07/03/2026

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ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  大会誕生の内幕には諸説あるが、84年から琉球新報が世界のウチナーンチュを紹介する500回もの長大な連載をしたのが契機だったようだ。 さらに沖縄テレビでは前原信一(まえはら・しんいち)さんがディレクターを務めて「沖縄発われら地球人」「世界ウチナーンチュ紀行」など210本にわたるシリーズを放送してさらに気運を盛り上げた。一般的には、その流れの中で故西銘順治知事(在任期間78―90年)が「世界のウチナーンチュ大会」を発想し、任期最終年の90年からこの大会が始まったといわれる。 実はブラジル県人会の与那嶺会長も大会原案に一枚噛んでいるという。86年に西銘知事一家が来伯した際、田場ジョルジ聖市議(当時)と与那嶺さんは聖市のテラッソ・イタリア最上階の高級レストランで接待した。 与那嶺さんは思い出す。「いい機会だからと思って『二世として折り入ってお願いがある』と知事に言ったんです。自分達は親を日本に行かせようと頑張ってきた。でも自分では沖縄には行かない。アルゼンチンでは二世が十数人も軍事政権に殺された。ブラジルでも具志堅ルイス(のちの大統領府広報長官)、荻堂オメロ(連邦下議)とか偉い県系二世が出ている。彼等を沖縄に呼んで、その国の言葉で挨拶させたい。言葉は違ってもウチナーの魂を持っていることを、沖縄の人々に理解してもらうだけでいいじゃないかと提案したんです」。 88年に与那嶺さんが那覇に知事を訪ねた時、基地反対運動が盛り上がっていた折で、知事室のすぐ外まで反対派の人たちが来て凄い騒ぎになっていた。そんな緊迫した情勢の中で知事は、こっそりと「あと二年したらあの大会ができるよ」と耳打ちした。そして与那嶺さんと田場さんが第1回大会のウチナー民間大使に指名された。 与那嶺さんは「大会実現の原動力になったのは、知事の報恩の気持ちだ」という。「西銘知事は戦後の苦しいときに海外からの支援物資を送ってもらったことを感謝していた。だからブラジル各地に会館を作るときにも手を貸してくれ、大会実現にも力を注いでくれた」と感謝した。 ☆    ☆  大会前から地元紙では関係記事が連日、1面トップを飾る。大会の経緯を振返る沖縄タイムス10月7日付け記事によれば、西銘知事は幼少時に南洋パラオで育った。85年に基地縮小の対米交渉を目的に訪米し、アトランタで県人から大歓迎を受け、皆とカチャーシーを踊って感激し、在外県人の存在を強く印象付けられた。沖縄県系人が母県の来賓と共にカチャーシーを踊る姿は今でも欠かせないものだが、そこから全てが始まった。 その後、87年の海邦国体開催時に世界7カ国から515人の代表を集めてワールドウチナーンチュフェスティバルを開催して好評を得て、89年に大会事務局を立ち上げたと同記事にはある。 また、閉会式を報じた琉球新報は通常ならスポーツ新聞でもありえない紙面レイアウトで盛り上がりを報じた。一面と最終面の見開きを一枚の巨大なカラー写真で埋めたのだ。繊毛のようにびっしりと天に向かって伸びる手が写しこまれており、観客の興奮をはっきりと伝えるド迫力の写真だ。力の入った紙面構成であり、大会の盛り上がりは、このような地元メディアの力の入れ方を抜きにして考えられない。 大会の始まりから地元メディアは深く関わり、盛り上げ続けてきた。知事自らがアイデアを出し、分け隔てなく海外子孫の意見に耳を傾けて具体案を練り上げ、さらに大学の研究者、県庁職員、中学高校、海外子孫などが一体になって全ウチナーで盛り上げてきた。つまり、大会自体がすでに世界のウチナーンチュが作り出した「作品」といえる。(深沢正雪記者、つづく) 写真=琉球新報による迫力の記事   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  毎年キャンセル待ちが出るほどの人気ぶりを見せる県連の「ふるさと巡り」。来年3月の第37回ではバウルー、ボツカツなど聖州の移住地4カ所を回り、各地の日本人会と交流を深める。本橋幹久県連副会長によれば、先週の初めから募集を始めたところ、既に30人近くの希望者が集まっている。遠くの珍しいところより、知り合いがいる、昔行ったことがある、など参加者にとって身近な場所の方が実は人気があるとか。
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  東京都友会(坂和三郎会長)は新年会を1月21日正午からリベルダーデ区のニッケイパレスホテル(Rua Galvao Bueno, 425)を開く。 例年は1月最終土曜だが、今回は一週間早い開催となる。 午前11時半に受付開始、藤間流日本舞踊学校による踊りが披露されるほか、カラオケ、抽選会も行われる。 案内のため来社した坂和会長と多羅間俊彦名誉会長は「会員でなくても、東京を愛する人なら誰でも参加下さい」と呼びかけた。 参加費50レアル、1月18日までに同会へ申込みが必要。電話・FAX(11・3254・3540)、Eメール=toyukai@nethall.com.br
