人の厚意で建立されたことを説明した。改めて、本橋県連会長と和久井日墨協会会長が慰霊碑前で献花し、黙とうを行った参加者一行は「榎本殖民団」への思いを偲んだ。 ちなみに、記念碑の反対側には、「夏草や つわ者共の 夢の跡(原文ママ)」の文字が刻まれており、その下にあるプレートには「榎本殖民団」36人全員の名前がアルファベットで岩手、愛知、兵庫の3県別に記されている。 セレモニーに参加していたコムカイ氏の子息であるラモス・コムカイさん(29、4世)は、10月にデンデ椰子の研究で15日間、ブラジルのマナウス市で研修を行うとして、笑顔を見せていた。 記念碑前で記念撮影した一行は、中央公園付近にある市長舎内を見学した後、同市内の「カルロス・カスガ通り」にある日系協会会館(文化センター)に移動。関係者の歓迎を受けた。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月29日付
日本ブラジル外交関係樹立120周年を記念して来伯されている秋篠宮ご夫妻は28日午後1時15分、ブラジルで最初の公式行事としてサンパウロ市イビラプエラ公園内にある日本移民開拓先亡者慰霊碑を参拝された。 気温24度の曇天の中、慰霊碑では本橋幹久県連会長、慰霊碑運営委員会の原島義弘委員長、杉本教雄副委員長、県連前会長の園田昭憲氏の4人と、急きょ駆け付けたフェルナンド・ハダジ聖市長が慰霊碑に向かう道路脇で専用車から下車されたご夫妻を迎え、慰霊碑まで先導。県連傘下の各県人会関係者ら約80人が日伯両国旗を振りながら歓迎の拍手を送った。 秋篠宮殿下は紺とシルバーのストライプのネクタイをご着用。紀子さまは白い帽子に首には真珠のネックレス、ベージュ色のスーツとスカート姿で訪問され、本橋会長、原島委員長の先導で慰霊碑階段前で一礼された後に登壇された。慰霊碑前でさらに一礼されたお二人を前に本橋会長が1975年に建立された慰霊碑建立の経緯を説明。初期移民たちが耕作地を転々とし無縁仏が多かったこと、地方の移住地では1歳や2歳など幼少で亡くなっているケースが多かったこと、慰霊碑建立後は毎年6月18日の「日本移民の日」に各県人会から過去帳を持ち寄って慰霊法要を行っていることなどを話した。秋篠宮殿下は「県連が(慰霊碑を)管理されているのですか」などと興味深く質問され、先人への思いを馳せられたようだ。 ご夫妻が献花され慰霊碑に向かってお辞儀された後、原島運営委員長が「今日はお越しいただき、ありがとうございます。日系190万人に代わってお礼申し上げます」と謝辞を述べた。 本橋会長はご夫妻の印象について「思っていた以上に親しみやすいお方でした」と話していた。 ブラジル日本会議顧問で、県連嘱託で慰霊碑の管理・清掃作業を継続して来年で20年になるという村崎道徳さん(83、2世)はご夫妻のご来伯について、「誠におめでたいことで、ブラジル国民にとってこの上なく嬉しいことです。皇室の方がお健やかにここまで来ていただいて、ただただ、ありがたいことです」と感激した様子だった。 秋篠宮ご夫妻はその後、本橋会長の先導で午後1時30分に隣接する日本館に移動。途中、沿道に立っていた5、6人の駐在員夫人たちに「こちらにお住いですか」などと気軽にお声をかけられ、日本館に入った。 なお、日本館での様子は30日付で掲載する予定。 サンパウロ新聞 2015年10月29日付
伝統芸能の「広島神楽」で盛り上げ ブラジル広島文化センター(平崎靖之会長)は25日午前10時から、「創立60周年記念式典」をサンパウロ(聖)市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会大講堂で盛大に開催した。広島県から湯崎英彦県知事、平田修己県議会議長、松井一實市長、永田雅紀市議会議長、町村会の吉田隆行会長、聖州マリリアと友好姉妹都市提携を結ぶ東広島市の蔵田義雄市長、広島日伯協会の白井孝司会長らを中心に65人の大型慶祝団が来伯した。 当日は、日伯両国歌斉唱、先亡開拓者慰霊への黙とうと続き、平崎会長は「こうして60周年を迎えることができますのも、私たちブラジルに住む県人と母県の心の通った関係があったからこそです」と式辞を述べた。 来賓には、日本からの慶祝団各代表者らをはじめ、県連の本橋幹久会長ら日系3団体代表、中前隆博在聖総領事、那須隆一JICAブラジル事務所所長などが臨席した。 中前総領事は「60周年というのは人で言うところの『還暦』に、120周年というのは『大還暦』にあたります。