07/03/2026

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ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 愛媛県海外協会とブラジル愛媛県人会が実施する海外交流研修事業で、9月に同県から研修生が来伯した。18日間の滞在で農業研修や視察、ホームステイなどを体験、帰国を前に藤原利貞会長と本紙を訪れた。同交流事業は隔年ごとに県・ブラジル側から4人ずつの研修生を派遣するもの。6回目となる今回は県から藤田香織さん(31)、森田紘人さん(21)、寺尾進太郎さん(23)、鈴木由美さん(35)がブラジルを訪れた。一行は9月11日に来伯。サンタカタリーナ州サンジョアキンや、クリチーバ、アチバイア、ピエダーデの県人農家で農業研修を行ったほか、聖州ボイツーバのサトウキビ畑・アルコール工場などを見学した。会員宅でのホームステイなども体験した。実家が専業農家という寺尾さんは、「皆さん自分の意思を持ってやっているから大きくなったと思う。勉強になりました」と話す。「移民の国だから、色々な所でいろんな国が見える」という藤田さんは、「日本の反対で日本が見えた」と感想。現在大学生の森田さんは「皆さん日本の人より日本の事を考えてくれていると思った」と語った。以前にコロニアで出版された本について問い合わせた際、書店がわざわざパンフレットを送ってくれたという経験のある鈴木さんは、「ブラジルは色んな民族が溶け合って、おおらかに暮らしていると感じた。会員の皆さんにも親切にしてもらった」と滞在を振り返る。一方で、デカセギや移民の歴史が日本で知られていないことに残念そうな様子も見せていた。藤原会長は「意外とブラジルのことが知られていない。各地を訪れることで理解が深まれば」としながら、「会員も協力的で、積極的に取り組んでくれるので、これからも制度を続けていきたい」と話した。
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 「かけがえのない機会を与えてくれた日本、先人に感謝」――。日本留学・研修が公式に始まり今年で50周年。全OB・OGの集まりであるASEBEX(日本留学生研修員ブラジルOB会、会員数2千以上)は10月31日夕方、聖市レストランで記念祝賀会を催し、小松ジェニ清香会長は目に涙を浮かべて、そう感謝の言葉を述べた。 日本人移民50周年がきっかけとなり翌1959年、二人の岡山県費留学生が祖国へと渡った。これを皮切りに50年間、多くの日系子弟が国費・県費・JICA・国際交流基金などを通じて日本で留学・研修し、現在各分野で活躍する。祝賀会には、留学生第1号の栢野定雄氏(ニッポン・カントリー・クラブ元会長、文協副会長)、アンドラジーナ市長の小野秋夫氏(元福島県人会長)を筆頭に、約300人のOB・OG、来賓が集まった。また来伯中の滋賀県庁関係者二人も出席し、日本の各知事からも祝電が届くなど日伯両国で祝された。力強い琉球國祭り太鼓の演奏で開幕。あいさつに立った小松会長は、「いろんな方々の努力で50年間続けれてこられ、かけがえのないチャンスを与えてもらったことに感謝」と涙をこらえながら話し、「次の50年に向け、この日伯友好の制度がますます発展することを願うとの期待を込めた言葉に大きな拍手が送られた。与儀昭雄県連会長、山下譲二文協会長代理、村上ヴィセンチJICAコーディネータ、高橋祐亮在聖領事館副領事が祝辞。与儀県連会長は、「県費留学を通じ、母県と県人会の関係を深めることができた。各制度が日伯友好の大きな掛け橋となり、友情を生み出してきた。時代は変わってきているが、今後も続いていくよう働きかけたい」と力を込めた。栢野氏が壇上へ呼ばれると、留学・研修の第一歩を歩んだ「大先輩」へ、全員が起立して温かい拍手を送った。船で45日間かけて渡日した栢野氏。「今とは違う時代だった」と当時の光景を振り返り、「この留学・研修制度は日伯間に大きく貢献してきた」と位置付け。「僕もまだ終わっちゃいない。ASEBEXのために何かできることがあったら協力する」と話し、会場から歓声と拍手が沸き起こった。活躍するOBらに表彰状、また県連、文協、領事館、JICA、海外技術者研修協会(AOTS)に感謝状が送られ、ASEBEXコーラス部による歌声が披露された後、鏡割り、元国費留学生の二宮正人氏(サンパウロ大学法学部教授、弁護士、CIATE理事長)の発声で乾杯、食事を囲んで親睦を深めた。表彰を受けた多田マウロ氏(45)は85年、岩手県費留学で学んだ電気工事設備設計を生かしてエンジニアとして働き、若き岩手県人会副会長として活躍している。「電話代が高いから、親に電話したのは日本到着後と帰国前の2回だけ。毎週手紙書いて送ってました」と目頭を熱くして振り返りながら、「人生で一番大事な時にチャンスをもらい、かけがえのない経験をさせてもらった。いつも県や親、県人会に感謝している」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年11月4日付け 日本政府は11月3日に2009年(平成21年)秋の叙勲受賞者を発表した。ブラジル在住の邦人4人、ブラジル人1人の計五人。在サンパウロ、クリチバ、レシフェ、マナウス各総領事館の、4管轄内から選ばれた。 【在サンパウロ総領事館】旭日単光章を受勲することになった荻原孝行さん(79、広島、帰化人)=カンピーナス市在住=は、1973年から23年間、会長を務めたペードラ・ブランカ日伯文化協会の入植50周年記念式典の実行委員長を務めるなど活動の活性化、後継者育成に貢献。 同移住地は旧南伯産業協同組合を中心とし、果樹、特にゴイアバの生産地として栽培地を作りあげ果樹栽培農家の形成に力を注いだ。また、カンピーナス市と岐阜市との姉妹都市交流事業に積極的に参画し、訪伯団の受け入れ及び訪日団派遣に全面的に協力した。受章の知らせにあたり、「どうしてもやらなければいけなかったことばかりだった」と謙虚に話しながら、「こんな嬉しい事は初めて」と喜びを噛み締めた。瑞宝中綬章を受勲することになった坂手實さん(73、二世)=聖州ボツカツ市在住=は、ボツカツ日本文化協会の設立に尽力し、初代会長として日系人の地位向上、協会の発展に貢献。