好評の餅つき大会  岩手県人会(千田曠曉会長)は10日、聖市リベルダーデ区の同会館で餅つき大会を開催した。当日は、午前8時前から同県人会婦人部や青年部員が準備に訪れ、同大会の成功に尽力した。  同県人会の餅つきは4年ぶりの開催。千田会長は「開催が決まると、会員らは積極的に携ってくれた」と協力に謝意を述べた。  今回準備した餅米は約95キロ。同県人会員の作ったレジストロの餅米は評判が良いという。当日券での来場者が多く、混雑時は餅を待つ人で列ができるほど好評を得た。会員らは「IWATE」と書かれたエプロンを着用し、対応に追われていた。  千田会長は「若い人が日本の風習である餅つき文化に携わることは良いことだ」と話し、「今回で自信を付けて今後も餅つきを続けていけたら」と継続に向けた考えを述べた。 2011年12月17日付
聖市は20日午前10時半から、同市リベルダーデ区タグア街で桜の植樹を行う。これは、同市が推進しているリベルダーデの緑化運動の一つで、この運動には、日系団体をはじめとして韓国、中国、台湾などの団体も積極的に協力している。 日系社会からは、日伯援護協会の菊地義治会長、ブラジルニッポン移住者協会の小山昭朗会長、ブラジル宮城県人会の中沢宏一会長らが中心となり、住民らにさらなる協力を呼びかけている。 6月に始まったこの運動では、リベルダーデ大通り、サンジョアキン街、タグア街、グロリア街の一部と、通りに面した私有地などにこれまで約70本の桜を植樹した。 今回の植樹では50本の桜を新たに植え、最終的には同市で初めてとなる桜並木の完成を目指す。植樹には誰でも参加でき、作業後には宮城県人会館で桜とサクランボを使用した料理で茶話会を開く。 2011年12月17日付
代表者会議で発表  富山県人会(市川利雄会長)は15日、12月度県連代表者会議に出席し、園田昭憲県連会長は「富山県人会が正式に県連に復帰した。これで全47都道府県が県連に加入した」と発表した。  市川会長は「これからお世話になります。今後は県連と県人会の発展のために、今まで以上に努力したい」とあいさつすると、会場からは歓迎の大きな拍手が起こった。  同県人会の発足は1960年。2010年8月には県人移住100周年、県人会創立50周年、母県と聖州との友好提携25周年の記念式典を実施するなど積極的な活動を行っている。  また、今年4月20日には、東日本大震災への義捐金として会員から寄せられた約7千レアルを在聖総領事館の口座に送金した。 このほか、県人会記念誌『富山県からブラジルへ』(日ポ両語)を執筆・刊行するなど活発な活動を行っており、県連に力強い仲間が加わったと言える。 2011年12月17日付 [Tweet]
ニッケイ新聞 2011年12月17日付け  沖縄県の近代史をめくると、その最初には「ペリー来航」が記されているが、実は、本土の歴史とは少々違う。 通常は1854年に7隻の軍艦を引き連れて横浜沖に迫り、3月に日米和親条約を調印したことはよく知られている。ところが、その直ぐ後、その船団は那覇に寄港して7月に、琉球王国とも「琉米修好条約」を締結している。米国によるこの行為が後の歴史を大きく左右することになる。 さらに歴史を紐解くと、日米和親条約の前年1853年5月に黒船は那覇に初来航している。そこでペリー提督は開港を求め、薩摩藩は幕府に判断を仰ぎ、琉球の開港を許可した。この時点で本土に先駆けて沖縄から「開国」が始まっていた。 ペリー提督は琉球が開港に抵抗した場合は、武力をもって占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。しかし、歴史的には琉球は独立国ではない。1609年に薩摩藩が3千の兵力で琉球侵攻を行って以来、薩摩藩の付庸国となっていた。 つまり、江戸幕府が琉球を〃別扱い〃したことで、日本とは異なる国家だとの第一印象を米国は持ってしまった。 ☆   ☆  その後、沖縄県は大正から昭和初期にかけて大恐慌の渦中に巻き込まれた。同規模県の2倍もの国税を徴収される苦境におかれ、沖縄の農地の6、7割は銀行の担保に入っていた時代だったという。ソテツ以外に食べるものがない「ソテツ地獄」に苦しみ、海外移住以外に生き残りの活路は見出せなかった。その中で明治政府に対するある種の抵抗運動のようにハワイ移民は始まり、大量の移民子孫が南北米大陸にちらばった。国内のゆがみがここに集中したために移民が多く生まれた構図だ。 太平洋戦争が終結した時、日本を占領した米国は沖縄県と奄美群島を本土から分割統治した。ウィキペディアの「琉球独立運動」の項目には次の説明がある。 分割統治したことに関して、《これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという第二次世界大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。 占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本(琉球)側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった》。 