センター創立60周年と日伯外交関係樹立120周年の2つの還暦が重なる大変おめでたい年に、参加できますことを心より嬉しく思います」と祝辞を述べた。 湯崎県知事は「世界第7位の経済大国となったブラジルにおいて、ブラジル広島文化センターが確固たる地位と信用を築いておりますのは広島県民の大きな誇りであり、大切な宝でございます。また在外県人会は地域の日系人社会に重要な組織であるとともに、本県と各地を結ぶ友好の懸け橋となっております。本県がグローバル化の中で発展していくための大きな資産であると考えております」と感謝の意を表した。 広島県と同センター間での記念品の相互贈呈も行われ、広島県からは厳島神社が描かれたしゃもじ(安芸の宮島の特産品)、掛け軸、お盆など8種類を同センターへ贈った。 県知事表彰では、高齢者13人(榎一子、岩見四郎、中森昭七、樽本譲治各氏ら6人出席)、功労者4人(大西博巳、落久保博、森永みのるカーロス、棗田正行各氏4人出席)が表彰され、表彰状と記念品の贈呈が行われた。 式典終了後は祝賀会へと移行。鏡割りとケーキカットが行われ、慶祝団らとともに盛大に祝福した。昼食後はサンバショーも披露され、会場は終始賑やかな雰囲気に包まれていた。   ◆広島神楽 広島の伝統芸能「広島神楽」の公演会は午後3時から午後5時頃まで同会場で行われ、2階席の半分までが埋まるほどの人気ぶりとなった。広島県から来伯した神楽団及び関係者ら25人が「紅葉狩り」「八岐大蛇」の2演目(各40分間)を、ブラジル神楽保存会が「恵比須」(20分間)を披露した。ドライアイスを用いて怪しい煙を、幾重にも巻かれた細長い紙で鬼が放つ蜘蛛(くも)の糸を表現した場面も見られた。また、来場者に配布するプログラム資料には日伯両語で演目の解説が施され、日本語の分からない人でも演者の台詞を理解できるように工夫されていた。公演終了後の会場からは、「ビバ(万歳)」の歓声が上がった。本場の広島神楽を鑑賞した平崎等美さん(61、3世)は「感無量です。来年の日本祭りにぜひ、来てもらいたいですね」と微笑んだ。 広島神楽は同県内で神楽団数100団体を超え、演目数は70以上にも及んでいる。団体によって個性が違う広島神楽だが、今回演じた17人の神楽演者の多くは異なる団体に所属している。ブラジル公演のために組織された特別チームで、各演者たちは仕事の日程を調節し、半年前から週末の休みを利用して練習に励んできたという。 神楽団員の崎内俊宏氏(59、広島)は「滅多にない機会でしたので最高の神楽を届けようと、全体で動きを統一するための『すり合わせ』を20回以上も行い、入念に準備してきました。公演会では、日本に比べてブラジル人の観客は盛り上げて下さったので、団員全員が 舞を気持ち良く踊れたと思います」と感想を述べた。 サンパウロ新聞 2015年10月29日付
ブラジル宮城県人会(中沢宏一会長)主催の「第1回農業セミナー」が、11月7日午前10時から午後3時までサンパウロ市リベルダーデ区の同県人会館講堂(Rua Fagundes,152)で開催される。 セミナーでは4人の農業関係者が講演を行う。発起人である農業技師の長井邦夫(76、3世)氏は「持続可能な農業」と題し、持続的農業の知識や技術について話す。 来社した長井氏によると持続的農業とは「土の再生」。「農業の基本は土。栽培を続けるうちに破壊されてしまった土では良い作物は育たない。土を再生維持することが良い作物栽培につながる」という。「ブラジルでも農家の数は減少している。正しい知識ややり方を知ってもらい、農家が儲かるようにしたい。農業が良くなると、国や政治も良くなる。今後は色んな専門家を招へいし、定期的にセミナーをやっていきたい」と長井氏は展望を話した。 入場無料。講演はポルトガル語のみ。問い合わせは同県人会(電話11・3209・3265)または長井氏(セルラー電話99939・6480)まで。 サンパウロ新聞 2015年10月29日付
ニッケイ新聞 2015年10月29日 日伯外交樹立120周年を記念し28日、秋篠宮同妃両殿下が着聖された。27年ぶりのブラジルご訪問では、初日昼から市内のイビラプエラ公園を訪問され、慰霊碑参拝、日本館をご視察された。その後はサンタクルス病院のご視察、文協での歓迎会などにご出席された(後日詳報)。 28日朝、ブラジルに到着された秋篠宮ご夫妻は昼過ぎ、聖市内のイビラプエラ公園にある先没者慰霊碑を参拝。県連の本橋幹久会長、原島義弘、杉本教雄副会長、フェルナンド・ハダジ聖市長ら関係者70人あまりが出迎えた。 本橋会長が慰霊碑について解説し、殿下が献花して一礼。原島副会長が「全伯の日系人を代表してお礼申し上げます」と謝辞を述べた。