ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)は3月16日、サンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会会館で2014年度の定期総会を開催し、会員など約40人が出席した。 元留学生で監査補の山本アナ・パウラ美代子さんによって開会され、参加者全員へ感謝を述べた後、昨年亡くなった会員の冥福を祈り1分間の黙とうを捧げた。 尾西会長はあいさつで、会長としては次の総会まで継続したいとの意向を表明。「20年の間会長を務め、創立式典も40周年、45周年、50周年を行い、記念誌も発行できたことは皆様のお陰」と感謝を表した。また、県人会の運営は県庁からの補助金のお陰と強調、兵庫県パラナ州事務所所長の山下亮氏にも特別に感謝を述べた。 議長の松下大谷マルリ瞳監査がポルトガル語、酒井芳樹副会長が日本語で昨年度の事業報告。7月の日本祭りでは恒例の前田房徳氏のたこ焼きのほか、元留学生たちが兵庫海苔を販売。9月には45人が参加して恒例の親睦ピクニックを行った。11月には兵庫県農業海外研修生13人が来伯。尾西会長、尾崎俊彦副会長が出迎えたほか、奥地での各農場案内を斉藤修三監査が務めたことなどが報告された。 天野右郷会計による昨年度会計報告では、補助金を含む収入が約6万1000レアル、支出が約5万8000レアルと発表され、斉藤監査によって承認。今年度は収入約5万1000レアル、支出約5万レアルの予算を計上した。 今年度も日本祭りでのたこ焼き販売、恒例のピクニックを行うことが尾西会長から発表された。 自由発言では、松下マルリ監査が元留学生・ 研修生たちの県人会への参加の少なさについて触れ、親睦を図るため昼食会を開いたが92人中20人の参加にとどまったため、今後はもっと参加の場を増やしていきたいと述べた。 このほか、県庁が誇れるように県人会を運営し継続していくこと、留学生制度もアルゼンチン、パラグアイ3カ国から受付を開始しているが、応募者が減少していることなどを報告した。 閉会の辞で上野聖二監査(元留学生)は、県人会の参加者を増やそうと決意を発表。その後親睦昼食会では各参加者の寄付による賞品でビンゴも楽しみ、和気あいあいの中に解散となった。 2014年4月10日付
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日系軍人輩出の街、タウバテへ ブラジル日本都道府県人会連合会主催の第41回移民のふるさと巡り(本橋幹久団長=鳥取県人会長)が3月14日から17日まで行われ、スタッフを合わせた126人がバス3台に分かれてサンパウロ(聖)州東部の5都市を訪れた。一行が向かったのは、聖市から97キロ離れたサンジョゼ・ドス・カンポスの東部に位置するタウバテとピンダモニャンガーバ、南部で沿岸に位置するカラグアタツーバ、サンセバスチャン、そしてイーリャ・ベーラだ。(倉茂孝明記者) 14日午前9時半にリベルダーデ広場を出発した一行はリオ市へと続くヅトラ街道(BR―116)に乗り、約130キロ離れたタウバテの日伯文化協会の会館に正午ごろ到着した。 ここタウバテの街は17世紀前半に探検隊バンデイランテスによって興され、ミナス・ジェライス州で取れた金を運ぶ道の宿場町として栄えた。現在、人口は伯国では23番目の約27万人と多い。一行はまず昼食を取った後、市内にあるブラジル陸軍のヘリコプター基地の見学へと向かった。 日系人にとってタウバテの街は、日系2世で初めて将官となったブラジル陸軍の小原彰少将、同参謀長となった木原義一大佐、タウバテ陸軍飛行基地司令官となった清田一大佐らが活躍した地として有名。 1988年に建てられたブラジル陸軍航空基地とパイロット養成学校があり、ここで日系2世の3人の軍人たちが5カ所の基地を統括し、ブラジル全土の防衛と指揮責任のある任務に就いていた。 軍人の街らしく整然とした道を通り抜けて約170万平方メートルある広大な基地へ入った一行は、まず初めにブラジル陸軍航空隊の先駆者で士官学校の校長ともなったリカルド・カーク中尉を祀った記念碑の前にバスを止め、一行を代表して本橋団長と玉城道子氏(青森県人会長)が献花を行った。 当日説明を担当したロナウド・ロペス中佐によると、「カーク中尉はブラジル軍初めての飛行士となり守護的な存在。このモニュメントは96年に造られた」ということだ。 次にヘリコプターが管理されている大きなガレージへと案内された一行は、目の前に現れた多くの機体を前に目を輝かせた。この施設では陸海空軍すべてのヘリ コプターの整備、パイロットの養成、伯国全土を管轄した救急救難活動などを行っているそうで、現在80機のヘリコプターを整備しており、今後はより大型の ものを70機ほど整備する予定だという。 続いて30人乗りで4000馬力以上の力を持つ巨大な最新モデルの輸送機(EC725機)に案内された一行は、その大きさに息をのんだ。 機体などについて説明するロペス氏を囲む一行の一番前に立ち、ひときわ熱心に話を聞いていたのはヘリコプターを愛してやまない浜口洋さん(61、三重)。 20代で通信技術生として伯国に渡り、今では「自分で作ったヘリコプターやグライダーのラジコンを持って毎週日曜に仲間と飛ばして遊んでいる」というなか なかのマニアだ。一行がEC725の機内にも入らせてもらえる段になると先陣を切って機内に乗り込んだ浜口さんは、他の参加者同様、普段目にすることので きない操縦席などを背景に写真を撮り、生き生きとした表情で楽しんだ様子だった。 ヘリコプターから降り、ふいに「早くこっちへ来い」とある人に呼び掛けられた。「何かしてしまったか」と一瞬不安になったが、その後まさかの感動的な再会に遭遇するとは思ってもいなかった。(つづく)...
