18/05/2026

県連主催

 2日目の10月18日、朝から快晴。一行は午前9時に2台の大型バスに分かれてホテルを出発し、サント・ドミンゴ市内を観光した。  1号車に現地ガイドとして同乗してくれたのは、前日にも内藤さんとともに空港まで出迎えてくれた安岡誠夫さん(53、2世)。父親は第1次ダハボン入植者で、安岡さんは同地で生まれた。  同市内にあるドミニカ国家警察本部、中央銀行などを通り、一行は大統領府前で早速下車。各自記念写真などを撮る。  大統領府前の小広場で2号車に乗車していたサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市在住の八巻達夫さん(64、福島)が、安岡さんにドミニカ移民の消息を聞いていた。  八巻さんは1957年、当時6歳の時に第2次入植者としてダハボンに家族と入植。「ダハボンはハイチとの国境近くで、父(八巻茂さん、89年に89歳で死去)は米作りをやっていましたが、(ラファエル・トルヒーヨ)大統領が(61年に)暗殺されてから治安が悪くなり、ブラジルのほうがいいと63年にブラジルに渡りました」と説明してくれた。  八巻さんは今回、母親の八巻タツさん(87、福島)と2人で参加。「自分は本当はあまり来たくなかったんだけど、ママイ(母親)がぜひ来たいというので」と本音を語る。  50年ぶりにドミニカを訪れたというタツさんは「(ダハボンで)水田を作るのに夜に交代で水を入れたりしてね。来たころは嫌気が差して日本に帰ろうかと大分迷いました。大統領が殺されてから女性がいると襲われる恐れもあると言われてブラジルに行きましたが、今回の(ふるさと巡り)旅行でドミニカに行くと知って来てみたいと思いました」と参加動機を話してくれた。  現地ガイドの安岡さんの説明によると、ドミニカ共和国の総面積は約4万8000平方メートル。人口は約1000万人で、そのうちの400万人が北米などに出稼ぎに出ているという。  サント・ドミンゴ市は1496年、コロンブスの弟であるバルトロメ・コロンによって建設されたとし、市内のサンタ・マリア大聖堂や要塞などは1990年ごろに世界遺産に登録されたそうだ。  一行はサンタ・マリア大聖堂をはじめ、要塞施設やスペイン広場などを見て回る。社会見学の授業なのか地元の小学生たちが数多く、日本人及び日系人の団体を珍しがって無邪気に声を掛けてくる。  午前11時まで同地で観光を行った一行は、オサマ川沿いでドミニカ日本移民たちが最初に上陸した場所に建てられている「ドミニカ共和国 国策ドミニカ日本人農業移住記念碑」へと立ち寄る。  同記念碑は今年1月に日本政府の援助で建立されたとし、4人の家族の像がブラジル・サントス港の「移民上陸記念碑」をほうふつとさせる。  記念碑の左横には移住者の氏名が刻まれた記念プレートもあった。  一行は昼食のため、市内の中華街へと向かった。(つづく、松本浩治記者) 国策移住記念碑前で記念撮影する一行 2013年11月12日付
 県連主催の2013年ふるさと巡り忘年会ツアーが11月29日から12月1日までの3日間、ミナス・ジェライス州カシャンブ市を訪問して行われる。  同市は「泉の町」として知られ、ツアーではカシャンブ市及びサンロレンソ市のミネラルウォーターパークなどを訪れる。  料金は1人670レアル。  詳細についての問い合わせ、申し込みはグローバル・ツーリズモ(電話11・3572・8990)まで。 2013年11月13日付
ニッケイ新聞 2013年11月12日  土産物屋が並ぶメルカド・モデーロに立ち寄り買い物を楽しむ。琥珀が有名なようだ。しかし、英語で話しかけてくる売り子がうるさい。左右前後からの攻撃をかわすのに疲れ、外の立ち飲みでカフェを飲んでいると、目の前にツアーに参加している女性が通ったので「カフェどうですか?」と言ったら見事に無視された。売り子に間違えられたのかも知れない。 「1962年の集団帰国時、このあたりに民宿があって、みんなで見送りに来たんですよ」と内藤さん。残る人と去る人。涙の別れが繰り広げられたのだろうか―。 周りはメレンゲの軽快なリズムが流れていたが、記者の頭のなかでは、かつて女性らが自嘲を込めて浦島太郎の節で歌ったという歌が流れていた。  むかしむかし母ちゃんは/ぶらじる丸に乗せられて/ドミニカ移住をしてきたら/難儀、苦労が待っていた オヤジ殿が移住など/考え付いたばっかりに/若き時代は夢の間に/今は白髪のお婆さん  「祖国は、自国民を騙し、苦しめ、捨てるのか」―。ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長(75、鹿児島)の堂に入った語りに参加者らは真剣な表情で耳を傾けた。夜にあった中華料理での歓迎夕食会。 帰国もせず、南米諸国への再移住もしなかったのは47家族。土地配分を巡る日本政府との交渉を続けるなかで、98年新たな土地の提供が決まったが、農耕に適さない粘土質の土地で、現地住人との問題もあった。 これを受け、2000年、現地に留まった移住者らを中心にした126人が日本政府を提訴、賠償額は31億円までになった。 06年、東京地裁は国の責任を認めたが、「損害賠償は20年が時効」とし棄却。原告らは即提訴したが、小泉純一郎首相(当時)は謝罪の談話を発表、原告170人を含む移住者1300人に特別一時金を支払うことで〃和解〃している。 嶽釜会長は「この涙金で問題解決はない。当初の目的を達成すべく我々はやっていく」と語り、慰霊碑に関しても「両国間には、移住協定がなかった。我々は〃難民〃だった。移住協定を結ぶよう日本政府に要請してきたが、『国策』を入れるよう要求した」などと話した。 植松聡領事(東京、59)はあいさつで「隣で肩身の狭い思いで聞いた」と苦笑いをしながら「大使館と日系社会の関係は改善している。解決しなければいけない問題があり融和を進めようと努力している」という。 嶽釜会長に〃問題〃とは何かと聞くと「最初に約束した300タレアの土地提供です。約束した土地を下さいということ。一時金で和解したのも原告の高齢化と裁判費用を鑑みてのこと。今後も日本政府に対して追及していきます」と口をへの字に結んだ。97年に結成した「移住問題解決推進委員会」の8人のうち、すでに5人が鬼籍に入ったという。 ■  当初、ふるさと巡り一行は、ブラジル駐在が長く最後にはクリチーバ総領事も務めた佐藤宗一大使の招待で、公邸での歓迎会が予定されていた。しかし直前に中止となり大使は「諸般の事情」で訪日。予算問題とも裁判を巡って二分するコロニアとの関係とも言われたが、現地関係者も奥歯に物が詰まった様子。「一度招待したのに…」と訝る本橋団長に、同席していた現地日系人は「ブラジルでは知りませんが大使館っていうのはこちらではそうです。平気で約束を破るんですよ。もう慣れてますが」(堀江剛史記者)   写真=歓迎会。嶽釜会長のスピーチに身を縮こませる植松領事(左) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html  
