ニッケイ新聞 2016年8月11日 ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)は聖州議会内講堂で7日、『創立50周年記念式典』を開催した。リオ五輪開会式に日本政府代表として出席するため来伯した河村建夫衆院議員(日伯国会議員連盟幹事長、中南米日系人支援議員連盟会長)を招待するため、当初計画より前倒しで行われた同式典であったが、延べ230人を超える県人会関係者らが集まり、半世紀を盛大に祝した。 式典には、河村議員、隆子夫人をはじめ、中前隆博在聖総領事、小山シルビオ軍事司法裁判所長官、日系団体各代表者らが参席し、同議会での式典開催に尽力した羽藤譲二、西本エリオ両聖州議が司会進行を務めた。意気揚々と日伯両国歌が斉唱された後、先没者と広島と長崎の原爆犠牲者への黙祷が捧げられた。 山田会長は挨拶で「海外最大の日本祭りを開催するまでに成長した」経緯を振り返り、開拓先没者慰霊碑の管理の重要性を挙げ、「先没者の無縁仏を祀るのみならず、日系社会の心の拠り所になった」と県連が維持管理していく意義と意気込みを語った。さらに「各県人会によって活動に大きな差がある。後継者を育成して活性化を図らなければ」と訴え、「先人の後を引き継ぎ、更なる発展のために努力したい」と気を引き締めた。 河村議員は「リオ五輪の開会式に参加し、心に残る感動的な式典だった」と感想をのべ、家族会会長の故田中龍夫議員から「ブラジルのことをしっかり頼む」と遺志を託され地盤を引き継ぎ、県連との深い関係を築いてきた歴史を振り返った。さらに、慰霊碑建設は後世に残る最も大切な県連の偉業と評価し、「今まで維持管理していることは先没者への深い敬意の表れ、両国にとって大変重要」と語った。 座右の銘という吉田松陰の「至誠通天」を引用し、「さらなる百周年に向けて一丸となり、次世代を担う若者を育て、両国の友好親善を深め、ますますの発展を期待したい」との言葉を送った。 中前在聖総領事、羽藤ジョルジ市議会議員、飯星ワルテル連邦下議(補)、呉屋春美文協会長などから祝辞が相次ぎ、世耕弘成元内閣官房副長官からの祝電が代読された後、積年の功績を労い、関係者の間で表彰が行なわれた。 式典後は同議会内記念ホールで盛大な祝賀会が催され、ケーキカットに続き、鏡開きが行なわれ、会場は祝福ムード一色に。三味線と太鼓の優美な音色がホールに響き渡るなか、関係者は懇親を深めた。 河村衆議は「記念すべき50周年を一緒に迎えられて大変光栄」と満足した表情で語り、県連から送られた記念品を手に「日伯交流のために命を捧げた田中龍夫先生の御仏前に捧げたい」と語った。隆子夫人も「日本文化が根づき継承されていることに感動した」と喜びの表情を浮かべた。 最後は全員で「故郷」を合唱。先人の遺徳を偲び、次の百周年に向けて思いを新たにした。
県連主催
聖州議会で河村衆議ら迎えて ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、山田康夫会長)は、7日午前10時からサンパウロ(聖)市の聖州議会内フランコ・モントーロ講堂で創立50周年記念式典を行った。当日は来賓として、日伯国会議員連盟幹事長の河村建夫衆議院議員や羽藤ジョージ、西本エリオ両聖州議、在聖日本国総領事館の中前隆博総領事らが出席し、訪れた約230人の出席者と共に半世紀の節目の年を祝った。 「日本海外移住家族連合会」の田中龍夫初代会長の斡旋で、1966年4月に家族会との緊密な連絡を行うブラジル側の団体として各県人会結集の下、県連が創設された。県連創設のきっかけを作った田中氏の後継者が河村議員。5日から開催されているリオ五輪開会式に出席した同氏の予定に合わせた形で、式典が行われた。 式典では羽藤州議の進行の下、日伯両国歌斉唱、広島・長崎の原爆による犠牲者と先亡者への1分間の黙とうが行われた。 山田会長はあいさつで「県連の創設から紆余曲折を経て早や50年の歳月が経ち、今では海外最大と言われる日本文化を紹介するイベントを開催するまでに至り、第19回日本祭りは成功を収めました」と述べ、「日本祭りへの参加を若者に促して横のつながりを強くすることや、希薄になりつつある母県との関係をより密にする県費留学・研修制度の見直しが県連の課題」と後継者育成という今後の大きな課題を挙げ、「県連のさらなる発展を期するため、より努力する所存でございます」と熱い思いを語った。 また、河村議員は「私は田中龍夫先生の遺志を継いで、県連と深い付き合いが今日まで続いております。開拓先亡者慰霊碑の建立は県連が手掛けた後世に残る最も大切な事業の一つ。また、日本祭りも大成功だったと伺っております。県連と各県人会が長年にわたって取り組まれてきた各県の留学生・研修生の交流事業では大きな成果を上げています」と県連の活動を称え、「ブラジルから日本へのオリンピックのバトンタッチを契機に両国の交流がますます盛んになることを願い、半世紀を迎えられた県連が次なる100周年に向かって一丸となり次世代を担う若者を育て、ますます発展することを願います」と祝辞を述べた。 引き続き、中前総領事、飯星ワルテル下議、ウィリアム・ウー元下議、ブラジル日本文化福祉協会の呉屋春美会長らが祝辞を述べ、本橋幹久鳥取県人会会長が世耕弘成内閣官房副長官と小池百合子都知事からの祝辞を代読した。その後、各表彰が行われ、県連より福祉団体への寸志贈呈も行われた。 式典閉会後の記念祝賀会では来賓によるケーキカットと鏡割りが行われ、50周年が盛大に祝われた。最後に、河村議員と隆子婦人は「ふるさと」を熱唱し、割れんばかりの拍手の中で会場を後にした。 以前から山田会長により若者の出席が促されていた同式典には若者の姿も見られ、県人会から4人の若者を連れてきたという坂本アウグスト進栃木県人会会長は「若い人に見てもらい、興味を持ってもらえたら県人会も長く続くだろう」と語った。 同県の県費留学生OGである小平幸江さん(27、3世)と大貫ベロニカさん(30、3世)は式典について「普段、このような場所には来ないので新鮮で楽しかった」と笑顔で話し、「1つの県人会だけでは、小さくてできることが限られているけれど、県連がまとめることによって、47都道府県の力を合わせた世界規模のイベントができるのでは」と県連の重要性についての考えを語った。 サンパウロ新聞 2016年8月9日付