ブラジル青年協会では青少年講習会を定期的に開催して、日伯農村青少年指導者の育成に関わった。さらに、サンパウロ州立パウリスタ総合大学教授として、日本文化学術交流コーディネーターとして日伯間の文化学術交流にも尽力した。「有り難いばかり。我々の時代の日本人はみんな苦労した。これを一つの旗として、これからの日系人は今後の日伯の関係を作り、ブラジルの国づくりに努力して欲しい」と語った。 【在クリチバ総領事館】旭日双光章を受勲することになった今津貞利さん(77、福岡県)=パラナ州ローランジア市在住=は、ローランジア文化体育協会理事長、副理事長及び会計主任として地域の日系社会の親睦並びに文化、スポーツの振興を図り、協会の発展と共に生活の向上に大きく寄与した。また、パラナ老人福祉和順会ローランジア支部長として困窮日本人、日系人の福祉施設の発展に大きく貢献した。ローランジア農業センター長として農業実習講習会を毎月実施する他、日本から農業高校研修生の視察・受け入れを行い、センター内に慰霊碑、移民碑、移民史料館、記念塔、パラナ開拓神社の建立にも関わった。パラナ日伯文化連合会の役員として、1978年の日本人移民70年祭を始め、天皇皇后両陛下(当時、皇太子夫妻)や皇太子殿下、礼宮様(現秋篠宮殿下)など、皇室を合計4度迎えた。「皇室の方々を身近に感じることが出来た。良い思い出です。(受賞を)最初はピンとこなかったが有り難いことです」と感想を述べた。 【在レシフェ総領事館】旭日双光章を受勲することになった宮本武弘さん(71、静岡県)=バイア州イツベラ市在住=は、イツベラ移住地文化協会会長として、個人所有の農地を移住地全体で使用する農場試験場用地として無償で提供。ランブータンやマンゴスチン、クプアスーなど様々な熱帯果樹を同地に導入した。同移住地日本語学校初代校長として、同校設立に尽力。バイア日伯文化協会連合会会長として、親睦組織の基礎を固め、及び日本語教育の質向上に貢献した。宮本さんは、「みなさんの支援があり、好きでやってきたからこそ」とニッケイ新聞の取材に答えた。 【在マナウス総領事館】旭日小綬章を受勲することになったジョゼ・ナッセルさん(63、ロンドニア州ポルト・ベーリョ市出身)=アマゾナス州マナウス市在住=は、日本進出企業のマナウス・フリーゾーン参入、また、日本とアマゾナス州の経済交流への貢献をした。さらに、同ゾーンにおける日伯環境プロジェクトの推進や、日本企業と合同での人材育成へ尽力した。
ニッケイ新聞 2009年11月4日付け ベレン滞在3日目も午前中、平和劇場(Teatro da Paz)へと向かった。道すがら、栃木県人会長の坂本アウグスト進さん(64)と話す。終戦直後1945年8月15日に聖州グァラサイで生まれたという坂本さん。昨年まで聖市で薬局を経営、ふるさと巡りに参加するのは初めて。ベレンの名所のひとつである平和劇場が完成したのは、ゴム景気の最盛期だった1879年。劇場周囲を走る馬車の音を防ぐため、石畳の代わりにゴムを敷き詰めたというエピソードは当時の繁栄ぶりを偲ばせる。一行は内部を見学、97年に天皇皇后両陛下歓迎式典が行われた際の観覧席に入ることもでき、記念撮影をする人も。その後は、昔の刑務所を宝飾品工房・販売所に改修した「Museu de Gemas do Para Joias」、自然公園「Mangal das Garcas」を訪れた。ニワトリの先祖ジャクチンガを眺めていると、「昔食べたことがあるよ」と、隣にいたふるさと巡り参加者。「オンサも蛇もアンタ(バク)もね。今では考えられないな」。思い思いに園内を散策する一行。89歳で同旅行に参加した林田豊さんは、「忙しいけど、いい旅ですね」と話す。父親はグァタパラ耕地に入った第5回移民。東京植民地で生まれた林田さんは戦前に父親と帰日、日本の学校で学んだ。再び渡伯中に戦争が始まり、父親は当地で亡くなったという。アララクアラ線終点のサンタフェ・ド・スールで20年間バールを営み、今はリベイロン・プレットに住む。ホテルへ戻り、ベレンの式典会場へ。今回は全員が参加し、80周年祭典の節目を見届けた。式典終了後は階下のアマゾニア祭り会場で食事を取る。最終日で金曜日ということもあり、かなりの混雑だ。 ▽   ▽ 19日は朝の時間を利用して県連の伊東さん、長崎県人会の野口圭三会長とベル・オ・ペーゾ市場へ向かった。重さを量る「ver o peso」がそのまま名前になった同市場は、庶民の台所だ。塩をまぶして山盛りにされた海老、ピラルクーなど川魚の塩漬け、アセロラなどの熱帯果実を扱う店が所狭しとならぶ。その横にはマンジョッカから作るトゥクピーを容器に移す女性たちの姿。野口会長は、さっそく海老を一山購入した。 ▽   ▽ ベレン空港に到着した一行の中、1回目から同旅行に参加している和田一男さん(85、二世)は、95年のふるさと巡りで訪れて以来のアマゾン訪問。「今回は人数が多くて誰が誰だか分からないですね」としながらも、トメアスー訪問を振り返り、「町も新しくなったし、組合もきれいになった。皆さん苦労したでしょうけど、もう二、三世の時代ですね」と話していた。同じくふるさと巡り参加者の押切壮(つよし)フラビオさん(71、山形)は叔父が戦前トメアスーに入植しており、55年から3年間同地で暮らした。「当時はピメンタが一番すごい頃。会館の周りは整然と畑が広がっていたけど、今では面影がないですね」。敗戦後の日本から移住した押切さんの目には、ピメンタ景気に沸く移住地は「生活レベルが違うな」と感じられたという。また、ベレンへ進学した子弟と戦前移民の親たちとの間で言葉の問題も出ていたそうだ。押切さんはサンパウロに出て日系企業で働き、現在は弁護士として活動する。「80年の開拓はたいへんだったろうと思います」と今回の訪問を振り返り、「あまりにも時間が過ぎてしまって、年をとったな、と実感します」と話した。一行を乗せた飛行機は一路マナウスへ。アマゾン東部から西部へ、1600キロの距離をたやすく飛び越える。約90年前のペルー下りの日本人は、どれだけの時間をかけてベレンまでたどり着いただろうか。(つづく、松田正生記者)...
