07/03/2026

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ブラジル熊本文化交流協会(小山田祥雄会長)は、10月19日午後7時から聖市ビラ・マリアーナ区の同会館で、母県から来伯した上塚周平顕彰「イッペイの会」(米原尋子会長)の来伯歓迎会を行った。歓迎会は、同県人会が9月2日から行った「九州新幹線全線開通記念慶祝使節団ツアー」で一行が母県を訪れた際、熱烈な歓迎で出迎えた「イッペイの会」の米原会長と会員の井(い)美和子さん(48、熊本市)が来伯することを受け、ツアー参加者が催した。 「イッペイの会」の2人は、10月21日から25日にかけてパラー州べレン市、アマゾナス州パリンチンス市、マナウス市でそれぞれ執り行われた高拓生80周年の祭典に出席するため、同15日から29日まで滞在していた。しかし、そのほとんどをサンパウロ市外で過ごすため、歓迎会は送別会も兼ねて行われた。 歓迎会は、赤木数成書記の司会で進行。米原会長は、用意した紙を見ながら「ボアノイテ。先月、熊本にいらしたみなさんとの再会を本当にうれしく思う」とポルトガル語であいさつした。 続いて日本語で「6年前に初めてブラジルに来て以降、今回が3度目の来伯だが、来るたび少しずつブラジル人になっていくように感じる」と話すと、会場は大きな拍手で沸いた。 その後、小山田県人会長から2人へ記念品の贈呈、柳森優県人会名誉会長の音頭で乾杯と続いた。柳森名誉会長は「2人の来伯を祝うと同時に、無事の帰国を願って乾杯、サウーデ、万歳の3回行おう」と働きかけ、来場者は掛声に合わせてコップを3度掲げた。 乾杯の後は、同県人会婦人部による食事で会食が開かれた。夫婦で来場した清原健児さん(66、2世)は「米原さんとは、来伯の度(たび)会っている」と話し、互いに体調を気遣い合っていた。 小山田県人会長は「ツアー参加者約60人のほとんどが来場した。大勢集まり良かった」と笑顔で話した。両手いっぱいに手土産を手渡された米原会長は、ブラジルの習慣にならい来場者と抱擁とキスを交わし「もうちょっと(交流の)時間があれば」と宴の閉会を惜しんだ。 ◎ 上塚周平顕彰「イッペイの会」(米原尋子会長、会員数約50人)は、米原会長を含む有志4人が2006年、熊本出身でブラジル移民の父とも呼ばれる故・上塚氏の功績や生き様を広く知らしめることを目的に設立した。 年に4、5回、熊本の小、中学校で上塚氏についての講演を行っているほか、最近の活動では、熊本市塚原歴史民俗資料館で開催中の「上塚周平展」へ、収集した資料を提供している。 米原会長は「上塚氏がその生涯を人のために捧げたことを紹介し、志しや夢、希望を持ち、くじけず頑張ることの大切さを今の子どもたちに伝えたい」と思いを語った。 2011年11月5日付
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け ウルグアイの治田守さんと楽しげに会話していたのは、一行の大和司さん(86、徳島)だ。35年12月、「らぷらた丸」で家族と共に10歳で渡伯し、フェルナンジアス、マリリアなどを経て、トラックを購入しモジで運送業に従事、現在は聖市に住む。「ウルグアイにいる日本人なんて珍しいからね。興味があった」と顔をほころばす。「旅行好きだった親父に似て、私も出歩くのが好きなんです」。コチア青年の神林義明さん(75、長野)は21歳で、57年に来伯した。「コチア青年の仲間がまだたくさんいる。モンテビデオでも会えて嬉しい」と笑顔を見せた。モンテビデオ滞在中に「人生を変えた大事な友人」と51年ぶりの再会を果たした参加者がいる。田中義文さん(71、島根)=ミナス州サンゴタルド在住=だ。ふるさと巡りは2回目で、妻の峯子さん(64、愛媛)と参加した。友人の名は平田臣吉さん(71、島根)。小学校時代の同級生だ。現在モンテビデオから約90キロのサンホセ・デ・マヨ市に住んでいる。「私が今ブラジルにいるのは彼のおかげ」と断言する田中さん。渡伯以前、田中さんは「日本を出よう」と渡米を漠然と夢見ていた。ある時バスに乗り遅れたため、島根の都市部から故郷へトラックの荷台に乗って戻ってきていた平田さんは、たまたまヒッチハイクで都市部へ向かおうとしていた平田さんと偶然会った。これが「運命の再会」だった――。田中さんは1カ月後に北海道開拓移民の研修に入る予定だった。その時、平田さんが「俺はウルグアイへ行く。許可が出次第、出発する」と宣言したことに衝撃を受けた。当時、ウルグアイがどこにあるのかも知らなかったが、思わず「自分も行けないか」と勢いで言った田中さんに、平田さんは冷静に「わからない。