1949年から冷戦が激化すると、沖縄本島は極東最大の米軍基地が置かれるようになり、米国から〃太平洋の要石〃とまで言われた。 ☆   ☆  かつては日本国内、アジア地域の歴史的な力関係のひずみが、その中間に位置する沖縄に集約的に現われ、その結果、独特の国際的なバランス感覚を育んできた。 グローバル時代には中国の代わりに米国が覇権国の位置を占めるようになり、日米の狭間で二文化を使い分けるようになってきたようだ。 ゆがみゆえに押し出された大量の移民は、いち早く新大陸で地歩を築いた。その結果、出身地(旧世界)の秩序がひっくりかえる現象が起き、沖縄系が南北米諸国で最大派閥を形成する結果となった。そんな移民や子孫を国際的な〃宝〃だと発想したのが今大会だ。(つづく、深沢正雪記者) 写真=ペリーから始まる沖縄の近代史(『沖縄の百年』第1巻人物編・近代沖縄の人々、1969年、琉球新報、11頁)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  前節で見てきたように沖縄県では方々で「海外には〃明治の沖縄〃が残っている」との言葉を聞いた。海外県系人がウチナー意識を継承している姿をみて、母県側の市民は自らのあるべき姿を再確認しているようだ。郷土愛ともいえるし、ナショナリズム傾向、エスニック志向のような方向性も内包しているようだ。 ☆   ☆  ブラジル県人会の与那嶺真次会長は、この現象を「裏表の鏡」と興味深い表現をする。ブラジル子孫は沖縄という鏡を見て「やっぱり自分はウチナーンチュだ」という気持ちがわいてくるが、母県市民も海外子孫が〃明治の沖縄〃を継承している姿をみて、「自分達はもっと伝統文化、根っこを大事にしなきゃ行けない」と自覚を深める。お互いがそこに何かを投影し、自覚を深める「裏表の鏡」になっている。そして手を携えて、ひとつの方向に向かう。 これは一見「遠隔地ナショナリズム」のように見える。祖国を遠く離れた移民集団が祖国の現状を憂い、遠隔地からナショナリズム色の強い意見を発して、祖国に影響を与えることだ。ところが沖縄の場合は、実は母県側がそれを誘発して海外勢が乗り、一体化して盛り上げている図式があるように見える。 母県の方から「明治の精神」をブラジルに投影し、それに似合った事象を選び出して報道し、会議で取り上げることで「やっぱり伝統的な沖縄を残すべきだ」という母県の世論を盛り上げる社会心理があるようだ。 海外在住者からすると、少し別の現実も見える。実際の県系人の大半はすでに意識が薄れている。県人会の与那覇朝昭事務局長によれば現会員数は2800人だが、1973年当時では3648人もいた。明らかに減少傾向であり、「若い人はあまり県人会活動に関心を示さない」と心配する。 それに「子孫が沖縄方言をしゃべる」からと言って、〃明治の沖縄〃の精神まで残っているのだろうか――という根本的な疑問も湧く。 しかし、大会参加者だけを見れば選りすぐりの高い意識を持つ層だ。旅費を負担して大会に参加する人は自覚が強い人ばかりで、〃明治の沖縄〃があるように見える。普通どの県でも海外子孫の県人意識は世代が進むごとに薄れる。この自然の摂理に対して、この大会は流れに棹差すような方向性を持っている。 前堂(まえどう)和子さん(かずこ、70、沖縄)=神戸在住=は大会に参加した感想を、「震えて、涙が出そうで、堪らなかった。世界に散ったみんなの心がひとつになるのを感じた。沖縄のDNAが私の心の中に、魂の中にはっきり生きているのをこの大会で感じた」とのべた。神戸に住んでいる彼女も、海外子孫と同列だと意識していることが分かる。大会では東京、大阪などの県人会等〃内地〃勢と海外勢が肩を並べて熱い議論を交わした。 那覇在住7年のフリージャーナリスト高橋哲朗さん(50、埼玉)は、ブラジルに3年、米国に7年、オーストラリアに1年住み、国際的な視野から取材活動をしてきた。 「沖縄県人は愛郷心がすごく強い。島を離れたのなら、本土でもブラジルでも大差ないという感覚がある。離島ならではの意識、ここを中心とした一つの世界がある」と分析する。そのような意識が強いから、沖縄の人は自分達を〃ウチナー〃、本土の人間のことを〃ナイチャー〃(内地人)と区別する。米軍統治時代の意識の名残りか、今でも「外地」にいると感じているようだ。 その意識を反映して、沖縄の地方紙には独特の「県系人」という言葉遣いまである。一般な日本語でいえば「県人子孫」だ。ウチナー意識の延長線上に「県系人」という概念を作り出し、今ではそこまでウチナー自体の範囲が広がっている。 高橋さんは「日本という国の、一番歪んだ部分の現実をここでは観察できる。本土のしわ寄せがここに集まっている」と繰り返す。国境を超える強い血縁意識の原動力となるのが、この「ゆがんだ部分の現実」かもしれない。(つづく、深沢正雪記者) 写真=沖縄探見社を創立し、平田進の生涯を描いた『国会議員になった「隠れキリシタン」』など4冊を出版した高橋哲朗さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の『第37回ふるさと巡り』が来年3月31日~4月3日の4日間実施されるにあたり、県連では現在参加者を募集している。 