 コロンビア経由の大型グループ一行63人もサント・ドミンゴ市に到着したが、航空会社のミスにより約10人分の荷物がコロンビアに取り残されたまま、到着していないハプニングが発生。サンパウロから同行した日系ガイドの柳沼セリアさんが、そられの人々の下着などを買いに、早速ショッピングセンターなどに走ることになった。  一行はとりあえず、宿泊先のホテルへと向かうため、専用の大型バス2台に分かれて乗車。空港を出ると、北半球ながらさすがに北緯約19度という熱帯に近い場所であるためか、むわっとした熱気が広がる。  ホテルにチェックインし、カード式の鍵(カードキー)を受け取る。治安上の問題から、同ホテルのエレベーターは各階のボタンの上にある所定の場所にカードキーを当てて客としての認証が行われないと、階上に上がれない仕組みになっている。そのことを知らずに、エレベーター前で一行が混雑しているすきに、ドミニカ人とみられる4人組の女性が無理やりエレベーターに押し入った際、スリ行為により参加者の男性らが約40ドルの被害を受けた。  ドミニカ共和国到着後の間も無いハプニング続きに、一行もどっと疲れが出ていたようだ。  そうした中でホテル内では、前述の南沢法子さん(70、福岡)と現地法人・ドミニカ日系人協会傘下の日本語学校校長である上原邑子(くにこ)さん(70)が10年ぶりの再会を果たして喜び合っていた。上原さんはアグアネグラ移住地時代の幼なじみだった。  夕食はホテルで取ることになったが、現地側が気を利かせて日本食とホテル食の2通りを選択できた。せっかくドミニカまで来たのでホテル食を選んだ記者たちのテーブルには、ブラジル在住のドミニカ出身者が集まった。  「頑張るかごんま―移り来て100周年」(10月19日付)でも掲載された大村順子さん(63、鹿児島、旧姓村田)は、51年ぶりに同地を訪れたという。  1956年に第2次入植者として当時6歳で、首都サント・ドミンゴ市から北西に約140キロ、標高約1300メートルのコンスタンサ移住地に入植 した大村さん。7年間同地に居住した後、ブラジルに再移住。サンパウロ(聖)州ジャカレイのジャミック移住地に入った後、現在は聖市リベルダーデ区で日本 食レストラン「千代(せんだい)」のママとして活動していることは有名だ。  食事をしていると、大村さんのいとこで現在サント・ドミンゴ市に住む広光ツヤコさん(61、鹿児島)とその夫の正照さん(73、高知)夫妻が訪れ、大村さんと約20年ぶりの再会となった。  正照さんは56年7月、ダハボンの第1次入植者。大村さんとはコンスタンサ移住地時代の知り合いだ。正照さんの父親は元々、高知県に「米蔵が二つもある」農家だったが、戦後の農地改革で土地を接収され、家族でドミニカ移住に応募した。  15歳でドミニカに来た正照さんはダハボンで米作りの手伝いなどをしたが、土地が悪く水が不自由のため「ドミニカ社会に入って野菜の販売をしたり、鹿児島 県の家族が置いていった漁具を買って漁師もやったり、バナナ園の支配人もやった」という。JICAの農業研修でブラジルにも行った経験もあり、ドミニカの 日系企業で2年働いた後、スペイン系の電線工場の工場長として39年勤め、現在はサント・ドミンゴ市やハラバコア市に土地を所有してバナナやレモンの栽培 のほか、肉牛の飼育も約15年前から行っている。  「今は少しは楽になったけれど、最初の10年は何をしていいか分からない状態...
ニッケイ新聞 2013年11月8日  サントドミンゴの旧市街はドミニカ唯一のユネスコ世界遺産。1492年にコロンブスが到着、96年に弟のバルトロメが建設した新大陸初のスペイン植民地の町であり、日時計、大聖堂など様々なものに「新大陸初」の冠がつく。 ちなみにコロンブスは、マルコポーロの「東方見聞録」にある黄金の国ジパングを目指しており、当初この島と勘違いしたのだとか。 コロンブスのサントドミンゴに対する思いは強かったようで、遺言どおり遺体は大聖堂に安置された。現在は1992年の新大陸発見500年で建設されたコロンブス記念灯台で眠っているというが、ジパングから来た一行の喧騒に、目を白黒させたかもしれない。 そんな思いを馳せながら大聖堂を見学していると、常連の小山徳さん(64、長野)がガイドに「この石を接着しているのは鯨の油?」と極めてマニアックな質問。「…知りませんよ」と返されていたのがちょっと面白かった。 教会、劇場、タバコ倉庫などを経て、大統領や歴代総督、国民的英雄が眠る霊廟となったパンテオンへ。参加者が持っていたガイドブックによれば、ラフな格好だと入り口で注意されると書いてある。ちょっと身を引き締めて入ると、日本人が珍しいのか、いきなり学生たちに囲まれ、記念撮影、サイン会に誘なわれそうになったので、そそくさと退散する。国家建設に命を捧げた英霊たちに敬意を表し、衛兵が規律正しくブーツの音高らかに銃の交代式を行なっている。それを尻目に通りに出ようとすると、さきほどの学生たちに記念撮影を頼まれた入り口の儀丈兵が女子学生の腰にしっかり手を回している。記者が上官だったら往復ビンタの上、懲罰房送りである。 オサマ川を左手に見ながら、カリブ海に至るとすぐ右手に『ドミニカ共和国 ドミニカ国策日本人農業移住記念碑』が、かつて移民が降り立った港の前にある。今年1月に落成式が行なわれ、若林健太外務大臣政務官、JICA理事、ドミニカ政府関係者も出席した。 〃国策〃と入っているのは、碑の建設委員長で、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長の強い要求だったことを本人から聞いた。しかし、外務省HPのリリースなどには、その文字はない。不思議なものである。 一行はいざ中華街へ。内藤さんによれば、2008年にできた世界8番目、中南米3番目の規模だという。とはいえ東西南北2ブロックほどの大きさだ。到着前、すでに注文しているという店で、やたらに待たされる。到着日夜、ブッフェ組と和食組に分かれたのだが、先に注文しておくので―と空港で注文を取ったにも関わらず、天麩羅ソバが出るのに1時間ほど待たされたとか。 ヤレヤレ。飲む気はなかったのだが手持ち無沙汰なのでビールを頼む。「プレジデンテ」には低アルコールの「ライト」と普通の「ノーマル」がある。どちらがいいか? とガルソンが聞くので後者を頼んだのに何故か「ライト」が来た。不平を言うと首を傾げ、これしかないという。 記者の感覚でいうとバイーアの田舎の調子だ。コーディネーターやガイドは大変だろう。すると内藤さんが「ドミニカ人はね、メートルは分かるんです。ただ、センチは無理かな」となかなか上手いことをいう。 待ちに待って登場したのは、ヤキソバ、あんかけヤキソバ、ヤキメシ。とんだ「炭水化物祭りinドミニカ」だ。 不思議なことに、かなりの空腹だったにも関わらず、味覚障害になったかというほど味を感じない。塩がないのか、しょうがないのか。店頭で鳥のから揚げを買って食べる。これは旨い。内藤さんが一句。「ドミニカは/明けても暮れても/ポージョ(鶏肉)です」 ■  市内観光の中途、日本語学校(上原邑子校長)にも立ち寄った。JICA青年ボランティアの小出知子さん(38、香川)が説明してくれる。JICAが把握している国内70人ほどの日本語学習者に対し、6人の青年ボランティアが派遣されているというのでみなで驚く。首都、ハラバコア、コンスタンサ、ダハボン、ヴィセンテ・ノブレ、ラ・ヴェガの6カ所を巡回、指導にあたる。介護福祉士として小角尚子さん(32、山形)が派遣されているが、近隣に老移民は住んでおらず「これからデイサービスなどを充実させたい」とのこと。   写真=ドミニカ国策日本人農業移住記念碑の前でパチリ この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