それならブラジルへ行ったらどうだ」と助言した。それまでまったく選択肢になかったはずのブラジルだったが、その言葉を聞いて、田中さんはすぐに県庁に申し込み、60年にコチア青年として渡伯した。長年平田さんとの再会を願っていた田中さんは、今回のふるさと巡りでモンテビデオ訪問が予定されていることを知り、すぐに申し込んだ。その後は連絡先を何とか入手しようと模索していた田中さんはある時、新聞のコロニア欄にあった南米ゲートボール大会の記事で、ウルグアイの国旗を掲げている平田さんの写真を見つけた。また田中さんの妻・峯子さんはインターネット検索中に、平田さんの息子と思しき人物について書かれた卓球の試合の記事を見つけた。記事の顔写真が平田さんに瓜二つで、「父は第2次大戦が終わったとき5歳だった」とのコメントがあるのを読み、「彼の息子だ」と確信した。記事を書いた記者に問い合わせると、数日後に息子本人から「父はあなたをよく知っています」という電話が入り、平田さん本人とも電話越しに「元気か!」と51年ぶりに会話したという。ふるさと巡り当日は移住以来、初めて顔を合わせる機会となった。田中さん夫妻は一行とは別行動を取り、治田さんが運転する車で平田さんの自宅へと向かった。平田さんが同地に渡ったのは61年。子供は全員独立し、花作りを営んでいたが現在は引退している。平田さんはいま脳梗塞を患い遠出をすることは困難なものの、思いのほか元気な様子を見せて再会を喜び合い、お互いに「最高の人生だった」と意気投合したという。(つづく、田中詩穂記者) 写真=平田さん宅で再会を果たした田中さん(右端)、平田さん夫妻(中央)。左端は治田さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け  兵庫県人会の世話役として活動を支えた葛山正一さんが4日未明、聖市内カルロス・シャーガス病院で老衰のため逝去した。享年99。 兵庫県小野市出身。1912年生まれ。県人会発足時から参加、法人認可を受けた74年から、財務理事や総務理事などを務めた。76年兵庫県海外移住者功労賞。 葬式は5日午前10時から、コンゴーニャス墓地で執り行われる。初七日法要は未定。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け  福島県人会(小島友四郎会長)が先月30日、同会館で開催した「第2回喜多方ラーメン祭り」。今年は前売り券だけで昨年の倍の約200食、当日分も合わせると計約320食が売れる人気ぶりを見せた。  「母県の文化を当地で紹介したい」との思いで、曽我部威事務局長が中心となって昨年始めた。 あっさり醤油味に縮れ太麺が特徴の喜多方ラーメン。JICAシニアボランティアで滞伯中の武藤啓一さん(元喜多方市役所産業部マーケティング課長)が参加、麺の茹で方や盛り付けなどの指導にあたり、「喜多方市内にある人気店『坂内食堂』の味に近づけた」と自信を見せる。 「一番大切なのは麺の茹で方。たっぷりのお湯で躍らせ、短時間で手際よく」など熱心にコツを伝授。整理券も配布し、昨年混乱気味だった厨房の動きも改善した。 味については「しっかり鶏ガラスープで透明感のある薄め醤油味という喜多方らしさが出た」との自己評価しながら「本場の味を出すため、来年は麺を輸入したい。スープはもっとコクを出せるよう研究する」と来年への意気込みを見せた。  大志田良子さん(86、岩手)は「スープの濃さもちょうどよくて、チャーシューも美味しかった」と笑顔。 志賀勝さん(73、愛知)は「味は70点。高くてもいいから具をもっと増やして、日本の麺を使ってもらいたい」と次回に期待を寄せた。 よく喜多方ラーメンを食べていたという奈良輪信男さん(74、横浜)は「スープはまあまあだが、麺がダメ」と厳しい評価を下した。 スープは美味しいとの声が多い一方、麺は「柔らかい」と、コシを求める声が多かったようだ。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け  東日本大震災で福島県からの補助金が見込めないことから「活動資金に充てよう」と会員らの熱も入った『喜多方ラーメン祭り』。厳しい評価もあったが、指導にあたった内藤啓一さんによれば「麺の手作りは難しい。日本でもほぼ機械製」と来年からは輸入する考え。しかしながら手持ち器具を最大限活用し、茹で方にも工夫を凝らした。スープは同県庁から1箱贈られた土産用商品を試食し味を吟味。曽我部事務局長が再現を試み「ようやくできた納得の味」。みんなの地元への味への思いが詰まった一杯、第3回目にも期待したい。