本橋会長は「初めは恐縮してぎこちない会話だったが、親しみやすい雰囲気を出して頂いた」と人柄に触れ、来訪を喜んだ。 その後は隣接する日本館をご訪問。入り口では市内にある「ミラソル」「ピオネイロ」の両日系学校に通う児童約100人が両国の小旗を振りながら、文協の呉屋春美会長ら役員に迎えられた。敷地内でイペーを植樹し館内へ。鯉に餌をおやりになり、植物の前では足を止めじっくりと聞き入る姿も見られた。 両殿下は、見送る児童らに声をかけながらイビラプエラを後に。ピオネイロの久保田アケミさん(13、三世)は、紀子さまから「学校は楽しいですか? 日本語は勉強しているのですか?」と質問され、「『バレーが楽しいです』と答えた。驚いたが間近に見られて嬉しかった」と喜んだ。 日本館を解説した相良クリスチーナ泉・運営副委員は、「私の解説よりも先にパウ・ブラジルを見つけ、『あれがパウ・ブラジルですね』とお話になり驚き。秋篠宮邸にはパウ・ブラジル製のテーブルがあるとも話されていました」と振り返り、動植物への関心の高さを伺わせた。 イビラプエラ公園を発った両殿下はサンタクルス病院、文協へ。夜には市内のホテルにて、JICAや日本語センターの関係者とご懇談した。今日29日は午前中に憩の園をご訪問、サンパウロ大学で学長、学生らと懇談される。午後にはブタンタン毒蛇研究所をご視察し、夜は聖州政府の歓迎レセプションに出席される。 30日にはパラナ州クリチバの記念行事などにご出席される。翌日は北パラナのロンドリーナ、ローランジャ、マリンガを訪れ、1、2日には南麻州カンポ・グランデに足を運ばれる。 3、4日はパラー州ベレンへ向かい、アマゾン川や市場、博物館を視察される。日伯修好通商条約を締結した5日には、首都ブラジリアにて連邦議会の記念式典、ジウマ大統領との面会も予定。7日はリオへ移動され、8日の離伯まで各地で政府関係者、日系団体らと交流する。
聖市皮切りに10都市をご訪問 【既報関連】日本ブラジル外交関係樹立120周年を記念して、秋篠宮ご夫妻がきょう28日午前、最初のブラジル訪問地であるサンパウロ(聖)市に到着される。ご夫妻は日本を27日に発たれ、ドイツを経由してきょう28日とあす29日に聖市の各種公式行事にご臨席。その後、パラナ、南マット・グロッソ、パラー、ブラジリア、リオ各州の全10都市を訪問され、11月10日にご帰国になる。聖市での2日間にわたる公式行事ご日程は次の通り。 【28日】最初の訪問地である聖市には28日午前にご到着。午後から最初の公式行事としてイビラプエラ公園内の日本移民開拓先亡者慰霊碑に献花された後、引き続き、慰霊碑に隣接する日本館を訪問される。 サンタ・クルス病院では、新記念碑の除幕や日系人医師らとのご懇談も予定されている。 ブラジル日本文化福祉協会ビル内では、日系団体代表者約100人とご懇談。その後、同ビル内の移民史料館をご視察後、記念講堂で日系社会歓迎行事に臨席され、秋篠宮殿下から「お言葉」がある予定。 夕方、ブラジル日本語センター関係者及びJICA派遣日系社会ボランティアたちとも接見される。 【29日】29日午前、救済会憩の園(老人ホーム)をご訪問。引き続き、サンパウロ総合大学(USP)本部キャンパスを訪問され、同大学学生たちとご懇談。午後からはブタンタン毒蛇研究所をご視察後、聖州政庁でジェラルド・アルキミン州知事とご引見の予定。その後、州知事及び在聖総領事館共催の歓迎レセプションに出席される。 サンパウロ新聞 2015年10月28日付
ニッケイ新聞 2015年10月28日 「富士山通り」に日墨会館は建っている。大きな駐車場にバスが着くと、役員、会員のみなさんが入母屋式の会館前で迎えてくれた。 第二次大戦中、日本とメキシコは国交断絶し、当時メキシコ市にあつた日本公使館の資金が凍結された。しかし平和条約締結後、55年には日墨文化協定が結ばれ、56年には凍結資金全額(約2200万円)が解除返還された。これを日本政府側は、「両国の親善と文化交流に役立てよう」と地元日系社会で創立された「日墨協会」の会館建築費に充てた。 創立者であり会長も務めた松本三四郎氏が1万平米の土地を寄贈、コロニアからの浄財も集め、まさに官民一体となった事業だった。いくつかあった日系団体も吸収一本化され、名実ともにメキシコ日系人を代表する団体となっている。 会館内には、レストランや図書館、日本語教室、プールを含むスポーツ施設なども完備、多くの日本文化イベントも行われている。 一行は美しく広がった日本庭園に感嘆の声を上げながら会場へと向かった。