ニッケイ新聞 2013年11月7日  むっとする熱気のなか、冷房の効いた韓国製のバスに乗る。涼しいが空調がうるさい。視覚に集中し、車窓から市内を眺める。ブラジルと似ており、看板などの西語をポ語に変えれば見分けがつかないだろう。 すると、ガイドの内藤さんが「もうすぐホテルに着きます…ちなみに右側に見えるのはトルヒーリョ大統領の妾の家でした」とアナウンス。いいなあ、その情報。ちなみに内藤さん作成の旅のしおりの注意書きにもシビれた。「ホテルロビーでのステテコだけは止めてください」。内藤さんからは以後、上下前後のドミニカ事情を聞くことになる。  まもなくボゴタ経由の50余名も到着したが、12人分の荷物が届かなかったという。「ブラジル日系文学」の編集長中田みちよさん(72、青森)もその一人。「困りますねえ」と声をかけると「よくあるわよ~」と事もなげだ。この動じなさ、腰の座り。記者が好きな移民女性の良質だ。ぜひとも最近の日本女性も見習ってほしい。  チェックインを終えロビーにいるわが一行が俄かにざわついた。聞けば、エレベーターのなかで二人がスリに遭ったという。無理やり乗り込んできた中年女性が犯人のようだ。部屋のカードを通されなければ動かないエレベーターの防犯対策、意味なしである。ドミニカ、気が抜けない。  加えてボゴタ便は乗り換え時間が昼時だったようで、機内食が出なかったとか。「今日始めてのまともな食事よ~」と移動で終わった一日を取り返すかのような勢いでサラダを頬張るテーブル向かいに座った女性。どこかで見たことあるなあと思案していたら、自己紹介でリベルダーデの日本食レストラン「千代」の女将、大村順子さん(63、鹿児島)だった。ブラジル転住組の一人。 「記者失格ねえ~」という同席女性の厳しい指摘を苦笑いでかわしていると、テーブルに妹のツヤ子さん(61、同)と夫の広光正照さん(73、高知)が現れ、笑顔で抱擁。ツヤ子さんがブラジルを訪れたことはあるが、順子さんのドミニカ訪問は初めて。姉妹は20年の空白を埋めるかのようにその夜語り合ったという。  翌朝のロビーで「俺もドミニカに来る予定だったんだよ」。セラードのコーヒー農園で有名な下坂匡さん(76、福島)が振り返る。 「条件がいいだけに選考が厳しくてね。ずっと待っているうちに、ブラジル行きが決まったってわけだ。結果的にはブラジルで良かったんだろうね…だからずっとドミニカは来てみたかったんだよ」と話す。  「ずっと研修生がいたでしょ。夫婦で旅行なんて出来なかったですよ」と嬉しそうに笑う妻ヴィトリアさん(70、二世)と参加した。 「30万本コーヒー植えてっていう田畑初さん(第2回)に会いたかったけど今回は難しそうだね」と、市内観光へのバスに乗り込んだ。 ■  さて、ドミニカ移民計画に動きのなかで、ブラジルに縁の深い人物が登場する。1931~37年に高拓生をアマゾンに送り込んだ上塚司だ。 1954年、サンパウロ400周年記念祭に参加した使節団の一員だった上塚は、日本への帰途、ドミニカに立ち寄りトルヒーリョ大統領から日本移民受け入れの申し出を受ける。アマゾン理想郷づくりに頓挫した上塚だけに、岡崎勝男外務大臣にロマン織り交ぜ報告したことだろう。 写真=順子さん(左)とツヤ子さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html
裁判問題で意見の対立続く状態に  1988年の移民80周年を記念して実施され、今年で25周年第40回の節目を迎えた県連(園田昭憲会長)主催の移民のふるさと巡り旅行が10月17~23日の日程で行われ、当初の予定より16人多い計76人が参加した。今回一行は、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴ市をはじめ、ハラバコア、コンスタンサの両日本人移住地を訪問。「カリブの楽園」と言われながら当初の募集要項とは全く違う土地に入植させられ、日本政府を相手に裁判問題にまで発展した同地の日本人入植者たちの思いと、再移住先としてブラジルに渡った参加者との再会の様子を体感する旅でもあった。同行した旅行の模様をリポートする。(松本浩治記者)  資料によると、ドミニカ共和国への日本人移民は1956~59年、鹿児島県出身者を中心に249家族1319人が入植。同国に八つある移住地に送られたが、特にひどかったのは、ハイチ国境地域にあるダハボン、ネイバ、アグアネグラ、ドベルヘなど。日本政府の募集要項には、300タレア(18ヘクタール)の土地を無償譲渡し、耕作に適した土地であることがうたわれていた。しかし、実際に入植した土地は場所によって塩害がひどく、岩だらけの荒地でとても農業が可能な状態ではなかったという。  また、慢性的な水不足に悩まされ、ドミニカ政府が土地の所有権も認めていないことが後に発覚。当初、日本政府は戦後中国大陸などから引き揚げてきた日本人の海外渡航を奨励しており、ドミニカの塩害状況等を当時の駐ドミニカ日本大使が知っていたにもかかわらず、その内容を伏せるように指示。ドミニカ側が灌漑(かんがい)設備が整っていないことなどを理由に日本移民の受け入れに懸念を表していたが、日本政府は移民を同国に送りこんだ事実がある。  61年には日本政府もドミニカへの移民送り出しの失敗を認めて集団帰国を実施し、日本への帰国をはじめ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどに再移住する人が8割を占めた。しかし、古里の土地を処分してきた移民たちにとってはドミニカにとどまらざるを得ず、47家族276人が同国に残留した。  98年には日本政府の譲歩により、ドミニカ国内の新しい土地への提供が決まったが、粘土質の土地はやはり作物に適さず、移民たちは2度にわたって日本政府にだまされたことに猛反発。2000年7月、移民の一部が日本政府を相手取って損害賠償を請求する裁判を起こした。  6年にわたって続けられた裁判は06年、日本政府が法的責任を全面的に認めたものの、損害賠償については時効を理由に棄却される判決が言い渡された。  判決を不服とする移民たち(原告)は控訴したが、当時の首相だった小泉純一郎氏が原告への謝罪の意を伝えるとともに、ドミニカ在住の原告に1人200万円を支給する和解案を提示。移民たちは協議の結果、6対4の賛成多数で和解することになった。裁判を巡って、ドミニカに住む移民たちは意見の違いから賛成派と反対派の二つに割れ、現在も水面下では意見の対立が続いている状態だ。  今回、初めてドミニカ共和国を訪問したふるさと巡り一行の足跡をたどる。(つづく) 2013年11月7日付