ニッケイ新聞 2014年4月4日 ミナス州アルフェナス市からふるさと巡りに参加した福元美代子さん(81、宮崎)は、「タウバテの芸能はすごかった。あれだけのレベルを地方で維持するのは大変な事」と感想を語った。コチア青年の第1回花嫁移民12人の一人として1959年に渡伯した。3年前からミナスに住む娘夫婦に世話になっており、その町には他に日本人がいないそう。「普段日本語が使えないから、この旅では日本語で冗談を言って通じるのがうれしい」としみじみ。中原浩平さん(83、長野)=リベロン・ピーレス在住=は「芸能も料理も充実していた。地元の人が一生懸命やってくれている姿が印象に残った」と満足した様子をみせた。◎♪花は、花は、花は咲く、わたしは何を残しただろう――ふるさと巡り2日目の15日昼、東日本大震災で深く傷ついた日本を元気づけた『花は咲く』をピンダモニャンガーバ日本語学校生徒約30人が合唱すると、同日伯文化体育協会(森ジョルジ会長、会員170家族)の会館を埋め尽くした一行約130人は静まり返った。タウバテから32キロほどリオ寄りの町、通称〃ピンダ〃だ。ここからカンポス・ド・ジョルドン(以下、カンポス)行の登山鉄道が分岐する。最初に全員で同地の先亡者に黙とうを捧げた後、稲垣秀子さんが朗々と『川の流れのように』を歌い上げ、続いて久保田香代子さんが同地の〃生き字引〃鈴木武さんが書いた同協会の歴史(以下、鈴木文書)を朗読した。◎大正12年生まれの同地〃生き字引〃の鈴木武さん(91、東京)は、「ピンダにはなかったけど、カンポス沿線には臣道聯盟支部があってアンシェッタに島流しになった人が6、7人いたね。僕も1945年から47年頃までサントアントニオ・デ・ピニャル(以下サントアントニオ)に居たけど、気候の関係でリオに良い値段で野菜を出荷できたから、一時期は30家族もいた。今は10家族ちょっとかな」と終戦直後の緊迫した状況を振り返った。鈴木さんは1934年に11歳で渡伯した。いわば移住最多期〃団塊世代〃の子供移民だ。1893年生まれの父彦一郎は神奈川生まれだが、東京の世田谷に住み、東芝で働いていた。その後、父は独立して編み物工場をやっていたが、「従兄がブラジルに行くというのを聞き、商売の方がまあまあという感じだったので、それに乗った」という。「あの頃の移民は9割がデカセギ。父も10年働いて儲けたら日本に帰るつもりだった」。来伯当初は平野植民地に1年、パウロ・モンテイロ植民地に2年、プロミッソン管内のジョン・コンデ植民地でも8年間過ごしたという。「ところが父は戦中の1942年、不治の病と言われていた風土病に罹り、それ以降15年間も闘病生活を送った」。東京の工場労働者が、過酷だった当時のノロエステの風土に簡単には適応できるはずもなかった。それに加え、「僕もマラリアに罹って、医者から根治するには土地を変えた方がいいと薦められた。義兄がサントアントニオに居たので、45年に呼ばれてやってきた」とこちらに来た経緯を説明した。サントアントニオのすぐ20キロ先に、マンチケイラ山脈に抱かれた高原都市、結核保養地等で有名なカンポス(標高1630メートル)がある。《40年代に入ってから登山鉄道に沿い、日系人が山脈の谷沿いに登っていき、一時は全伯一の人参産地として名を挙げるに至ったことも忘れてはならない》(『富流原』95頁)という土地柄だ。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
総領事公邸で親睦深める 在サンパウロ(聖)日本国総領事館(福嶌教輝総領事)は3月31日、聖市内の総領事公邸でサッカー・ワールドカップ(W杯)開催記念日伯少年サッカー交流会を開催した。第3回イツー市日伯国際サッカートーナメント(26日付既報)出場のために来伯した15歳以下の選手132人とコーチをはじめ、聖州・市、イツー市役所、日系団体、スポンサー企業から関係者が出席。かつてJリーグで活躍したブラジル人選手、ロンドン五輪日本代表監督の関塚隆氏など約200人が訪れた。 来賓紹介と国歌斉唱に続き、総領事館の佐野浩明首席領事があいさつ。国際サッカー大会を開催したイツー市などに感謝を述べると共に、「我々はW杯期間中、来伯観戦者が事件に巻き込まれない、起こさないよう最善の努力をする」と約束した。 続いて来賓を代表してイツー市スポーツ局長のアントニオ・カルロス・ベルタノッリ・ジュニオール氏が「イツー市で日伯の文化交流が行われることをうれしく思う」と述べた。選手、コーチを代表してあいさつしたヴェルディSSアジュントの折井良夫監督は「同年代のブラジル人選手を肌で感じられ、感謝。来年もぜひ参加したい」と話した。 選手たちには各自収穫があったようで、ヴェルディ相模原FWの須藤優樹さんは「食事は豆が中心だったが少しずつ慣れて、気候もよく住みやすかった」と述べ、「サッカーではしっかり体を入れてボールをキープするなど、一つ一つのプレーをしっかりやらなければと感じた」と話した。 ベルタノッリ・イツー市スポーツ局長は「この大会は前、現市長の力添えなしでは成立していない。市は来年以降も同大会への協力は惜しまない」と語った。 同大会主催者の土井エジソン氏は「ますは成功したことにほっとしている。総領事館やイツー市などの支援もあり、年々拡大している。今回日本のチームは決勝に残れなかったので、次回は期待している」と述べた。 交流会では、11年のフリースタイル・フットボール2011年ブラジル王者のエドワルド・ケイ氏によるデモンストレーションも行われ、会場を盛り上げた。選手たちは食事をとりながら、来賓の元プロ選手らと記念撮影するなど、親睦を深めていた。 2014年4月5日付