今回は聖州ボツカツ、バウルー、パラグァスー・パウリスタ、アヴァレーの4カ所を訪れる。 バウルー訪問はふるさと巡りとしては初。パラグァスー・パウリスタはかつて、米国への日本移住者の入国が禁止されたときに計画された「文化移住地」があった場所。 31日朝にリベルダーデ広場を出発。ボツカツ、バウルーの日本人会館で交流を行い、1日午前ピラチニンガ温泉を訪れ、午後にパラグァスー・パウリスタの日本人会館で交流を行う。 2日はオランダ移住地として造られたパラマパネマ市オランブラ・セグンドの花園、果樹園を観光。その後はアヴァレーを訪れ、3日夕刻に帰聖する。 参加費用は移動・宿泊費、食費、日本語添乗員、旅行保険などが込みで、二人部屋で一人あたり1290レアル。一人部屋は1560レアル。 申し込み、問い合わせはグローバル旅行社(11・3572・8990)。
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  日伯音楽協会(蛯原忠男会長)主催『第17回ブラジル紅白歌合戦』が11日、宮城県人会館であった。52組104人が舞台に立ち、約300人が声援を送った。 震災復興支援を目的とした今年、出演者や会場から募った4395レアルが宮城県人会へ寄託された。 紅組は菊地悦子、白組は高畑正二各氏をキャプテンに進行、審査委員長は上岡正雄音協名誉会長が務めた。歌謡団体の推薦を受けた出場歌手達は豪華な衣装に身を包み、カラオケの音楽に乗って堂々と喉を披露した。 途中の8組は羽田宗義エトワール楽団の生演奏で歌唱、羽田さんの「高原列車は行く」で大きな拍手が起こった。 後半では大橋サユリさん(24)が08年の「NHKラテンのど自慢大会」の優勝曲「帰らんちゃよか」を熱唱。「心の強い日本人だから、震災から必ず立ち直ると思います」とエールを送った。 中間発表で優勢だった紅組がそのまま勝利し、菊地キャプテンにトロフィーが授与された。 尾迫鉄次さん(82、鹿児島)=聖市在住=は「皆さんとても上手。私も子供の頃から演歌好きなので、来年も新しい曲を覚えて歌いたい」と笑顔で話していた。
九州B懇親会で報告  九州地区の県人会員が集う第68回九州ブロック懇親会が10日午前10時より、聖市ビラ・マリアーナ区の熊本県文化交流協会で行われ、2011年度事業の報告と12年度の活動について話し合われた。  このうち、10月に行われた第9回九州ブロック芸能祭の収益が1832レアルに上ったことが報告され、これを各県人会で分配することが決定した。  続いて、12年度の各事業担当県が振り分けられ、カラオケ大会は長崎、運動会は沖縄、忘年会は福岡がそれぞれ受け持つこととなった。  12年度に予定されている式典は、長崎県人会の創立50周年記念式典が9月にあり、母県から知事をはじめとした訪問団を迎え開催する。 また、懇親会後には忘年会が行われ、会員らは杯を交わしてさらなる躍進を誓い合っていた。 2011年12月15日付
ニッケイ新聞 2011年12月15日付け  父が臣道聯盟員だった保久原淳次さん、父が勝ち組だった玉木さんは、親を通して〃明治の沖縄〃を引き継いでいる。二人に共通するのは、国や郷土を愛する想いが親に強かったことだ。沖縄ブラジルの絆の土台には、このような切ない志の積み重ねがあった。 ☆  那覇市内の沖縄青年会館で10月15日晩、沖縄ブラジル協会(西原篤一会長)と沖縄産業開発青年協会(伊集盛元理事長いしゅう・せいげん)が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会で様々な関係者の声を聞いた。彼らこそ戦後の〃団塊世代〃、沖縄版第3弾を代表する集団といえる。 訪伯3回を数える同青年協会の伊集理事長は「南米に行った時、沖縄では使われなくなったウチナーグチが今も使われていることに驚いた。沖縄が失ってしまったものがブラジルには残っている」との印象を強調した。子孫に色濃く残る〃明治の沖縄〃が母県関係者を感動させている。 沖縄産業開発青年協会の創立は1953年の復帰前であり、本土の南米産業開発青年隊とは別組織だ。そこでポ語教師をしていた玉木良子さんは「あの頃は大型機械の免許とったり技術をつけても仕事がなかった」と世情をふり返る。 琉球政府の政策で次男三男がブラジルを中心に亜国、ボリビアに送り込まれた。57年2月に第1次隊約30人が出発し、62年ごろまでに15回に分かれて約300人余りが海を越えた。本土の南米産業開発青年隊は全部あわせても326人であり、沖縄だけでそれに匹敵する若者を送り込んだことになる。 この第1次隊の東恩納盛正さん(ひがしおんな・もりまさ、74、南城市なんじょうし)=サントス在住=は、「僕は南洋生まれだから最初から移民を目指していた。外国の方がいい、とにかく沖縄から出たいと思っていた。19歳でブラジルに来て小学校からやり直した」という苦労人だ。 県人会サントス支部長を務め、孫2人をつれて2回目の大会参加を果たした。「おじちゃんの生まれたとこを見たいと孫がいうんで連れてきました。