07/03/2026

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ニッケイ新聞 2011年12月9日付け  ブラジル日本都道府県人会連合会には、おそらく世界で唯一、47県全てが揃っている。米国にも多くの県人会があるが、地域ごとに活動しており、全国規模でまとまった連合会活動をする組織はないようだ。 ほとんどの県人会がサンパウロ市、なかでもリベルダーデ区に集中しており、この高密度な状況は世界でも特徴的だ。だからこそ、地元開催としては世界一の規模である「日本祭り」が可能になる。母県との強い絆を持つ各県人会、それらを束ねる県連という存在が相まって、当地の日系社会の〃日本らしさ〃を強く演出する。 ☆    ☆  そんな47県人会の中でも、沖縄県人会は最多の44支部を持つ。うち18支部が会館を持っており、各支部が通常の「県人会」規模か、それ以上に活発な活動をしている。沖縄県人会は単なる「県人会」というより、亜国のように「沖縄県人会連合会」を名乗ってもおかしくない規模だ。 調べてみると、実は戦前(1934―35年頃)にはなんと72支部もあった。当時はジュキア線や南麻州カンポ・グランデに沖縄県系が集中していた。県人会の前身である球陽協会がジュキア線で1926年に創立したのは、その状況を反映している。 沖縄県人は「差別」を受けて他県人よりも移住開始が遅かったが、ブラジルでも2回、日本国外務省から渡伯禁止された歴史がある。笠戸丸こそ半数近くを占めたが、同県人の耕地逃走やストライキが頻発したことから、外務省は1913年から16年までと、1919年から1926年まで渡伯禁止にした。球陽協会は移住の本格解禁を訴え、受け入れ態勢整備のために作られた。このような創立経緯を持つ県人会はおそらく他にない。 戦後、出聖者が激増し、大聖市都市圏が急激に増えた。支部数自体は減ったが、聖市周辺の各支部の人数は急激に増えた。大聖市都市圏だけで現在10支部あり、そこだけで全沖縄県系人15万人の半分が集中していると見られる。 『沖縄県人移民史』(00年、同県人会、以下、『沖縄90年史』と略)の250頁、1973年時点で会員数最多はカーザ・ベルデ支部(371人)、ビラ・カロン支部(346人)となっている。いまもこの2支部が県人会の両輪ともいえそうな地区だ。 両方とも那覇市内の一つの「字」(通り)である小禄(オロク)出身者が最多を占める地区だ。百周年協会理事長を務めた上原幸啓さん(準二世)、県連で沖縄県系人としては初めて県連会長を務めた与儀明雄(二世)前会長らが小禄出身者、同子孫として有名だ。 この地区は第2次大戦中、日本帝国陸軍の飛行場があった地区で、米軍は上陸する前に徹底した艦砲射撃や空爆を行い、地上にあったものは跡形もなく吹き飛ばされ、残ったのは蜂の巣のような爆弾跡だけだったという場所だ。戦後移民がここに集中したのには悲しい歴史があった。 同県人会の与那覇朝昭(ともあき)事務局長によれば「戦前よりも戦後移民の方が多い印象がある」という。通常、どこの県人会でも戦前の方が多い。戦前は約20万人、戦後はわずか5万だから当然だ。 ではなぜ沖縄の場合は戦後移民の存在感が強いのか。第2次大戦で唯一の地上戦を体験した歴史と無縁ではないだろう。 『沖縄90年史』の116頁によれば、戦後移民の総数は6175人にもなり、全戦後移民の1割を軽く超え、3500人前後の2位、3位を大きく引き離している。戦後に大きな団塊世代を持っていることが、現在も同県人会が活発に活動を続ける理由の一つだ。例えば3番目に大きなサントアンドレ支部には戦後移民が集中している。 一般の日本移民は戦前と戦後各1回ずつ団塊世代を形成しているが、沖縄県系人には3回ある。次節からその流れを追いつつ、沖縄県系の歴史的特徴に迫る。(深沢正雪記者、つづく) 写真=前夜祭の帰還バレードで圧倒的な存在感をみせる伯国勢   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 日系5団体(文協、援協、県連、日文連、老ク連)共催の天皇誕生日祝賀会が、7日午前9時から聖市リベルダーデ区の文協ビル9階移民史料館で開かれ、天皇陛下のご健康と皇室の変わりのない弥栄(いやさか)が祈られた。今回から「世界に一つ」と言われる天皇皇后両陛下の肖像画が同階で常設展示されていることもあり、開催場所が例年の貴賓室から史料館に変更された。  祝賀会には、在サンパウロ総領事館日系社会担当の成田強領事部長、JICAサンパウロ支所調整班長の村上ビセンテ氏を来賓に迎え、山下譲二文協副会長、菊地義治援協会長、園田昭憲県連会長、中谷アンセルモ日文連会長、内海博老ク連副会長の共催団体代表をはじめ、約70人が出席した。  祝賀会では、共催団体代表紹介に続き、文協合唱団約20人のコーラスにより日伯両国歌が斉唱された。  