ニッケイ新聞 2013年11月6日  新しい国に入ったさいの記者の習いは現地ビールを飲むこと。入国審査で感じることの多い悪印象と先入観をまずは洗い流し、今後の期待感を高揚させるのが目的だ。  70ドミニカ・ペソ、4レアルほどだろうか。空港でこれだと一般価格は…早くも入国即ビールの効果あり。ラベルには「プレジデンテ」とある。今回の旅行中、連呼に近いほど使ったが、移住者からよく聞いた言葉でもある。「大統領が61年に暗殺されてから運命が変わった」と。  トルヒーリョ大統領は親日家だった。日露戦争に勝利した年に生まれた娘にハポネッサ(日本人)とつけるほどで、55年にドミニカを訪問したニクソン米国副大統領から、日本移民の優秀さを聞かされたことで、さらに積極的となったとされる。  大手メディアが「カリブ海の楽園」「ほくほくの条件で」と煽り立てた募集要項には、300タレア(18町歩)を無償譲渡とあった。しかしドミニカのコロニア法では「10年耕作後」という一項があり、自由作付けは1割、収穫が見込めなくても草をはやすと「没収」。加えて、「300タレアまでの土地」の〃まで〃が翻訳されず、送り出しに不都合な部分は全く移民に知らされなかった。  そのうえ、独裁政権に召し上げられた格好の土地だったため、大統領暗殺後、地元住民の反日感情が高まり、収穫間近となった畑に牛馬を放されたり、勝手に家を建て始めたりしたことが、前年からの帰国運動に拍車をかけた。  首都も移民の着いた当時は「シウダー・トルヒーリョ」だったのが、暗殺後は元のサントドミンゴに戻されているほど。そんな政情に翻弄された移民らの悲劇を思うと、このビールも苦いものになる。  「あー声で分かりましたよ。昔の面影がありますね」。出迎えに来たガイドの内藤益宏さん(69、東京)と、参加者の南澤(旧姓帆士)法子さん(70、福岡)が笑顔を見せている。  二人がいた国境近くのアグア・ネグラ移住地は、サントドミンゴ港から軍用船でカーボ・ロッホに行き、石灰岩の崖のような悪路を上っていった。むき出しの岩盤がトラックの底にぶつかる。日本でコーヒー園と聞いてきたが一本もなく鼻のつくような急勾配が〃畑〃だった。  当時、大使館などに陳情にいくため家長会議が頻繁に開かれた。「父が家にいないから母が大変な思いをしましたよね」と話す南澤さん一家は62年、ブラジルのJK植民地へ転住。内藤一家も翌年、現在住む海岸の町に移った。  アグア・ネグラにはただ一人、田畑初さん(93、鹿児島)が残っている。実は南澤さん、10年前に訪問している。「奥さんは亡くなったようですが、お元気そうでしたよ。ハイチ人を使って石灰岩の崖のところどころある土にコーヒーを植えて。広い土地でね。残って良かったんじゃないでしょうか」  大使館の現地職員を72年から33年間勤め、訴訟には反対の立場だったという内藤さんは「田畑さんがまだ頑張っている。一人でもそういう人がいるのに、全員が失敗したように言うのは疑問がある」と話す。  田畑氏は現在2000タレアの土地を所有し、「現地人が暮らしているのだから、我々が生きていけないはずがない」と今も畑に向かう日々を送る。改めて二人に、アグア・ネグラの土地の感想を聞くと声を揃え、「最低でした」。(堀江剛史記者) ■  会うことは出来なかったが、田畑さんの言葉からは〃移住〃ということを考えさせられる。「国援法で日本へ帰りたくはなかったとたい。わしは長男だし、両親、弟を呼ぶつもりでここに来たとたい…」(―楽園、87年)、「我々が当地に残留した選択は正しかった」(ドミニカ日本人残留移民の証言、06年、北欧商事出版)。 写真=南澤さんと内藤さん。サントドミンゴ空港で この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html...
ニッケイ新聞 2013年11月5日付け  1956~58年、1道7県の249家族1319人がドミニカ共和国に農業移住した。八つの移住地に配耕されたが、〃カリブ海の楽園〃と謳われた募集要項とはあまりにかけ離れた現地の状況に嘆願書が提出され、62年には多くが帰国、もしくはブラジルをはじめとする南米各地に再移住する「戦後移住史上最悪のケース」となった。2000年、日本政府に起こした裁判は内外に多くの反響を呼ぶ一方で、わずか1千人の現地コロニアに複雑なわだかまりを残している。今回幼少時にブラジルに転住した参加者もおり、郷愁のなか51年ぶりの再会を喜ぶ姿が、各地で見られるまさに「ふるさと巡り」となった。  当初の募集人数50人を超えたことから、コロンビア・ボゴタ経由、ペルー・リマ経由の二手に分かれた。記者が乗り込んだ早朝6時半発のタカ航空は悠々とアンデス山脈を越え、リマのホルヘ・チャベス空港へ機体を傾けた。  曇天が多いという海岸砂漠地帯の灰色の景色は1899年、南米初の移民船「佐倉丸」で到着した790人のペルー移民にどのような印象を与えただろうか。辛酸を舐めたその後を暗示するような光景を北上する機窓から眺めつつ、手元に目を落とし、「カリブ海の『楽園』ドミニカ移住三十年の軌跡」(高橋幸春著、87年、潮出版社)を開いた。  カリブ海に浮かぶドミニカ共和国は、エスパニョーラ島の東側にある。面積は九州に高知県を足したほど。スペインから1865年に独立して以来、混乱を極めたが、1930年のクーデターにより大統領に就任したトルヒーリョ将軍は、島の西部にあるハイチとの関係に頭を悩ませていた。軍事衝突が頻発、人口流入に悩まされていたことから、国境地帯を開発する方針を固め54年、労働力にスペイン移民を導入するなどの背景があった。  当時、外地からの引き揚げもあり、日本は失業者で溢れかえり、人口削減は喫緊の課題だった。駐日ドミニカ大使からの打診を受けた日本政府は早速対応を始めた―。  同日夕方、赤道を越えドミニカに到着。むし暑い。体を伸ばしつつ入管でパスポートを渡すと、女性の係官が「ブラジルに住んでいるのか」と聞いてくる。首肯すると、「ペンはあるか」というので渡すと、何かを書いている。カウンター越しに覗くと、RNEの番号を書き付けているのは、明らかにノートの切れ端。忘れずペンを取り返し、空港ターミナルで100ドル分の両替をすると計算より多い。数え直していると「ぺルドン…間違えた」と後ろに立った上司の手前、バツの悪そうな顔をする銀行職員。 ドミニカ、なかなかに手強そうである。(堀江剛史記者) ■  ドミニカと言うと、「それはどっちの方ですかな?」と物知り顔で聞かれることがある。というのもカリブ海には「ドミニカ共和国」(Republica Dominicana)と「ドミニカ国」(Commonwealth of Dominica)があるのだ。後者は旧英国領で現在はイギリス連邦の一員。本連載では「ドミニカ」と表記するが、言うまでもなく前者である。ちなみに日本語では「土弥尼加」。 写真=サントドミンゴ市内にある市営墓地にある慰霊碑の前で(10月21日撮影) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html  