こっちきたら『自分のうちに帰ってきたみたいだ』と孫が言うんで、先祖が何か伝えてくれたんじゃないかと思います」と微笑んだ。 西原会長にブラジルの魅力を尋ねると「スケールの大きさにしびれた。それにウチナーの肝心(チムグルル)がある。訪問する度にとても盛大に歓迎してもらった。若い人で方言を使える人がいたりする。今の沖縄には欠けているものがブラジルにはある」という。 沖縄ブラジル協会は52年5月に創立し、西原さんは会長を10年間務めている。初訪伯は93年の那覇サンビセンチ姉妹都市提携15周年の時だった。以来18回の訪伯を数えるから、毎年来ている勘定になる。 伯国からの研修生はすでに41市町村が受け入れているが、「さらに態勢の充実を図る」という。現会員は50人ほどで、当地に親戚のいる人、引上げ者が多いという。 会場となった沖縄青年会館の城間良和(しろま、よしかず)理事長は、「ブラジルはどんどん成長し、今に日本を追い越す勢いだ。沖縄にある南西石油はペトロブラスが買収した。これからはブラジルからいろいろと学ばなければいけない。次のウチナーンチュ大会ではもっと盛大な歓迎会をしたい」と語った。 このような母県側の組織がどの国の海外県人会にも必ずある。この受けいれ組織と、戦後の〃団塊世代〃は車の両輪の関係だ。戦後の団塊世代が多いことが各国の県人会活動を活発化させ、母県側の受け入れ団体との連絡を密にさせている。両側ががっぷりと四つ組んだ体制が、世界に散らばるウチナーンチュの強固な国際交流の足場を形成している。(つづく、深沢正雪記者) 写真=歓迎する沖縄ブラジル協会、沖縄産業開発青年協会のみなさん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 県連の園田会長は10日、九州ブロック忘年会に出席し「県連基金から九州ブロック芸能祭に補助はなかった。県連にあった飲料水を分けただけ」と強調した。県連は15日の12月度代表者会議で正式に基金運用基準を示したポルトガル語の定款を発表し、県連基金を立ち上げる。その際、基金運用や、基金補助の是非を決定する「県連基金委員会」を設置し、公正で透明性のある運用を行っていくという。委員会のメンバーとして内定している県人会長は「きちんとした計画を持っているところに有意義に基金を使ってもらいたい。委員会は問題にならないようにしっかり管理しなければ」と話した。 ◎  県連基金の正式運用開始前に九州ブロック芸能祭への「飲料水」提供疑惑が上がったことにより、結果的に多くの人が注意深く県連基金を見守っていくという雰囲気ができたと言える。コロニア全体でしっかり運用していきたいものだ。多くの団体が同基金を活用したいと考えている様子で、正式運用開始後は申し込みが殺到するのではないだろうか。なお、県連は年内に文協ビル5階へと引越しして新年は新事務所で迎えるようだ。まさに師走の忙しさ。事実上、申し込み受け付けは年明け以降か。
 ブラジル鹿児島県人会(園田昭憲会長)は4日、聖市パカエンブー区の同会会館で12月度定例役員会と忘年会を催した。 役員会の中で園田会長は「設立100年を過ぎても名前を残し活動できる会にしておこう」とあいさつした。  また、いまだ進展しない県連の事務所移転問題について現状を説明した。県連が移転先に予定している援協名義の文協ビル5階は、今なお手放すための書類がそろわず、1年近く足踏み状態が続いている。県連としては、来年3月の役員改正以前に、現在の役員で同問題を収束させたい考えだ。  園田会長によると、援協から県連へ「コンドミニオだけで良いから入ってほしい」といった内容の手紙が届いた。それを受け両者の代表が会談し、書類がそろうまでの間、家賃は支払わず共同管理費の662レアルのみで県連が使用できることになったという。  この決定により、県連は12月末で現在の事務所がある文協ビル3階を引き払い、来年1月から5階で業務を行うことが決まった。ただし、書類がそろうまでは改装に着手しないという。  また園田会長は、書類がそろわない時期から県連が援協名義の事務所を使うことにより税金問題に問われた際は、援協が全責任を負うことを加えて発表した。  役員会の後は忘年会が行われ、集まった会員は井料堅治参与の音頭で乾杯を行い、持ち寄った食事を楽しんだ。 在伯都道府県人会の中で最も古い歴史を持つ鹿児島県人会は、2013年に設立100周年を迎えるため、来年は100周年に向けての準備が本格的に進められる。  大羽豪三記念誌編さん責任者は、記念誌は見て楽しめるものを目指し、頁数を少なくし写真を多く掲載すると明らかにした。  また、これまでの記念誌は日本語の全訳がポルトガル語で収録されたが、100周年誌には要約したポルトガル語訳のみ記載する予定だという。  大羽編さん責任者は「大変な忙しさになると覚悟しているが、連絡を取る手段がある限り、全伯の県人に寄稿を呼びかけたい」と意気込みを語った。 2011年12月14日付