主要5団体など34の日系団体共催による梅田邦夫特命全権大使の歓迎会が10日午後7時半からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の文協貴賓室(Rua Sao Joaquim, 381)で開催される。 受付は開始30分前。参加費は1人80レアル。ブラジル日本文化福祉協会(文協)では、出席者は7日までに文協事務局(電話11・3208・1755またはメール=evento@bunkyo.org.br)へ氏名・役職等を連絡するよう案内している。 共催団体(略称含む)は次の通り。文協、援協、県連、商議所、日文連、救済会、希望の家、こどものその、アルモニア教育文化協会、裏千家ブラジル、伯生け花協会、ニッポン・カントリー、熟ク連、コチア青年連絡協、サンタクルス慈善協会、CIATE、ACAL、聖北文体連、ピラチニンガ文協、外務省研修生OB会、JICA帰国研修員同窓会、伯日文化社会統合協会、日本語センター、伯ニッポン移住者協会、仏連、エスペランサ婦人会、伯日研究者協会、農拓協、ふるさと創生協会、日系ゴルフ連盟、伯日青年会議所、ASEBEX、サントアンドレー日系連合、伯桜イッペ連盟。 2014年4月5日付
4月の青葉祭りは5日と19日、午前中からサンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会館(Rua Fagundes,152)で開催される。 イビウナ、カッポン・ボニート地方の有機野菜、農協婦人部連合会の加工品や手作り食品をはじめ、薬草、クエン酸、もちなどを販売。整体、家紋調査・販売などもある。 屋上では天ぷらうどん(5日)、ニシン定食(19日)、はらこ飯、冷やし中華など各種料理を販売する予定。 なお、5日は午後2時から日伯医療交流をテーマとした講演会が開かれる。 問い合わせは宮城県人会(電話11・3209・3265)まで。 2014年4月2日付
ニッケイ新聞 2014年4月3日 03年に山形県米沢市から姉妹都市タウバテに寄付された「山形千歳」と呼ばれる市松人形は、1927年に米国から日本の小学校に贈られた「青い目の人形」への返礼として名工に制作を依頼したものだった。当時350円(教師の月給が40円)と高価で、つぶらな大きな瞳に真っ黒な黒髪、気品が漂う笑顔を浮かべている80センチの和装人形だ。ところが太平洋戦争中、青い目の人形は日本で「スパイ人形」などと言われて多くが処分された。戦後、米国から返礼人形が山形に戻されたらしく、それが03年に姉妹都市友好使節団(木原義一団長)が米沢市を訪れた時、七段の雛人形と共に贈呈された。その時は詳しい説明がなく、田尻会長(当時)は「古くて気持ちが悪い人形だな」という印象だったが、箱に同封されていた1927年10月21日付地元紙のコピーを見ていわれを知り、貴重なものと分かり、タウバテ市博物館の姉妹都市コーナーに展示してもらったという。「両市の友好のシンボルとして大事にしていきたい」と田尻さんは語っている。◎交流夕食会の後には、同地の若者による海藤三味太鼓グループが、玄人然とした見事な演奏を披露し、一行を驚かせた。同文協会員は約200家族だが、最盛期の70~80年代には300家族もいた。市内の日系人総数は500家族程度と推測されるという。同地40年の入江淳さん(84、二世、カフェランジア生まれ)によれば「運動会にも500人は集まり、とても賑やかだ」という。ここに来る以前はパラナ州都クリチーバで家族と農業に従事していたが単身転地した。入江さんはクリチーバ時代の1950年頃、1年間兵役に服した。「水野龍の息子、龍三郎さんと同じ隊だった。水野龍に会ったことはないが、ちょうど兵役中にブラジルに帰って来て、龍三郎さんが休みを取ってわざわざサンパウロまで迎えに行ったのを覚えているよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。24年間同地在住の久保時雄さん(58、二世)によれば「ヤキソバ祭りを年3回開催し、500食ぐらい売れる。お客さんの半分ぐらいはブラジル人ですよ。この会館もヤキソバと寄付で建てました」と振り返った。同地の戦後移住者について元同文協会長の安藤光明さん(72、秋田)に尋ねると、「僕は工業移住で、1963年渡伯。工業移住者だけで30人以上と結構まとまった数が入っている。主にメカニカ・ペザーダ社やダルマ電器、ダイドー、天童木工所、ノーテルス(製材)かな。だから、工業移住者協会の本部が聖市にできたすぐ後に、ここに最初の支部ができた」と思い出す。『盆栽』(9頁)によれば、ヴァルガス独裁政権は1941年にリオ=聖市間の車道建設を企画したが第2次大戦激化で中止された。1948年にヅットラ大統領が工事を再開させ、51年には単線開通、軍事政権中の68年にコスタ・エ・シルバ大統領が複線道路開通式を行なった。この流れでセントラル鉄道は寂れ、車の時代となり、南米一の交通量を誇る大国道となった。交通手段は変わっても、要衝地たるタウバテの役割に変化はなく、多数の企業が工場を設置し、人口が急増して町中で商店を経営する移民も多くなった。コチア産業組合や南伯農協の単協、タウバテ農協などが誕生し、1962年頃には農産展も盛大に開かれた。安藤さんは「海藤司さんも工業移住でノーテルス社に入った。その当時は趣味で芸能をやっていたが、今は本格化して教え子がたくさんいる。タウバテの芸能を一家で支えている」と舞台を指さした。そんな太鼓三味グループの演奏にのせて、最後に炭坑節を地元婦人部や一行の有志が仲良く輪になって踊り、全員で「ふるさと」を合唱し、別れを惜しみながら午後10時にホテルへ戻った。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月2日 14日午後、タウバテ文協の夕食交流会の前に一行は、市内にある陸軍精鋭が集まる航空部隊基地を2時間ほどかけて見て回った。同地文協の元会長、田尻清隆さん(85、鹿児島)は会館の壁に貼られた日系将校の展示を指さしながら、「陸軍ヘリコプター部隊には小原彰陸軍少将ら日系将校がいたので、文協とは関係が深い」と説明していた。