本橋会長は、和久井伸孝会長、メキシコ日系社会の〃顔〃である春日カルロス顧問らとともに、日系人の塔へ献花、記帳も行い、榎本移民に始まる日本人移民、日系人らの冥福を祈った。会場は約150人で埋まり、協会のコーラスで迎えられた。各県別に分かれて座った。和久井会長、04~07年にブラジル大使館に参事官として勤務した清水亨公使らが歓迎のあいさつを述べ、春日顧問は、「メキシコの日系人はブラジルの1%しかおりませんが、みなさんの100倍頑張っています!」と会場を沸かせた。 メキシコ音楽の演奏や余興もあり盛り上がった。同じハッピを着込み歓声が上がっていたのは長野県人会のテーブル。ブラジルの県人会役員が、今回のメキシコ訪問を受け、母県に橋渡しを頼んだ。司会を務めた中村剛副会長(62)や、春日顧問も県系ということで大い交流を深め、「今度はブラジルで会いましょう!」と再会を誓い合っていた。 翌日、都市遺跡「テオティワカン」へ。紀元前2世紀に建造されたとされる宗教都市跡だ。入口から見える月のピラミッドが壮観だ。高さ65、底辺の1辺は225メートル。登っている人の大きさからその偉容ぶりが分かる。階段も248段あると聞き、多くの人が途中まで登るだけで記念撮影を楽しんだ。 時間もないので(このツアーは常に時間がないのだが)、さっそく登ろうと同室者の内村さんに「では後で…」と挨拶すると「自分も登る」というので驚いた。手すりがあるとはいえ、かなり急なので怖い。転げ落ちると事なので、記者は勝手に後ろについた。 登り切るとはるかに広がるメキシコ盆地の風景が清々しい。1万人が10年をかけ作られたという。ここに20万人が住んでいたのだろうか―。ふと気がつくと観光客で一杯となっている頂上部分に内村さんがいない。 大丈夫かなと思いつつ、下までたどり着くと「遅いですよ~」とばかりに笑っている。この調子では、エジプトのピラミッドでも香川県の金毘羅さんでも大丈夫そうだ。長寿の御利益があるのではと、スーパー80歳の後ろ姿をこっそりと拝んだ。(堀江剛史記者)
念願のアカコヤグアへ 昼食後、7人の団員が一行より先行してチアパス州都のトゥクストラ・グティエレスへと向かい、午後2時40分にメキシコ・レストランを出発したそれ以外のメンバーは、メキシコシティにある国立人類学博物館に行く予定になっていた。 ところが、この日(9月27日)は日曜日である上、同博物館内ではブック・フェア(フェイラ・デ・リブロ)が実施され、入場するのに400メートルの列ができているとの情報が入った。 結局、時間がないとして、国立人類学博物館見学は最終日の30日午前に振り返られ、その時間を利用して団員からの希望もあり、メキシコシティ内の土産物屋に行くことになった。 土産物屋は、奥に行けば行くほど迷路のように入り組んでいる。民芸品やメキシコ名物のソンブレロ(つばの大きい帽子)、「ルチャ・リブレ(自由な戦い=プロレス)」のマスクやTシャツなども所狭しと置かれていた。 ただ、ここでの買い物時間も30分と少なく、ゆっくり買い物を楽しむ時間がないことから一部の団員からは苦情も出ていた。 午後5時10分、空港に到着し、トゥクストラ・グティエレスへ国内移動するためにアエロ・メヒコのカウンターで搭乗手続きを行うが、ブラジルと同じく係員の段取りが悪いのか遅々として受付作業が進まず、結局、全員が搭乗手続きを済ませるまで約1時間半を要した。 それでも午後9時半出発の飛行機までには、まだ2時間半以上も時間がある。一行は空港内レストランで夕食を取ったが、記者たちはガイドの許可を得て、近くのフードコートでビールを飲んで搭乗までの時間を待った。 午後9時半発のトゥクストラ・グティエレス行きの飛行機には、日墨協会の和久井伸孝会長も同行してくれた。南東へ約800キロ離れた同地へは午前0時ごろに無時到着。ホテルに着いたのは午前1時を回っていた。◎   ◎4日目の9月28日。この日はいよいよ「榎本殖民団」が入植したアカコヤグアを目指す。 一行は午前7時からの朝食で、朝からボリュームのある食事をたっぷり取っている。それにしても感心するのは、ふるさと巡り参加者が比較的高齢者が多いにも関わらず、皆さん元気なことだ。朝から晩までのハードスケジュールで今回は特に移動も激しいが、ほとんどの人が文句を言うこともなく旅行を楽しんでいる姿には本当に頭が下がる。 午前8時、一夜限りのホテルをチェックアウトして出発する。トゥクストラ・グティエレスの海抜は約500メートルで日中は30度を超える暑さになるという。南に約300キロ離れたアカコヤグアはさらに暑く、太平洋に近いため湿気も多いそうだ。 一行は途中、午前10時ごろのトイレ休憩を挟んで、約4時間半バスに揺られた。午後0時半、アカコヤグアに到着。こじんまりとした町中には、オート3輪タクシーが走り回っていたのが印象的だった。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月28日付