ニッケイ新聞 2009年10月31日付け マンゴー並木が延々と続くアマゾン河口の港町ベレン。19世紀中頃から20世紀前半にかけてゴム積出港として栄え、今は人口150万人を有する東部アマゾンの中心都市だ。1616年にマラニョン州サンルイスから移ったポルトガル人により開かれたこの町には、今も外部からの侵略に備えた要塞の跡が残る。日本人が同地に残した足跡はトメアスーより早く、1900年代初頭にペルーからアンデスを越えて入った「ペルー下り」までさかのぼる。15年にはグレーシー柔術の生みの親コンデ・コマ(前田光世)が移っている。現在の日系人口は約1万2千人でサンパウロ、クリチーバに次ぐ国内3番目の集住地だ。トメアスー式典終了後、16日夜にベレンへ戻ったふるさと巡り一行は翌朝から市内観光へ。アマゾンの動植物を見ることができる自然公園「エミリオ・ゲルジ博物館」を散策した後、港の近くにあるカテドラル、要塞の跡に石器時代からの出土品を展示した「Museu do Forte do Presepio」などを見学した。続いて市中心部にあるナザレ教会(Igreja Basilica de Nazare)を訪問。毎年10月第2週に行われるカトリック行事「ナザレ祭(Cirio de Nazare)」の時には、カテドラルから6キロ離れたこの教会までナザレ像を運ぶパレードが行われる。アパレシーダに次ぐ同祭には各地から約200万人が訪れるという。午後5時からベレン式典会場となるコンベンションセンター「HANGAR」で祭典委員会による来賓・慶祝団の歓迎会が開かれた。日伯議員連盟を代表して来伯した井上信治衆議、福岡県慶祝団、島内憲大使や名井良三ベレン総領事などが出席し、一行もバスで会場へ。今年3回目となる日本文化イベント「アマゾニア祭り」でにぎわうセンターへ入ると、着物姿の女性たちが迎える。最初に歓迎委員長の山本陽三さん(74、香川)があいさつ。「遠方からたくさん来ていただき感激している」と一行を歓迎し、「戦前移住者は六世、戦後でも三世が生まれている。80周年を次世代にバトンタッチする意味も含めて祝っていきたい」と述べた。続いてサンパウロの慶祝団を代表して、ふるさと巡りの山田康夫団長が一行を紹介。生田勇治ベレン祭典委員長は先駆者への感謝とともに、「100周年、200周年に向けて日本文化のいい所をブラジル人に、ブラジル文化のいい所を日本人へアピールしていきたい」と決意を表した。この日ベレンに到着したという井上衆議は「開拓者の魂が子孫に受け継がれ、すばらしいアマゾン日系社会になっていると思う。皆さんの活躍を目に焼きつけて帰国したい」と述べ、80周年に祝意を表した。今村忠雄・日本海外協会会長の発声で乾杯。食事の間には、マラジョー島の民族舞踊「カリンボー」のグループが出演し、華やかな踊りで歓迎会を盛り上げた。1954年に19歳でトメアスー入植、現在パラー日系商工会議所副会頭を務める山本委員長。「たくさんの人に盛り上げてもらえ、心から嬉しい」と笑顔を見せながら、「世代交代が進み、80周年は節目だと思います。私も最後のお手伝いですよ」と語った。(続く、松田正生記者) 写真=エミリオ・ゲルジ博物館でふるさと巡り参加者たち この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年10月31日付け 百周年協会(上原幸啓理事長)とブラジル日本協会(Instituto Brasil-Japao、中矢レナット理事長)が共催する100周年評価シンポジウムが26~27日に、聖市の国際交流基金日本文化センターで行われ、この百年間の日本移民やその子孫の伯国社会への貢献を八つの分野に分けて評価した。会場は常に8割以上が埋まる盛況ぶりで、感心の高さが伺われた。 開会式で渡部和夫実行委員長は「百周年は一般社会から予期しない大歓迎を受けた。その期待に応えるよう日系社会はこれからも建国への貢献を続けなくては」とシンポの主旨が説明された。飯星ワルテル伯日議連会長も、日伯交流におけるデカセギの存在の重要性を強調して「グローバル化した世界における日系人の役割を再考する時代になった」と語り、日伯社会保障協定(年金通算など)が来年初めにも結ばれる可能性があることを明らかにした。島内憲駐伯大使は「デジタルTV、新幹線、バイオ燃料など日伯関係の新モデルが生まれている」と絆を強める方向にあるとのべた。☆    ☆最初のテーマ「百周年とメディア」でコーディネターのオクバロ(保久原)ジョルジ氏は、04年7月にエスタード紙が組んだ「百周年への道」という最初の特集号を紹介、グローボ局では昨年3月からの3カ月間で250本のもの百周年関連の報道がなされるなど大量に報道された様子を振り返り、日本の全国紙での主な連載記事名を連ね、その中で最多の署名記事を書いたのは朝日新聞の石田博士特派員(当時)だったと紹介した。「団体行動精神と日系社会の組織」で桜井セリア教授は「和太鼓とマンガ、アニメなどが若者を取り込む牽引力となっている。昨年を機に休眠状態にあった日系団体が復活している」とし、与儀昭雄県連会長も「沖縄系では建築資材店網で110店も加盟するところや化粧品で70店という例もある。昔を懐かしむ会活動だけでなく、商業的なつながりのなかで日系活動を広げている」との実例をのべた。「運動と娯楽」編では、バルテル・フェウデマン聖市スポーツ局長が参加し、「私はユダヤ系子孫でゲットーという言葉には敏感。日系はそうならず、運動分野で社会統合を成し遂げている」と称賛、百周年で市がポン・レチーロ野球場を改修したことを強調した。「知的分野」編で原田清弁護士は米国、カナダ、ペルーの日系社会と比較し、一般社会が戦争中に強い反日風潮を形成したため、戦後も伯国のような幅広い日系人の社会上昇が見られなかったとし、学術、医学、軍、法曹など各界での目覚ましい活躍を列挙した。翌27日の「農業」編では、農業大学だけで105人もの日系教授がおり、農業者としてだけでなく学術面からも支えていると強調した。「デカセギ」編で愛知淑徳大学の小島祥美講師は、デカセギ子弟で英語検定試験(TOIEC)で900点とってカナダに留学している例を紹介し、「バイリンガルになる可能性がある」と述べ、日本の公立校も外国人児童受入れ態勢を試行する中で変化してきたとの肯定面を披露した。