ニッケイ新聞 2016年6月21日 移民108周年の節目を迎え、ブラジル日本都道府県人会連合会(山田康夫会長)の主催する『日本移民開拓先亡者慰霊祭』が18日午前10時半より、聖市イビラプエラ公園の慰霊碑前で行われた。中前隆博在聖総領事をはじめ、羽藤譲二聖州議、各県人会代表者や日系団体関係者など約90人余りが参席し、先人の遺徳を偲んだ。 慰霊碑前には39県人会が持参した過去帳が並べられ、川合昭県連慰霊碑委員長が司会進行。ブラジル仏教連合会の尾畑文正前会長が今年も導師を勤め、焼香とともに式典が始まった。 挨拶に立った山田会長は、「190万人とも言われる日系社会の今日があるのは、先人たちの大変な苦労の賜物だ。過酷なコロノ生活で、志を果たせず道半ばで亡くなった先人たちの思いは一言では表せない。移民の日は、先人たちに思いを馳せ、追悼を表す日だ」と感謝を込めた。 一方で、「世代交代が進むに連れ、日本に対する意識が希薄化している。四世に至っては混血化が60%に達しているという。日伯の交流をさらに強め、我々が日系社会の今後を考えていかなければならない」として来場者に力強く語った。 続いて、尾畑導師ら9人の僧侶によって読経が行われる中、出席者による焼香が粛々と行われた。中には、子連れの出席者も見られ、各々が先人の労苦に想いを馳せていた。
ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、本橋幹久会長)は「移民の日」の18日午前10時半から、サンパウロ(聖)市イビラプエラ公園内の開拓先亡者慰霊碑前で「ブラジル日本移民107周年開拓先亡者慰霊追悼法要」を営む。同会では法要への出席と、各県人会には過去帳の持参を呼び掛けている。 当日午前9時半に聖市リベルダーデ区の文協ビル前(Rua Sao Joaquim, 381)から無料送迎バスが出発する。問い合わせは県連(電話11・3277・8569)まで。 2015年6月11日付
ニッケイ新聞 2014年1月24日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の「第41回移民のふるさと巡り」が3月中旬に行われ、聖州各地の移住地を巡るツアーを企画している。3月14日から、3泊4日でシングル1615レ、ツイン・トリプルは1290レ。定員になり次第、締め切りとなる。 聖、リオ州を結ぶヅットラ街道沿いにひらけた水田地帯のピンダモニャンガバ、タウバテ、戦前から移住者がいたサントアントニオ・ド・ピニャール、海岸線を下りカラガタツーバ、サンセバスチャンを回る。 現地での交流はタウバテ、ピンダモニャンガバの日本人会など5カ所を予定。最終日のカラガタツーバでは帆船でイーリャ・ベーラの島巡りも行われる。 詳細や問い合わせ、申し込みはグローバル・サービス旅行社(11・3572・8990)まで。
今年の第16回県連日本祭りは10万5000レアルの黒字であることが発表されたが、来年イミグランテス展示場で開催した場合の試算が約25万レアルの赤字であることが算出されている。 こうしたことを受け、来年度の日本祭りについてイミグランテス展示場での開催継続が厳しく、会場を変更する考えや一時は「中止してはどうか」との意見も出されていた。 しかし、10月の代表者会議で第17回日本祭りの開催の是非を問う多数決が行われ、「サンパウロ州政府からの予算が出れば、多少の赤字覚悟で来年も開催する」ことで決定。来年のテーマが「三方良し」に決まったことが発表されたほか、各県人会のスタンド代を2000レアルに値上げすることが提案され、承認された。 来年は6月~7月のサッカー・ワールドカップ開催と10月に統一選挙が行われるため、日系議員からのイメンダ・パラメンタル(議員割り当て金)が見込みにくい中、「日本祭りがなくなると日系社会のまとまりがなくなるのでは」と危機感を抱いた在サンパウロ総領事館が来年は正式に後援団体に名を連ねることも決定したが、その一方で県連執行部はスポンサー企業の獲得に苦労している状態だ。 2013年12月28日付
ニッケイ新聞 2013年12月19日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の年内最後となる代表者会議が12日、栃木県人会館で行われた。来年の『第17回日本祭』について、山田康夫同祭実行委員長(滋賀)から、ブース出展の申し込み説明会には「例年を上回る50以上の団体の参加があり、すでに38団体との契約を済ませた」ことが発表された。 また、開催期間がW杯の準々決勝と重なることから、試合映像の屋外放送する案が挙がっていることを説明した。山田委員長は本紙の取材に対し、「日本代表が勝ち進めばより注目度が上がる。チケットを取れなかった人が応援出来る場になれば。放送局からの許可が必要だが、権利を持っているバンデイランテス局は、毎年日本祭にブースを出展するなど理解がある。交渉の余地はあるし、前向きに検討したい」と話した。 宮城県人会の中沢宏一会長からは、「来伯する日本人をコロニア全体で歓迎する準備を進めるべき」との提案が行われ、W杯の予選グループで日本代表の試合が行われるレシフェ、ナタル、クイアバの日系団体等を巻き込み、ホームステイや会館への宿泊を実現する方法を模索していく意思が示された。近日中に賛同する有志らを集めての会合を開くという。 会議後には忘年会が開かれ、賑やかに一年の労をねぎらい合った。