小原少将(現在は予備)は同基地の司令官にまでなった人物であり、他にも清田一大佐、木原義一アルマンド大佐ら名だたる日系将官がここに在籍していた。一行の説明役を買ったロナルド・メデイロス・ロペス中佐によれば、陸軍航空部隊の起源は三国同盟戦争(通称「パラグアイ戦争」、1864―1870年)時に有人偵察気球を330メートルの高さまで飛ばしたこと。南米初の軍用航空作戦といわれ、当時の陸軍元帥ルイス・アルヴェス・デ・リマ(通称ドゥッケ・デ・カシアス)が「航空部隊の祖」を兼ねている。最初の戦死者が出たのはサンタカタリーナ州で起きた「コンテスタードの乱」の時だ。反乱軍鎮圧に向かった陸軍のリカルド・キルキ中尉は、当時最新兵器だった飛行機を現地で飛ばしたが、1915年1月に落下事故で死亡した。「当時の機体は今と比べようない脆弱なもの。その勇気は称賛に値する。だから彼は陸軍航空部隊のパトローノ(守護聖人)だ」。ロペス中佐は、基地本部前に設置されたその胸像に敬礼をした後、そう付け加えた。1941年1月に政府は空軍を創設し、陸軍の航空部隊の設備、施設を丸ごと移管した。しかし1984年に起きた英亜間のマルヴィーリャス戦争で、英国軍のヘリコプター作戦が勝利の決め手の一つとなったのをみて、飛行機では離着陸できない場所での行動に対する注目が高まった。そこで86年にヘリコプターによる航空部隊が陸軍内に再結成され、リオと聖市の中間点に位置する戦略的要衝であるこの地に、89年に基地が建設された。「英米仏と同様に近代化されている。南半球最大のヘリコプター部隊だ」とロベス中佐は胸を張る。同航空部隊には仏ユーロコプター社製EC725(国内で組み立て)など80基のヘリが所属する。新鋭のEC725はいっぺんに30人(小隊)が搭乗できる大型機だ。同基地だけで54基、他にアマゾナス州マナウス基地にも米国製の最新鋭機ブラックホークを始め、国内各地に多くが展開しているという。一昨年にリオ市のファベーラ・アレモンを軍と州警の共同作戦で占拠した時も、同基地から出動したヘリがいた。「足元に鉄板が引かれ、防弾になっている」と運転士は説明する。ロペス中佐は「W杯の時も警備で動員され、我々がスタジアム上を飛ぶことは間違いない」と胸を張り、「小原少将を知っているか」と問うと、「彼とは一緒に働いたよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。実は同中佐はタウバテ文協の昔からの会員で、機関紙『盆栽』の執筆者でもある。日系団体と一般社会が力を合わせて共存共栄する精神が、ここにも息づいている。◎夕食交流会の会場となったタウバテ文協会館の壁には、田尻清隆さんが会長時代の2003年に、姉妹都市の山形県米沢市から一体の古い市松人形が贈られた時の新聞記事が貼られていた。この人形はなんと1927(昭和2)年に、米国の子供たちから日本の小学校に友好の証として贈られた「青い目の人形」1万2739体の返礼として、同年に急きょ制作して日本側から送り返された「返礼人形」58体の一つだった。日米の歴史の一幕がタウバテにあった。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月1日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の定期総会が27日、県連会議室であり、各県人会代表者約70人が出席した。役員改選では単一シャッパが承認され、新会長に本橋幹久氏(78、鳥取)の就任が決まった。就任挨拶で同氏は「会長職を引き受けることに躊躇もあったが、誠心誠意やる」と述べ、ケネディ元米大統領の演説を引用し、「何をしてくれるかではなく、県連の為に何が出来るのかを考え、一緒に取り組もう」と呼びかけた。3年間会長を務めた園田氏は「パラグアイ移民の私が日系社会の要職につけたのも、与儀前会長から引き継いだ懸念材料を乗り越えられたのも、皆さんの多大な協力があったおかげ」と述べ、「予想もしない問題に遭遇しても団結で乗り越え、県人会のための連合会として、奉仕精神の継続とリーダー的団体として繁栄することを願う」と次期執行部にエールを送った。2013年度の決算報告では249万1427レアルに対し総支出は253万1434レで、4万0レアルの赤字。14年度の予算案の収支は277万3460レが承認された。 ■ 新執行部は次の通り(敬称略)。会長=本橋幹久、副会長=坂本アウグスト進(栃木)、高野ジョルジ(山梨)、杉本教雄 (静岡)、市川利雄(富山)、山田康夫(滋賀)、原島義弘(千葉)、木原好規(和歌山)、第1会計=南アゴスチンニョ俊男(福岡)、第2同=田呂丸哲次 (熊本)、第3同=千田曠曉(岩手)、第1書記=川合昭(秋田)、第2同=玉城道子(青森)、第3同杉山エレーナ(京都)。正監査=大西博巳(広島)、監査補=尾西貞夫(兵庫)、小渕民雄(群馬)、田場ジョルジ(沖縄)
ニッケイ新聞 2014年4月1日 笠戸丸以前、1905年に着任した杉村濬(ふかし)公使(三代目)が聖州の珈琲耕地視察の帰途、タウバテ駅に夜10時半に汽車がとまった。《夜間にもかかわらず市民が本官を歓迎せしごときは、もっとも意外の優遇とぞんじ候》と感激の面持ちで小村寿太郎外務大臣に書き送っている(『富流原』84頁)。そんな日本移民に所縁のある場所であり、この良印象が「日本移民に適地である」と判断する材料の一つになったとも言われる。杉村公使名で頒布された「移民送り出しの適地である」と薦めた報告書(1905年6月)が、ブラジル移民の起爆剤だった。それを読んだ水野龍が翌1906年に来伯した船で、チリに行くはずだった鈴木貞次郎青年に出会い、同行するよう口説いて聖州のコーヒー農場で労働体験をさせ〃実験台〃にした。その経験から「間違いない」となり、笠戸丸移民につながる流れだ。