二宮正人CIATE理事長は「日本移民が伯国の大学に入るまでに25年かかったが、在日ブラジル人は20年でたくさんの卒業者を出した。帰伯子弟の中にはUSP法学部に入学した者もいる」とした。「日本文化」編で同基金の高橋ジョー氏は、百周年関連で伯国全体で2500もの行事が行われ、大手紙だけで990本の記事、テレビで350本、ラジオで1500本、ネット上には2千もの記述があったとの成果を報告し、同日伯協会が米国NYのジャパンソサエティのような存在になることで更に文化普及に貢献できると提言した。「総括」の中で桜井教授は「今までは若者が日系団体から離れる〃内から外へ〃という動きだったが、百周年を機に〃外から内へ〃に変わってきている」などと若者層取り込み策が課題であるとし、中矢理事長は「我々の子孫は200周年を祝うだろう」との希望を語った。
地元コロニアとの交流少ない旅に 式典途中退席、ツアー趣旨や如何に? 九月十八日、ベレン八十周年式典日は快晴。午前中は、前日に引き続きベレン市内の観光だ。マンガルダス・ガルサス・エコロジー公園、鉱物資源博物館、パス劇場を訪問。三号車では、花土淳子さん(七二、岡山県)が誕生日ということでパラベンスを合唱し、和やかな一日のスタートを切った。 ゴム景気の折、パリとミラノの劇場をモデルに、一八六九年から十年をかけて建設されたというパス劇場。三種の高級木材を使用した床や、種々の輸入資材、当時の階級差などについて、係員が詳しく説明してくれる。 マナウスのアマゾナス劇場よりも古くて収容人数も多く、贅の限りを尽くした当時の建造物は、一見の価値あり。観覧席にも入れてもらい、天井絵などをカメラに収めることができた。 午後三時からの式典は、前日の前夜祭と同じ会場で行なわれた。ただ三号車は、六人が式典に参加せず自由行動を取ることになった。前日、山田団長が「出たくなければ出なくてもいい」と呼びかけたからだった。 「式典は長引くのが常。形式張っておもしろくないのはわかっているから、無理強いはしない」という趣旨の発言で、これを聞いた参加者らは、「県連の人がそう言うのだから」となってしまった。 式典は結果的に長引き、予定時間を大幅にオーバーしたものの、それが予測できたからといって、慶祝ツアーの趣旨や団長としての立場を考えると、軽率な発言だと思わざるを得なかった。 観光地のエスタソン・ダス・ドッカスに向かうため、式典から途中退席したのも残念だった。出席者の五分の二にあたる人数がすっぽりといなくなったものだから、会場は閑散となってしまった。 式典後は、日本舞踊や箏曲演奏などのアトラクションも用意されており、隣の文化週間会場では、日本から来た舞踊劇団・曼珠沙華(まんじゅしゃか)や歌手の宮沢和史氏のステージも盛り上がったし、地元の人と話すチャンスもあった。 上杉美樹サンドラさん(四一、二世)は、ベレン近郊のイガラペー・アスーの初の日系郡長。父親の嘉幸さん(七〇、静岡県)は東京農大拓植科卒。同期九人とトメアスー入りし、同地に十四年間踏みとどまり、胡椒栽培などに従事した。 アマゾンにジュートをもたらした尾山良太氏の子息、万馬氏の未亡人である尾山片岡エミさん(八〇、二世)は、父親が笠戸丸移民。母親は高知県出身で、坂本龍馬の従兄妹だとか。 また、『群馬の森』を管理している、岡島博さん(六七、群馬県)など、地元民らしい人に声を掛けると、いろいろな話を聞くことができた。従来のふるさと巡りのように、「移住地を回って慰霊しつつ、現地の人と交流する」ことができない分、貴重な時間だった。 常連参加者らは、「ふるさと巡りの何がいいって、思いっきり日本語ワールドで旅をして、昼は観光、夜は地元の人との交流ってね。今回は慶祝だから主旨が違うと分かっていても、ちょっと寂しいね」と話していた。(つづく・上岡弥生記者) 写真:地元コロニアの上杉さん、尾山さん、岡島さんたち(右から) 写真:係員からパス劇場の説明を聞く
ニッケイ新聞 2009年10月30日付け 9月16日、トメアスー入植80周年式典当日の朝、第一回移民が到着した桟橋へ出かけた。ホテルから5分ほどの距離。ちょうど一隻の船が停まり、野菜や海老などの食品を下ろしていた。すぐそばには、かつて使用していたと思われる桟橋も。川の先は今も鬱蒼とした森が広がり、移民が到着した80年前と変わっていないようだ。式典は文協で開かれるため、会場の関係で、ふるさと巡り一行からは与儀団長、県人会長と菊地援協副会長、大原毅文協評議員会長などが別行動で代表出席。やはりスーツにネクタイ姿、北伯ではさすがに暑そうだ。8時過ぎ、それ以外の一行は、文協前の通りで行われた記念パレードを見学後、トメアスー農協や果樹栽培の現場などを見学に出かけた。会館の入り口で日本海外協会の今村忠雄会長が文協関係者と話をしていた。今村会長の手には一枚の額。トメアスー移住地を造成した南米拓殖株式会社の株券だそう。出資者の鈴木五市氏の家族から譲り受け保管していたが、80周年を機にトメアスーへ寄贈するため東京から持参したとか。「めったにないもの」と海谷会長らも喜ぶ。会場に入ると一人の男性を紹介された。8月に日系初のアマゾニア連邦農牧大学学長に就任した沼沢末雄さん(57)だった。同学長の一家は戦前にトメアスーへ入植。自身が育った50年代はまさに胡椒景気の黄金時代だった。巣立った生まれ故郷の節目の日。父・谷蔵さんに教わったことは――と尋ねると沼沢学長は、「規律を守り、素直であること、それと献身。それを守って学長になれた。子供たちにもそう教えています」と話した。式典が終わり昼食会の時間になると、代表団は一行と合流。15日の夕方に出発した第2陣の姿も見え、ようやく全員がそろったようだ。80周年記念の俳句コンクールで特選に選ばれた三宅昭子さん(66、秋田)が、ポルト・アレグレ在住の和田好司さん(69、兵庫)、恵子さん夫妻と話している。和田さんと三宅さんは62年のあるぜんちな丸の同船者だ。一行で7人、トメアスーには11人の同船者がいるという。和田さんが同船者の近況をたどった「40年目のビデオレター」の取材で訪れて以来7年ぶり。