ニッケイ新聞 2011年11月5日付け  島根県人会(足立操会長)は『第7回慈善バザー』を11月6日(午前10時~午後5時)に同会会館(Rua da Rosas, 86, Praca da Arvore)で催す。入場無料。売上げは希望の家へと寄付される。  29のバザリスタが工芸品、パッチワーク、装飾品など多くの手作り品を出品。同会婦人部による軽食も販売する。  来社した浜野稔監査、宮村徑行理事、婦人部の平方静枝さんは、「全て手作り品。少し早いですがクリスマスの贈り物を探しにきては」と来場を呼びかけた。  問い合わせは同会(11・5071・0082)まで。
 県連の基金について概要が発表された。だが、県連が日本祭りでの収益を活用して「基金を始めました」ということだけで基金の内容についてはほとんど未確定。これでは内容について判断できかねる。基金自体は素晴らしいもの。趣旨はほとんどの人が理解するだろう。県連はこれからどんどん大きなお金を動かして行くことになる。突き詰めた議論をしっかりとしなければ誤解や疑問で足元をすくわれかねない。それでは一枚岩の県連を形成した与儀前会長にも申し訳が立たない。少なくとも、良い施策ならもっと議論し、みんなに分かりやすく説明すべきだろう。「おいしい肉ですので食べてください」と、「モーモー」と鳴いている牛1頭を丸ごとレストランで出されてもどうしようもない。 2011年11月4日付
「内容がよく分からない」との声も ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲会長は10月20日、聖市ビラ・マリアーナ区の三重県人会館で行われた10月度代表者会議の席で、執行部会において「県連、県人会活性化基金」の設立を承認したと発表した。初年度である今年の基金額は5万レアルで、運用期間は2011年10月から12年9月まで。基金からの助成金を希望する団体は規定の応募用紙に必要事項を記入し、県連執行部会で過半数以上の賛成があれば認められる。返済の必要はない。 同基金の設立は、県連がフェスティバル・ド・ジャポンで出た収益を有効に活用して、県人会や県連を活性化させることを目的としており、さらなる日伯交流の拡大を目指すもの。 対象となるのは、各県人会、県連、県連関連団体(ふるさと創生協会、ASEBEX)など。年度別に基金を県連口座に積み立て、次年度以降は基金増額を計画している。 基金利用の条件としては、福祉、文化、スポーツ、親睦、出版、交流のいずれかに基づくもので、県連会員は会費の滞納がない者。県連は申請額の20~80%の交付を行う。 基金について9月度会議で園田会長は「この際きちんと立ち上げてはどうだろうか」と設立構想を明らかにし、それから約1か月で基金を設立したことになる。 当日、基金について園田会長が説明するも、会議出席者からは「助成基準など決まっていないことが多すぎて内容がよく分からない」との声が続いた。これについて山田康夫副会長は「詳細については、今後決定して報告する」と述べるにとどまった。 県連の財政状況を危惧「金がなかった頃を忘れるな」 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)は7月に行われた第14回フェスティバル・ド・ジャポンで約30万レアルの利益を計上し、10月20日には「県連・県人会活性化基金」を立ち上げた。 しかし、同基金の制度や内容については不透明の部分が多く、特に助成金扶助基準などは全く定められていない。この部分を突き詰めて議論することなく見切り発車で基金を運用すると、いずれ大きな問題になることが容易に想像できる。 ある県人会の会長は「金のことで県連がゴタゴタするのは嫌だ。今、県連はようやくフェスティバル・ド・ジャポンで黒字を出せるようになってきた。舞い上 がってしまい、お金のない頃を忘れてしまっている。きちんとした制度を確立しないと絶対に問題になる」と現在の県連執行部の振る舞いに対してくぎを刺し た。 また、基金は資金を貸し付ける利子で運用していくものだが、同基金は返済義務がないことから県連がフェスティバル・ド・ジャポンで黒字を出し続けることが基金継続の条件となる。 また、「県連の利益は執行部が自由に使える金ではない。基金設立は定款に本当に則しているかよく議論しなければならない。執行部会だけではなく臨時総会の承認も必要なのでは」と疑問を投げかけた。 さらに、二転三転した県連事務所移転についても「接客対応に不都合が生じているというが、そんな偉い人が年に何回来るのか。将来、もし県連が文 協を出ようとすると誰がその場所を買うのか。商業施設は入れないのだから、おそらく誰も入ることはないだろう。買い手のない、価値のない資産になるのは目...
