バウルー文協の会員は約250家族。現在は2世や3世が中心となって活動している。交流会が行われた同協会の会館の壁には各団体のスケジュールがぎっしり書かれた紙が張られており、会館では婦人会、老人会、生け花、将棋、太鼓「無限響」、卓球、歌謡愛好会、俳諧、楽団、剣道、フットサルなどの活動が活発に行われている。 会館は1936年に完成。その後、改装を行っていることもあり全く築年数を感じさせない。場所もセントロにほど近いモンセニョール・クラーロ街に位置しており、立地も良い。 ふるさと巡り参加者の中に、この場所に強く引き寄せられた女性がいた。山田(旧姓・島田)アキコさん(77、2世)は交流会が始まるとすぐに「サンタ・カーザはどこにあったのですか」とバウルー在住の人に質問し、「この会館の裏よ」と返事が帰ってきた。その言葉を聞いた山田さんは「奇跡だ。父と母が私をここに連れてきてくれたんだ」と強く感じたという。 山田さんの父親、太郎さんは大阪出身で、母親の綾子さんは東京出身。共に教師だった。「日本語教師として来伯してくれないか」と声が掛かり、2人は渡伯。34年に山田さんがバウルーで生まれた。出生時は未熟児だったために、産湯につけた叔父が「この子は大きくなるまで育たないだろう」と言い、棺桶用に小さな桐の箱が準備されたという。その時、生まれた場所こそが、今、自分が立っている文協会館の場所だったのだ。 山田さん一家はバウルーを2年ほどで離れ、その後はポンペイアで暮らした。当然、山田さんにはバウルー時代の記憶はない。5歳の時に父親が他界し、山田さんは2歳でバウルーを離れて以来、一度もこの地を訪れたことはなかった。山田さんは何度も何度も「うれしい、うれしい」と繰り返し、「生まれた時は体が小さかったけれど、私は死ぬことはなかった。77歳まで長生きしたからこんな運命が訪れた。ふるさと巡りでバウルーに行くことは知っていたが、まさか自分が生まれた場所に来られるなんて」と話し、「帰ったらバウルーでのことを子どもに教えなきゃ」と笑った。県連のふるさと巡りは、移民の足跡をたどるばかりではなく、自身の人生にもう一度出会う旅でもあるようだ。 (つづく、植木修平記者) 2012年4月25日付
Dia: 25 de abril de 2012
ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 【信濃毎日新聞】かつて外国籍市民が県内最多だった上田市で、ブラジル人市民が昨年度末、3町村と合併した2005年度以降の年度末統計で初めて1千人を割り込んだ。同市市民課などによると、08年秋のリーマン・ショック以降の景気低迷で、経済成長が続く母国に帰国したり、求人が多い他の都道府県へ移住したりする人が相次いでいるという。市内ではブラジル人を対象にした学校や食料品店が経営難で閉店するなどの影響が出ている。同課によると、ことし3月末の市内在住ブラジル人は前年同期比183人減の985人。05年度末の3202人の3分の1以下だ。外国籍市民全体でも03~09年までの7年間は上田市が県内市町村で最多だったが、10年末は4066人と前年同期より434人減少。松本市が4089人で7年ぶりに上回った。市内では、主にブラジルの香辛料や酒などを扱っていた食品店「エンポリオ・インターナショナル」(上田市常磐城5)が、3月上旬までに閉店。月1回ほど買い物に来ていた市内の50代の日系ブラジル人女性は「仲間が減るのは寂しいが、上田には仕事が少ない」と話す。同市材木町のブラジル食品店「リアル」の従業員で、日系ブラジル人の江川良美さん(49)は「同業者が閉店しても、客が増えない」とため息をつく。昨年12月には、上田小県地域のブラジル人の子どもらにポルトガル語の教育をしていたブラジル人学校「ノボ・ダマスコ」(上田市芳田)が閉校。江川さんは「ポルトガル語教育を希望して帰国した友人も多い」と説明する。1990年の改正入管難民法施行により日系2、3世の日本での就労制限がなくなったことを背景に、上田市には職を求めるブラジル人が増えた。市市民課によると、90年12月~2011年3月は同市の外国人登録者の中で最も多かったが、11年4月末に中国人が最多に。ことし3月末時点での登録者は多い順に中国、ブラジル、韓国・朝鮮籍となっている。県国際課によると、1989年以降、県内の外国籍市民は05年末の4万4726人をピークに減り続けており、11年末は3万3521人。ブラジル人も1万7911人から7679人に減った。伊那市と塩尻市のブラジル人学校が合併に向け動きだすなど、各地に影響が出ている。
ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 「父は数十年アメリカに住んでいたので英語の雑誌などは読めましたが、発音が下手だった。だから子供には先にブラジル語を覚えさせてから日本語を教えようと思ったんでしょうね」と西沢ミドリさん。当時の入植者について「アメリカから来た人が多かったのでみんなアベルタでしたね。家父長制のようなものはなかった」と振り返る。「32、3年頃、文化植民地ではコーヒーが売れず畑を焼いたりしたが、その後は綿やアメンドインを作っていた」。『消えた移住地』によれば当時コーヒーは大暴落したが、文化植民地では主作を綿に転換したところ数年後には綿景気が到来したという。この機をとらえ37年、「綿花協同販売組合」が創立され、39年には「パ・パラグァスー生産組合」に発展。精綿出荷量は、40年頃はバストスやアバレーを凌駕したほどだった。しかし組合は開戦とともに経営介入を受け、ブラジル人経営者のずさんな経営の結果、解体に追い込まれた。戦争が終わると綿景気は去り、残ったのは地力の低下した土地だけだった。結局、文化植民地には北米から入植を予定していた地主の半分も入植しなかったことになる。再移住を考えていた人が地権問題などに不安を感じ、教育の問題もあり米国を離れにくくなるうちに戦争が始まり、収容所に送られるようになってしまったからだ。戦争の前後から不在地主が土地を手放し始め、残った土地は山田氏が管財した。戦後は地力の低下に加え指導者らの死去、大霜、生産費の高騰などで多くの人が他地域へ転出し、65年には入植者は10家族程度に減っていた。西沢夫妻によれば現在、文化植民地時代に地主らが購入した土地は、今では牧場やサトウキビ生産のために貸し出されているという。57年からパ・パウリスタに住む伊藤久年さん(86、北海道)は「30年代は伯人が日本語を覚える必要があるほど日本人が多かったようだが、今は一世の男は私くらい」とつぶやいた。「大学を出ても田舎には仕事がない。留守家族のようになりますね。若者はいますが、活動の中心にはならない」しかし現在の佐々田会長が活動の刷新を図っているといい、1997年9月に落成した会館は「田舎にしては立派ですかね」と伊藤さん。同文協ではプ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、オウリーニョスなどの団体と交流があり、ゲートボール、芸能祭、カラオケなどが行われている。よく行事を共に開催するという、同地から約30キロのアシス文協から交流会に訪れた西沢洋さん(69、二世)は「こことは兄弟のようなもんですね。運動会は今年で12回目になります」と笑顔を見せた。47年に同地に生まれ、サンパウロ州立大学の教員としてボツカツで働いた評議員会長の丸林オズワルドさん(65、三世)は「ここに日系人は少ないが、先人から受け継いできた日本の伝統を守ろうとしている。良い思い出を持って帰ってください」と舞台で一行に挨拶していた。「60年代、コロニアは大きかった」と振り返る。戦後は、気候や土地がよかったため商、農業、牧畜などをやるために他地域から移った人も多かったという。同地に現在日本語学校はない。幼少の頃通ったという丸林さんは「学びたい若者がいない。運営は難しいね」と静かに語った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=左から西沢洋さん、参加者のイデ・ムンドさん、丸林さん、西沢裕美さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