ニッケイ新聞 2013年11月1日  【既報関連】会場費の高騰などで大幅赤字が懸念され、開催が危ぶまれていた来年の『県連日本祭』。県連執行部は先月30日夜に開かれた役員会後の本紙の取材に対し、「開催を前提に手続きを進めていく」方向だと話した。会場選定について、本橋幹久県連副会長は「やるならイミグランテスしかない状況。ほかは選べない」。従来使用してきた聖市イミグランテス展示場の賃貸条件の交渉に進展があったことで、候補を同展示場のみに絞った格好だ。一方で、複数の役員は「ただでさえ出遅れたことで、収入に関しても不透明な部分は多い。予想以上に赤字が増える見込みになった時には、中止も視野に入れざるを得ない」と話し、予断を許さない状況であることを強調した。  赤字増の最大の懸念とされていた会場賃貸諸経費について、執行部は先月24日の代表者会議後、イミグランテス側と再交渉を行った。その結果、設営・片付けを含めた計11日間分の基本賃貸料(58万レ、1日あたり12時間使用)の減額は果たせなかったものの、一定額の超過使用料金の免除が決まった。 原則1日12時間しか会場内での作業が行えない契約の中、例年、雨天による設営の遅延などにより計30時間以上の超過時間があり、1時間あたり5千レの料金が発生していた。今回も35時間分の超過を見込み、基本賃貸料に加え17万5千レの予算が組まれていたが、今回の交渉により1日あたり2時間で計22時間分、11万レの割引を受けられる。 一方で収入面に関して、高野ジョルジ同祭副実行委員長はじめとする複数の役員は「(例年22万レを見込む)議員割り当て予算も、現状では不透明としか言えない状況。スポンサーもどれだけ集まるか…」と話す。 本橋副会長が「資金が足りず30、40万という赤字になって強行しても誰も得しない。精一杯開催に向けて努力するが、どうしようもない時は止めるしかない」と話した。10万5千レの黒字となった今年度と同水準の収入を確保できるかどうかが、開催可否についての焦点となる。 当面は中止判断の期限は設けず、役員を中心にスポンサーを集め、イミグランテスとの再交渉など開催への手続きを進めていくことになるという。
場所はイミグランテスで継続  県連(園田昭憲会長)の10月度代表者会議が24日、サンパウロ(聖)市ジャバクアラ区の千葉県人会館で行われた。今年の日本祭りは10万5000レアルの黒字であることが発表されたが、来年イミグランテス展示場で開催した場合の試算が50万レアル以上の赤字と算出されたことを受け、出席者の中で第17回日本祭りの開催の是非を問う多数決が行われた。「サンパウロ州政府からの予算が出れば、多少の赤字覚悟で来年も開催する」が21票、「来年の開催を見合わせ、2015年に第17回を開催する」が15票で、執行部は数々の難題を抱えながらも来年の開催に向けて動き出している。  これまで会場使用料が30万レアルだったイミグランテス展示場の経営母体が変わり、90万レアルに値上げ。加えて時間外使用料を取る条件が提示され、莫大な赤字が懸念されることから来年は会場変更が避けられないとされていた県連日本祭り。  山田康夫同祭実行委員長によると、執行部が新しい会場を模索していたところ、イミグランテス側から70万レアルに値下げしてきたという。交渉の結果、58万レアルで会場を使用できることとなり、他の会場候補は地面に穴が開けられないためテント設営が簡単にできず、また駐車場が無いなどの問題を抱えていたことから、同地の利便性を考慮し、執行部は例年通りイミグランテス展示場での開催が望ましいと判断した。  しかし、来年10月に行われる統一選挙の影響で日系議員からの援助金がおりるか不透明であることから、入場者数、スポンサー数、バザリスタの数が今年と変わらないと仮定しても、50万レアル以上の赤字になる試算が算出された。加えて、開催日は7月4~6日でサッカー・ワールドカップの開催時期と重なり、入場者数ならびにスポンサー収入が大幅に減少することも懸念される。  「時間もないし、焦ってもうまくいかない。赤字が出たらどう補てんするのか。来年は開催を見送ったほうがいい」「コロニアでこれほど良いイベントはない。日伯の懸け橋の一つである同祭をやめるべきではない」などの意見が出たが、州政府から援助が出れば開催、出なければ来年は開催しないことが多数決で決定され、今後の交渉や最終的な判断が執行部に委ねられた。  なお、そのほかの議題では、尾西貞夫兵庫県人会長が県費留学制度への日本政府からの補助金廃止以降、若い世代の日伯交流が難しくなっていることを説明し、「県人会を盛り上げるためにも、県連で署名を集めて日本政府に嘆願するべき」と提案したほか、本橋幹久副会長が17~23日に行われた「移民のふるさと巡り」について報告した。  会議直後から開催に向けて動き出した執行部が日系議員に確認したところ、州政府からの援助金が出ることが確定したという。また、交渉によりイミグランテス展示場の時間外使用料が一部免除されることが決まった。これにより赤字は25万レアル程度まで抑えられるとし、30日の役員会で日本祭りの来年イミグランテス展示場での開催が最終的に決定した。開催自体が危ぶまれた第17回日本祭りはスポンサー集めや経費節約方法の検討といった第2段階へようやく踏み出した。 2013年10月31日付