ブラジル熊本文化交流協会(小山田祥雄会長)は11月20日、聖市ビラ・マリアーナ区の同会館でたけのこ祭を開催した。同祭は、長瀬隆元会長の私有地の竹林で、たけのこがたくさん取れることがきっかけとなり開かれた。開催は今回で3度目となる。 当日は、同県人会員や、同会館で開講しているカラオケ教室や健康体操の受講者とその家族ら約200人が訪れ、同県人会婦人部(衛藤チエコ部長)手作りのたけのこ料理に舌鼓を打った。 衛藤部長によると、当日は午前6時半から部員が集まり、調理や用意を行ったという。用意されたたけのこ料理は、炊き込みご飯、煮物、ぬか漬け、みそ漬け、酢漬け。加えて赤飯、唐揚げ、みそ汁と熊本名物の高菜飯が振る舞われ、昼食時は満席となった。 衛藤部長は「長瀬元会長のたけのこはアクが少なく、軟らかい」と太鼓判を押した。初めて来場したという安東マイラさん(29、3世)は「炊き込みご飯が一番おいしかった。家でも母が作ります」と笑顔で話した。 また会場では、同会館で行っている竹細工教室の作品も販売された。材料の竹は、たけのこ同様長瀬元会長の所有する竹林から調達している。 特に人気の作品は、竹を輪切りにしたものを土台に使った針山。針を刺す部分は、丸い形を生かしてフクロウやてんとう虫を模しており、針刺しとして使うだけでなく、置物としても楽しめる愛らしさで来場者の目を楽しませていた。 竹細工教室と同会婦人部が協力して制作しているという針山は、中身に針が錆(さ)びにくい素材を採用するなど、こだわっている。連日15~20人で制作しているが、好評で供給が間に合わないほどだという。 小山田会長は「来場者が例年より多かった。特に女性は、休日は家事も休もうと誘い合って来ているようだ」とこれまで以上の反響を喜んだ。 2011年12月14日付
ニッケイ新聞 2011年12月14日付け  「日本が勝っていると信じて、父は終戦後の1954年、20歳だった私を連れて沖縄に帰ってきました」。那覇市内の青年会館で10月15日晩、ブラジル沖縄協会と沖縄産業開発青年隊が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会の場で、玉木良子さん(たまき・よしこ、78、二世)=那覇在住=は、初対面の記者にいきなりそう告げた。 今大会にあわせて出版した自伝『大洋にかける橋』(沖縄自分史センター、11年)を手渡し、「全てがここに書いてあります」と畳みかけた。 父宇根良治(うね・りょうじ)は42歳の時、モンテビデオ丸で1926(大正15)年に渡伯した。一般の日本移民と同じ戦前の〃団塊世代〃に属し、沖縄県系人にとっては第2弾世代となる。 日本国外務省は沖縄県人の耕地逃亡やストライキ多発に手を焼き、2回目の渡航禁止処分にし、ようやく解禁し始めたときだ。沖縄県人は球陽協会を組織して本格解禁を要請したまさにその年、宇根さんは渡伯した。 県人が集中するジュキア線ムザーセアに農地を買い、バナナ園を経営した。大戦勃発後、地区の顔役であった父にDOPSから出頭命令が下り、聖市で拘留された。地域住民が嘆願書を書いて釈放運動をし、ようやく出される手筈になった。 ところが拘置所の「門の出口まで来た所で難関があり、父は試された。出口に『天皇陛下の写真と日の丸の国旗』がしかれていたのだ。踏んで出るように言われ、父は踏めずに残る道を選んだ」(同57頁)。そしてアンシェッタに〃島送り〃にされ2年を過ごした。 出所した父を見て、「泣くまいと心に決めていたが、久しぶりの父の姿を見たとたん、涙があふれ出た」(同59頁)。父はその時点で帰国することを決意していたが、母は様態が急変し52年9月に亡くなった。一家は54年6月に念願の帰国の途についた。 「当時の沖縄は太平洋戦争の傷跡がまだ残っており、復興途中の何もない島だった。一方ブラジルは、経済的にも栄華を極め、食料も物資も町にあふれていた」(同64頁)。しかも米軍統治の時代だ。誰もが豊かなブラジルへ向かう中、「勝ったはず」との父の信念から宇根家だけ逆方向を辿った。 あまりに珍しいので当時写真入りで地元紙に報道された。父はすでに61歳だった。「父は日本に帰ってからも決して『負けた』とは言いませんでした。それぐらい強い意志を持っていた。だからみながブラジルに向かうなか、復興前の沖縄に帰ってきてやり直すことができた」。 良子さんは「日本行きはイヤだった。2、3年したら帰ろうと思っていたのに、そのままになってしまった」とふり返る。ブラジルで洋裁を学んでいたので資金を融通してもらって洋裁店を開き、「帰伯するための費用」と思って懸命に稼いだ。そんな時、夫の玉木正明さんと出合った。 玉木さんの父は琉球政府の移民課長で送り出し側の責任者だった。ブラジル帰りの良子さんに目をつけて、55年に設立された沖縄開発青年隊でポ語教師をするように依頼し、彼女は喜んで引き受けた。当時、田畑の軍用地収容を受けた沖縄では、青年たちの働き場はなく豊かな伯国はまさに新天地だった。 良子さんは「ブラジルじゃステーキの大きいのが毎日食べられるわよと言ったのを聞いて、渡伯を決めた隊員もいる」と思い出し笑いをする。 正明さんと結婚し、72年に玉木病院を開院した。県系の伊波興裕サンビセンチ市長(当時)の申し入れにより、78年に那覇市と姉妹都市になった時、良子さんが仲を取り持った。「万国津梁の気概を忘れずに世界をつなごう、それが私たちに託された使命」(111頁)。