県人会スタンドR$2000に値上げ 県連(園田昭憲会長)は11月28日、サンパウロ(聖)市リベルダーデ区の文協ビル内会議室で11月度代表者会議を開いた。各種報告に続いて、来年開催が決定した第17回日本祭りについての話し合いが行われた。会議中には、完成したばかりの同祭のポ語版パンフレットが配布され、テーマが「三方良し」に決定したことが発表された。また、各県人会のスタンド代を2000レアルに値上げすることが提案され、承認された。 はじめに安部順二下議補佐官の宮原ジョルジ氏が、来年は10月に統一選挙が行われるため、「前後3カ月間に議員割当金(イメンダ・パラメンタル)を出すことは厳しい」と説明。同祭がちょうどその期間内に当たる7月4~6日の開催であることに加えて、政府は予算を全面的にサッカー・ワールドカップ関連事業に注いでいる。11月27日に起こったイタケロン競技場の事故によって余計にその傾向は強まるとされ、資金協力が難しいことを前置きした。 厳しい状況の中でも、日本祭りの文化的重要性を踏まえ、宮原氏は「県連が日系議員を呼び寄せて会合を開き、党派を超えての協力が実現すれば全体で30万レアル程度まで援助金を出せる可能性もある」と提案した。 11月28日時点での同祭の予算には、西本エリオ聖州議からの12万レアルのみが確実な議員割当金収入として組み込まれており、全体では24万8500レアルの赤字と試算されているが、宮原氏の提案が実現すれば赤字はより抑えることができそうだ。しかし、11月度の一般会計は収入1万1400・54レアル、支出1万2374・93レアルで、第16回日本祭りの収益から赤字を補てんしている状態。10月31日時点での県連の銀行預金額は142万773・59レアルが計上されているが、そのうち89万3095・09レアルは県連センター基金で、その他用途への使用はできないことになっている。 また、園田会長によると、執行部が野村アウレリオ聖市議と交渉を行ったところ、聖市役所からも援助金が出ることが確定したという。「日本祭りがなくなると日系社会のまとまりがなくなるのでは」と危機感を抱いた在聖総領事館が今回正式に後援団体に名を連ねることも決定したが、一方でスポンサー企業の獲得に苦労しているという。 園田会長は、同祭の定款に役員以外がスポンサーを紹介した場合、6%程度の手数料が支給されると定められていることを説明し、「知り合いにどんどん声を掛けてほしい」と強く呼び掛けた。 「同祭の赤字を県人会に負担させることは絶対にない。県連の保有資金の中から捻出する」と断言した園田会長。ただし、厳しい予算状況を踏まえ、昨年まで 1500レアルだった県人会のスタンド代を2000レアルに値上げすることが要請され、賛成多数で承認された。園田会長は「各方面からの協力をいただいて いる以上、なるべく赤字をゼロに近づけるように全力を尽くす」と力強く話した。 なお、同祭では協力金として2年前から盆踊りに使用する提灯を1個50レアルで買い取ってもらう仕組みを導入している。第16回日本祭りではブラデスコ銀行が買い取った250個を含む950個を売り上げたという。第17回日本祭りでも提灯を購入してくれる企業、団体、個人を受け付けている。問い合わせは、県連事務局(電話11・3277・8569)まで。 2013年12月5日付
ニッケイ新聞 2013年11月30日 【既報関連】ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の代表者会議が28日に文協ビル会議室で開かれ、『第17回県連日本祭』開催決定の経緯などに関する報告が行われた。 執行部は同祭における収入を221万800レ、経費を245万9300レと試算。赤字予想を24万8500レとし、当初から目標としていた「赤字25万レ以内」を達成出来るとした。園田会長によればこの試算には、安部順二連邦下議が進めている議員割り当て金による協力(約10万レ)は含まれておらず、「新規スポンサー探しなど、努力次第でさらに赤字は減らせる」と意気込んでいる。 また各県人会のブース出店経費を、従来の1500レから2千レとする提案が行われ、賛成多数で承認されたほか、同祭のテーマが「三方良し」となったことが発表された。役員らによれば「近江商人の言葉で三方とは『売り手、買い手、世間』のこと。主催者、参加者皆が楽しめて、社会のためにもなるイベントを目指す」との意味がこめられているという。 コラム【大耳小耳】 県連の園田会長によれば、来年も日本祭の夜を彩る「提灯」の販売を行う。一口50レアルで、会場中央の広場に購入者の名前入りの提灯が飾られる。今年度は企業の大口購入もあわせ、950個が販売された。資金面での苦境に立つ日本祭、個人でも協力の意思のある方はぜひ県連事務局(11・3277・8569)まで。 ◎ 岐阜県人ブラジル移住100周年記念事業の一環として、「岐阜・ブラジル交流ウィーク」が19日から10日間催された。音楽コンサートには、聖州出身で各務原市在住の斉藤マルコスさん(45)、ルイザさん(46)夫妻が中心のグループ「ジラソウ」や、ブラジル人学校「HIRO学園」(大垣市)による演目が行われた。両地の関係性や歴史を知るための講演会やパネル展もあり、ブラジルを知るよい機会になったようだ。
ドミニカでの公式行事を終えた一行は、リラックス気分でサント・ドミンゴ市から東に約50キロの地点にあるカリブ海沿岸のリゾート地ボッカ・チッカにある「HAMACA」ホテルに到着。 同ホテル内では、客であることを示す黄色いバンドを手首に巻いてもらうと、ソフトドリンクだけでなくアルコール類も飲み放題のシステムとなっていたのがうれしかった。早速、ホテル内のレストランで昼食を取った後、ホテルに面するカリブの海岸を見て回る。透き通った海の色がリゾート気分を盛り立てる。暑い日差しの中でホテルのプールに入りながら、ビールを飲むことができる幸せをかみ締めた。 今回の旅の感想などを参加者に聞いてみる。 ミナス・ジェライス州でのコーヒー生産販売で有名な下坂匡(ただし)さん(76、福島)は、ドミニカに移住する予定だったという。 下坂さんの父親は戦中、軍隊で中国に4年間滞在し、日本に帰国後は福島県の開拓団に入った。その後、相馬市内の農村品評会の養豚の部で農林水産大臣賞を受賞したことが改めて海外に目を向けるきっかけになった。 「その時に父親は、『自分一代でこれほどまでになったんだから、どうせなら日本人の居ない所で農業をやりたい』と、1955年にドミニカ移民の第1次募集に応募したのです。しかし、そのころは募集者が多く福島県庁からは『ドミニカに行くには数年後になります。ブラジルだったらすぐに行けますよ』と言われて55年12月30日に『あめりか丸』で神戸港を出港しました」と当時18歳だった下坂さんは、家族ら8人でブラジルに渡った経緯を教えてくれた。 