5団体を代表して山下文協副会長が祝辞を述べ、「天皇皇后両陛下はブラジルには特にお心寄せいただき、再度にわたって来伯され日伯親善外交の大きな役割を果たされた」と尊敬の意を示した。また、1997年の来伯時に史料館9階増設の開所式に立ち会われたことや、78年の史料館開設(7、8階)時にも両陛下(当時は皇太子・妃殿下)がガイゼル大統領とともにオープニングに参加されたことにも触れ、「史料館は両陛下と日系社会にとって絆の深い場所」と強調した。  さらに山下副会長は、東日本大震災被災者に対して両陛下が自身の体調を顧みずに被災地を訪問されたことに「身の引き締まる思い」と述べ、天皇のご健康と皇室の変わりのない繁栄を祈った。  引き続き、成田領事部長が、2001年7月頃に両陛下がハンガリーを訪問された際にレセプション担当だった時のエピソードを披露。同国王夫妻が退席した後も両陛下は出席者と気軽に話し、在留邦人の労をねぎらわれたという。 園田県連会長による万歳三唱の後、菊地援協会長が乾杯の音頭を取り、祝賀パーティーへと移行した。 2011年12月8日付
 ブラジル鹿児島県人会(園田昭憲会長)は11月20日、聖市パカエンブー区の同会会館で創立98周年記念式典と敬老慰安会を開催した。  当日は聖州内だけでなく、パラナ州やブラジリアといった遠方からも会員や関係者が集(つど)い、約70人が出席した。 敬老慰安会で小森広相談役は「2年後に100周年を迎える県人会として、先没した先輩が築いてくれた歴史を受け継ぎたい。日系社会の模範となるような団体の一つでありたい」とあいさつした。  同会では、来場した75歳以上の会員へ紅白餅が手渡された。同県人会には75歳以上の会員が89人所属している。 高齢者を代表して井料堅治参与(79)が謝辞を述べ「高齢になると、歳を重ねることを普通と感じるが『若いですね』と言われると気持ちが良い。これからも、一緒に元気に生きていきましょう」と晴れやかに語った。  餅を手にした杉尾コトさん(92、姶良市)と穂園佐武郎さん(78、曽於郡大崎町)は「毎年もらっているが、今年もうれしい」と笑顔で話した。 2011年12月8日付
来年の再会誓って  和歌山県人会(木原好規会長)主催の忘年会が、4日正午から聖市アクリマソン区にある同県人会館で開かれ、子どもから高齢者まで約60人が一堂に会した。  木原会長はあいさつで今年1年を振り返り、県人会員へ感謝の気持ちを表した。会では、青年部が焼くシュラスコに舌鼓を打ち、ビンゴゲームなどで盛り上がった。  また、和歌山県人会員で元サンタンデール銀行取締役の清水オリジオ夫妻、下本八郎元聖州議夫妻も姿を見せた。 最後に会員らは「また来年元気にお会いしましょう」と抱き合い、同県人会は今年の公式行事を納めた。 2011年12月8日付
ニッケイ新聞 2011年12月8日付け  「ぺルーの日系団体で一番大きいのは沖縄県人会、でも全体を統括しているのはペルー日系人協会です」。首都リマで旅行社を経営する玉城ルイスさん(76、二世)は、そう語り、全日系人口は8万~10万人でウチナーンチュはその7割を占めると補足した。 世界のウチナーンチュ大会の参加者数に関しては、第4回大会には400~500人参加していたので、今回はそれより若干少ないという。 「第4回大会までは一世が多かったが、今回は非常に少ないのが特徴。あと他府県人が20%ぐらい来ている。二、三世にも沖縄ブームが起きており、日本語は出来ないが一度は沖縄に見にきたいという人がこの機会に来ている。そして大会に来てみな感動している」 日系の国会議員は何人も出ているが、「2期務めたのは私だけだ」と胸を張って琉球新報10月9日付けに談話が掲載されているのは、松田サムエルさん(70、与那城町系二世)だ。96年12月に首都リマで起きたセンデロ・ルミノソによる日本大使公邸占拠事件の時、解決までの126日間、最後の人質3人の一人だった人物だ。フジモリ大統領の側近として知られ拘束され続けた。 同紙に「これまでの人生で一番困難で恐ろしい出来事だった。今でも時々思い出し、身震いすることがある」とコメントを寄せている。 それもそのはず、政治家になったのは92年に同大統領支持母体である「カンビオ90」から出馬して初当選している。00年にフジモリ政権が終わった際、国会議員を辞任した経緯がある。激動のペルー史のど真ん中を生きてきた人物といえそうだ。 ブラジルでも沖縄県系の政治家は数多いが、これはほかの国にも共通する傾向のようだ。 ☆    ☆  今回、新ウチナー民間大使に就任したボリビア沖縄県人会の宮城和男会長(62)によれば、ボリビア国内の日系人は約1万6千人で、沖縄県系人は同地全日系の6割を占めるという。日系社会全体を統括するのはボリビア日系協会連合会(FENABOJA)だ。 宮城会長は、同国の現状と課題を次のように話す。