この間に亡くなった人もあるが、「元気な姿が見られてうれしい」とお互いの再会を喜ぶ。会館の前ではミナス州カルモ・ド・パラナイーバでカフェ栽培に従事する下坂匡さん(72、福島)夫妻と、パラー州パラゴミナスでマホガニー植林などを手がける岡島博さん(67、群馬)、トメアスー文協元会長の穎川幸雄さん(74、熊本)が談笑する。「僕の胡椒栽培は下坂さんのカフェが模範」と話す岡島さん。「あんちゃん」と呼ぶ下坂さんとは30年以上の付き合いだ。03年に下坂農園を訪れたという穎川さんも「時間があれば家に連れて行きたい」と話す。189人の日本人から始まったトメアスー移住地。市制施行から50年が過ぎ、今では人口5万人の町へと育った。式典では、クアトロ・ボッカスで約40年間雑貨店を経営するジョゼ・サルストリアーノさん(73)も、文協行事へ協力してきた貢献により感謝状を受けた。父親の代から変遷を見つめてきたサルストリアーノさんは、「昔この辺りは全部森とピメンタ畑だったけど、今ではビラからカピタルになった」と歳月を振り返った。午後3時過ぎ、一行のバスが出発する時間が来た。会場を出ようとしたところで、地元の久保田忍さん(75、宮崎)と話した。68年に第2トメアスーへ入植、今は息子が農業を継いでいるが、自分でもピメンタを栽培する。「トメアスーはいい所ですよ。自由だし、友達も多い。ここにきたら苦労なんかふっとぶよ」と話す久保田さん。「良かった。こうして色んな行事をするのはいいこと」と式典を振り返り、笑顔を浮かべた。(続く、松田正生記者) 写真=式典当日の朝、トメアスー文協前で記念撮影するトメアスー文協関係者と地元来賓、ウー連議、サンパウからの慶祝団。(左端は柴田アゴスチーニョ空軍少将) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年10月29日付け ■訃報■大嶽一氏 アマゾニア日伯援護協会会長を務め、ベレン風みどり俳句会会長であった大嶽一(おおたけはじめ)さんが、23日午後7時、肺不全のためベレン市内のアマゾニア病院で死去した。享年97。近年は体調を崩し、入退院を繰り返していた。静岡県出身。1931年ベレンのY.YAMADA商会の創始者山田義雄氏と共に渡伯、アマゾン中流オウレンに入植、農業に従事した。柔道王(コンデ・コマ)に紹介された金物屋や日本総領事館の仕事を経て高拓生の母体であるアマゾニア産業へ入社。その後、山田スーパーマーケットの経営に参加。援協の会長、日伯協会の理事などを歴任。95歳までゴルフを楽しんでいた。ベレン俳句会の会長として文化面でも後輩の指導にあたった。葬儀は24日午前11時、市内カプシーニョ教会で行われ、当日埋葬された。
ニッケイ新聞 2009年10月29日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、与儀昭雄会長)主催の「移民のふるさと巡り」が9月15日から21日まで実施された。32回目となる今回の訪問地は、移住80周年を迎えたアマゾン。過去最多となる211人が参加し、日本移民が最初の一歩を踏み出したトメアスーからベレン、マナウスまで3カ所の祭典を訪れ、喜びを分かち合った。 一行がアマゾンを訪れるのは3回目。80周年慶祝を目的とした今回は、青森、栃木、滋賀、鳥取、島根、福岡、長崎、鹿児島、沖縄の県人会長が参加。滋賀県人会の山田康夫会長が旅行団長、与儀会長が慶祝団長という陣容だ。県人会長ら第一陣が15日早朝に空港から出発する光景を、さっそく映像担当の畑勝喜さんが収録。 午後1時、無事にベレンへ到着すると、同地祭典委員会の須藤忠志実行委員長(汎アマゾニア日伯協会副会長)、歓迎副委員長の恩地民雄さん、同文協前会長の小野重善さん、ベレン福岡県人会顧問の岩坂保さん(92)らが迎えに。福岡県から到着する予定の海老井悦子副知事ら慶祝団を迎えに来たという。 サンパウロからの250人をはじめ、計約300人がこのために来るという。「準備がたいへんですよ」と疲れた表情ながらも、須藤さんは「にぎやかになると思います。ゆっくり楽しんでください」と話した。 一行はトメアスーへ向かう前に空港内で昼食。レストランに入ると援協副会長の菊池義治さんが一人の男性と話している。福岡県から参加した山口博文さん(70)だった。二人は南米産業開発青年隊5期の同期。山口さんは今年4月まで9年間、福岡県海外移住福岡地区家族会の会長を務めていた。今回同期の渡伯50周年、80周年を機に来伯したそうだ。パラナ州ウムアラマの合宿所で過ごした青年時代。「道が悪くて、3カ月間食料が届かないこと」や「カボチャばかり食べていたら肌が黄色くなった」と笑う。 午後3時、昼食を終えた一行はバスに乗り込み、トメアスーへ向かう。ベレンから南へ約250キロ。早起きの疲れか、車内で一休みする一行。2時間ほど走り、ブジャルーからグァマ川を渡るバルサへと乗り込む。川風に吹かれ、暑さがやわらぐ。約20分で向こう岸に到着。そこから再びバスに揺られ、トメアスーに着いたのは午後7時過ぎだった。 ホテルで夕食のつもりだったが、聞けばトメアスー文協で前夜祭が開かれているという。記者は一行と分かれ、12キロ離れたクアトロ・ボッカス(十字路)の同文協へ。到着すると会場は満員のにぎわいだ。ちょうどパラグアイ・イグアスー移住地の太鼓グループ「鼓太郎」が演奏しているところだった。 昨年も同地を訪れた歌手の宮沢和史さんと、亜国生まれの大城クラウディアさんが出演。ヒット曲「風になりたい」のほか、沖縄系の大城さんとともに琉球民謡などを熱唱。大城さんは亜国日系社会を思い起こし、「初めて来た気がしない」と話していた。1929年9月22日に最初のアマゾン移民が到着したトメアスー。ここから北伯日系社会の歴史が始まり、多くの人材がブラジル社会へと羽ばたいていった「アマゾン移民のふるさと」だ。 節目の式典が行われる16日は、第1回移民が乗った「まにら丸」がベレンの港へ到着した日。15日の夕方には追悼法要が営まれ、これまでに同地で亡くなった834人の御霊を偲んだ。 入植80周年の祭典委員長を務める海谷英雄・同文協会長(山形、66)は、62年に移住して以来住み続ける。