ニッケイ新聞 2013年10月26日  【既報関連】日本祭の開催断念か―。開催なら大赤字覚悟という状況の中、開催が検討されてきた来年の『第17回日本祭』。連邦議員からの議員割当予算の見込みが不透明ということから、最大で約50万レアルの赤字を試算している。24日にあった県連代表者会議では、日本祭開催を断念する可能性も議論されたが、決断は先送りされた。  前回の会議で、施設の基本使用料が90万レとさたことで、執行部から使用の断念が報告されていたイミグランテス展示場。再交渉の結果、58万レまで引き下げられたことで候補地として再浮上した。20万人規模のイベントを開催するにあたって、イミグランテス側も譲歩した格好だ。 加えて、パビリオン、アリーナ建設費など、前回と同条件で試算した結果だが、見積もりで最大50万レの赤字を算出したことが報告された。 議論の焦点となったのは、22万レを見込む議員割当予算だ。それを加えても約30万レの赤字は避けられない。今回の会議では開催の可否をとり、「割当金が22万レ集まれば開催」が21票、「開催見送り」が15票となった。 ただし、一刻も早く開催か見送りかを決定する必要に迫られているため、割当金額確定の期日は25日とされ、不透明な金額、〃曖昧〃な返答であれば見送りという条件付きとなった。園田昭憲会長が安部順二連邦下議補佐官の宮原ジョルジ氏と電話交渉を行ったところ、「前向きに協力はしたい」といった返答に留まったという。 しかし、執行部からは「確かに可能性は薄いが、簡単に決めることはできない」と協議を続けることとなった。 会議では、開催予定日の7月4、5、6日はサッカーW杯ブラジル大会と日程が重なることから、スポンサー面、集客面で不利とする見方が強く、一部県人会からは出店を見合わせる動きも見られた。 「今年は見送って、来年に向けた準備を早くから始めるべき」「時間がない中で焦っても良い結果はついてこない」「赤字であればやる必要がない」と否定的な意見の一方で、「第17回を行う意思を見せるべき」「見送りとなっても交渉、見積もりなどは続けることができる」「開催しなければ、次回からのスポンサー離れが不安だ」との声もあった。
 県連ふるさと巡り忘年会ツアーが11月29日~12月1日(2泊3日)、ミナス・ジェライス州の「泉の町」カシャンブー市で実施される。  11月29日午前8時にサンパウロ市リベルダーデ広場を専用バスで出発し、310キロ離れたカシャンブー市へ。翌30日は同市のミネラルウォーターパークを訪問、同夜はホテルで特別イベントが開かれる。12月1日はサンロレンソ市へ移動し、同市のミネラルウォーターパークを訪問し、午後8時半にリベルダーデに到着予定。  参加費は1人670レアル(3回払いも可)。申し込み、問い合わせはグローバル・ツーリズモ(電話11・3572・8990)まで。 2013年8月27日付
ニッケイ新聞 2013年8月10日  ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)は、11月29~12月1日の日程で『2013年ふるさと巡り・忘年会ツアー』を行う。2人、または3人部屋で1人670レアル。 泉の町として有名なミナス・ジェライス州カシャンブで2泊し、ウォーターパーク(Parque das aguas)や市内観光を楽しむ。同州サンロレンソを経由し、1日夜にリベルダーデ着予定。 詳細の問い合わせ、申し込みはグローバル・サービス旅行社(11・3572・8998)まで。
 県連(園田昭憲会長)は、今年の日本祭りで「東日本大震災の被災と復興」と題した震災復興写真展のブースを会場の一角に設け、東北3県(福島、岩手、宮城)の被災地を収めた写真約50点を展示した。 同ブースでは「東北被災者招へい交流事業」により来伯した3人も待機し、来場者からの質問に受け答えしたほか、震災時に岩手県大船渡町を津波が襲う映像も流され、多くの来場者が足を止めてその様子を見つめていた。  同事業の実務を取り仕切った県連国際交流委員会の本橋幹久委員長は、「ブラジルに居ると言われる被災者の親族5万人のためにも、被災地の生の声を届けてもらい、また被災者の3人にも被災地のことを気に掛けている人たちと『交流』してほしかった」と話し、同写真展を企画した意図を説明した。 21日にサンパウロ州サンジョゼ・ドス・カンポス市から会場を訪れていた男性(72)は「復興はまだ道半ばといった様子だが、写真の中で被災地の方々の笑顔を見ることができて少し安心した」と語った。 2013年8月2日付
東北被災者招へい交流事業  県連(園田昭憲会長)主催の「東北被災者招へい交流事業」により来伯した被災者3人(岩手、宮城、福島各県からの推薦)が、23日午後6時半からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の宮城県人会館で講演を行った。「大震災から2年余、伝えておきたいこと」と題された同講演会では、大和田加代子さん(52、岩手県陸前高田市)、松本康裕さん(29、宮城県名取市)、天野和彦さん(54、福島県会津若松市)の3人がそれぞれの被災体験や被災地の実情を来場者約130人を前に語った。  講演会には園田県連会長、木多喜八郎文協会長、菊地義治援協会長ら主要日系団体代表のほか、在聖総領事館から成田強領事部長が出席した。あいさつに立った園田会長は「これを機会に忘れてはいけない事実を被災者の方々と共有し、今後も日本の復興に微力ながら協力していきたい」と述べ、同事業を企画した経緯などを説明した。  最初にマイクを握った大和田さんは、涙ながらに被災地の様子を語った。壇上のスクリーンに遺体収容所の写真が映し出され、大和田さんによって遺体確認作業についての説明がされると、会場では首を横に振り、涙をぬぐう来場者の姿もあった。 大和田さんは赤十字を通じて被災者に渡った支援物資や義援金の分配状況なども紹介し、来場者に何度も感謝の言葉を述べた上で、「これからも被災地を皆様の心の片隅に置いてくれるようお願いします」と頭を下げた。  続いて松本さんは、津波によって甚大な被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区の復興に向けた取り組みを説明した。松本さんは「復興の形はなかなか見えてこない が、もう一度頑張ろうと皆で励まし合っています」と話し、被災地では被災者同士が手を取り合って前を向いている様子を明かした。  また、松本さんは震災時に間一髪のところで一命を取り留めたエピソードを紹介し、「何か一つでも欠けていたら私は死んでいました」と話し、「昔の閖上を心にとどめながら楽しく生きていこうと思っています」と語った。 最後は、福島県内最大規模の避難所で運営責任者を務めた天野さんが、避難所や震災後も原発事故などに揺れた福島県の実情を語った。天野さんは、震災後に相次 いで起きた高齢被災者の自殺に言及した上で、「希望をなくすと、人は死ぬんだと知りました。今この瞬間にも古里を失っている人がいる現実を知ってほしい」 と来場者に語り掛けた。  3人の講演が終わると質疑応答が行われ、来場者からは被災地の様子を尋ねる問いや励ましの言葉が3人に盛んに投げ掛けられた。 当日会場を訪れていた大野正人さんは本紙の取材に対し、「震災から2年がたっても、まだ何も終わっていないんだと知った。これからもコロニアが一丸となって支援するべきだ」と講演の感想を語った。   コラム【モザイク】   「被災者招へい事業」で来伯した3人のうちの1人、大和田加代子さんは被災者支援団体「ちーむ麻の葉」の代表を務める人物。同団体は、仮設住宅に住む高齢者にアクリルたわし製作などを嘱託し、その販売利益を被災者に還元する活動を行っている。大和田さんはモザイク子の取材に対し、「家や畑を失った高齢者たちは暇を持て余し、みるみる心が弱っていった」と語り、同団体の設立理由は「高齢者の自殺予防」にあったことを明かした。 ◎  震災から半年以上がたち、被災地が震災から初めて迎えた鬱積(うっせき)とした冬。声を大にして語られることは無いが、高齢者の自殺は、東北の被災地各所で問題になっていたことだという。講演会での3人の話には、モザイク子の胸もきつく締め付けられた。3人の口からは「被災地を忘れないでほしい」という言葉が幾度も出てきた。日本から遠く離れたここブラジルにも、被災地を気に掛ける人間が大勢いることをアピールすることで、助かる命もあるのではないだろうか。各日系団体には同事業を一区切りとせず、今後も被災地支援にリーダーシップを発揮してもらいたい。 2013年7月27日付