同書はそう締めくくられている。(深沢正雪記者、つづく) 写真=著書『大洋にかける橋』を手にする玉木さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月13日付け  「ここはお国を何万里、はなれて遠きブラジルの、赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」。そんな「戦友」の替え歌が戦前移民の間ではよく歌われていた。夢に見る故郷は、いつも自分が離れた時そのままであった。 全日本移民25万人の過半数である13万人を占めた「団塊世代」(1926年から35年までの10年間に大量移住した世代)の家長は、明治後期から大正期に人格形成した。その気質が家庭を通して子孫に伝えられ、後に大きな影響を与えた。 日本では終戦という大鉈によって〃明治の精神〃の感性は分断された。だが、当地子孫の一部には家庭を通して純粋培養して伝えられた。 日本移民全般でみると、戦前の大型団塊世代と、戦後の小型団塊世代(1956年~1961年の6年間に約3万5千人)と2回形成している。 ところが沖縄県系人にはもう1回ある。保久原淳次さんの父正輝さんは1918(大正7)年に叔父の保久原牛(うし)夫妻に連れられて13歳で渡伯した。家長の牛は明治に生れ育っており、沖縄版団塊世代第1弾だ。 1917年(全渡伯者の55%)と18年(同37%)の2年間に渡航した沖縄県人は合計4342人もおり、18年現在の全日本移民の17%を占めた。当時6人に1人は沖縄県人だった。 これは、日本国外務省による最初の沖縄県人渡伯禁止令を解除した直後だ。その間に溜まっていた希望者がドッと押し寄せたので、一般の日本移民よりも早い段階で独自の団塊世代を作った。 『曠野の星』(56年8月号、8頁)によれば、沖縄系集団地の南麻州カンポ・グランデ市日語学校の山城興長(こうちょう)校長は「家庭内では親と子の会話の80%はブラジル語で、20%が沖縄語とポ語を混ぜている。日本語を不自由なく話すには3年かかる。敗戦によって自信を失った為、日語の熱意を失った」と分析している。この世代と日本語は遠い。 沖縄方言で育った淳次さんの世代は人格形成期に、父を通して牛が持つてきた〃明治の沖縄〃の薫陶を受けたのだろう。 ☆   ☆  普通はどこの県人会も若者を巻き込むことに苦心している。では二世、三世への県系意識継承のためにこの大会はどんな効果があるのか。 大田正高さん(まさたか、55、豊見城市)=聖市在住=は、2歳で親に連れられて渡伯した。「開会式で世界中の旗が立ち並んだ光景を見て、世界中にウチナーがいるんだと実感した。それが今ここに集まっているという団結感に感動した」と興奮冷めやらぬ様子だ。那覇生まれだが、すでに日本語を忘れた世代がそんな感想を持ったという。 聖市ジャルジン・ダ・サウーデ区在住の比嘉セルジオさん(68、二世)は、「初めての沖縄、初めての大会だがとても感動した。ここが自分のルーツだと実感する。叔父や叔母に会い、本家の仏壇に線香を挙げたら何か心が洗われるような気がした。またきっと沖縄に戻ってくる」と祖父の地に初めて足を踏み下ろした感動を語った。 呉屋春美さん(57、やえせ町)=聖市=は「3回連続参加だ。従兄弟や親戚から『お帰りなさい』と熱烈歓迎されるのを一度体験したら来ないではいられない。県人の絆の深さに心から感動する」と顔を紅潮させる。5歳で移住したが「故郷をはっきりと覚えている」と強調した。 県人会の与那嶺真次会長(二世)は、「ある旅行社では大会ツアー参加者のうち80%は日本語が分からない世代だった。今回沖縄を訪れた二世のほとんどは祖父の地を訪れ墓参りをし、本家にいって位牌に手を合わせてきた。祖父はここで生まれ、自分の根っこはこの村にある、自分の家族はここから始まった、そんな思いを深めたはず」と見ている。 保久原さん同様、自分の中に親から埋め込まれてきた沖縄性を再認識することで、すごい規模でルーツ意識の覚醒が起きている。(深沢正雪記者、つづく)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月10日付け  ブラジル最大手エスタード紙の論説委員、保久原ジョルジ淳次さん(65、二世)は息子を連れて世界のウチナーンチュ大会に初参加した。 彼は今年の講演会で「4年前まで自分が日系人だと意識したことはなかった」とブラジル人性を強調していたが、今回「まるで家に帰ってきたみたいだ」と興奮している様子を見て驚いた。明らかにルーツ意識に目覚めていた。 父正輝さん(1905―1966)は臣道聯盟員というだけで監獄に送られたが、無罪判決を受けて釈放された。ところが『Coracoes Sujos』(国賊、Fernando Morais, Campanhia das Letras、2000年)が一部の特殊な事件を誇張して、臣道聯盟が組織的にテロ活動をしたかのように描いた。そのため聯盟員を父に持つ多くの二世は親の歴史を恥じるようになっていた。 保久原さんは「父はテロリストではない。