「若い人たちが、村を継ぐ人として真剣に取り組んでくれている。慰霊祭、前夜祭にもたくさんの人が来てくれ、トメアスーの団結力を感じます」と、翌日の式典に向け気持ちを新たにしていた。(つづく、松田正生記者) 写真=トメアスー文協の海谷会長/バルサでグァマ川を渡る県人会長ら この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年10月29日付け ブラジル北海道協会(木下利雄会長)は18日、聖市内の同会館で「第1回ひな祭り」と「第3回うな丼祭り」をあわせて開催した。会場ではうな丼を美味しそうに頬張る人たちで賑わいを見せた。童謡「うれしいひな祭り」の音楽が流れる中、道庁から贈られた7段飾りのひな檀が2セット飾られ、五月人形も展示、会館外には鯉のぼりが優雅に泳ぎ、ブラジルの子供の日(10月12日)を演出した。ヒグマ会(青年部)手作りの水羊羹が販売され、会場の外ではシュハスコやイカの丸焼きも用意された。また、日本文化に親しんでもらおうと、聖総領事館提供の半被や浴衣を着て、ひな壇の前で記念写真を撮る姿も見られ、家族連れなどが舌と目で楽しむ一日となったようだ。木下会長自ら厨房で腕をふるい、正午頃から来場者にうな丼が販売され、午後4時までに150食を販売した。4人で仲良く舌鼓を打っていたのは、山田健壽郎(88、愛知)さんとオルガ夫人(81、二世)、黒岩一実(85、二世)さんと美恵子夫人(79、愛知)だ。東京・銀座で鰻を食べたことがあるという一実さんは「木下会長の味は一番。あっさりしていて美味しかった」と満足した様子。オルガさんはひな壇の前で由来について同協会に質問するほど興味津々。「綺麗で可愛いですね」と言い、流れる音楽に耳を傾けていた。初めて開催したひな祭りについて木下会長は、「(着物を着て写真を撮ったりと)来た人が喜んでくれたようで良かった。来年は3月3日にやってみたい」と早くも第2回目への期待感を語っていた。
【中国新聞】不況で職を失った日系ブラジル人たちを対象にした職業訓練コースが今月、広島市内で始まった。開講したのはIWAD環境福祉専門学校(南区)。厚生労働省の緊急人材育成支援事業の一環で、農業や福祉分野の実習で技能を身に付け再就職を目指す。 各労働局などによると、日系外国人を対象にした同事業の訓練コースは中国地方で初めて。広島県内のブラジル、ペルー出身の日系二世、三世14人が訓練を受けている。 自動車関連などの工場で派遣社員として働いていたが、昨年後半以降の減産で職を失った人が多い。20~60歳代と年齢は幅広い。 コースは半年間で、農業、福祉分野の実習、ビジネスマナー講習などがある。安芸区にある同校の農場で果樹栽培などの作業をしたり、ベッドを備えた実習室で介護の基本を学んだりする。 コース修了後、訓練生は同校に進路相談をした上で就職先を探す。平田冨美子校長は「修了後も就職は簡単ではないが、専門分野の勉強を続ければ採用の可能性は高まる」と話す。
「黒ダイヤ」に興味津々の参加者 ぶらじる丸同船者再会も アサイー工場の次は、隣接する伊藤ジョージさんの農場を見学した。カカオ、ゴム、カスタンニャ・ド・パラー(ブラジルナッツ)などを自然林に近い形で植えるSAFという複合栽培農法を取っている。 林の中は涼しいが、四十日雨が降らず、乾燥しているという。直射日光が照りつける隣の胡椒畑は、高さ二メートルほどの木が等間隔に並んでいる。緑の実は、熟れて赤くなった後にしなび、「黒ダイヤ」とも呼ばれたピメンタ・ド・レイノとなる。 同地の胡椒は一九三三年、南米拓植株式会社(南拓)社員の臼井牧之助氏が、寄港地のシンガポールから持ち込んだ南洋種の成功に始まる。十五年近くの根気強い挿し木増殖の結果、黄金時代を迎えた。 胡椒の木を見るのは初めてという人も多く、興味津々の様子。赤く熟れた実をかじって、「コショウの味だ」と一人が言うと、「どれどれ」と次々試している。「これで料理してみよう」とポケットにしまう人も。 ゆっくりと見て回る暇もなく、バスに駆け込み、昼食のレストランへ。ここではまたしても、「皿がない」、「食べ物がない」事態に遭遇。店側の手際の悪さに、かなりの不満が出た。 昼食後はいよいよ、八十周年式典が行なわれているトメアスー文化農業振興協会(ACTA)に向かった。人数の都合上、式典には出席できなかったものの、後の祝賀会には小一時間ほど立ち寄ることができた。 ステージで歌や踊りなどのアトラクションが繰り広げれられる中、テーブルには婦人部お手製のありとあらゆる和食が並ぶ。エビをふんだんに使ったメニューなど、ここならではだ。 昼食を食べ損ねた人は、ビールまで失敬して宴会に加わり、顔を緩ませていた。忙しく立ち働く婦人部は、裏方の台所との間を行ったり来たり。覗いてみると、既にふるさと巡りの先客がいた。 江口マサエさん(六七、新潟県)は、一九六四年十二月着のぶらじる丸の同船者、南部和枝さん(六八、茨城県)に再会して感激の様子。 「きっと会えると思って来ました」。二人とも花嫁移民として海を渡り、ベレンで下りた南部さんは船上で挙式し「みんなの憧れだったのよね」(江口さん)。四十五年前に思いを馳せ、「また会いましょう」と約束して別れていた。 ACTAの広い敷地内には、「移民の森」と題した初期移民の家や植樹林、移住七十周年碑などがある。日本語学校と運動場に加えてこの日、「トメアスー日系学校」が、JICAの草の根無償資金協力を受けて竣工したところだ。 農協内の移民史料館には、日本人移住の歴史が写真で詳しく紹介されている。交通の便も悪く、「緑の地獄」と言われたこの地を切り開いた日本移民の苦闘は想像を絶するものだっただろう。 『トメアスや 古きを偲ぶ八十年―』 鶴我博文さん(七三、福岡県)が即興で詠んだ。「八十年の中にどんな人がいたのか知りたい」。ふるさと巡り常連の鶴我さんは、式典に参加出来なかったことが残念だという。 入植初期を彷彿とさせるようなトメアスーとの出会いを楽しみにしていた参加者も多いだけに、急ぎ足での訪問・見学は少し心残りのよう。後ろ髪引かれる思いで同地を後にした。(つづく・上岡弥生記者) 写真:ピメンタ・ド・レイノ...