ニッケイ新聞 2013年7月25日  ブラジル日本都道府県人会連合会が主催する講演会『東北大震災から2年余、伝えておきたいこと』が23日夜、聖市の宮城県人会館で行われた。岩手、宮城、福島の3県からそれぞれ招聘された大和田加代子、松本康裕、天野和彦の3氏が壇上に立ち、生々しい被災体験と現在に至るまでの状況を切迫感溢れる様子で講演し、集まった約200人は引き込まれるように聞き入り、あちこちで涙を流しながら頷く姿が見られた。  「家族が行方不明になった人は、町内84カ所の避難所を一つ一つ回って、それでも見つからないと、遺体収容所を探します。そこで何百ものご遺体を見なければならなかった皆さんのお気持ちは、どのようなものであったか…」。大和田さんが目に涙を浮かべながら、そう2年前の様子を振ると会場からはすすり泣く声が聞こえた。 陸前高田市では3千以上の家屋が津波で全壊し、小中学校5校も全半壊、市役所や体育館など主だった建物は何一つ残らなかった。「この日以来、『壊滅的な』という言葉とともに市は語られるようになった」と声を震わせながら説明した。 仮設住宅では現在でも「隣の住人がトイレットペーパーを引く音が聞こえるほど壁が薄い」という環境に、「4人家族で4畳半2間」が住んでいるという多くの住人がストレスを抱える現状だという。 過酷な状況の中でも「手を動かしていれば気が紛れる」という同住民の声からボランティア団体を立ち上げ、被災者による手作りのドレスタオル等の製作・販売のルートを確立すると、主体的に行動する住民が増えた。「被災者を元気にするのは『まだ自分は必要とされている』という誇りだと改めて感じた」と感慨深げに話した。 現在進む高台の開発にも触れ「住めるようになるまでにあと5年はかかると見ている。それが多くの高齢者にとってはどれだけ長い期間か、皆さんもわかるはず」と会場に語りかけた。最後に「日本人として、皆様の誇りとなれるような復興を目指したい。もうしばらく、被災地を心の片隅に置いておいて欲しい」と訴えかけた。  宮城県名取市の閖上について、松本さんが映像で、津波がガレキや土砂を巻き込み、民家を押し流す場面を見せると会場からは驚嘆の声が漏れた。被災者の多くが「もう一度頑張ろう、と皆で励まし合っている」という前向き姿勢であることを強調した。  最後に天野さんは、2年以上経った今も原子力災害が続き、「いまだ復興を語れない、先が見えない状況」であることを繰り返した。特に福島第一原発の周辺地域では、放射線問題を抱えており、「普通の生活が奪われるとともに、今まさに〃ふるさと〃が奪われようとしている人がたくさんいる」と訴えかけた。 震災後に被災者が自殺した例を挙げ、「そういった時に必要になるのは人と人がつながり続けること。人は寂しいと死んでしまう」ということを強調した。「今の福島に必要なのは〃心の復興〃。人の心が弱っていては本当の復興はあり得ない」と熱弁を振るった。  来場者の村松エドワルドさん(16、三世)、エリキさん(14、同)の兄弟は「本当にショック。今でも信じられない。友人たちにもこの事実を伝えていきたい」と感想を語った。講演後、多くの人が3人に駆け寄って話込む姿が見られ、「ぜひ来年も講演会をやってほしい」との感想が方々で聞かれた。   コラム【大耳小耳】  陸前高田市から来伯した大和田さんによれば、震災により亡くなった人の遺体を探す作業は困難を極めた。4つの収容所に安置された遺体のうち見た目や装飾品で判別できないものは、DNA鑑定に回された。彼女の知人の中には、子どももなく、兄弟が高齢かつ遠方に住んでいたため検体を用意出来ず、はっきりと本人だということを確かめる術がなかったという。その他、妻と思わしき遺体が「本人とは断定できない」とされたものの、「このままでは子どもに母が亡くなったことを理解させることも、骨を拾わせることも出来ない」と引渡しを強く要求した人もいたという。
ニッケイ新聞 2013年7月23日  ブラジル日本都道府県人会連合会が主催する『第16回日本祭り』が聖市ジャバクアラ区のイミグランテ会場で19日から3日間行われ、18万人が来場、晴天に恵まれ終日賑わいを見せた。日本からはマルシアの凱旋公演を始め、井上佑見や邦楽グループ「和力」、フリースタイルフットボール選手の徳田耕太郎さんなどが駆けつけた。46都道府県のブースでは郷土食に加え、郷土の企業が商品紹介に参加し、展示館でも250社・団体が出店するなど例年通りの盛り上がりを見せた。前田ネルソン実行委員長は「運営、催し共にレベルの高さが感じられる祭りだった。ロボコンなど新しい試みも観客に喜ばれたし、ほぼどの県人会も食事を完売できた。協力して下さった皆さん、観客の皆さんに感謝する」と語った。  20日正午から行われた開会式には、日系団体の代表やスポンサー企業関係者、安部順二、大田慶子、飯星ワルテルら日系議員ら約30人に加え、サンパウロ市のナジア・カンペオン副市長も来賓として参加し、それぞれ祝辞を述べた。  挨拶に立った園田会長は「昨日(19日)は雨降りで寒く、どうなるかと思ったが、今日は天気の神様であるサンペドロが助けてくれた」と晴天を喜んだ。  宮城県から来伯した若生正博副知事も壇上に立ち、「震災直後、甚大な被害に明日への希望が絶たれそうになる中、いち早く遠く離れたブラジルから皆さんの声援や支援が届けられたことは本当にありがたかった。その思いを伝えに来た」と感謝の言葉を述べた。  黄色い法被姿の来賓らによる鏡開きが行われ、サンパウロ日伯援護協会の菊地義治会長の乾杯で祭りの幕が上がった。  続いてメインステージでは、日本芸能界で25年に渡って活躍する三世歌手・マルシアの歌謡ショーが行われた。 坂本九の「上を向いて歩こう」に始まり、日本でのデビュー曲である「ふりむけばヨコハマ」、オリジナル曲の「舞姫になれない」など6曲を熱唱。一旦舞台から退いたものの、観客からの「マルシア」という声援とアンコールの声に応え、復興支援歌「花は咲く」を、鳥取県人会のコーラスグループとともに歌い上げた。 ステージ中、感極まった様子で目に涙を浮かべていたマルシアは、本紙のインタビューに対し「感動! 感動! 感動! 感動だらけの舞台だった。これ以上の幸せはない」と興奮した面持ちで語り、「(日本での)デビュー翌年に戻ってきて以来、24年ぶりのブラジルでのステージ。やはり、自分の故郷で歌えることは何よりも嬉しい。これからも恩返しをしていきたい」と話した。