コロニア・オキナワ(約890人)などの「移住地なら日系社会は残るが、都市部に出た人は、どんどんボリビア社会に溶け込んでいく。そういう次世代をどう引き止めるかが、これからの課題です。町に出た世代は、よっぽど努力しないとウチナー気質は維持できない。ブラジルは県人会85周年をあれだけ盛大に祝った。ブラジルに見習うべきことは多い」と見ている。 最後に「文化継承にマニュアルはない。どんな偉い大学の先生にも分からない。次世代への対応は試行錯誤の連続です。強い次世代を育てるためには、各国それぞれの県人会が、子孫に強制するのではなく、自然にアイデンティティを受け継いでもらうような風にするしかない」と眉間にしわを寄せた。 ☆    ☆  世界には40万人もの沖縄県系子孫がおり、ブラジルにはその3分の1が住んでいる。そんなにいても、世界の日系250万人の6割、150万人がブラジルに集中しているため、当国の沖縄県系人の比率は1割に過ぎない。 ただし、南米全体でみれば亜国、ペルー、ボリビアのようにその比率は6~7割と高く、大半の国で過半数を占め、大きな存在感を示している。逆に言えば、ブラジルの日系社会は世界の中でも特殊な存在なのだ。 日本の人口においてはわずか1%を占めるに過ぎない沖縄県だが、世界においては比率が逆転し、県系人は各国日系社会の過半数、もしくは最大派閥となっている。この大会の目的は、そのような海外における最大派閥「世界のウチナーンチュ」との絆を強めことといえる。(深沢正雪記者、つづく) 写真=宮城和男ボリビア県人会長   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月7日付け  移民史研究家の津田睦美さんはNC県人会の誕生を記述する一文をこう締めくくる。 《日本人の血をひくということだけで差別の対象になった時代、日本人の父親に対する愛情や記憶を封印せざるをえなかった二世は戦争被害者であり、60年以上の時を経て、ようやくそこから這い出し、自分たちの記憶を忘却の彼方から呼び戻すことができるようになった。そして、今や六世が誕生する中、遠い過去の物語ではなく、現在につながる「家族」の物語として、移民史を大切に語りついていかなければならない》 戦争によって日本人というルーツを封印する心理は、戦中戦後に10代だった当地の二世とも共通するものだ。それが百周年でブラジル社会から祝福されてコンプレックスが解消されたように、NC子孫も世界のウチナーンチュ大会に参加することによって心理的に解放されるものがあるのだろう。 移民史は学者が作るものではなく、本来それぞれの家族が語り継ぐべき家族の歴史なのだ。それが寄り集まった集大成が移民史であり、一家族、一家族の歴史こそがすべての基礎だ。 10月9日付け琉球新報によれば、NC沖縄日系人会はこの11月22日、同島のポワンディミエ市に集会室や展示室を備えた会館「沖縄の家」を開所した。 340平米の用地に、州政府からの補助を受けて、現地の料理を観光客に提供するレストラン、集会室、沖縄から持ち帰った資料を展示する部屋等が設けられるという。 祖父が名護市出身の同日系人会前会長(58、三世)は、この会館をテコにして「文化やスポーツを通して少しずつ交流を広げ、沖縄との姉妹都市提携につなげていきたい」と同紙にコメントしている。現地に県人会設立、母県に受け入れ団体設立、大会参加、会館建設まで実現し、次の夢は姉妹都市提携という段階までやってきた。 ☆    ☆  思えば、ブラジルにある多くの県人会は、とっくにそこまでの〃夢〃を実現している。そして、そこで止まっていないだろうか。姉妹都市提携の先には何かあるのか。母県との成熟した関係はどうあるべきか。 ブラジルの県人会では一般に、「二世になると日本語が分からないから県庁とのやり取りが出来なくなり、活動が停滞する」との言う事が多い。 しかし、NCの場合は最初からフランス語で、混血も進み、顔だけ見てもほとんど分からない、日本文化もまったく知らない三世、四世世代がゼロから立ち上げた。 それでも、県人会活動が復活する場合があるとすれば、ブラジルのようにすでに50年以上も会が継続し、県費研修生や留学生がいるところなら、いつ活発化してもおかしくない。 120年間の間に二度の世界大戦があった。日本というルーツは完全に忘却の彼方に過ぎ去っていたはずだ。それが、三世代、四世代、五世代を経て呼び戻されるという現象は、ブラジル日系社会にとっては非常に興味深い。 たとえ今後50年間のうちに日系ブラジル人の大半が日系意識を失ってしまったとしても、取り組み次第では移住200周年で甦ることがありえるという証拠だからだ。 この大会は在外子孫にとってはルーツ掘り起こしのイベントであり、回を経るごとに若年層の参加が増えるという質的な変化が起きている。いったいこれは何なのかと考え込まされた。