ニッケイ新聞 2009年10月27日付け ■訃報■温井敏行氏 カンピーナス文協会長を務めた温井敏行さんが23日午前11時、心不全のためバリーニョス市内の病院で死去した。82歳。近年は体調を崩し、療養を続けていた。奈良県出身。1962年に渡伯、奥地で農業に従事した後70年にカンピーナスへ移転。同年カンピーナス日伯文化協会で日本語教室を始め、4年間教師を務めた。98年から2002年まで同文協会長。在任中の00年に新会館建設委員長として貢献した。また、80年にカンピーナス地方カラオケ愛好会創立に関わり、後に会長を務めたほか、聖北連盟本部および支部会長を歴任するなど文化活動に尽力した。同地では青果業を営んでいた。葬儀は24日午前11時に市内フランボヤン墓地で行われ、同日埋葬された。
ニッケイ新聞 2009年10月28日付け 在ブラジル青森県人会(玉城道子会長)は創立55周年を祝して、聖市の会館で記念祝賀式典を開催した。日本から蝦名武副知事、田中順造県議会議長、塩越隆雄・同県国際交流協会長ら訪問団11人や津軽弁川柳作家の渋谷伯龍さんがはるばる駆けつけ、約100人の県人らと共に盛大に祝い、県と県人会の絆をさらに深め合った。また、父親が平川市(旧平賀町大坊)出身の斉藤準一ブラジル空軍総司令官も家族と訪れ、先人に感謝と敬意を示した。 当初は、「55周年記念事業として会館改修を進め、内輪だけで静かに祝う予定だった」(玉城会長)が、会が進める会館改修工事に母県関係者が理解を示し、応援と移民の労苦を労うために訪問団を結成、式典へと参加することになった。戦後移住者の指導・援助と県人の親睦などを目的に39人の発起人で始まった同会。玉城会長は「県の方々の快い協力を得て改修をはじめることができた」と感謝し、「互いに支えあい迎えられた55周年。これからも皆様のために頑張っていきたい」と力を込め、拍手が沸き起こった。蝦名副知事は、県人移民を労い、「将来を担う人づくりに、ブラジルに大いに学ぶべきところある」と三村申吾知事の祝辞を代読した。斉藤大将は、「日本人移民の子孫がこうして活躍しているのは、教育の機会を与えてくれた両親はじめ先人たちのおかげ」と感謝を示し、55周年を迎え誇りに思うと言葉を送った。続いて創立会員の鳴海忠夫さん(85)と長内藤男さん(89)、在リオ青森県人会(15家族)の斉藤光幹事、最高齢会員の102歳の畑井健二さんに表彰状が手渡された。杖を持たず元気な姿を見せた畑井さん。30歳で妻と長男を連れ移住、大工として働きながら子供7人を育てた。笑顔を振りまきながら表彰状を受け取り、両手を空中に突き上げて喜びのポーズ。会場を和ませた。この日は、畑井さんのひ孫岩田トーマス寿くんが孫夫婦に連れられて参加。年齢差はちょうど100歳だ。畑井さんは、嬉しそうにトーマス君を見つめながら、「今じゃ来てよかったなぁって思うよ」と移民人生を振り返った。なお式典の中で、会館改修工事費として県から補助金500万円、県議会から30万円、交流協会が呼びかけて集まった720万円の目録が玉城会長らに手渡され、県人会からは感謝状と記念品が贈呈された。式典後は、乾杯とケーキカット。シュハスコと会員手製の食事を囲んで、賑やかに親睦の時を持った。▼   ▼祝賀会の後もプログラムが続き、NHK青森「お国ことばで川柳」で選者をつとめる方言川柳作家、渋谷伯龍さんの講演「楽しいふる里ことば」で、楽し懐かしい津軽弁の講義に、笑いの渦が巻き起こった。続いて蝦名副知事が立ち上がり、「めぐせえ(はずかしい)」と笑わせつつ、津軽民謡を披露。仁王立ちで力強い美声を響かせて拍手大喝采を浴びた。最後に全員で青森県民の歌を合唱して閉会した。初来伯した蝦名副知事は、「助け合いながら生きている姿に昔の良き日本を感じた。三世、四世と続いて欲しい」と述べ、研修制度に対し「大事なこと。これからも続け、様々な交流をしていきたい」と語った。
移民100周年写真展が開催中 邦字紙撮影提供の90点が展示 【東京支社】今年六月に旧「神戸移住センター」を改修した神戸市中央区にある「海外移住と文化の交流センター」は、二十日から特別写真展「ブラジルに根付くNIPPON」(日伯協会など主催)を開催し、話題を呼んでいる。 同展は、同センター開館記念として企画された特別写真展で、サンパウロ新聞などが昨年ブラジル日本移民百周年に撮影した約九十点の写真を展示。現地で受け継がれている盆踊りなど日本全国の祭りの様子、各地に建立されている大鳥居、スーパーで売られている日本食などが展示され、ブラジル各地で日本文化を守って生きてきた日本人移民や日系人の暮らしぶりを知ることができるように工夫されている。 開催に先立ち、十七日に行われた内覧会には、海外日系人大会に出席していたブラジル日本都道府県人会連合会の与儀昭雄会長一家や園田昭憲副会長、松尾治ブラジル日本移民百周年記念協会執行委員長、ペルー日系人協会の斉藤カルロス会長をはじめ日伯協会関係者など約五十人が出席した。 写真展の開幕は、予算上の問題でテープカットなど華やかな行事は行なわれなかったが、開幕と同時に二十人の団体が早々と見学に来たのをはじめ平日にもかかわらず、五十人の来場者で賑わい、幸先の良いスタートとなった。 また、連日報道関係が取材に訪れ各地で報道されたことから、日伯協会には電話の問合せが多く、同協会ではうれしい悲鳴を上げている。 同センター改修の募金運動に協力した県連の与儀会長は、「素晴らしい建物になり、開館記念にブラジルの日系コロニアを紹介していただき、感激しています。写真の中には我々の知らないところもあり、大変興味深い」と家族とともに会場の写真を展覧していた。 同展が人気を集めているのは、先ごろ、リオデジャネイロが二〇一六年の夏季五輪開催が決まったばかりで神戸の人たちにもブラジルへの関心が高まっているからだ。海外最大の日系人コロニアを抱えており、移民百周年記念協会の松尾治執行委員長は「南米初の五輪は我々にも大きな誇り。移民の歴史を知るきっかけにしてほしい」と話している。 同展は入場無料で、十二月二十日まで行なわれている。 写真:写真展を観覧する人々(写真は(財)日伯協会提供) 2009年10月24日付