「本当は(アグアネグラ移住地で1人で農業を続けている)田畑(初)さんに会いたかったんですよ」と語る下坂さんは、今回のドミニカ旅行について「日本人の移住地によって条件の良い所と悪い所が甚だしく、ドミニカ移住の条件が厳しいことを知りました。また、現在のドミニカの日系社会が裁判問題などで二つに分かれていることも聞かされましたが、ブラジルの(戦後の)『勝ち負け抗争』のように感じますね」と話す。 また、ミナス・ジェライス州サンゴタルド市から夫婦で参加したコチア青年2次10回生の田中義文さん(73、島根)は、「ドミニカの移住のシステムがブラジルとは違い、荒地に入植して残った皆さんが努力されていることには感心しました。しかし、小さな日系社会でバラバラになっているのは、もったいない気がします」と率直な感想を語る。 この日の夜、ホテルで夕食を取っていると、ハラバコア移住地に住む日高武昭さんの長女である日高恵美子さん(41、2世)が本橋幹久団長を訪ねて来た。恵美子さんは現在、サント・ドミンゴ市内にあるドミニカ中央銀行に勤めており、本橋さんの子息の健さん(39)とは95年から2年間、JICA研修で日本に行った時の同期だという。 恵美子さんにドミニカの日系社会が分裂していることについて聞いたところ、「親たちは一生懸命にやってきたし、それぞれの時代を生きてきた人たちの思いを私たちがどうのこうのとは言えない。しかし、自分たちの時代には一つにまとまりたい」との答えが返ってきた。 翌日、一行はドミニカでのそれぞれの思いを胸に、ブラジルへと戻った。(おわり、松本浩治記者) 2013年11月29日付
コンスタンサ移住地からサント・ドミンゴ市内に戻った一行は、またもや中華レストランで夕食を取ることに。料理はバイキング方式で、アルコール類以外のソフトドリンクとともに自由にお代わりできるのがうれしい。 一緒のテーブルに座った浜口洋さん(69、三重)は、ふるさと巡り旅行に既に十数回以上参加しているというベテラン。工業移住者としてブラジルの通信関係会社などで働いてきた同氏は、「今までブラジル社会にずっと居たので、コロニア(日系社会)のことを知りたいと思った」と、そのきっかけを話す。 また、コチア青年1次15回生の神林義明さん(77、長野)は趣味で短歌を行っており、コンスタンサ移住地で同じく歌を作っている有山ムツ子さん(86、鹿児島)に出会えたことが一番の収穫だったという。 「有山さんには、一人で寂しいならいくつでもいいから(ブラジル短歌同人誌の)『椰子樹』に送ってほしいと言いました」と国は違っても同じ文芸仲間であることを喜んでいた。 ◎ ◎ 5日目、4日間泊まったサント・ドミンゴ市内の「バルセロ・サント・ドミンゴ」ホテルをチェックアウトして、午前8時に出発。同市内にある日本人開拓者が眠る慰霊碑を参拝することに。 午前9時、「クリスト・レデントール」という大型バスごと乗り入れることができるほどの大きな墓地に到着。慰霊碑参拝は、ドミニカ日系人協会が主催し、嶽釜徹会長らが一行を迎えてくれたほか、2日目のサント・ドミンゴ市での夕食懇談会に出席できなかった佐藤宗一日本国大使が朝からの炎天下で汗がしたたり落ちる暑さの中、黒い背広を着て出席した。 2010年10月に着任して既に3年がたつという佐藤大使は一行に気さくに声を掛け、聞けば前日の夜に日本から戻ってきたばかりだという。 真っ白な慰霊碑には、「慰霊碑」と書かれた塔の左横に日本海外移住家族会連合会会長で文部大臣だった田中龍夫氏(故人)の名前も記されている。また、その中には、人が10人ほど入れる礼拝堂があり、1956年からの物故者の名碑が霊前に置かれていた。 嶽釜会長と本橋幹久団長が霊前に合掌し、続いて参加者が焼香した。 嶽釜会長は慰霊祭のあいさつで、同慰霊碑が80年代後半に建立されたことを説明。慰霊碑には現在、167人の移住者と6人のJICA関係者を合わせた計173人の御霊(みたま)が眠っているという。 慰霊祭は当初、7月29日の第1回移民入植記念日に合わせて法要が行われる予定だったが、ブラジルと同じ11月2日の「死者の日(お盆)」に合わせて慰霊 祭を実施しているとし、その際はドミカ全国の日本人及び日系人たちが一堂に会する。今回、ふるさと巡り一行が訪問したため、特別にこの日に慰霊祭のスケ ジュールを入れてもらったそうだ。 嶽釜会長は「今日は暑い中、皆様にご焼香いただき、亡くなった方々も草葉の陰で喜ばれていると思います」と感謝した。 佐藤大使は「遠いところを来ていただき、ありがとうございます。これをきっかけにドミニカで日本人・日系人が頑張っておられることを知っていただき、ブラジルとドミニカで交流が促進されることを期待しております」とあいさつした。 慰霊碑参拝を終えた一行は、カリブ海沿岸のリゾートホテルを目指し、バスに乗った。(つづく、松本浩治記者)...
本橋幹久団長が、脇輝亀会長、佐藤康樹副会長に県連のDVDなどを手渡した後、脇会長の音頭で乾杯が行われ、一行は同地婦人たちが前日から準備したという手作り料理を含めた昼食を呼ばれる。 その間、会館の壁に張られていたドミニカに渡る前に神戸市で撮影した当時の写真を熱心に見つめていたのは、1956年当時4歳で入植し、9歳までコンスタンサ移住地で暮らした経験を持つサンパウロ市在住の山上桃代さん(60、鹿児島)。「小さいころは大きなユーカリの木が並んでいたのを覚えているのですが、今は少し風景が変わったみたい」と51年ぶりに訪問したコンスタンサの印象を話した。 取材が一段落して、昼食を取りに一行の列に並ぶと、玉子焼き、赤飯やおにぎりなどの手作り料理が机いっぱいに並べられた部屋では婦人たちがユーカリの小枝を手にハエを追い払ってくれていたのには頭が下がった。この時期は季節の変わり目で、今年は特にハエが多いという。 昼食を食べ終え、地元の人たちが用意してくれたドミニカ産のビール「プレジデンテ」を飲みながら一息付いていると、コンスタンサ市役所で環境教育を行っているというJICA派遣青年海外協力隊の横竹歩(よこたけ・あゆみ)さん(27、広島)を紹介された。 元々は広島市の高校で英語の非常勤講師をしていたという横竹さんは、同市役所に派遣されてまだ約3カ月。同市のコミュニティーや小学校などを対象に、新聞紙のリサイクルや生ごみからコンポスト(堆肥)を作る指導などを行っているという。 