(深沢正雪記者、つづく) 写真=「沖縄の家」を報じる琉球新報10月9日付け   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 【ブエノスアイレス発・植木修平記者】11月27日に行われた第14回南米ゲートボール連合選手権大会に続き、「南米うちなんちゅゲートボール大会」が翌28日、アルゼンチンのブエノスアイレス市近郊の在亜沖縄県人会連合会「うるま園」で開催された。  大会には南米選手権と同様に亜国、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ペルー、ボリビア6か国、約350人が参加して行われた。32チームが参加した高齢者の部(70歳以上)では「ブラジル2」が、同じく32チームで争われた壮年の部(69歳以下)では「ラパス(パラグアイ)」がそれぞれ優勝した。  同大会は数年前までは各国の沖縄県人会所属の選手しか出場できなかったが、近年は門戸を開放しており非日系以外の参加者も多い。  試合会場でひときわ目を引くピンクのユニホームで大会に出場したパラグアイチームは「パラグアイからは35人がバスで15時間かけてやって来た。ブエノスアイレスは暑いと聞いたがパラグアイのほうが暑い」とテレレを飲みながら話した。  ウルグアイからは選手30人が船と車を乗り継ぎ、4時間かけて大会に参加。選手らは「ウルグアイには日系人が少なく、ゲートボールをする人も少ない。だからいろんな人を誘って南米大会にもよく出かける」と笑う。  非日系のウルグアイ人で日本語を理解できないルイス・カロシアさん(68)はゲートボールを始めて3か月。「ゲートボールは楽しい」と初めての大会参加を喜んでいた。  現在、ゲートボールは4大陸40か国に普及しており、世界ゲートボール連合(小野清子会長)はオリンピック公式種目として認定される基準「5大陸80か国」を目指して積極的に各国で普及活動を行っている。近年では、南アフリカ共和国での普及を目指して活動している。同協会の理事らは「ゲートボールは世界中で地域形成、世代間交流、国際親善を担うスポーツだ」と今後の展望を語っていた。  大会成績は次の通り。【高齢者の部】1位=ブラジル2、2位=ペルー、3位=サルミエント(アルゼンチン)、ブラジル1 【壮年の部】1位=ラパス(アルゼンチン)、2位=コルドバ(アルゼンチン)、3位=ブラジル1、富士(アルゼンチン) 2011年12月6日付
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  国立広島大学(東広島市)が伯国校友会の設立会合、ならびにライフサイエンス分野の新技術説明会を開くにあたり、同大の岡本哲冶副学長(56、徳島)、国際センター国際交流グループリーダーの下田修二氏(52、広島)、平野裕次主査(40、長崎)が30日に来伯した。 同大では海外在住の卒業生や元留学生らとの連携を強化することで国際的なネットワークの構築を図っており、その一環として伯国にも校友会を設立する運びとなった。 一昨年、聖市の広島文化センター内に広島大学のサンパウロ事務所を開設し、サンパウロ総合大学(USP)と学術交流協定を締結している。 現在同大では海外127の大学と大学間で、130の大学と学部間等で学術協定を締結している。大学同士の提携としては南米ではUSPが初めて。 3人は今回の滞在中、在聖総領事館、東山農場、USP日本文化研究所などを訪問予定。岡本副学長は「実際に学生の往来が始まればずっと交流は幅広くなるはず。そのための下地を作れれば」と話していた。
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  世界のウチナーンチュ大会の開会式会場には不思議な集団が座っていた。沖縄県系人というよりは、普通の白人の一群だ。 「誰だろう」と疑問を感じて声をかけると、初参加のニューカレドニア(以下NC)沖縄日系人会の一団45人だった。オーストラリア大陸の北東部からさらに1200キロほど東の太平洋に浮かぶ島だ。 仏ル・ニッケル社からの労働者を求める要請を受けた外務大臣・榎本武揚が、1892年にニッケル採掘の露天掘り鉱夫を送り込んだことからNC日本移民は始まった。沖縄からは900人弱が渡った。もちろん永住ではなく、5年契約のデカセギだった。日本人全体では1892年から1919年までに6880人が渡り、ほとんどが男性であった。 しかし契約終了後もそのまま島に居残り、現地人女性と所帯を持って子供を作る人が多くいた。「移住」は常に気まぐれな一時滞在から始まり、気がついたら永住に切り替わっている。 「沖縄移民の100年」サイト(rca.open.ed.jp)にある石川友紀琉球大学教授の総論「沖縄の移民」によれば、大戦前には南北米の大陸ほかに、東南アジアのフィリピンに2万人、シンガポールに3千人、南洋群島に5万人、台湾に2万人、満州に3千人が在留していた。