車椅子の移民史研究家=イビウナの香山栄一さん=3千冊の移民関係蔵書 「コロニアの歴史は面白い」。そう繰り返し語る聖南西のイビウナ市在住の香山栄一さん(84、福岡)は、おそらく個人としてはコロニア一、3000冊以上の移民関係の蔵書を持つ。72年から病気のために車椅子生活になったにも関わらず、コンピューターを駆使して最新の情報収集に務め、コロニアの記念誌はもちろん、アルゼンチンやパラグアイなどの南米各国、北米、日本の出版物まで、手の届く限りの移民関係本を収集している。 「こんなのは見たことありますか?」。少々耳が遠くなった香山さんは、客の前にマイクを置き、ヘッドフォーンで聞いて会話する。部屋の壁面には本棚がならび、移民関係の蔵書がずらり。 コンピューターを置いた広い机のすぐ横には、自家製本するためのコピー機があり、自宅というよりは、事務所か研究所の風情だ。80代半ばの戦前移民としては珍しく、コンピューターを自在に駆使して次々に目新しい映像や音楽を見せる。 貴重な蔵書の中でも一番のお気に入りは、なんといっても鈴木貞次郎(南樹)の『日本移民の草分』(1967年)だ。「笠戸丸以前に、自ら実験台になってブラジルの農園に入り、日本移民の見本として苦労した。言葉もよく分からないなか、よい成績を残したのはエライと思う。使命を自覚して頑張った姿に感銘を受ける」とその理由を説明する。 1925年10月に福岡県で生まれ、4歳で大阪へ、1933年に7歳で親に連れられて渡伯してチエテ移住地(ペレイラ・バレット)へ入った。戦後、アリアンサ移住地との中間にある湿地帯に土地を買い、開墾して機械化した綿作りもした。 その後、聖市でブラスネンに入社し、71年にイビウナ市で農機具販売店アグロ・カヤマを創業し、現在は3代目、孫が経営にあたっている。 チエテ河にトレイス・イルモンイス発電所のダムが完成して90年にノーボ・オリエンテ橋が湖底に姿を消したことから、「移住地の存在も世代の交代とともに忘れられていくかもしれない」との想いから一念発起して、約40人の開拓体験者に呼びかけて、『拓魂のうた(思い出で綴るチエテ郷土史)』(97年)も編著し、自分史も著すなど執筆意欲も旺盛だ。 書籍を通して各国の日本移民を比較し、「どこの移民も初期はブラジルと似ている。一世は言葉の壁があるから〃肥料〃となって、日本人の特質を残した二世、三世が繁栄する」と分析する。 ブラジルに関しても、「日本語はよく分からないが、日本文化を尊重する気持ちは二世、三世にも伝わっている」と見ている。「後世に少しでも日本的なものを残して欲しい」と百周年後に期待をしている。
ニッケイ新聞 2009年10月24日付け ブラジル和歌山県人会連合会(木原好規会長)は11月8日午前10時から、ブラジル宮城県人会(Rua Fagundes, 152)で創立55周年式典を挙行する。母県から仁坂吉伸知事、冨安民浩県議会議長を始め、和歌山県国際交流協会(樫畑直尚理事長)など、公式に11人が来伯する。昨年発足した中南米交流協会(迫間脩代表)の関係者や、ブラジルで大正琴の普及に尽力した畑美琴峰さんなど16人が訪れる。式典では、舞踊などのアトラクションが行われ、大正琴・琴聖会の演奏も披露され、八十歳以上の高齢者155人への表彰が実施される。慶祝団一行は、十一月七日に着聖、イビラプエラ公園の開拓先没者慰霊の参拝や日本館、移民史料館を訪問。仁坂県知事による日系旅行社関係者らと県の観光事業に関する意見交換会が催される。また、民間の訪問団は式典後、リオやマナウスを観光後、同県人移民の多いマット・グロッソ・ド・スール州のドウラードス市も訪問する。問い合わせは同県人会(電話=11・3209・6771)まで。
ニッケイ新聞 2009年10月23日付け 沖縄県人会と沖縄文化センター共催の「第4回こども祭り」(呉屋春美実行委員長)が、「子供の日」の12日午前9時からジアデマ市の同センターで開催され、約1千人が来場した。子どもを対象とした日系イベントが数少ない中、縁日でなじみの輪投げや金魚すくい、射的や日本食、また舞台での演舞やワークショップなど、幼児から楽しめる盛りだくさんの内容に、子どもたちは時間を忘れて熱中した。初めて文化センターの広い敷地を会場に選んだ。県人会支部の100人以上の若者がボランティアとして祭りを支え、当日は抜群のチームワークを発揮した。希望者が後を絶たず大人気だったのは、書道やマンガ(似顔絵)のワークショップ。また、大人には沖縄系イベントならではの「ヤギ汁」「沖縄そば」が好評だったようだ。無事に同祭を終えた呉屋実行委員長は、「若いボランティアや皆さんの協力が素晴らしかった」と感謝。「子どもは県人会の将来を担う大切な存在。活躍してくれる子を育てたい」とさらなる県人会の発展に期待を込め、「成功ですね。ずっと続けていきたい」と笑顔で語った。
ニッケイ新聞 2009年10月23日付け コロニアからの浄財も呼びかけて100周年記念事業として改修、今年6月にオープンしたばかりの「神戸市立海外移住と文化の交流センター」(旧神戸移住センター)で20日から、開設を記念した特別写真展「ブラジルに根づく〃NIPPON〃」(神戸市、日伯協会主催)が始まった。ニッケイ新聞やサンパウロ新聞などが提供した約100点の写真が飾られ、現在のコロニアの人々や祭り、食文化などを伝える。12月20日まで。「ブラジルに根をおろし、あらゆる分野で活躍する日系のみなさん。この間にブラジルに伝え育てたものに日本文化があります。そこには、いまの私たちが忘れてしまったものがあります」―。ポスターではこのように紹介され、ズットラ街道の4車線を跨ぐようにしてそびえ立つモジ・ダス・クルーゼスの大鳥居の写真が印象的だ。写真展は祭り、食など四つのテーマからなる。七夕祭りや生け花、茶道、盆踊り、阿波踊り、太鼓など、非日系人も一緒になって楽しんでいる日系社会ではおなじみの風景が、写真を通して伝えられている。また、昨年同センターから海を渡ってブラジルに届けられた「友情の灯」の様子や、100周年でリオのカーニバルに登場した「笠戸丸」の写真も展示されている。同展開催にあたっては、ニッケイ新聞も今年4月に刊行した写真集「百年目の肖像」から多数提供するなどの協力をしている。21日付け神戸新聞によれば、神戸大文学部に通う23歳の日系ブラジル人三世の女性は、「小さいころから見てきた光景ばかり」と懐かしみ、「移民の歴史を知っている日本人は少なく、写真展をきっかけに知ってほしい」と話した。午前10時~午後5時。入場無料。月曜休館(祝日の場合は翌日)。住所は兵庫県神戸市中央区山本通3。