『富流原』(80頁)によれば1830~50年頃のコーヒー栽培はタウバテ地方を中心としたパライバ平野だった。つまり聖州のコーヒー産業はこの一帯から始まり、1850年代にはカンピーナスに移り、さらにテーラ・ロッシャのモジアナ線へと1870年代には中心が移動していった(『四十年史』295頁)。略奪式農業の時代であり、いかなる妖土でも十数年で生産性は落ちていった。1850年の奴隷輸入禁止後、コーヒー耕地労働者としてイタリア移民などが大量導入されたが、奴隷同然の待遇が問題となり、本国政府が渡航費補助を打ち切るに至って、日本移民を入れる流れになる。だから初期移民は大半がモジアナ線周辺に入り、その後、笠戸丸移民当時に建設中だったノロエステ線方面へ移っていった。その杉村報告書を見た西原清東(さいばら・せいとう)が北米から、タウバテの米処であるトレメンベー地帯へ1917年に転住して米作りに着手した。これが日本人タウバテ入植の嚆矢のようだ(『盆栽』8頁)。西原は高知県人で、板垣退助の立志学舎で学び、1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米し、テキサスで大農場を開いて〃ライス・キング〃(稲作王)と呼ばれた人物だ。彼が《浸水のために全滅の悲嘆にくれたが、〃この平野こそが米作に最高の地〃と予言した。いま州最大の米作地となっているのを知るとき、彼の先見の明は忘れられない》(『富流源』1969年、中村東民、84頁)とある。◎14日午後、一行は市内のモンテイロ・ロバット博物館に立ち寄った。同氏は裕福な家に生まれて資産を受け継ぎ、幼年期をこの家で過ごした。《タウバテはバンデイランテス時代の宿場であり、植民地時代のリオ、聖市への交通要衝の駅亭町で、往時からバライバ平原における中心地。セントラル鉄道が開通してからは一層、栄えてきた》(『富流原』81頁)という町だ。戦前を代表する外交官、知識人の一人ロバットを生んだ背景には、そのような経済環境や歴史があった。同地独自の一本足の黒人妖怪サッシ・ペレレを描いた『オ・サッシ』や『ピカ・パウ・アマレーロ農場』などの童話でも知られ、ヴァルガス独裁政権の伯国独自の精神性発揚を高々と謳った時代を代表する作家だ。タウバテ近隣の町々がその作品世界にはモデルとして散りばめられており、パライバ平野を伯国文学史の舞台に組み込んだ作家といえる。一行はサッシの寸劇を観て、タウバテ文協に向かった。(つづく、深沢正雪記者、訂正=小田二三男さんの父の名に間違いがあった。正しくは「政實」) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
「県連のため皆が一緒に」 ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、園田昭憲会長)は27日午後4時からサンパウロ市リベルダーデ区の文協ビル5階同事務所で3月度代表者会議ならびに第48回定期総会を開いた。各県人会代表ら約70人が出席。総会では役員改選が行われ、出席した42都道府県人会の会長により本橋幹久氏(78、鳥取県人会長)を会長とするシャッパ(候補者連記名簿)が拍手で承認された。 総会冒頭、3年間会長を務めた園田氏は「パラグアイ移民の自分がブラジル日系社会の要職に就けた。(第8回日本祭りでの裁判問題など)就任時に県連は多くの懸念材料を抱えていたが、それでも執行部役員、県人会員の皆の協力で乗り切ることができ、心から感謝したい」と述べ、「今年はW杯の後方支援、来年は日伯修好120周年、また日本祭りを継続して成功させるなど、次期執行部も不測の事態にも団結して、ますます県連を繁栄させてほしい」と期待を込めた。 東京都友会の坂和三郎会長が議長を務め総会を進行。昨年度の事業および収支報告、今年度の事業計画、予算案の審議が行われた。 昨年度の収入は約249万レアル(うち第16回日本祭りは231万)、支出は約253万レアルで、日本祭りは約11万レアルの黒字を計上した。今年度予算は約277万レアル。第17回日本祭りでは約25万レアルの赤字を織り込んでいる。いずれも承認された。 代表者会議の席上、園田会長から、安部順二下議より議員割当金10万レアルの寄付を受けられる見込みと発表された。会長は「まだ赤字であり、楽観はできないが少しずつ明るい兆しは見えている。一喜一憂せずに進めていく」と話した。 役員改選では、顧問・相談役の松尾治、与儀昭雄、小森広、長友契蔵、竹下康義5氏が選挙管理委員を務め、本橋氏を会長とする単一シャッパが出席者により拍手で承認された。 本橋氏は第2回の東山農場農業研修生として1960年に渡伯。コチア、南伯産業組合で養鶏などに携わった後は飼料メーカーに勤め、餌の開発、飼料添加物や獣医薬品の開発等にも携わった。鳥取県人会では20年以上副会長、09年から会長を務めている。 就任あいさつで本橋氏は、「会長職は本意ではないものの、引き受けたからには執行部14人全員で誠心誠意努めていく」と抱負を語り、ケネディ元米大統領の 言葉を引用し「国家が皆に何を与えてくれるかでなく、皆が国に何をできるかを問うてほしい。県連のために皆が一緒になって物事にあたっていきたい」と会員 に協力を呼び掛けた。 新執行部は次の通り。会長=本橋幹久、副会長=坂本アウグスト進(栃木)、高野ジョルジ(山梨)、杉本教雄 (静岡)、市川利雄(富山)、山田康夫(滋賀)、原島義弘(千葉)、木原好規(和歌山)、第1会計=南アゴスチンニョ俊男(福岡)、第2同=田呂丸哲次 (熊本)、第1書記=川合昭(秋田)、第2同=玉城道子(青森)。 また本橋新会長の指名により、第3会計に千田曠曉(岩手)、第3書記に杉山エレーナ(京都)が任命され、投票により正監査に大西博巳(広島)、監査補に尾西貞夫(兵庫)、小渕民雄(群馬)、田場ジョルジ(沖縄)の3人が選出された。(敬称略) 【コラム】 モザイク...