この南洋群島への移民というのも沖縄県系の特徴だ。 NC移民は送り出し側の人脈的にはブラジル移民とつながりがある。田崎慎治(長崎県出身)が関係していたからだ。 田崎は、長崎商業在学中からフランス政府のNCニッケル鉱採取夫送り出し事務所に勤務し、海外移住に強い関心を持っていた。その後、上京して東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、英国留学を経て、1908年4月、水野龍が切歯扼腕して実現した笠戸丸の神戸出港を目にして南米移民に強く心を奪われたという人物だ。 その後、神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授となり、その教え子からはのちにアマゾン移民導入の立役者で高拓生送り出しを実現した上塚司、辻小太郎、南米銀行創立に関わる宮坂国人、その他、粟津金六、九十九利雄らがいた。その田崎が送り出したNC移民の末裔がここにいる。 ☆   ☆  子孫らと同席していた移民史研究家の津田睦美さん(49、奈良)に話を聞くと、「長かった空白をようやく埋めているところ。感動のルーツとの再会ですよ」と解説してくれた。敗戦により、1946年に日本人は全て島から強制送還された。しかし、現地人である母親と混血児は資産没収の上で残され、差別を受けて大変な苦労の中で生活し、日系人としての意識を完全に失っていた。同地の日系人総数は約8千人といわれる。 一方、日本移民である父と共に日本に強制送還された子供たちは「タツラキッズ」と呼ばれた。 津田は同県人会の誕生を記述する一文の中で「タツラキッズ」をこう説明する。「敗戦直後の日本に初めてやってきた彼らは、外国語なまりの日本語を話し、敵国にいたことなどを理由に学校でいじめられ」るという悲しい子供時代を〃祖国〃で過ごした。混血の二世、三世、四世ら世代が、ようやく正面から自分のルーツと対面し、子供時代の記憶を封じ込めていた呪縛から解き放たれたのが、この大会参加という瞬間であったと津田さんは強調する。 07年にようやく沖縄県人会を結成し、母県側に受け入れ団体「沖縄ニューカレドニア友好協会」も組織され、今大会が初参加になった。いわば約120年ぶりの〃祖国〃訪問だ。(深沢正雪記者、つづく) 写真=ニューカレドニア子孫の到着を報じる沖縄タイムス10月8日付け   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  海外日系人大会開催中の10月27日、有馬庄栄氏(有馬鐘江保険サービス)が呼びかけ、参議院会館で興石東民主党幹事長と日系団体代表者らの懇談会が開かれた。 県連の園田昭憲会長、ブラジル日本文化福祉協会の木多喜八郎会長、サンパウロ日伯援護協会の菊地義治会長、ビバビーダの野口重雄代表取締役、本紙の高木ラウル社長が出席した。 日系団体代表者らは、初めに東日本大震災と福島原発に対して哀悼の意を表し、ララ物資に継ぐ日系コロニア一丸となった義援金活動を実施していることを説明、国の復興を願う旨を伝えた。 続いて商用ビザに続く観光ビザ免除協定および、縮小しつつある県費留学・研修制度の活性化に向け、日本側の協力を依頼した。 「県費留学制度の研修者は毎年100人。5千人余りのOBの存在は、進出ラッシュの日本にとって貴重な存在」など現状を説明すると、輿石幹事長は「民主党からもバックアップしていく」との意向を示した。 ほかにも食、文化、人的交流の促進や、日本語教師の本邦研修生制度の継続、日系社会における高齢者や自閉症者に関する技術提携の協力要請、観光国としてのアピールなどを行なった。
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  熊本県人会ロンドリーナ支部(平川俊六会長、60家族)は同会創立60周年・婦人部発足40周年を祝う記念式典を13日、同市の東本願寺会館で開催した。サンパウロの同会本部(小山田祥男会長)より7年早く結成されている。同州セルタネージャ、マウアー・ダ・セーラなど近郊からも会員が参加したほか、本部からも小山田会長をはじめ23人が訪れ、約100人が出席して喜びを共に分かち合った。  同会は、1951年に熊本県出身の柔道家・木村政彦を団長とする使節団が来伯した際に催された歓迎会の席上で結成。吉田甫(はじめ)を会長に8人で発足。中川芳則現名誉会長の父で初代会計を務めた初若氏は、サンパウロの熊本県人会本部創立に関わっている。 創立20年を機に71年に婦人部を結成、90年代には近郊都市の出身者も同会に招き入れ、最大70家族まで増えた。 08年には熊本県出身で最後の笠戸丸移民・中川トミさんの記念公園造成への募金活動、東日本大震災にも本部を通じて6千レアルを寄付した。また、5年ごとに記念式典を開くほか、新年会や年1回の温泉旅行などの活動を行っている。 