午後2時20分、一行は恒例の「ふるさと」を合唱後、会館前で全員で記念撮影を行った。その後、会館から約200~300メートルのところに入植当時の家屋が残っているとして、一行は会館前の土道を全員でてくてく歩いていった。 既にドミニカ人が住んでいる入植当時の家屋は壁も屋根もスレートの波板で覆われており、奥行きが長くどことなくトレーラー・ハウスのように見える。 「私、まさにこの家に住んでいたんですよ」と懐かしそうに話すのは前出の大村順子さん(63、鹿児島)だ。土道を右折し奥まった場所にある家屋は同じくスレートの波板に白いペンキが塗られ、現在は誰も住んでいないのか、扉は閉め切られてあった。 「7年間、ここに住みましたが、当時から電気は入っていましたね」 51年ぶりに同地を訪問した大村さんだが、8年前に84歳で亡くなった父親の村田哲(とおる)さんたち両親はブラジルに再移住してからも「ここが第2の古里」として過去に2回訪問していたという。 一行はコンスタンサ移住地の人々に別れを告げ、午後3時に移住地を出発。再び急斜面を上り下りし、サント・ドミンゴ市内へと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月27日付
ニッケイ新聞 2013年11月26日 【既報関連】開催が危ぶまれていた来年の『県連日本祭』の実施が正式に決定した。会場は従来どおり聖市イミグランテス展示場となり、25日に正式な契約書類への署名が行われた。本紙の複数の関係者への取材により明らかになった。会場の基本使用料等のさらなる割引は適用されなかったものの、不透明な状態となっていた議員割り当て金の受け取りの見通しが立ったことが決定打となった。県連の園田昭憲会長は「まだまだ厳しい状態なのは間違いないが、コロニア最大の事業をそう簡単に止めるわけにはいかない」と力を込めた。 最大の懸念となっていた会場の使用料は、90万レアルから割引された「58万レアル」(1日あたり12時間、11日間の賃料)で決着した。準備・片付け等で超過使用が見込まれる22時間分(11万レ相当)に関しては「免除」との条件で話がまとまった。 それに加え、西本エリオ聖州議らの協力で議員割り当て金受け取りの見通しが立ったことで、当初目標に掲げていた「赤字25万レ以内」の達成の目処がついた。 市川利雄・同祭副実行委員長によれば「10~12万程度の議員割り当て金を期待している」という。イミグランテス側との仮契約、頭金の振込みは今月中旬に済ませ、園田会長が正式な調印を25日に行った。これにより日程は来年7月4、5、6の3日間と正式に決まった。 これで今後の問題の焦点はスポンサー集めに移った。高野ジョルジ副委員長は、「決まった以上、あとは全力を尽くしてやるしかない。商工会議所の昼食会での説明など、進出企業にも積極的にアプローチしていく」と話した。 市川副委員長も「とりあえず来年の開催は決まったが、ずっと赤字ではいずれ止めざるをえなくなる。これを機会に総領事館はじめ、会議所や日本の企業、日系団体などに協力をお願いし、皆が手を合わせないといけない」と語気を強めた。
ドミニカ鹿児島県人会会長でもある日高武昭さん(70、鹿児島)がハラバコア日本人会の星川和之会長(66、山形)をはじめ、同地在住の日本人家族を1人ずつ紹介してくれた。 同地在住の日本人は単位家族で5家族21人。「少ない人数なので、皆親戚です」と日高さん。まだ新しい「ハラバコア友好会館」は2007年に建てられたという。 移住地の説明をする日高さんの声が次第に熱を帯びだした。 日高さんの家族は1958年1月24日に他の12家族とともにハラバコアに入植したが、日高さんは当時中学3年で進学を控え、「10年たったら日本に戻ってくる」との父親の言葉を信じ、自ら日本に残ることにした。 しかし、両親がいないために学費が払えず、進学を断念。大阪の鉄工所で働きながら通信教育を受けたが、1年間で退職した。その間、ハラバコアにいる母親に一度も手紙を書かなかったことから心配され、迷った挙句に姉の許嫁と一緒にドミニカへの最終移民船「あめりか丸」に乗り、59年9月、家族たちより約1年半遅れて16歳でハラバコアに移住した。 しかし、日本の募集の際に約束された100タレア(約6ヘクタール)の土地は実際には半分しかなく、湿地や石が転がる粗悪なものだった。それでも他の日本人移住地に比べてまだ気候が良いほうで、「こんなところで泣いていても仕方がない」と借地して野菜などを生産したが、約10年間は野菜の販売力も無かったという。 また、日本政府の募集要項には「自由開拓」と書いてあったそうだが、独裁政治の国とは知らされず、ドミニカ政府の管理人の許可が無いと移住地から出られなかった。サント・ドミンゴ市の日本大使館に行く際も途中で検問があり、許可証が無いと捕まってサトウキビ畑で強制労働させられるような状態だった。 61年には当時独裁者と言われたラファエル・トルヒーヨ大統領が暗殺され、以前に同大統領から強制的に没収されたという地主らが各日本人移住地の「土地を返せ」という騒動も発生。そうしたことがドミニカ移民たちが日本に帰国したり、ブラジルなどの南米諸国に再移住する結果にもつながった。 日高さんは移住後、日本への出稼ぎで30年ぶりに日本に一時帰国し、現在、日本庭園近くに店を構え自動車などの中古品輸入業を行っている。 日本政府を相手取り、2000年から6年にわたって行われた裁判については「自分たちは金が目当てではないです。最初の募集要項に沿った土地をもらいたいだけ。日本政府がどう対応してくれるのか今でもそれを待っている」と語る日高さん。「自分としてはドミニカに来る気はありませんでしたが、親に従うつもりで来ました。当時はまさか、祖国が我々移民をだますとは思ってもいませんでした」と話しながら時折、悔しさで感極まり、言葉が出てこなかった。 日高さんの力説を聞き終えた一行は、会館前で記念撮影を行い、昼食を取るためにハラバコア市内にあるリゾート・ホテルへと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月22日付