ニッケイ新聞 2015年10月27日 ブラジル秋田県人会(川合昭会長)は25日、「創立55周年式典」を聖市内の三重県人会で開催した。母県から佐竹敬久知事、渋谷正敏県議会議長ら27人の訪問団を迎え、約200人が参加した。記念品の交換などが行われ、祝賀会ではカーニバル隊の参加や訪問団によるドンパン節も。節目の年を祝うと共に、両者の絆がさらに深まる式典となった。 同会は1960年、会員45人で発足した。同県人会館は近年、建物への落書きや壁の老朽化が進んだことから、母県から2200万円の支援を受けこのたび改修を終え、24日にはテープカットも行った。 母県から佐竹知事、渋谷県議会議長および議員、秋田市副市長、湯沢市の高久浩二ふるさと応援大使、地酒「高清水」で有名な秋田酒類の平川順一社長、秋田テレビから佐藤真弓制作部専任部長らが来伯。 式典では日本からの訪問団27人および、中前隆博在聖総領事、菊地義治援協会長、林まどか文協副会長、本橋幹久県連会長、羽藤ジョージ州議らが出席した。川合会長はあいさつで、「仲良く楽しくが県人会のモットー。さらに前進しよう」と呼びかけ、改修への支援に対して謝意を述べた。 佐竹知事は「地理的には離れているが、同じ秋田県人。古里を愛し、発展を願う気持ちに隔たりはない」と語った。秋田県と県人会が互いに記念品を贈呈した後、佐竹県知事から日系3団体へ寄付金が送られ、本橋県連会長が代表謝辞を述べた。県費研修生の代表スピーチで3年前に留学したデニーゼ・ニシオカさん(29、三世)は、「生まれて初めて見た雪に大変感動した。最も印象に残っているのは秋田の人たちのおもてなし」と涙ぐみながら話した。 ケーキカット、鏡割りの後、祝賀会でカーニバル隊が現れると、訪問団員も県人会員も踊りに参加。続くドンパン節では、訪問団が汗だくになりながら陽気に踊りを披露した。記念撮影の後、「ふるさと」を皆で合唱して式典は幕を閉じた。 桜庭照子さん(84)は「古里の人たちの方言が聞けて、本当になつかしい」と感激した様子で話した。大間知康夫さん(28、三世)は、「県人会の結びつきも弱くなっているが、慶祝団一行が来てくれたことで絆をさらに強くする。こういう交流は本当に大切」と笑顔で語った。   □関連コラム「大耳小耳」□ 会館リフォームに2200万もの支援があった秋田県人会。この大型支援の理由を佐竹知事に聞いたところ、「言わば県人会は県の出先機関で市役所や町役場と同じ。支援は当然」とか。会員数が下から10番目という秋田県人会、今後の活動で県の思いにしっかり応えていってほしい。
ビラカロン沖縄県人会(上原テーリオ会長)とウエルカム・プロ(木本マルシオ取締役)主催の「第13回沖縄フェスティバル」が11月7日午前11時~午後9時、8日午前11時~午後8時にサンパウロ(聖)市ビラ・カロン区の同県人会館そばの広場(Praça Haroldo Daltro s/n)で開催する。案内に上原会長、木本氏、照屋武吉実行員長が来社した。 毎年多くの来場者で賑わう同イベントだが、今年の目玉は沖縄のバンドで、日本でも人気を誇るBEGINのショー。BEGINは今回が3回目のブラジル公演で、前回の訪伯時には在聖総領事館元職員の坂尾英矩氏からブラジル音楽の1つ「マルシャ」を紹介されたという。それ以来、日本でのコンサートでも披露を開始。「ビギンのマルシャ、ショーラ」(ショーラとは沖縄の方言で『…しようよ』の意)という作品を今年の夏に発表し、ブラジル文化を日本に伝えている。 「今まで違ったBEGINが観れるはず。マルシャショーラを聴きにぜひお越し下さい」と一行は来場を呼びかけた。 当日は琉球舞踊や沖縄太鼓、空手ショーなどが一日中ステージで披露され、会場では沖縄料理はもちろん、世界各国の料理が販売される。 入場無料だが、保存食1キロを持参のこと。問い合わせは同県人会(電話11・2296・1120)まで。 サンパウロ新聞 2015年10月24日付