宮城県人会(中沢宏一会長)は、13日午前10時から午後2時まで、同会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街152番)で70歳以上を対象に、敬老祝賀会を開催する。 同祝賀会は、同県人会主催で40回以上続いており、毎年サンパウロ州各地から100人以上が来場する。昼食が振る舞われ、歌や踊り、太鼓といった余興が予定されている。 中沢会長は「来場者には記念品として紅白餅を用意している」と話し、来場を呼びかけた。入場無料。問い合わせは同県人会(電話11・3209・3265)まで。 2011年11月4日付
ニッケイ新聞 2011年11月4日付け 2日目の7日、参加者一行は早朝にブエノスのホテルを出発して高速船に乗り込み、ウルグアイの首都モンテビデオへと出港した。ラ・プラタ川を渡って亜国とウルグアイの首都を結ぶ主要交通機関で、定員1600人と大型で40ノットの速さで進む高速フェリーだ。約150キロを3時間かけて、モンテビデオ港に到着した。ウルグアイ東方共和国は日本の約半分にあたる面積17・6万キロ平米で、人口は約340万人(2010年現在)だ。一行は市内のレストランで駆けつけたモンテビデオ日本人会の3人のメンバーと面会した。田中賢一さん(熊本、74)、治田守さん(新潟、80)、阿部勇さん(新潟、75)だ。会長は治田さんの息子、タケルさんが務めている。本橋団長は3人に謝意を示し、ふるさと巡りや県連日本祭りの概要を紹介。今年の日本祭りの様子を収めたDVDや県連、各県人会の年間活動報告書などを手渡した。田中さんはおじの呼び寄せで、オランダ船のテゲルベルグ号で1955年に、まずサントスに上陸した。当時ウルグアイに日本大使館がなかったため伯国へ渡ったのだ。その後、モンテビデオに移ってからは花卉栽培に従事。港の仕事に20年就き、食品卸売業の会社を20年経営。5人いる子供のうち、現在3人が日本に住んでいる。田中さんによれば、ウルグアイへの移民は伯国、パラグアイ、ボリビア、亜国などから移った人が多いという。実数は不明だが、その数は5~600人ほどだという。ウルグアイに最初の日本人会が誕生したのは1933年で、会員数はわずか22人だった。後に資金不足や新組織への発展的解消、太平洋戦争の開戦による活動停止などを経て、67年に第四次日本人会が創設された。発案者は田中さんだ。「当時、同志が8人いたので始めた」といい、会長を4~5年務めた。最初の総会には60人ほどが出席したといい、現在の会員数は、二~三世を中心に約80家族。会館に併設する日本語学校の運営が活動の中心だ。50年前後に4~5人の子供たちを集めて開始、現在小学生クラスには15人、外国人向けクラスでは40人が学ぶ。カラオケで演歌を歌ったり、ゲートボールが好きで伯国を頻繁に訪れ友人も多いという田中さん。11月には亜国で行われるゲートボール南米大会にも参加するという。「ウルグアイに来て良かった」と晴れやかな笑顔を見せた。阿部さんは57年、最初はコチア青年として来伯し、バストスへ入植した。そこで約5年間過ごした後、結婚した。妻のおじがウルグアイで花作りに従事し、経済的に安定していたと聞いていたことや、当時伯国がブラジリア建設でインフレに陥っていたため見切りをつけ、同地に転住した。以来40年以上、カーネーション、菊などの花卉栽培に従事している。「人口は少なく税金は高いものの、福祉や教育制度が整っている」と当地の良さを語った。一行の一人で、新潟出身の佐藤一津さんは同郷出身の治田さんと言葉を交わし、「新潟県人会の55周年式典に来られてはどうですか」と誘っていた。阿部さんは一行参加者らと言葉を交わしながら、「コチア青年は本当にあちこちにいるんだね」と嬉しそうに話していた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=モンテビデオ日本人会の皆さん、本橋団長(右端)、参加者の神林義明さん(中央) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2011年11月4日付け 「第52回海外日系人大会」が10月26日、東京・憲政記念館で開催された。海外日系人協会(田中克之理事長)主催によるもので、約300人上の日系人代表が全世界から集まった。「強めよう日本との絆―国難に立ち向かう日本と海外日系人社会」をスローガンに26日から3日間、一連の行事が行われ、各国の東日本大震災募金キャンペーン、在日日系人の被災地救援活動や義捐金活動の報告がなされた。その中で決議された大会宣言の全文を以下紹介する。(編集部) 1.未曾有の東日本大震災からの再起を、私たちは力を尽くして支援し続けます 〃がんばれ!日本〃 かつて経験したことのない深刻な大災害をもたらした東日本大震災に、海外に住む日本人・日系人は大きな衝撃を受けました。友人知人の安否を気遣うばかりでなく、日本の浮沈にかかわる大事件と受け止め、世界各地の日系社会でほぼ同時に『日本支援』の義捐金募金活動が始まりました。すでにその多くが、地元日本総領事館、日本赤十字、海外日系人協会を通じて、被災地に届いています。これと呼応して在日日系人は被災地へ急行し、救援のボランティア活動に参加しました。しかし遠く海外に住む日系人は、心を痛めながらも被災地に赴くことがかなわず、祖国日本の再起を祈るばかりでした。私たちはこれからも続いて再起支援に力を尽くします。〃がんばれ!