ハラバコアの日本庭園で一行を出迎えてくれたのは、日高武昭さん(70、鹿児島)。2000年に日本政府を相手取って裁判を起こした原告側の一人で、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長とともに1997年に立ち上げた「移住問題解決促進委員会」のメンバーでもある。 日高さんの説明によると、現在の庭園は1958年1月24日に日本移民13家族が入った場所で、当時は移民たちの家があったという。 「ハラバコアに当初日本移民が入植したのは13家族だったのですが、他の移住地はほとんど耕作不能で『ハラバコアは良い所』と聞き付けた移民たちが殺到し、多い時で87家族が入植したのですが土地が無くて大変でした」と当時のことを説明する。 庭園は2006年、ドミニカ日本人移住50周年を記念して建立。朱色に塗られた約4メートルの小さな太鼓橋が架かる人口池の中に、13家族の家長の名前が刻まれた石碑が建っていた。 一行はバスですぐ近くの「ハラバコア友好会館」に移動。会館前で同地の日本人たちが歓迎してくれ、一人一人と握手を交わす。 「懐かしいですね。面影ありますよ。何歳で入植したんですか」などと日高さんから質問されていたのは、サンパウロ市ジャルジン・パウリスタ区在住でハラバコアに6歳から11歳まで居たという野副(のぞえ)美夜子さん(63、北海道、旧姓・富樫)。日高夫人のミヨコさん(67)や、幼なじみでミヨコさんの妹の浜田京子さん(64)たちと51年ぶりの再会を喜んでいた。 「あの辺りに私の家があったのですが、今はもうあのころの家はないですね」と会館から山手方面を感慨深げに見渡していた野副さんは、同地を離れてブラジルに再移住し、聖州ブラガンサ・パウリスタやバルゼン・グランデなどを転々としたとし、「日本人子弟の寄宿舎の賄いなどをしましたが、ブラジルに行った当初は人間扱いされなかったですね」と振り返った。 会館内では日高さんが改めてあいさつし、「これだけたくさんのお客さんは珍しいです。私も70歳になりましたが、皆さんお元気ですね。ブラジルは広大な土地で思う存分農業ができたので、皆さんは長生きなんですね」と話したが、それはドミニカで十分な耕地が取得できなかった日本政府への反感の思いも込められていたように聞こえた。 ふるさと巡りの本橋幹久団長は「ドミニカ移民の皆さんもさまざまな問題があり苦労されてきたでしょうが、今では立派に定住されておられます。同じ移民として、中米と南米の距離の違いはありますが、今後の交流をお願いします」と述べ、県連日本祭りのDVDなどを寄贈した。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月20日付
ニッケイ新聞 2013年11月14日 急峻な山道をバス2台がうなりながら登っていく。今回の旅行でバスは3回変わった。やはり山頂付近でオーバーヒート。一台を残し、長野県伊那谷そっくりの盆地を下っていく。風光明媚という表現が似合う。脇輝亀会長(58、鹿児島)をはじめとするコンスタンサ移住地のみなさんが笑顔でお出迎え。蔬菜作りやトルコ桔梗、ベニ花などの花卉栽培が盛んだという。会館内に移住当時の写真や当時の農機具などが置かれ、あちこちで再会を喜ぶ声がはじけた。多くの人の抱擁を受けた山上桃代さん(旧姓米丸、60、鹿児島)もコンスタンサ出身。幼馴染の今井(旧姓脇)由美子さん(60、鹿児島)は「桃代ちゃんの兄のタゾウが悪かったのよ~。よく女の子らで談判してねえ」と懐かしみ、目頭を押さえた。法要後、婦人部らが作った料理に舌鼓を打ち談笑を楽しんだ。会館の前で「ユーカリの木を覚えているので、ここかなと思ったけど違うね」と山上さん。すぐ近くに移民が入った家が残っていると聞き、皆で向かう。「うわ~! ほんとだ。ここですよ~」と驚く(2回目に登場した)大村順子さんは「食器も家具も全部新品でね。懐かしいねえ」と写真を撮っていた。今も現地の人が住んでいるという。現地に住む脇蝶子さん(82、鹿児島)は「順子ちゃん、桃代ちゃん、名前は覚えているけど、面影はないね。日本は食べる、着るのも困るほど貧乏だった。白ごはんが食べられるから来て良かった」と笑った。翌日、市営墓地にある慰霊碑に参拝。佐藤大使も姿を見せ、炎天のなか焼香。その後スーパーに。カフェやラム酒などをお土産に買い、やはり農業経験者らしく、野菜、果物コーナーを興味深そうに見る人も多い。帰り際、家電製品売り場が一体が血の海になっている。テロか通り魔かと身を屈め周りを伺うと最高齢の八巻タツさん(87、福島)が座り込んでいる。「いんや~店の人に言われて気がついたけど、こんなの初めてだあ」とケロリとしている。どうも足首の静脈瘤の部分が切れて出血したようだ。 かつて指の先端を切り落としたさい、石油に漬けて治したという女丈夫だけに何のそのである。1957年に第4陣としてダハボンに移住。息子の達緒さん(64、同)と参加した。「二毛作なんだけど水が足りない。3キロ離れた水門の番人を監視するのが仕事。水の取り合いで喧嘩もあった。私らが出るときは7家族残っていたけど…行ってみたかったねえ」ダハボンで妹のように仲の良かった八巻キイさん(77、福島)にも今回会った。「だけど50年の話を2、3時間じゃ話せんもんね…」。家族4人はブラジルへ転住、聖州タピライをはじめ転々とした。「頑張らんかったらどこでも同じよ。だけど子供を犠牲にしたよね」と見遣った達緒さんが「やっぱり勉強がしたかったよね」とポツリ。「日本よりドミニカにずっと来たかった。だって7年住んだところだもん。願いが叶って安心しました」とタツさんは〃ふるさと巡り〃を満喫した様子だった。■最後はカリブ海に面したリゾートホテルへ。参加者らはそれぞれの思いを胸に椰子の木が立ち並ぶ〃カリブ海の楽園〃を楽しんだ。一行がドミニカを後にした5日後の27日、物故者慰霊祭があり、参列した約50人が現地でなくなった173人の冥福を祈った。(おわり、堀江剛史記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