中国ブロック5県(広島、岡山、島根、鳥取、山口)の県人会による第15回運動会が4月13日午前8時半からサンパウロ州ジアデマ市のブラジル沖縄文化センター(Av.7 de Setembro, 1670)で開催される。主催者では同5県人会の会員に限らず、広く参加を呼び掛けている。 徒競争や綱引き、タイヤころがし、リレー、嫁探しなど多彩な種目を用意。協賛企業から各種景品の寄付を受けた。会場では弁当などの食事が販売される。 案内に来社した要田武山口県人会長によれば、毎年400人ほどが参加するという。開催の準備を担当するのは、5県人会の青年部の人たち。「皆自分の会のようにやってくれます」と喜ぶ。「どなたでも参加していただいて結構です。できれば子供さんにも日系人の運動会の文化を見てほしい」と話し、参加を呼び掛けた。 当日は中古の服やおもちゃ、衛生用品、保存の効く食料品などの寄付も受け付け、集まった品物は児童施設に寄付される。 問い合わせは各県人会まで。 2014年3月29日付
ニッケイ新聞 2014年3月29日 出光興産サイトから「お客様センター」に、出光佐三の養子に「政美」がいたかどうか問い合わせると、翌日にメールで返答があった。《出光佐三の個人的な情報であるため、弊社よりお伝えすることは致しかねます》とのこと。残念ながら証明は難しいようだ。小田二三男さんは「出光佐三はもともと叔父にあたる方で、父が四男だったことから養子に入った。でも、出光家のあまりに豪華な生活振りに慣れることができず、貨物船に乗ってブラジルに飛び出してしまった。プロミッソンに入植し、その時代に総領事館で苗字を小田に戻した、と聞いています」という。《政美は1917年渡伯の福岡県人で、玄界灘の四股名で相撲界にならした》と(『富流原』86頁)にも書かれる有名人だ。ちなみに出光創業百周年の折り2011年6月20日の新聞広告には、明治生まれの気骨ある出光の名言「日本人にかえれ」との言葉が掲載された。出光佐三と同じく日本への愛情が強く、皇室崇敬が篤いコロニアからも共感を呼ぶ言葉だろう。小田さんは「父は鈴木貞次郎さん(笠戸丸以前の渡伯者)と親しく交際があり、いつも水野龍、上塚周平、平野運平ら4人のことを話していた。遺言は『コロニアのために役に立つことをしなさい』でした。私はそれを少しでも実行しようと思い、今までやってきた」と文協に土地を寄付した動機を語った。「日本人として恥じない行動を」―確かに、そんな父政美の気持ちは、どこか出光佐三を思わせる。小田さんは「ふるさと巡りのみなさんが真っ先にタウバテに来てくれ、最初に黙とうしてくれた。本当にありがたいと感激しています」と感謝の言葉を繰り返した。◎日本の文明開化は明治(1868年)と共に始まったが、ブラジルは一足早く1850年代だった。300年間も続いてきた奴隷輸入が、英国の圧力で1850年に禁止され、そこからイザベラ女王による奴隷解放令(1888年)までが、社会構造の大変革期だったからだ。伯国初の鉄道はリオ北部のマウアから避暑の都ペトロポリスのライス・ダ・セーラ間(約15キロ)まで、1854年に開通した。ちなみに聖州最初の鉄道は1867年、サントス=ジュンジャイー間で明治維新の前年だった。それに次いでセントラル線(以下、中央線)は翌1855年にリオのペドロ二世駅から敷設が開始され、1860年には聖市まで開通した。延長は約500キロもあり、豊饒なパライバ平野の産物をリオや聖市に運び、ドンペドロ二世皇帝のお召列車も通った。戦前にはミナス方面など七つの支線を持つまでになり、まさに国家経済の背骨を支える「中央線」の名に相応しい存在となった。タウバテは聖市から130キロ、リオ市まで280キロ地点に位置する古い駅町だ。米国の開拓時代は「ゴー・ウエスト!(西へ)」を標語に拓いていったが、ブラジルもやはり西へと広がった。1800年頃にリオ側から注目され始めたコーヒー産業は、1850年頃には農業の旗手とみられるようになり、リオから中央線が西方に開けるのにしたがってコーヒー耕地が聖州に広がっていった。世にいう〃オーロ・ヴェルデ(緑の黄金)の時代〃だ。『四十年史』(香山六郎編著、1949年、294頁)にはこの鉄道が文明の〃触媒〃の役割を果たしたとする。《カフェー栽培の伸び拡がった足取りを辿ると、それは鉄道の延長と歩調を合わしている。近代文明を運んで行くレールが百粁のびる毎に、珈琲の緑なす波も亦百キロひろがつて行った》とある。その後、ようやく日本移民の時代となる。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月28日 タウバテ文協会館の土地を寄付した小田二三男さん(88、二世)は現顧問として、ふるさと巡り一行の歓迎会に際し、「こんなにたくさんのお客さんを迎えたのは初めて」と威勢よく乾杯の音頭をとった。二三男さんはノロエステ線プロミッソン生まれで、3歳の時、小学校で日本語を勉強するために文化植民地に移り、一年間学んだ。北米カリフォルニア州の排日運動を嫌い、日本人クリスチャンの一団が1926年に移り住んだところだ。父の小田政美さんは福岡県出身で、「貧乏して栄養失調になり、50代で早死にした」という。タバコを吸い続けて肺ガンとなり、戦後カンポスの療養所で亡くなった。勝ち負け抗争の頃、「私はまだ20歳ぐらい。父はどちらにも付かず、パラグアス・パウリスタに家族で逃げていた」と思い出す。その後、タウバテにあった鐘ヶ江農場で2年間働き、お金を貯めて独立した。鐘ヶ江久之助は同じ福岡県(浮羽郡)の出身者であり、北米で「ポテト王」といわれた牛島謹爾(福岡県久留米出身)の雑誌記事を読んで、「俺は南米で牛島に負けない仕事をする」と渡伯した。トレメンベー地区の200アルケールの土地から始まった「ファゼンダ・リオ・ベルジ」は、「鐘ヶ江農場」として知られるようになり、伯国有数の機械化農業を実践し、一時期は1270アルケールの大農場所有者となった。