式典に先立ち、本堂で先没者追悼法要が営まれた。前日から降り続く雨で肌寒い中、参拝者は手を合わせた。 会場を会館に移して式典が開始した。平川会長は「60年を本部会員とともに祝えることを嬉しく思う」と挨拶。 中川名誉会長は、本部でも会計役を10年務めたことに対し「私たちは、本部と一番近い支部だと感じている。更に結びつきを深めたい」と話した。 本部と支部で記念品の交換が行われた後、小山田会長は九州新幹線開通を祝って10月に県人会で訪日したことに触れ「今度は一緒に帰省しましょう」と話すと、平川会長は「ぜひとも。本部主催の演芸会にもまた皆でお邪魔します」と笑顔で返した。 功労者表彰に続き、80歳以上の敬老者22人に表彰状が手渡された。101歳を迎えた中川政行さんには特別表彰として県知事からの記念品が贈られ、会場から拍手が上がった。 婦人部長を10年間務めている大塚節子さん(86、熊本)も表彰状を手に「皆の助けがあったお陰、気が付けば活動が続いていました」と笑顔を見せた。 サンパウロ本部の柳森優名誉会長による乾杯の音頭で昼食会が始まり、続けて行われた演芸会では本部と支部双方から出演、日本舞踊、琴の演奏、漫談など多彩な演目が披露され、参加者達は和気藹々と会話を楽しんだ。 功労者表彰を受けた平山ペードロさん(69、二世)は隣町のマウアー・ダ・セーラ市で暮しており、催しのたびに果物などを寄付している。「生まれはブラジルですが、なぜか皆と馬が合う。私達二世にとっても必要な団体なんです」と笑顔を見せる。 サンパウロから訪れた本部会員の高原恵美子さん(80、熊本)は56年、家族でロンドリーナに入植した。「私が入植した時は鉄道沿い全てがコーヒー園。日本の発展を耳にし、『こんな田舎にいられない』と焦って聖市に出たけれど、こんなに発展するとはね」としみじみ語った。 中川名誉会長が「会員の高齢化で5年後はどげんなるか分からん。ばってんまた今日みたいに皆で楽しく集まりたいと願っとります」と熊本弁で挨拶すると、参加者は拍手で応え、式典は終了した。
ニッケイ新聞 2011年12月3日付け  【既報関連】10月26日~28日、東京都内で催された『第52回海外日系人大会』に参加した文協、援協、県連、CIATEの各代表による訪日報告会が先月16日、文協ビルであった。 今大会に参加した25カ国180人のうち、50人がブラジル人。被災地支援活動を行った日系ブラジル人によるスピーチもあり、県連の園田昭憲会長は「義捐金活動報告に熱心に耳を傾けてもらい、ブラジルの存在感の強さを感じた」と振り返る。 以前大会に参加したCIATEの二宮正人理事長は「9万人近くの伯人が帰国したが、在日ブラジル人が組織化してネットワークを作っており、権利意識が向上している」との感想を語った。 大会宣言では、東日本大震災の支援や日本語教育の推進を宣言する一方で、日伯両国間における査証免除協定締結などを要望した。 また、大会の前後には政府関係者との会談を行った。藤村修官房長官や輿石東民主党幹事長、衆参両議員らを訪問し、観光ビザ免除や県費留学生・研修生制度の継続を訴えた。 園田会長は「観光ビザについては藤村官房長官から『関係省庁のまとめには私が直接当たる』との返答があった。日語教師の本邦研修生制度については『継続を決定する』との発言が得られた」と手ごたえを感じたようだった。 会談で援協の菊地義治会長は日系高齢者の福祉や自閉症学級の取組みに触れ「政府は日系社会を通したブラジルへの貢献を」と発言した。 最後に園田会長は「訪日を通し、4団体の意思疎通が図れたことが一番の収穫だった」と締めくくった。
 いよいよ年末だが、年が明けると日系社会は各団体で役員改選に向けた色々な動きが出てくる。このうち県連の園田昭憲会長は「県連会長として2期目はない」と言い切る。本当なのかと問うと、「鹿児島県人会長としては2013年の創立100周年事業を成功させなければという気持ちはあるが、組織は絶えず変化しなければならない。私が長く上に立つべきではない」と自らの考えを述べた。 ◎  しかし、今年の3月にも日系社会の重鎮から推されて県連会長になった経緯があり、情にもろい園田氏の言葉を額面どおり受け取るわけにはいかない。また「県連基金の設立など、いろんなことで私が急いでいるのは私に2期目がないから。3月までに次に誰が県連会長になっても県連がしっかりとしたものになるような仕組み作りができればいい」と話すが、神輿(みこし)を担ぐ人はそう簡単には降ろしてくれないだろう。 2011年12月3日付
 【既報関連】11月30日に来伯した広島大学の岡本哲治同大理事・副学長、下田脩二国際交流グループリーダー、平野祐次同グループ主査の3人が同日、本紙を訪れた。  今回の来伯の目的は「サンパウロ総合大学との交換留学生制度の確立」と「OB会の設立による産学官連携の礎を作ること」としている。 3氏は12月1日、同大学の新技術説明会を広島文化センターで行い、それ以外にも商工会議所を訪問した。3日に同文化センターで広島大学に留学したOB会の発足式も行われる。詳細は同センター(電話3207・5476)まで。 2011年12月2日付