神秘的なテオティワカン遺跡 テオティワカン遺跡に到着したが、ピラミッドの見学を前に我々第2グループは先に土産物屋へと連れて行かれる。土産物屋には、高さ2メートル以上もある巨大なリュウゼツランがあった。リュウゼツランはメキシコ名産の「テキーラ」の原料として有名だが、ここではアルコール度数が5%と低い発酵酒を作る様子が説明された。 メキシコには世界に260種類あるリュウゼツランのうち、約150種類があるという。土産物屋の女性がリュウゼツランの茎の先から内側にある薄い膜を取り出した。ビニール繊維のような薄い膜は昔、原住民が紙の代わりに絵を描いたりしたとし、その繊維で織物などを作っていたそうだ。 土産物屋にはテキーラをはじめ、黒曜石や数々の装飾品などが販売されていたが、結構値段が高い。しかし、毎日のスケジュールが詰まったふるさと巡り独特のハードな旅程の中で土産物をじっくり買う時間がほとんどなく、「買える時に買っておくか」と仕方なくテキーラなどを購入した。後でテオティワカン遺跡内にも小さな土産物屋がたくさんあり、我々が連れて行かれた土産物屋よりもはるかに安いことを知ったが、「後の祭り」だった。 おまけに、遺跡内には黒曜石や装飾品などを売り付けてくる地元民が多く、怪しげな日本語で「見て、見て」「これほとんどタダよ」などと、しつこく言い寄ってくるのには閉口した。 気を取り直してガイドのセサルさんの説明を聞く。それによるとテオティワカンには、西暦550年ごろまでメキシコで人口が最も多かった約20万人が住んでいたとし、その7割が芸術家で、残りの3割は農業生産者、商人、神官、数学者や天文学者だったという。 また、遺跡内にある月のピラミッドは正面が南に向いており、太陽のピラミッドは西に向いている。当時の住民にとって太陽の沈む西方向が「死者の世界の入口」=「聖地」とされ、死を超えてまた「生の世界」に戻ると信じられていたそうだ。 説明を受けた一行は、「月のピラミッド」には登らず、「死者の大通り」を歩いて「太陽のピラミッド」を約30分の時間に区切られて登ることに。その理由は、この日第2グループを中心にした7人のメンバーが旅行会社か何かの手違いで、当初の予定より早くチアパス州都のトゥクストラ・グティエレスに行くことになったため、団体行動として7人に時間を合わせることになったと、ブラジルから同行したガイドから聞かされていた。太陽のピラミッドの祭壇広場では原住民による宗教儀式が行われており、鳥の羽根を施した帽子をかぶったり、赤い鉢巻をして顔にペイントした人々が太鼓や笛の音色に合わせて踊っていた。 時間がない我々は、それを尻目に太陽のピラミッドへと登るが、階段は結構急でところどころワイヤーの手すりもあるものの、息切れがするほどだ。日曜日とあって観光客も多く、階段と頂上は人々でごった返していた。 それでも頂上から見える景色は雄大そのもので、これだけの遺跡が存在することに歴史と神秘さを否応無く感じさせられた。 予定時間の午後0時50分にバスを停めている駐車場に集まり、午後1時にテオティワカン遺跡を慌しく出発。地元のメキシコ料理店で昼食を取った。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月24日付
ニッケイ新聞 2015年10月23日 ブラジル沖縄県人会ヴィラ・カロン支部(上原テーリオ会長)が『第13回沖縄祭り』を11月7、8日両日午前11時から、同支部前サッカー場(Praca Haroldo Daltro, 297)で開催する。入場無料。それぞれ午後9時、同8時まで。 特別ゲストとして沖縄県出身で日本の人気バンド「BEGIN」が公演を行う(時間帯は未定だが両日夕方以降)。例年2万人の来場者を数える同祭を一層盛り上げる。 過去2度の伯国公演を通し、当地の伝統音楽「マルシャ」に影響を受けたBEGINは、今年6月アルバム『ビギンのマルシャショーラ』を発売。自身の楽曲をブラジル風にアレンジした作品を収録し、当日は同作からも演奏されることが予想される。 ほかにも舞台ではレキオス芸能同好会など、総勢600人の太鼓隊が登場。琉球舞踊、バンド演奏等も加わり、絶えず舞台を盛り上げる。また沖縄空手の模擬演技には大迫力の400人が登場する。 食事も沖縄そばやサータアンダーギー(沖縄風ドーナツ)や山羊汁(ヒージャージル)等の沖縄料理や各種日本食のバザリスタが100店軒を並べる。 上原会長と照屋武吉実行委員長は「ブラジル中の県人が集まるお祭り。五感で沖縄を味わって下さい」と呼びかけた。 またブラジル側でのBEGINのコーディネーター・木本マルシオさんは、「メンバーは『ちょうど条約が調印された11月にライブができるのは特別なことだ』と話している」と明かした。 問い合わせは同支部まで(11・2296・1120)まで。