『曠野の星』(53年6月、19号、51頁)によれば水田250アルケールから籾2万俵収穫、裏作にジャガイモ2万俵、トマト3万箱を生産したというからパライバ平野随一の規模だ。農場内の車道総延長は40キロもあったというから〃鐘ヶ江王国〃を築いていた。同文協50年史『盆栽』には《そこで働いた半数の日本移民は内陸部から移ってきたもので、そこで小作人として働き、鐘ヶ江から農場運営を学び、2年ほどして資金を貯めて独立していった。多くがここで小農から始めて稲作、トマト、ジャガイモで富を築いた》(8頁)とある。《鐘ヶ江農場の存在こそはコロニアの一粒の麦であった》(『富流原』85頁)とされ、小田家はその一つだった。独立農の苗床のような役割を果たし鐘ヶ江農場だったが、小田さんは「でもいろいろな法律問題が起きて、インフレで財政的につまづき、今ではほとんどなくなってしまった」と残念そうにいう。「子孫がリンコンで500アルケールほどの農場をまだ経営していると聞いています」とも。――まさに開拓の古戦場だ。父の時代のことを語る小田さんの目にはしだいに涙がたまりはじめ、必死にそれをこらえている様子が伺えた。「今までほとんど言ったことはないのですが、実は父は出光佐三の養子だったんです」と驚くべき証言をした。出光佐三(さぞう、福島県宗像郡、1885年―1981年)といえば、石油元売り会社・出光興産創業者で、最近の歴史経済小説『海賊とよばれた男』(百田尚樹、講談社、12年)のモデルともなり、再び脚光を浴びている人物だ。これが証明されれば、コロニア秘話となるだろう。さっそく日本の出光興産本社のお客様センターに問い合わせてみた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月27日 第41回県連「移民ふるさと巡り」の参加者122人(ガイドや運転手合わせ計129人)は14日午前9時に東洋街のリベルダーデ広場を出発し、4日間、リオとの間にあるパライバ平野と聖北海岸部の4日系団体と交流して回った。笠戸丸以前の安田良一や東山のピンダ農場、戦前から名を馳せた鐘ケ江農場、ノロエステ線などの奥地から戦後に多くが移動してきた経緯を含め、同地の歴史を振り返ってみた。(深沢正雪記者) 5月に103歳を迎えるタウバテ在住の斉木操さん(広島県)は「大好物はお肉ですね」とはきはきと受け答えをし、同じテーブルに居合わせたふるさと巡り一行を驚かせた。16歳で渡伯してノロエステ線リンスに入植し、なんと在伯86年だ。長寿の秘訣は「なんでも食べる」こと。マリリアを経てタウバテには1955年に入植した。最初の訪問地タウバテ日伯文化協会(漆畑哲雄オスカル会長)で14日、婦人部らの尽力で、昼食会に加えて夕食会も行われ、そんな交流の一コマが展開された。同地文協会長職が3期目となる漆畑さん(62、二世)は、日本国外務省研修生OB会の会長も兼務する。同文協50周誌『盆栽』(1997年、11頁)によれば「Sociedade Agigos de Taubate」として勝ち負け抗争のまっ最中、1947年に同会は創立している。「終戦直後、日本に救援物資を送るために30人集まったのが、日本人会発足のキッカケ。日本文化や日本精神を伝えるために活動を続けてきている」と漆畑さんは胸を張る。1954年に文協は正式登録し、タウバテのセントロに会館を作った。漆畑さんの父五郎さんは1939年、19歳で静岡県から構成家族で渡伯し、1952年にタウバテ市内でバザールを始め、セントロの会館で柔道を20年近く教えたという。哲雄さんは法科や建築など六つも大学を卒業し、タウバテ市議、同市企画経済局長、聖州税務局の監督官を長年務めて定年退職した。1954年にセントロの会館を作ったが手狭になり、1978年に小田二三男さんに現在の土地を寄付してもらい、81年から会館建設を始めた。漆畑さんは「ところが突風が吹いて屋根が飛ばされたりする不運を乗り越え、1997年の創立50周年に和田トシヒサさんらの寄付や活動の収益をつぎ込んで落成式を迎えた。この建物自体が、諸先輩の努力と汗、会員の強い絆の賜」と苦難の歴史を振り返った。日本語学校も生徒数50人を数え、漆畑会長は「半数は非日系の時代になった」という。その他、和太鼓、書道、そろばん、コンピューター、手芸、カラオケなどの教室、ゲートボールやバレーの運動もやっている。2012年10月には創立65周年を記念して慰霊法要や記念式典を祝った。「次は2017年の70周年です」と漆畑さんは表情をキリっと引き締めた。(つづく) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月26日 鳥取の本橋幹久氏が県連会長に――。ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の選挙シャッパ提出が14日午後5時に締め切られた。本橋現副会長を会長候補とする単一シャッパで、副会長、会計、書記ふくめ12人が明記されている。27日の総会で承認されれば新体制の誕生となる。 電話取材に応じた本橋氏は、「総会で決定するため今はなんとも」と話すに留まりつつ、シャッパ提出を認めた。与儀昭雄氏が11年に沖縄県人会長を退任。定款上、県連会長を辞任したことから、本橋氏が強く推されていたが、健康上の理由で辞退した経緯がある。 その任を受け継ぎ、2期を全うした園田現会長(鹿児島)は、事務所移転、6月のW杯に向けた邦人保護の委員会設立など、「在任中に形を整え、引き継ぎたい」と語ってきた。「裁判問題や毎年の日本祭りが大変だった」と振り返り、「今後は鹿児島県人会のために尽くしたい」と話した。赤字を見込む日本祭りについて、「成功に向けて最後まで協力する」と、新体制を支える考えだ。 日本祭り実行委員長として、新体制発足後も引き続き尽力する山田康夫氏(滋賀)は本橋氏について、「まじめで芯を持って取り組む姿勢をもった人」と印象を語り、副会長の杉本教雄氏(静岡)も「みんなで選んだ人ですから」と信頼を寄せている。