ニッケイ新聞 2011年12月2日付け  亜国からは今回、最多の200人が参加した。大会取材3回目の『らぷらた報知』編集の崎原朝一さん(77、沖縄)は、「僕自身もう今回が最期かもしれないと思っている。一世はみな、そんな想いがあるから子や孫を連れてきた。だからこんなに人数が増えたんだと思います」と分析する。 最初の移民集団は笠戸丸移民であり、その意味で伯国とは兄弟のような関係だ。亜国日系社会は3万人、うち沖縄県系は7割以上だという。首都ブエノスアイレスで一番立派な日系会館は、在亜沖縄連合会(通称沖連)のそれだという。 「アルゼンチンと日本が正式な移住協定を結んだのは、実は1961年。その直ぐ後に日本の高度経済成長が始まる。つまり、アルゼンチンに直接入った人は少なく、戦前はブラジル、戦後はパラグアイ、ボリビアからの転住者が多いという特徴がある」と要約する。 ブラジルでは戦前、大半がコロノ(農業契約労働者)として生活を始めた。ところが亜国では転住者が多く、ブエノスアイレスなどの大都市で工場労働者、バールや洗濯屋などの自営業者が多かった。戦後、ミッソンイスでは開拓があったが、例外的だという。 ブラジルでは終戦後に勝ち負け抗争が起きたが、亜国では起きなかった。亜国は南米では一番最期まで中立を保ち、3邦字紙が発行禁止にされたのは1945年3月末で、それまで日本の戦況が刻々と伝えられていた。 戦争の関係で、日本の報道機関の特派員は北米にはおらず、ブラジルが連合国側にたった1942年以降、アルゼンチンに特派員が集中していた。ドイツ移民、イタリア移民が多い国柄もあって欧州の貴重な情報はもちろん、欧米の動向に関するニュースもここから発信されていた。そのような特派員から直接、戦況を聞くことあっただろう。 『アルゼンチン日本人移民史』(06年、在亜日系団体連合会)の編集委員長も務めた崎原さんは「『南亜日報』の最期の新聞は3月28日付けで、米軍が慶良間諸島を攻撃し、沖縄侵攻が始まったというものでした」と説明する。 ところが、政府が許可した最後の日付の新聞は3月27日付けだった。「米軍の慶良間攻略を報じた新聞はひそかに印刷だけして、社員が手分けして秘密裏に配達した」という〃幻の28日付け〃だった。大勢を占める沖縄県系人にとっては「慶良間諸島まで来た」というニュース自体が衝撃的で、その後の展開は予想できるものだった。 それに「みな都会生活しているから、勝っていると信じたいが、実情も肌感覚でわかっていた。だから集団での勝ち組は生れなかった」と崎原さんはみている。 「戦場となり、占領された郷里を持つ沖縄県人はかえる場所を失い、家族の消息も不明になり、絶望のふちに追いやられた」。戦後徐々に手紙が届くようになり、状況が分かるようになる。「沖縄県人有志は自らの報道機関を求め、1948年に株式会社の新聞社を立ち上げた。永住の気持ちが広がっていた」という経緯から『らぷらた報知』は創刊された。 『亜国日報』が91年に幕を閉じて以降、『らぷらた報知』は同国唯一の邦字紙として週3回の発行を続ける。『亜国日報』が廃刊した直接の原因は、記者が居なくなったことでも、読者が居なくなったことでもなかった。「植字工がデカセギにいってしまい、代わりが居なかった」ことだった。南米に共通したデカセギブーム当時を髣髴とさせる逸話だ。同国コロニアの7割を占める県系読者をしっかりつかんだ新聞が生き残り、「沖縄系に偏らない日系社会ニュース」を社の方針としているという。(深沢正雪記者、つづく) 写真=慶良間攻略を伝える幻の『南亜日報』3月28日付け(アルゼンチン日本人移民史、戦後編、13頁)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 青葉健康福祉協会(中沢宏一会長)主催の「青葉祭り」の12月の開催は、3日と17日。両日とも午前7時から午後3時まで、宮城県人会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街152番)で行われる。  会場では、ADESC農協婦人部連合会とカッポン・ボニート地方の有機野菜や、手作りの大豆製品などが販売される。 4階の食事処では、3日は天ぷらうどん、油麩(ふ)うどん、17日はずんだ餅やはらこ飯といった宮城の郷土料理や、きなこ餅、さんま焼き定食、冷やし中華などが用意される予定。 2011年12月1日付
 日系5団体(文協、援協、県連、老ク連、日文連)共催の天皇誕生日祝賀会が、7日午前9時から文協ビル9階の移民史料館(聖市リベルダーデ区サンジョアキン街381番)で開かれる。  文協では、「毎年天皇誕生祝賀会は2階の貴賓室で行われていましたが、今年は9階の移民史料館となりますので、お間違いのないようよろしくお願いします」と来場者への注意を促している。 詳細は文協事務局(電話11・3208・1755)まで。 2011年12月1日付