日本〃日系社会は日本の活力に期待しています。 2.日本文化の浸透と継承日本語教育の推進に努めます 日本文化の浸透と日系社会の活性化、次世代の日系社会を担う人材育成のためには、継承日本語教育の実践、日系日本語学校の発展が欠かせません。継承日本語教育はただ日本語を学ぶだけではなく、親から子へ、子から孫へと日本語が受け継がれることによって、日本文化を学び、自らのルーツを学ぶ「移住学習」をもう一つの柱としています。「移住の歴史」「日系人の国づくりへの貢献」「二つの文化の絆」とい三つの視点で、移住と日系社会について学ぶのが「移住学習」であり、日系人としてのアイデンティティが醸成されることをねらっています。またこれによって日本と居住国の二つの文化を知り、両国の架け橋となる視野の広い人材の育成につながると考えます。継承日本語教育には、これを支える優秀な教師の育成、養成が必要であり、国際協力機構の継承日本語教育教師研修は最も重要な事業です。日本語を学習した若き日系人が日本でさらに学ぶ県費留学制度を復活・拡充させ、日本への留学を盛んにする必要があります。 3.日系高齢者の一層の福祉向上を図ります 高齢の移住者に、食、住の「日本回帰」の現象が現れるといわれています。とくに介護を必要とする高齢の一世には、時に日本人が住みやすい家、日本食など日本人に適合する「衣食住環境」が必要とされ、日系老人ホーム、介護老人ホームなどが各地の日系社会にできています。また国によっては日系生活困窮者の保護や老人・身体障害者問題など諸々の対策に現実に取り組んでいます。私たち自身、これらの問題解決に努めることはいうまでもありませんが、日本政府、民間諸団体をはじめ多くの方々の変わらぬご支援をお願いします。 4.苦闘している在日日系人に理解と協力を 近年40万人を超えていた在日日系人は、現在30万人に減りました。2008年の米国発世界同時不況と、つい先日の東日本大震災にショックを受けて、本国へ続々帰国したからです。でも日本に留まった日系人も働き口には苦労し、雇用が確保できている状況ではありません。しかし、在日日系人の多くは日本を第二の祖国と考え、安定した生活を目指して苦闘しながら、日本への感謝の気持ちを持ち続けているのも事実です。東日本大震災でいち早くボランティア活動に駆けつけたのは、その現れともいえます。とくに日本の財政事情が厳しい中で、政府が在日外国人への支援事業に力を注ぎ、日系人もその恩恵を受けています。それでも日系人を取り巻く環境には問題が多く、特に雇用、教育、高齢化対策など日系人自らその解決のための行動が必要と自覚していますが、これからも広く日本の皆さんのご理解ご協力をお願いします。 5.二つの国籍を持つ「重国籍」を日本も認めてください 日本では未成年が「一人で2国以上の国籍を持つこと」(重国籍)を認めていますが、成人するとその一つを選択しなければなりません。いま海外に住む移住者には、戦後の農業移住、ビジネスでの定住、国際結婚などさまざまな形があり、日本国籍から離脱した理由も多岐にわたっています。これら海外在住者や日系人の多くが、重国籍を持つことを希求しています。世界各地に暮らす人々からも、日本に住む高齢の両親の世話をするため、あるいは子供の教育のため、その国の国籍を保持しながら日本の国籍を取得したい、という希望が出ています。一方では、外国で生まれ日本の国籍を留保したまま、その国の国籍を取得して重国籍となっている二世も多く存在しています。海外在住の日本人や日系人は、日本にとっての在外「資産」といわれますが、成人して移住国の国籍一つを選択した結果、日本国籍を認められないというのは、大事な在外資産を日本が自ら放棄することになります。これが日本政府に対して重国籍を容認するよう重ねて求めている理由です。 6.「日系ユース」は、留学の経験を幅広い視野で活用します 今大会の「日系ユース」分科会には多くの若者が集まり、そのほとんどが留学か研修で日本に滞在しています。幼い頃から日本で教育を受けている学生もいます。東日本大震災後は、他の国の若者や日本人と協力しあって被災地でボランティア活動を行い、微力ながら復旧のお手伝いをさせてもらいました。そのことで、日系人として日本への想いとその絆を改めて意識することができました。また、私たちの出身国の日系社会だけではなく、社会全体が日本の復興を心から応援していることも感じることができました。私たちは日本で得た専門知識や経験をグローバルな視点に立って活用したいと思いますが、日本での就職も含めて様々な可能性を検討したことは、とても有意義な意見交換になりました。私たちは世界で評価される人材になることを目指し、そしてこれからも日本との繋がりを大切にしていきたいと思っています。 7.在外選挙に簡便な方法の導入を要望します 在外選挙が実施されて11年の経過を振り返ると、登録者数、投票者数がともに伸び悩んでいるのは、登録手続き、投票方式が煩雑で難しいという、選挙の制度的な問題が大きな要因の一つと考えます。これらをもっと簡便にして、(1)海外移住の際に市(区)役所で選挙人の自動登録をする(2)投票通知を選挙人登録者に自動配布(郵送)する(3)在外公館でのFAX投票や、より簡便な電子投票を導入するなどの改善を提案します。選挙制度を設けたという形式ではなく、実質的に在外日本人をも選挙に参加させるよう、日本政府の善処・決断を要望します。また在外選挙区の創設も併せて検討されるよう希望します。 8.国際日系ネットワークをさらに広く展開します...