ニッケイ新聞 2014年3月21日 大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は16日午後に同会館で総会を開き、兼ねてから懸案事項であった会館の第三者への賃貸の件について話し合った。メトロ駅すぐ近くという好立地で、大講堂も備えていることから、次世代をみすえて有効に活用するための議論が以前から行なわれていた。約30人が出席し、会の今後について熱心に話し合った。 開会の辞後に先没者に1分間の黙祷が捧げられ、予定されていた昨年度事業報告の前に、下平尾会長から会館賃貸に関する報告として、「現在は経済的な問題は何もないが、行く先も磐石とは言えない。益々の発展と、代替わりした後の次世代の為に、その準備として会館を第三者に賃貸する事と決めた」との話が飛び出した。以前よりささやかれていたが、会員達の関心もこの件に集中していたようで、それから白熱した質疑応答が繰り返された。移転先の新会館(候補地サンタクルス駅周辺)にも議論は向けられ、移転や改修にかかる費用の捻出、事業縮小化なども心配された。しかし、下平尾会長は「金銭的な面に関しては何も心配する事はない。事業に関してもカラオケ大会などへの会館の貸し出しは出来ない規模だが、会員が今まで通り使う事には何の問題もない」との説明があった。同会館は下平尾会長の父である初代会長、故・数行氏が、私財を投じて建設にこぎ着けた思い出深い建物。この決断は会としても苦汁のものであろうが、「父は会の発足、会館の落成に全精力を捧げた。会館を継続して使う事も大切だが、会の継続が最重要事項、父の遺志を継いで行きたい」と会長が語ると会場から拍手が起きた。なお会館の賃貸は決定事項であるが、その具体的な予定期日は全くの未定。新会館に移転後、現会館の事業を全て移す。下平尾会長は「5年先、10年先になるかもしれない」とした。その他、昨年の会計報告では収入18万6180レ、支出15万5549レ、3万631レが繰り越された。その他、昨年の事業報告、本年度事業計画が説明され、承認を受けた。
ニッケイ新聞 2014年3月21日 元新潟県人会会長の柿島昭三さんが12日、尿道疾患のため逝去した。19日にスザノ市サンセバスチャン墓地に埋葬された。享年85。 戦後の勝ち負け抗争で不和をきたしていた日系社会の融和のため、1956年にカトリック教の修道会「神言会」から5年契約で当地に派遣された。サンパウロ、パラナ州を中心に伝道活動を行った後、60年にスザノ市に移り住み、時計店「ボニファシオ」を30年近く営んだ。 同地文協では2期会長に就任。新潟県人会の創立当初からの会員で、百周年時には会長として日本との交流に尽力した。 初七日ミサは23日午前7時から、同市のサンセバスチャン教会(Praca Joao Pessoa, s/ n, Centro)で執り行われる。
ニッケイ新聞 2014年3月18日 鹿児島県人会(園田昭憲会長)は9日、「定例役員会・定期総会」を同会館で開いた。昨年度の収入は24万2582・13レに繰越金が加算され合計45万9004・93レ。支出は27万8567・29レで、18万437・64レが次年度繰り越しとなった。100周年記念誌の進捗状況を大羽豪三担当は「昨年の百周年式典も含め原稿は提出済み。現在翻訳中で、今月末から第1次校正し、来月末に印刷を開始できれば」と報告した。百周年を機会に、県費留学生が今年から2枠に増設された。松本シンチアさん(26、三世)、園田あきなさん(同、二世)が紹介され、4月から10カ月間それぞれ薬学、教育学を学ぶ。2人は「留学できるのは、皆さんや県の協力あってこそ。県に感謝します」とあいさつした。会館に関して園田会長は、「身の丈にあった会館を」と再度強調したが、売却が難航している様相を伝えた。最後に同氏は、3月で県連会長退任の予定を報告し、「県人会長は残り1年。これまで県連で忙しかった分、会のために働きたい」と述べた。
【福岡発・吉永拓哉福岡支局長】(公財)福岡県国際交流センター主催による「平成25年度福岡県移住者子弟留学生留学証書授与式」が15日、福岡市内の西鉄グランドホテルで行われた。 この日は留学生の親族をはじめ、留学期間中の世話役を務めた福岡県海外移住家族会、身元保証人、学校関係者ら約50人が出席した。 主催者の新宮松比古同センター理事長は挨拶で、昨年10月に福岡市で開催された海外福岡県人会世界大会の際に留学生たちが運営を手伝ったことへの感謝の意を伝え、「帰国しても福岡の友を大事にし、母国と福岡を繋ぐ懸け橋として頑張ってほしい」とエールを送った。 続いて武藤英治同家族会会長の来賓あいさつのあと、留学生たちが壇上へと上がった。 この日、新宮理事長から留学証書を授与されたのはブラジル福岡県人会子弟の細江タニア(29、九州観光専門学校)、松延理恵(24、九州産業大学)、上田ブルナ(23、同)、横尾ロナルド(26、九州大学)さんの4人ほか、南米北米の福岡県人会子弟ら4人。 留学生たちはその後、1人ずつプロジェクターを使って思い出写真を見せながら留学成果報告を行った。 日系3世の横尾さんは昨年の夏休みに全国の観光名所巡りを行った。「日本は小さな国ですが、文化は多種多様で驚きの連続だった」と会場の出席者たちに話した。 サンパウロ州バルゼン・グランデ・パウリスタ市出身の細江さんは「移住家族会の皆さんとは血のつながりはないけれど、第2の家族のようでした」と、涙ぐみながら1年を振り返った。 留学証書授与式のあとは送別会が開かれ、留学生と出席者たちが共に別れを惜しんだ。 2014年3月20日付