サント・ドミンゴ市内中華レストランでの夕食懇談会でスペイン語で司会役を務めた上之(うえの)賢三さん(56)は、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長の実弟に当たり、ドミニカ初の2世になるという。 記者たちの質問に日本語で答えてくれた上之さんは、15歳の時に日本で自動車整備士としての研修を受け、「日本で日本語を覚えた」と話す。その一方で「父親は苦労してこの地で亡くなった。大使館やJICAは信用できなかった」とも。 ドミニカ移民の苦労を切々と聞かされた感じの懇親会だったが、ここでも50年ぶりの再会があった。サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市から息子と参加した八巻タツさん(87、福島)と笠原ハルエさん(78、福島)は、第1次、第2次の違いはあれど同じダハボン入植者。「まさか、会えると思っていなかったので、夢みたい」と笠原さんは感激していた。 ダハボンに約10年住んだ後、ドミニカ国内を転々とし、72年に子供を置いて1人で日本に出稼ぎに行った経験があるという笠原さん。実家の福島や東京などで民宿の仲居(なかい)として働いた。「日本に住みたいと思ったこともありましたが、子供のためにドミニカに戻りました」と語り、サント・ドミンゴ市に娘と住んで22年になるという。 懇親会の最後は県連事務局の伊東信比古氏のハーモニカの伴奏で参加者全員が恒例の「ふるさと」を合唱。本橋幹久団長は「別れは再会の始まりです。また会いましょう」とあいさつし、お開きとなった。 午後9時45分にホテルに到着すると、コロンビアのボゴタ市に置き去りになっていた約10人分の荷物がようやく届いたとの連絡があった。 3日目、一行はサント・ドミンゴ市から北西に約140キロ離れた日本人移住地ハラバコアへ。同地は標高524メートル。ドミニカ国内の避暑地として有名だという。 この日も快晴で午前7時半にホテルを2台の大型バスで出発した一行だったが、1号車の乗客が1人、バスに乗り遅れるというハプニングが発生。現地ガイドの 内藤さんが急きょホテルに戻ってその人をピックアップし、地元の車をヒッチハイクするなどして昼食時間にはハラバコアに到着するという「離れ業」で事無き を得たことを後で聞かされた。 ビルが建ち並ぶ市内を外れ有料の高速道路に乗ると、バスの車窓からの景色は緑が多くなった。熱帯地域らしく椰子の木が多いが、柑橘類が植えられているところもある。また、ところどころで日本のような水田風景も広がるが、椰子の木と水田とのコントラストが面白い。 午前9時、中間地点のボナオ市でトイレ休憩。簡易レストランや土産物屋もあり、地元の買物を楽しむ人も。 休憩後、バスは国道から山道へと入り、急勾配を上っていく。 午前10時半、ハラバコア市に到着。同地の日本人移民たちが最初に入ったという場所は現在、日本庭園になっており、赤い鳥居が立っていた。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月19日付
2日目の夜は今回初めての公式行事となる、現地の日本人及び日系人との夕食懇談会が開かれた。 サント・ドミンゴ市内の中華レストランが会場となり、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹(たけがま・とおる)会長(75、鹿児島)、日本ドミニカ友の会の西尾孝志会長(71、広島)、日本に一時帰国中の佐藤宗一在ドミニカ日本国大使館特命全権大使の代理として植松聡領事夫妻、JICAドミニカ支所長代理の鈴木央(ひさし)事務所員をはじめ、サント・ドミンゴ市に在住する日本人及び日系人約20人が出席。ふるさと巡り一行76人と合わせて約100人が一堂に会した。 在サンパウロ総領事館首席領事や在クリチバ総領事などを歴任し、約20年間ブラジルで勤務して親しまれた佐藤大使は当初、ブラジルからの一行がドミニカを訪問するに際し、大使公邸での懇親会を予定していたという。しかし、日本に一時帰国することになり、この日の懇親会には出席できなかったが、「うまく時間が都合できれば、(後日の)慰霊碑参拝には佐藤大使が出席できるかもしれない」との話だった。 同地日系団体及び大使館代表者などのあいさつの後、本橋幹久団長がふるさと巡りと日本祭りなど県連の活動を説明。本橋団長から嶽釜会長に県連日本祭りのDVDや報告書などが記念品として贈呈された。 「日本とドミニカには移住協定がなく、我々は国(日本政府)から捨てられた棄民だった」―。あいさつの中で、とうとうと熱弁を振るったのは会員数約135家族を指揮するドミニカ日系人協会会長で、1956年7月にドミニカ移民第1陣としてダハボンに18歳で入植した嶽釜氏だった。 「ドミニカに残った我々移住者は、日本の国策の失敗が誰の責任だったのかどうしても納得できなかった」と同会長は2000年に日本政府を相手取っ て起こした裁判について説明。当時の小泉純一郎首相の和解案に「日に日に寄せる移住者の高齢化の波に苦渋の選択の末に和解案を受けた」としながらも、「ま だ移住問題が解決したわけではない」と語気を強めた。 提訴する前の1998年ごろに嶽釜会長は日本の外務省を訪問し、日本人移住 地で石が多くて耕作どころではなかったネイバの石と、土地から噴き出すドベルヘの塩を持参して「入植して40年以上たってもこういう状況だ」と訴えたとい う。「『祖国は自国民をだまして苦しめ、殺すんですか』と聞いた。簡単に言えば詐欺だったんですよ」と嶽釜会長たちの怒りは今も収まっていない。 97年には嶽釜会長をはじめ、ドミニカ側で「移住問題解決促進委員会」が8人で発足し、裁判への足掛かりとなった。委員会のメンバーで残っているのは現在 5人のみ。嶽釜会長は「我々1世が死んだら(日本政府と交渉する)後継者はいなくなる。その前に土地問題を解決しないとと焦っている」と現状を吐露する。 そうした中、国策問題の一環として日本政府に交渉して造らせたのが、今年1月に建立された「ドミニカ共和国国策ドミニカ日本人農業移住記念碑」だという。 「本当は昨年の7月29日の(同地の)『移民の日』までに建立したかったのですが、今年1月17日に落成式を行いました。今年8月25日には、記念碑横に 移民の家族の名前を刻んだ記念プレートも造ってもらいました」と嶽釜会長。しかし、裁判を起こした移民たちが本当に求めているのはあくまでも、「耕作でき る自分たちの土地だ」と強調する。(つづく、松本浩治記者)...