ニッケイ新聞 2011年11月2日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催で、今年で23年目を迎える「第36回移民のふるさと巡り」(本橋幹久団長、鳥取県人会長)が10月6日から11日まで実施された。今回は国境を越え隣国のアルゼンチン、ウルグアイを123人(うち一世は69人)が訪れ、各地で観光を楽しみながら、地元日本人会の温かいもてなしを受け、交流を広げた。(田中詩穂記者) アルゼンチン共和国(以下、亜国)は南米では伯国に次いで2番目、世界では8番目に広い領土面積を有する。23州と一つの特別区(ブエノスアイレス)から成り、現在の人口は約4千万人。首都ブエノスアイレスは人口約300万人と世界有数の巨大都市で政治、文化、経済の中心であり、「南米のパリ」の名で親しまれ、最も美しい町の一つとされる。6日午前、ホルへ・ニューベリー空港に到着すると、冷涼な空気が一行を出迎えた。コーディネーターの木村マリアさん(36、日系亜人二世)の迎えを受ける。市内へ向かうバスの車窓からは、伯国のファべーラに似たバラック街と、すぐ近くに立ち並ぶ高層ビル群、ヨーロッパ風のカフェ、ホテル、劇場などの建築物が目を引いた。午後、現地ガイドの案内で観光へと繰り出した一行は、市の創設400周年を記念し建設された高さ68メートルの街のシンボル、オベリスクを通り過ぎ、バスは「5月広場」に到着。その周辺には赤っぽい外観から「カサ・ロザーダ」と呼ばれる大統領府、南米開放の父、サンマルティン将軍の柩が安置されている大聖堂がある。小雨が降る中、広場でバスを降りた一行は軍政時代に行方不明になった学生運動家たちの写真を掲げる母親たちのデモが目に飛び込んだ。周囲をざっと眺めると、黒人、インディオ系の人はほとんど見られず、欧州系の白人ばかりだ。一行を乗せたバスはリア・チュエロ川に面する港町ボカ地区へ。この港はかつて亜国随一の港で19世紀後半、ロシアやドイツ、スイス、イタリア、スペイン、ギリシャなど欧州移民を乗せた船は、すべてここに到着したという。バスは観光地のカミニート(「小径」の意)へ。車外からは壁やテラス、屋根をカラフルな原色で塗り分けられ、トタン板で建てられた長屋形式の家々が立ち並ぶ、石畳の通りが敷かれた一角が見えてくる。この家々にはかつて、働く場所が見つかるまで多くの移民が共に住んでいた。もともとは、ボカ生まれの画家キンケラ・マルティンが船の修理工からもらってきたペンキで建物を塗ったのが始まりだという説がある。移民や船乗り、労働者で溢れていたボカ地区は、タンゴの発祥の地でもある。夜は高級住宅街にあるタンゴ・レストランへ。大きなステーキなどの夕食に舌鼓を打ちながら、バイオリン、アコーディオン、ピアノなどの演奏をバックに繰り広げられるタンゴや歌、踊り、フォルクローレのショーを楽しんだ。ふるさと巡りには初めて参加した大力晶子さん(66、福島)は、「とても素敵だった!皆男前だったし…。見ているだけでエネルギーがもらえた気がする」と満喫したようだ。(つづく) 写真=5月広場で記念撮影した参加者一行 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html
アンデス山脈で観光気分を満喫 5日目は終日アンデス山脈を観光。青空の広がる気持ちの良い快晴だったが、寒さと強風で、参加者のはく息も白く、「寒い」との声が続出した。 道中、バスが立ち寄った路側帯は、特に風が強く、参加者の名札や襟巻きが激しく舞った。あまりの寒さに早々とバスへ戻る人も少なくなかった。 午後1時頃、バスは雪を間近に見られる場所に停車。参加者は、ブラジルでは滅多に見られない雪の上を歩いたり、触ったりして感触を楽しんでいた。 耳まで覆う白い帽子を着用していた村越利江さん(71、新潟)は「帽子を持ってきておいて良かった」と言い、「普段、旅行へ行く時は、持参した服を使い切ってしまうことはないが、今回は持ってきたすべての服で防寒している」とアンデス山脈の寒さに驚いていた。 寒い中、立ち寄った民芸店で購入したアイスを食べて楽しんでいたのは荒井五郎さん(79、2世)、寿恵美さん(78、同)夫妻。ふるさと巡りへの参加は、今回が11回目だと言い、旅行へはいつも夫婦そろって出かけると話した。アンデス山脈の雰囲気を満喫した一行は、標高2千メートルに位置するレストランへ移動し、昼食を取った。 同じく夫婦で参加していた荒木滋高さん(79、三重)と典子さん(72、東京)は「昨年はスペイン在住の娘を頼ってヨーロッパを旅行した。