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  ブラジルでは1970年代前半以降、ほぼ新来者は途絶えたが、ハワイではまだ続いている。 ハワイには1924年までに20万人もが渡ったが、戦後もアメリカ人との婚姻者に加え、戦前移民の呼び寄せが3親等(現在は1親等のみ)まで認められていたことから数万人が渡った。 『ハワイパシフィックブレス』紙の仲嶺和男社長身も、琉球新報で記者として5年ほど働いた後、40年前に親戚の呼び寄せでハワイに渡った戦後移民だ。 仲嶺さんは戦後の特徴として、「米軍人と結婚した日本人女性が7千人もいる」という。それに加え、「今でも日本人は毎年、300人ぐらい抽選で永住権をもらって米国に移住しています。その多くがまずはハワイで慣れてからと寄っていくので、実はけっこう新しい日本人が今でも増えている」と米国ならではの事情を説明した。 ☆    ☆  米本土からの参加者の中にもアメリカ人の夫を持つ女性の比率が高く、やはり進駐軍と結婚した女性が移り住んでいる割合が高いことを反映しているようだ。米国日系人の特徴の一つだろう。 米国在住40年のサンフランシスコ沖縄県人会(約200人)のルズフォード千鶴さん(72、沖縄)は4回目の参加だ。「ただのウエルカム(いらっしゃい)ではなく、ここではウエルカム・ホーム(お帰り)といってもらえるのが嬉しい」としみじみ語る。 カリフォルニア州だけで沖縄県人会は4つもある。千鶴さんは近くのサクラメント県人会にも顔を出すという。「毎月集まるグループもあって、ウチナー同志食べて笑って楽しむ。20~30人集まる時もあるんですよ」と楽しそうに笑う。 ただし、「50州もあるから全米の県人会員がみんな集まるのは難しい」とも指摘した。世界のウチナーンチュ大会前夜祭の帰還パレードでも、人数の上では最多の米国勢は各地域ごとにバラバラにシャツを作っており、ハワイ以外の米国勢が圧倒的な存在感を見せることはなかった。 その点、伯国は聖市の沖縄県人会とジアデマの沖縄文化センターが全伯の本部機能を担い、南麻州カンポ・グランデのような遠距離でもものともせずに、統一行動をする点に特徴があるようだ。 千鶴さんは「息子はテキサスに住んでいて、年に一度会うだけ。進駐軍だった夫とは英語ですが、息子は幼い頃から日本語を話して聞かせたので会話はできる」と胸をはる。3回目の参加のオーバーホルサー敏子さん(71、今帰仁村)は在米30年、米国籍に帰化しているが、「毎年沖縄に帰ってくる。自分ではアメリカ人というよりウチナーンチュだと思っている。向こうの土に骨を埋めるつもりだが、元気なうちは毎年帰りたい」との気持ちを吐露する。 敏子さんは進駐軍だった夫と1970年に結婚、「夫が大の沖縄好きで、日本語も日常会話ならOKなので、家庭の中は日本語で通した。子供が日本語を話せるようにするというのは、彼の願いでもありました。普通の夫は英語にこだわるので、特別な環境だった」と微笑む。 「子供にも行こうと誘ったが今回は断られた。きっと次回は連れてくるつもり」とのこだわりを見せた。(深沢正雪記者、つづく) 写真=オーバーホルサー敏子さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  青葉健康生活協会(中沢宏一会長)は「青葉祭り」を3、17日の午前7時から、宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で開く。 同県人会婦人部による天ぷらうどん、油麸うどん(3日)、はらこ飯、きな粉餅、ずんだ餅、さんま焼き定食、イカポッポ焼き、親子丼、冷やし中華(17日)などが販売される。 農協婦人部連合会(ADESC)が産地直送有機野菜や手作り製品を販売、小児ゼンソクを患う子供に背骨矯正治療、指圧や灸の施術、家紋やこけしの展示販売も。 問い合わせは同県人会(11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  ブラジル日本文化福祉協会(木多喜八郎会長)は『天皇誕生日祝賀会』を12月7日午前9時から、9階の移民史料館(Rua Sao Joaquim, 381, Liberdade, 9o. andar)で開く。参加自由、申込み不要。 サンパウロ日伯援護協会、ブラジル日本都道府県人会連合会、ブラジル日系老人クラブ連合会、日伯文化連盟の共催。 肖像画を掲げ、今年で78歳を迎えられる天皇陛下の誕生日を祝う。国歌斉唱、文協女子コーラス部によるコーラス、挨拶の後乾杯が行なわれる。 問合せは文協(11・3208・1755)まで。