グアダルーペ聖堂を見学 3日目の9月27日、ふるさと巡り一行は世界遺産のテオティワカン遺跡に向かうため、ホテルをチェックアウトして午前9時に出発した。この日は夕方から、チアパス州都のトゥクストラ・グティエレスまで飛行機での国内移動となる。、 メキシコシティから北東に約40キロの距離にあるテオティワカン遺跡は、高さ65メートルに及ぶ「太陽のピラミッド」や高さ45メートルの「月のピラミッド」などがあることで有名だ。 この日は日曜日ということもあって平日よりも道は空いているようで、一行はまずバスで約30分の距離のグアダルーペ聖堂を見学する。93%がカトリック教徒で占められるというメキシコでは、「褐色の聖母」が安置されている同聖堂は最も重要な場所と言われ、一行が聖堂を訪れた際もミサが行われており、数多くの信徒や観光客が詰め掛けていた。 ガイドのセサルさんによると、1531年12月9日にアステカ人のフアン・ディエゴの前に聖母が現れて父親の病気を治し、その時に聖母から司教への印としてフアン・ディエゴが花をマントに包んで持っていったところ、マントには聖母の姿が映し出されたエピソードがあるという。そのマントに映し出された聖母の姿は、現在も新聖堂内に額入りで飾られている。 一行はセサルさんの説明を聞きながら、まずは旧聖堂の外観を見学。旧聖堂は18世紀に建てられたという古い建築物のため、地盤沈下の影響で聖堂そのものが傾いているのが肉眼でもはっきりと分かる。 続いて、1974年に造られたという新聖堂でのミサが行われている中、一行は祭壇中央の地下を通って、大型のメキシコ国旗に包まれるように展示された「褐色の聖母」の額に見入った。ちなみに、新聖堂を建設したのはラミレル・バスケスという有名な建築家で、86年に開催されたメキシコ・サッカーW杯会場となったアステカ・スタジアムをはじめ、国立人類学博物館や在メキシコ日本国大使館なども建設した人物だという。午前10時過ぎ、グアダルーペ聖堂を後にした一行は、改めてテオティワカン遺跡へと向かう。途中、車窓からは赤、青、黄色など色鮮やかな家々が山の斜面にびっしりと張り付いているのが見えた。 セサルさんによると、これらはメキシコのスラム街だという。今年は6月に行われた州知事選挙をはじめ、下院議員や州議員などの統一地方選挙が年内に実施される。そうした中、各政党が自分たちの政党カラーを支持する住民にペンキを与え、その政党のカラーペンキを家の壁に塗った人には200~500ペソ(約1400~3500円)の買い物カードが配られたとし、政治家のバラまき政策が横行しているそうだ。 ブラジルでも現政権でバラまき政策が公前と行われているが、メキシコの政党や政治家も同じようだ。 午前11時前、一行は目的地のテオティワカン遺跡に到着した。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月23日付
「週刊日墨」の思いを語る荻野さん 日墨協会(和久井伸孝会長)の歓迎夕食会では、8年前から活動しているという同協会コーラス部混声合唱団15人が「ふるさと」をはじめ、メキシコの歌及び東日本大震災支援曲「花は咲く」を熱唱。また、同協会の会員女性がカラオケを披露し、会場を沸かせた。 食事の前後にメキシコ側の出席者に話を聞いた。 メキシコ沖縄県人会会長の高良アルシデス英樹さん(57、3世)は、サンパウロ市のツクルビー区生まれ。母親がリューマチのため、13年間一緒に神奈川県に住んでいたことがあるが、メキシコに移住して既に17年が経つという。現在、ワインやビール等のアルコール類とハム・チーズ類を販売する商売を行っている。「メキシコも最近は治安が悪く、泥棒も増えています」と話していた。 10歳でメキシコに来て47年が経つという松本安弘さん(57、大阪)は、メキシコ工科大学大学院研究所で太陽電池についての研究をしているとし、記者も同じ「大阪出身の松本」であることを話すと親しみを込めた笑顔を見せた。 会場で、メキシコの邦字紙「週刊日墨(にちぼく)」の代表及び編集長だった荻野正蔵さん(70、茨城)を紹介された。海外邦字紙の大先輩である荻野さんに、ブラジル邦字2紙の記者が一緒にインタビューを行う。 「週刊日墨」は1955年ごろ創刊。67年に荻野さんが日本人学校の教員としてメキシコに渡った時分に「週刊日墨」の社長が亡くなり、当時6人で構成された「邦字紙存続委員会」の一員として大使館、日系団体関係者らとともに荻野さんも加わった。 「メキシコに邦字紙がないのは恥ずかしい」というのが委員会メンバーの考えだったが、当時26歳と若かった荻野さんに白羽の矢が立ち、70年に夫人との2人体制で4ページ建て1200部の「週刊日墨」を引き継いだ。