ヨーロッパは、どの街へ行っても日本人観光客の姿があり、邦字新聞が売られている。回転ずしまであって驚いた」とこれまでの旅行を振り返り「今回のツアーではDVDを購入したので、帰って2人で見る」と、帰国後の楽しみをうれしそうに話した。 バスで移動中、添乗員が「宿泊先の食事担当者と食事の交渉をした際、白飯を付けるよう頼んだところ、アルゼンチンには白飯を食べる習慣がなく、ジャガイモが主食なので驚かれた」と食文化の違いを説明すると、参加者も関心した様子で聞いていた。 ツアー最後の晩餐となった10月10日は、参加者の小原あやさん(90、岩手)の誕生日前日だったため、全員が誕生日の歌を総立ちで合唱。アルゼンチンを訪れたのは今回が6度目だという小原さんは「1972年に来た時は、天候不良によりアンデス山脈のツアーが中止になってしまった」と以前の旅行の思い出を話した。最終日は、前日の快晴とは異なり、穏やかな水色の空に薄雲が浮かび、アルゼンチン国旗を広げたような空模様だった。 父親が福岡県出身という斉藤利治さん(70、2世)は「3日目に訪れたラ・プラタ市で多くの日系人に会えたことが印象的だった。ラ・プラタ市は小さい街だと思っていたが、福岡出身者とも交流でき、楽しかった」と今回のツアーを振り返った。127人は、出発時より重くなったかばんと思い出を抱え、アルゼンチンを後にした。(おわり、鮫島由里穂記者) 2011年11月1日付
 10月6日から11日まで行われた県連主催の「第36回移民のふるさと巡り」は、当初80人とされていた定員より多い127人が参加したため、3組に分けられた。日によっては、別の組の参加者とは顔を合わせない日もあり、参加者同士の交流が希薄だったという声も聞こえた。親戚同士で参加したが、ほとんど顔を合わせられなかったという人もいたらしい。常連の参加者の1人は「何度も参加しているがこんなことは初めて。初めて参加した人はこういうものだと感じたでしょうね」とこぼした。訪問する移住地の日系人はもちろん、参加者同士の交流も楽しみにしている人が多いツアーだけに、今後改善の余地がありそうだ。 2011年11月1日付
ニッケイ新聞 2010年1月30日付け 在伯愛媛県人会(藤原利貞会長)は21日午前10時半から会館(R. da Gloria, 470)で2010年の定期総会を開く。主な議題は09年度事業および会計報告、今年度事業計画および予算案の審議、など。終了後、新年会を催す。会費15レアル。準備の都合のため、出席する人は事務局(11・3207・9575)へ連絡を。
ニッケイ新聞 2010年1月30日付け ブラジル岡山県文化協会は2月7日午前10時(二次招集)から同会館(R. da Gloria, 734)で2010年度定期総会を開く。主な議題は09年度事業および会計報告、今年度事業計画および予算案審議、会長改選など。総会後は一品持ち寄りの新年会を催す。飲み物は会負担。
ニッケイ新聞 2010年1月30日付け 【共同】景気悪化で日系ブラジル人家庭などが深刻な貧困に陥り、子どもが朝食を抜いたり転校を繰り返したりする状況が、山形県で25日まで開かれた日教組の教育研究全国集会で報告された。群馬県の小学校の男性教諭は、派遣社員でブラジル人の父親の転職などに伴い関東各地で7回の転校を繰り返してきた父子家庭の3年生男児について報告。友達ができずに孤独感を持っていたことから、「笑顔大作戦」と名付けたクラス作りに取り組み、図工の模型製作など男児の得意分野を同級生にアピールし、自信を持ってもらうよう努めた。男児は友達もできた一方で、朝食も食べずに登校する日が増えた。転入から3カ月後、また転校してしまった。同教諭は「経済状況に振り回され短期間で転校する例が増えている。子どもたちにはせめて良い思い出を持たせたい」と話した。