ニッケイ新聞 2013年11月13日 ハラバコア移住地に向けて出発する。途中混雑していると思ったら、トラックが横転している。さすがドミニカ。ガイドに電話が入り、一人がホテルにまだいるという。すぐさま内藤さんがバスを降りる。後から聞くと、ヒッチハイクで迎えに戻ったという。さすが内藤さん。バスは北上する。自然のなかに、貧困や政治が見え隠れするのはブラジルと同じだ。途中、台湾系によるものだという水田がのどかな風景をかもし出す。ハラバコアは標高600メートル。別荘地としても知られているように、瀟洒な山荘がときおり見える。1958年に13家族68人が初入植。国内の農耕地としては恵まれているというが、他移住地からの転住が続き、移住者らがひしめき合う状態になってしまったという。現在は7家族が住んでいる。バスは2006年50周年を記念し建てられた日本庭園前に到着。鳥居や浮島もある立派なものだ。出迎えてくれたのは日高武昭さん(70、鹿児島)。ドミニカ鹿児島県人会の会長でもある。 しばらく行ったところにハラバコア友好会館がある。裏手に広がる芝生を見ながら「ここらへんに家があったようですけど…全く変わっていますね」と話すのは、野添(旧姓・富樫)美夜子さん(63、北海道)。6歳で移住し、11歳のときに聖州ブラガンサ・パウリスタに、その後もヴァルジェン・グランデなど転住を続けたという。近くに住んでいたという浜田京子さん(64、鹿児島)が51年ぶりの再会を喜び、「働きものでねえ。弟のヨッタン(世史郎さん)を背負って炊事、ドラム缶のお風呂も焚いていたよねえ」と涙をぬぐった。清流ながれるリゾートホテルで昼食。半世紀とはかくも長い年月なのだ。ピエダーデ・ケサーダ市長が歓迎の意を表し、広島との関係を強調する。聞けば「広島市から贈られたゴミ収集車が活躍している」のだとか。そういえば、広島東洋カープはドミニカに野球アカデミーを所有している。ドミニカ訴訟を扱ったテレビ番組のDVDを1枚10ドルで販売しているという。記者は買わなかったが、3枚組で10人ほどが買ったようだ。定番の「ふるさと」を歌い、一路サントドミンゴへ戻る。旅行先での楽しみといえば多くあるが、やはり食に尽きる。郷土食レストランで「サンコーチョ」が出るというので胸が高鳴った。数種類の肉や野菜を煮込んだハレの料理だとか。メレンゲによる男女二人の踊り。地元のラム酒を使ったカクテルも手伝い、ようやくドミニカに来たという気分が盛り上がる。すると、小さなカルド・デ・モコトのようなものが出た。ほかの参加者には、ジャガイモらしきものが入っていたが、記者のものにはスープ用の牛骨しか入っていない。ナイチンゲールが嘆いたというクリミア戦争での病院食をイメージした。その後、米とキュウリなどを切っただけのサラダ。しばし待つ。「サンコーチョは?」とガルソンに聞くと驚いたことに最初のカルドがそうだという。本橋団長も「え!あのソッパで終わり?」と目を剥き、状況を確認するためガイドの席に向かった。■文化に上下はない。あるのは違いだけだ。だが悲しい違いだ。ガルソンに値段を聞くと、3ドルのセットだという。ガイドに聞くとレストランには10ドルで注文したという。消えた7ドル×76人。レストラン側との交渉を尻目に一行はバスに乗り込んだ。やはり気が抜けない、ドミニカ。バスのなかで「ホテルの和食屋で口直しをして欲しい」と告げられる。初日夜に1時間待たされた経験もあってか、レストランに現れる人は少なかった。数人で飲んだ「プレジデンテ」は、ことさら苦かった。(堀江剛史記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
サント・ドミンゴ市内の中華街に到着。昼食は1号車、2号車の一行76人が一緒に取るため、場所の確保が大変だったようだ。 雑然とした雰囲気の中で同席し、「本当はドミニカに行くはずだった」と話してくれたのは、サンパウロ市内に住み本紙ビル内で大正琴教室に通っているという吉瀬(きせ)弘子さん(74、東京)だ。夫の吉瀬教通(のりみち)さん(75、東京)とともに夫婦で参加した。 戦前、満州開拓団として家族で海を渡り、3歳から6歳までを満州で過ごしたという弘子さん。父親の故大久保隆朝さんは「沢村高造」という歌舞伎俳優だったという。しかし、妻からは「役者では食べてはいけない」と諭され、満州開拓団に行くことに。歌舞伎のことが忘れられない隆朝さんは満州にも三味線を持って行ったほどだったという。 しかし、終戦により一家は1945年に日本に引き揚げ、千葉県の開拓団に入ることに。その開拓団で知り合った中に東京都三宅島の人がおり、一時は三宅島にも住んでいた。 戦後の不況の中でドミニカ移民の話があり、弘子さんたちも当初はドミニカに行くことを考えた。しかし、ドミニカから戻って来た移民たちから「ドミニカにはまともな土地もなく、農家として成り立たない」と聞かされ、断念。しかし、大陸の思いが強い弘子さんの家族は、58年に「あるぜんちな丸」でブラジルに渡った。その時の同船者が現在の夫である教通さんだったという。 現在、がんの症状があり、医師の許可を得て参加した弘子さんは「どうしてもドミニカには行ってみたかった」と強調していた。 昼食後、市内の中央市場で各自土産物などを買った後、一行は現地法人・ドミニカ日系人協会(嶽釜徹会長)傘下の日本語学校(上原邑子校長)を訪問した。 市内でも高級住宅地であるピアンティーヌ区にある日本語学校に到着したのは午後3時半。一行が訪問することを聞いたのは数時間前だったらしく、出迎えてくれたのは、同日本語学校教師や高齢者福祉士など今年7月からJICA日系社会青年ボランティアとして派遣されている女性たちだった。 その中の先輩格であり、同地に赴任して1年3カ月が過ぎたという小出知子さん(38、香川)が同校の説明をしてくれた。それによると同校には6~18歳の 日系子弟31人が在籍し、土曜のみ授業が行われているという。それ以外の曜日は日本語教師たちが地方を巡回して教授しているとし、年間行事はお話大会、盆踊りや6月には学期末となる学芸発表会も行われているそうだ。 教師は上原校長を除く現地の日系人教師が2人と、日本からの青年ボランティア6人を含めた計8人。また、成人クラスもあるが、日系人との配偶者であるドミニカ人は対象となるが、非日系人は基本的に受け入れていない。 日本語学校の2階建て立派な建物は日本政府の資金援助などで建設され、隣接する建物内では高齢者福祉施設と日系子弟の学生寮も完備されている。ガイド役の 内藤さんによると、大学に近い治安の良い場所として同校建設地の選定には苦労したと言い、同地から約2キロの場所にはサント・ドミンゴ自治大学(公立)が ある恵まれた環境だ。 また、ドミニカにはJICAの日系社会ボランティア、青年海外協力隊を含めて全体で約70人が派遣されており、ドミニカ日本人移民の日本政府を相手取った裁判での損害賠償請求が少なからず影響しているとの話も聞かされた。 ブラジルでは日本政府からの援助が年々少なくなる中、「有るところには資金援助は有るものだ」とブラジルからの参加者の一部からはため息交じりの声も聞こえた。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月14日付