「当初は『できません』と断ったのですが、周りから『(日本人学校の仕事が終わった)午後4時からならできるだろう』と言われて新聞の仕事をやるようになりましたが、そのうち日本人学校を辞め、新聞だけでやっていくようになりました」 記事取り、写真撮影、編集、割り付けはもちろんのこと、営業、広告、発送まですべてを夫人と2人だけで行った。新聞だけでは食べてはいけないため、84年からはレストラン経営も始め、邦字紙発行の資金にした。 「引き継いだ当時は活字を一つ一つ自分で拾っていましたが、そのうちタイプレス、ワープロ、パソコンになり、タイプレスはラテンアメリカではウチが一番早かったと思います」と荻野さんは当時の生活を振り返る。 「メキシコの郵便事情により、新聞がいつ読者のもとに届くかが分からず、海外日系人協会を通じて日本の新聞の『褪(あ)せない』記事を掲載し、日系社会では催しの『ありました』記事が多かったですね。小さな日系社会では下手に書くと軋轢(あつれき)が起こります。書かないことも新聞の一つだという思いがありました」と荻野さんは、海外の邦字紙ならではの経緯も話してくれた。 90年にはそれまでの2週間に1回の発刊を1週間に1回に変更するなど気を吐いたが、結局、97年に廃刊となった。 「(97年の)榎本殖民団入植100周年までは何が何でも頑張るつもりでやりました。最後の一人の読者になるまで新聞を出したいとの思いはありました」と荻野さん。現在、メキシコには駐在員を対象に生活情報などを盛り込んだ2つのフリーペーパーがあるというが、「新聞が無くなって寂しいという声も多いですよ」と邦字紙への思いは今も大きいようだ。 歓迎会会場では、締めくくりに恒例の「ふるさと」を出席者全員で合唱し、最後は全員で万歳をしながら午後10時に「お開き」となった。日墨協会関係者たちの思いのある歓迎に、ふるさと巡りの常連参加者からは「今までの交流で最高だった」との声も聞かれた。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月22日付
ニッケイ新聞 2015年10月23日 ブラジル広島センター(平崎靖之会長、会員家族数360)は25日午前10時から、『創立60周年記念式典』をブラジル日本文化福祉協会大講堂で盛大に祝う。湯崎英彦県知事、平田修己県議会議長、松井一實市長、永田雅紀市議会議議長、町村会の吉田隆行会長、サンパウロ州マリリアと友好姉妹都市提携を結ぶ東広島市の蔵田義雄市長、広島日伯協会の白井孝司会長らを中心に65人の大型慶祝団を迎える。1955年の芸備協会発足から60年―。この機会に母県広島と関係を再確認し、日伯関係の強化に力を入れる考えだ。 ブラジル広島文化センターは2003年の会館建設を機に、日系社会はもとより、地元ブラジル人社会にも文化、スポーツ活動の拠点として親しまれている。ヨガや空手教室のほか、隣接する体育館ではバレーボールやフットサルの歓声が響く。260人を収容するサロンでは、週末に様々なイベントに利用され、カラオケ、ダンスなどの練習会場としても広く利用されている。 特記すべきは、「ブラジル神楽保存会」の活動だ。日本国外唯一の神楽団として1970年、県人会員らによって発足した。一世の減少により活動を休止したが、故郷の誇る文化をより多くのブラジルの人々に見せたいと、若い二世らを中心に活動を再開。サンパウロ市を中心にブラジル各地で公演、大きな反響を呼んでいる。 25日午後3時からは、同講堂で本場広島から来伯する20余人による公演『紅葉狩・八岐大蛇』が行われるので、ぜひ会場に足を運んでほしい。県人会唯一のデイケアサービスだった「もみじの会」も現在諸事情により中断しているが、この60周年に再開させる予定だ。平崎会長は、「目下進行中の会館リフォームを機に、活動を活発化させたい」と意気込んでいる。   ブラジル広島センター歴代会長 初代=武田義信(1955~57)、2代=竹内秀一(57~58)、3代=柞摩宗一(59~63)、4代=村上智(64~70)、5代=前野豊(70~74)、6代=池森春三(74~82)、7代=中川清人(82~85)、8代=定常大二良(86~87) 、9代=力石敏雄(88~89)、10代=田中洋典(89~90)、11代=定常大二良(91~98)、12代=田中洋典(99~00)、13代=大西博巳(01~15)、14代=平崎靖之(15~現在)。   原爆ポスター展 24日(土)~11月6日までMemorial da América Latina, Barra Funda,...