ニッケイ新聞 2010年1月30日付け 県連が昨年実施した第12回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)で実行委員長を務めた加藤恵久氏(前副会長)が、同年3月以降は県連役員を離れていたことを理由にスポンサー収入の仲介手数料を要求していることが分った。金額は約1万9千レアル。県連では28日に開いた代表者会議で支払わない方針を確認したが、突然の事態に困惑の色を隠さない。加藤氏は2006年の第9回フェスティバルで実行委員長に就任。以来昨年まで4年連続で務め、昨年2月に鳥取県人会長を退任した後も委員長として同イベントの開催に携わった。手数料を要求する文書は今月13日の日付で加藤氏から県連側に届けられた。その中で加藤氏は、第12回フェスティバルの際には県連、県人会の役職についていなかったことを挙げ、同イベントにあたって得られた日系政治家や企業などからのスポンサー収入(32万3千レアル)について6%(約1万9千レアル)の手数料を要求。6%の根拠として、07年10月31日の県連役員会で新規スポンサーへの手数料としてその割合が決められていることを挙げる。あわせて、08年11月に開催されたオルト・フルト祭り(Horto Frut Festa)で6万5千レアルが今も未収金となっていることに関し、自身が集金した場合その額を県連側と分けることを提案している。(文書では第11回フェスティバルとなっているが、執行部はオルト・フルト祭りと説明)28日に開かれた県連代表者会議の席上、与儀昭雄会長、園田昭憲副会長が同文書について発表した。同連合会定款では、執行部会・監事・会員が職務遂行にあたって報酬を受けることを禁じている。また、理事会メンバーは役職のほかに少なくとも一つの部門または委員会の担当を兼ねると定められ、理事会メンバーが再選されなかった場合は30日以内にそれぞれの役職に関する書類を後任へ引き渡す必要があるとしている。加藤氏はそれを行っていないことから、執行部では、役職がなかったという同氏の主張は妥当でないと判断したという。さらに、6%の手数料を決めた07年の役員会の話し合いは前執行部のもので、代表者会議で承認を受けておらず、現執行部として引き継いではいないと説明。加藤氏が主張するスポンサー収入についても同氏の役員時代から進められていたものであり、与儀会長も同行していたとして、支払う必要はないとの判断に至ったと説明した。この日は、弁護士と相談した結果、代表者会議で会員の総意をまとめることになったと報告され、挙手による賛成多数で支払わない方針が承認された。関係者によれば、同問題は昨年末から両者の間で話し合われたが結論には至らず、文書での伝達となったようだ。役員の一人は「残念」と話し、加藤氏の真意を測りかねる様子ながらも「しかたがないが、県連として対応していくしかない」と話している。
ニッケイ新聞 2010年1月30日付け 「取材した後、なくなられた方が何人もいる。お世話になった方に、できるだけこの手で本を渡し、お礼を言いたいと思って来ました」―。高知新聞社編集局社会部の富尾和方(かずまさ、35、徳島県)記者が26日に来伯、休暇を申請し、自費で本を購入して旅費を払い、10日で3カ国回る旅にやってきた。07年末からブラジルを中心に、亜国、パラグアイを含め約10カ月滞在し、高知県人南米移住100年をテーマに取材。08年元旦号から掲載し始め、翌09年3月まで5部に分かれて計69回の連載をした。帰国後も留守家族を取材し、その集大成が昨年11月に高知新聞創刊105周年を記念して『南へ(高知県人中南米移住100年)』として出版された。昨年は高知出身の〃移民の父〃水野龍生誕150周年でもあり、生誕の地高岡郡佐川町で記念パネルディスカッションなどが開催され、尾崎正直(まさなお)県知事を始め、東京や他県を含めた約200人が参加し、ブラジル移民への認識を深めた。「1年以上もやる連載は初めてだった」と充実感をもって振り返る。95年4月から翌年3月まで日伯交流協会の研修生として日伯毎日新聞で働いた経験を買われ、白羽の矢が立った。1958年、ブラジル移民50周年の時に同社から取材にきた記者が後に編集局長となり、退職した今も90歳近くになりながら社友として健在で、「百周年にはうちとして何かやるべきでは」と提言したことからこの企画が始まったという。今回、高知県で高校を卒業した西森ルイス弘志パラナ州議のはからいで、同州議会から感謝状が贈られることになった。「まったく知らなかった。とても驚いている。まだ自分にできることがあったらやりたい」と笑顔で語り、日伯交流の架け橋としての意気込みを新たにした様子だった。『南へ』は太陽堂書店で発売中。
ニッケイ新聞 2010年1月29日付け ブラジル鳥取県人会(本橋幹久会長)は2月7日午前10時(第二次招集)から鳥取交流センター(R. Dona Cesaria Fagundes, 323)で2010年度通常総会を開く。主な議題は09年度事業および会計報告、今年度事業計画および予算案の審議など。留学生、研修生の紹介も行う。終了後は一品持ち寄りの新年親睦会を催す。