特殊な事例ではなく、父のような普通の聯盟員の姿、想いを描きたかった」と考え、『O Sudito (Banzai, Massateru)』(臣民、Terceiro Nome、2006年)を出版した。 ブラジルでは日本語をほぼしゃべらない保久原さんだが、那覇では積極的に日本語で話しかけてきた。なにかが変わった。自分が日本語をしゃべっている姿を息子に見せたいのかもしれない。 聞けば、幼少期には家庭内では沖縄方言で人格形成したようだ。「母は家の中でウチナーグチだけだった。それが日本語だと思って日系の友達にしゃべりかけると変な顔をされ、ああ、これは方言だったんだと子供心にコンプレックスを感じた」と思い出す。 沖縄県系人の密集地域に生活している二世には沖縄方言しかしゃべれない世代があり、他の日系二世から差別を受けた。沖縄子孫ゆえの引け目だ。家庭内言語がウチナーグチであれば、日本語もポ語も〃外国語〃に過ぎず、同じ学習の苦労をするならポ語に集中して一般社会でより高い地位に就いた方がいい――そんな考え方はこの世代には珍しくなかったという。 移民の家庭では、親に欠けている何かを子供が補おうとする傾向がある。父が右よりの日本愛国者だった反動か、保久原さんはUSP時代に左翼学生運動に走り、結果的に同じように監獄に叩き込まれた。各家族には「精神的な振り子」という作用が働いている。父が右に振れ過ぎれば、バランスを取ろうとして子供が左に振れて、家族として安定を保つような心理作用だ。 最終的にはあるべきところに落ち着く。親が日本の保守であったのと同じように、保久原さんはブラジルの保守言論の中軸を支えるエスタード紙の論説委員に上り詰めた。国は違えど、思想傾向には血筋を感じさせる。 保久原さんは続ける。「前夜祭の帰還パレードで沿道のご婦人に、方言で語りかけたら『この人すごい。私が使わなくなった言葉をしゃべっている?!』と驚かれたんだ」との話を披露した。沖縄では方言に敬意が払われることを体験し、長年の引け目意識から開放されたようだ。 息子タデウ・直紀さん(なおき、29、三世)を指差し、「息子は僕のような言葉のコンプレックスはとっくに卒業し、新しいウチナー意識を持ち始めている」とうれしそうにいう。直紀さんも「本当にきてよかった。感動したよ」と繰り返す。 保久原さんが日系人の自覚をもったのは確かに百周年直前かもしれないが、幼少時からすでに県系意識はあった。講演会で彼が言った言葉は、そういう意味だったようだ。 二世は終戦後、勝ち負け抗争の影響もあって一般社会から日系人であるだけで引け目を感じたが、沖縄県系二世はもう一つ沖縄県系であることのコンプレックスも乗り越えなくてはならなかった。 ところが、世界のウチナーンチュ大会では、むしろそれゆえに尊ばれることが分かり、二世には精神のカタルシス(浄化)作用が生れたようだ。(深沢正雪記者、つづく) 写真=息子のタデウ・直紀さんと保久原ジョルジさん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
海外でのネットワーク構築目的に  「自由で平和な大学」を基本理念に置く日本の国立大学である広島大学(浅原利正学長)は、海外でのネットワーク構築を目的に3日午後7時半から聖市リベルダーデ区の広島文化センターで同大ブラジル校友会の設立総会を開催し、同大留学生OBや縁のある人々など約50人が出席した。設立総会では、岡本哲治副学長(歯学博士)による基調講演が行われたほか、ブラジル校友会初代会長として大西博巳広島県人会長が就任した。  下田修二同大国際交流グループリーダーの話によると、同大校友会は2007年2月に発足し、正会員は現在9649人で、準会員81団体に及ぶという。海外での校友会は、中国、韓国、台湾、ベトナムに続き、今回のブラジルでの発足が5か国目となる。  同大は2009年から聖市の広島文化センター内に事務所を置き、10年にはサンパウロ総合大学(USP)と学術提携関係を結んでいる。  海外からの留学生は、40年前にはわずか28人だったのが、現在は1090人(伯国からは5人)と年々増加しており、「今後5年間で2千人に増やす計画だ」(岡本副理事長)という。 また、同大卒業生は12万人で博士号修得者1万人、修士課程修得者は3万人に上る。  この日の設立総会では岡本副学長が、3月の東日本大震災による津波被害で発生した福島第一原発事故に対する同大の対応活動などについて講演を実施した。それによると、同大緊急支援チーム38班1926人を福島県に派遣し、被ばく対策委員会を設置。除染作業の指導や内部被ばく者特別検診などを行ったという(講演の詳細内容については後日掲載予定)。  講演後のブラジル校友会会長選出で下田氏からの推薦を受けて就任した大西会長は、自身が72年に県費留学生として広島大学で世話になったとし、伯国三菱重工での勤務の後、00年から広島県人会長に就任し11年にわたって活動してきたことに言及。「広大のOBなど皆さんの協力を得て、校友会活動を一緒にやっていきたい」とあいさつした。  大西会長は校友会の今後の活動について、「今まで留学生OBが集まることはあまりなかったが、まずは関係者や縁のある人たちに集まってもらい、互いに知恵を出し合っていきたい」と話している。 2011年12月9日付