心配された天候にも恵まれ  第16回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り、主催=ブラジル日本都道府県人会連合会)が19~21日、サンパウロ市のイミグランテス展示場で開催され、主催者発表によると約18万人が来場した。期間中は天候に恵まれ、来場者は各催しを楽しんだ。今年は同祭テーマに「地球に優しい技術と進歩」を掲げ、屋内会場一角の日本企業・団体を集約した「日本パビリオン」では、日本関連のさまざまな機械、サービス、食品などが紹介されていた。また53の各県人会・団体が出店した郷土食ブースは今年も大繁盛で、3日間を通じて来場者は日本の技術、食、文化を五感で感じていた。  20日正午からメーンステージで行われた開会式には、日系議員、日本政府関係者、各スポンサー代表や日系団体代表ら28人が壇上に上がり、開会を祝った。県連の園田昭憲会長は「皆さんの協力があって今年も無事開催することができました。心配された天気も問題ありません。サンペドロのお陰でしょう」とあいさつし、式典最後は来賓らが「たる酒」を割って同祭の成功を祈願した。  式典後早速、歌手のマルシアさんが公演を行い、凱旋(がいせん)公演を一目見ようと立ち見客も合わせて推定3000人の人で溢れた。自身最大のヒット曲「ふりむけば横浜」や「時のいたずら」など計6曲を披露。圧巻の歌声と切れのある踊り、ポ語の語りに観客はステージに食い入り、歌い終えるたびに割れんばかりの拍手が起きた。 また「ただいま」と観客に向かって手を振り、自身の生い立ちや歌の最中に涙ぐむ姿も見られた。最後は鳥取県人会コーラス部と一緒にNHK東日本大震災復興テーマソング「花は咲く」を歌い、「また会えますように」と観客に言い残しステージを去った。  同ステージ上では連日、主に若者を対象とした日本人出演者が会場を盛り上げ、日本からフリースタイルフットボール選手の徳田耕太郎さんと、日系ブラジル人ケイ・エドワルドさんによる技の競演や邦楽グループ「和力」の舞台が披露。ツバサさん、井上祐見さんらも出演した。  20日午後9時から開催された「ミス日系コンテスト」は、伯国各地から選ばれた22人の日系美女が全伯一の美をドレスや水着姿で競い、審査員に よって美しさ、調和、カリスマ性、教養、親近感の部門で審査された。その結果、マット・グロッソ州のナガタ・ユミ・パトリシアさん(22)が今年のミス日 系の栄冠に輝いた。  一方、53の県人会と団体が出店した郷土食は例年通りの大盛況。特に20、21日両日の昼時は人気のブースに長蛇の列ができ、混雑する時間帯が続いた。主催者側の情報によると、今年は特に大きな問題はなく各県人会・団体はスムーズに運営できたという。  屋内会場ではトヨタ、ホンダ、ヤマハが大きくブースを設け、一角の「日本パビリオンでは」日本の観光庁やJICA、国際交流基金など政府のブースも目立っ た。また県連が設けた「東日本大震災復興写真展」のブースでは、写真や映像を用いて被災地の様子が説明され、来場者は神妙な面持ちで眺めていた。  そのほか、SANJO(サンジョアキン日系農協)やAPPC(パウリスタ柿生産者協会)といった日系果樹組合が販売する生産物を買い求める人や、会場数カ 所で用意された畳に寝転がる人。健康コーナーでマッサージを受けてリラックスする人や、折り紙や書道体験を通じて日本文化を知る人など来場者は思い思いの 時間を過ごしていた。  同祭を終え園田会長は「表の華やかさとは異なり、期間中は水も飲めないほど多忙だった。昨年と同じく、駐車場やステージ進行の遅れなど細かい問題はあったが、来場したほとんどの人が喜んでくれたと思う」と総括した。   コラム【モザイク】...
ニッケイ新聞 2013年7月18日  生々しい体験談と復興の現状が当事者から直接聞ける貴重な機会――ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)が主催する『東北被災者招聘交流事業』により、宮城、福島、岩手の被災3県からそれぞれ、松本康裕(28、名取市)、天野和彦(54、会津若松市)、大和田加代子(52、陸前高田市)の3氏が13日に来伯した。一行は23日午後6時半から宮城県人会(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で『東北大震災から2年余、伝えておきたいこと』と題した講演を行うほか、19日から開催される『日本祭』内にブースを設け、震災直後から現在までの様子を記録した写真の展示を行う。  「あの時、津波が来るという認識はまったくなかったんですよ。地震の40分ほど後、偶然自宅の庭に出たら、ジェット機のエンジン音より低いゴーッという音が聴こえ、何だろうと遠くを見たら、真っ黒なガレキの塊が押し寄せてくるのが見え、アッ!と気付いた」 町全体が壊滅的被害を受けた宮城県名取市の自宅にいた松本さんは、津波に気付いた瞬間をそう振り返る。急いで祖父母と共に2階に避難し、「あと10秒遅れたら、死んでいた」。 「1階の天井まで浸水した。2階の窓から外を見ると、むき出しになった、土台以外何も残っていない家屋がたくさん見えた」と被災直後に撮った写真を手に切々と話した。町内会の約370世帯のうち、全壊を免れたのはわずか10世帯あまりだったという。 「当時車に乗っていた妹と母も約1キロも津波に流された末、助かった。被害にあった自分だからこそ話せる体験談を皆さんにお伝え出きれば」と意気込む。現在は市内の復興仮設市場に、家族経営の不動産会社の事務所を再開させ、地域復興に向け奮闘中だ。  一方、今も収まらない原発災害に苦しむ福島県からは、会津若松市出身の天野さんが来伯した。震災後、県内最大規模の避難所として2500人の被災者の拠点となった「ビッグパレットふくしま避難所」の県庁運営支援チームの責任者として、被災者支援に携わった。県教育庁では、社会教育主事として15年間の勤務経験を持つ。 翌12年4月からは福島大学内に設置された「うつくしまふくしま未来支援センター」の特任准教授として、仮設住宅、借り上げ住宅、県外避難の支援の仕組み構築や被災者の生活支援に関する調査研究を行っている。「震災から2年経った現在でも立ち入り禁止区域が設けられ、15万人以上が避難生活を送っている。私が見てきた率直な事実を伝えたい」との目標を語った。  津波被害が最も酷かった海岸部の町、岩手県陸前高田市から参加した大和田さんは、「事実上、町一つが丸々なくなった。避難所になるような建物すらも残らなかった」という。本人も家族経営だった製材所の事務所や自宅も失い、大船渡市のみなし仮設のアパートに住む被災者だ。 津波などの被害に心を痛める仮設住宅の居住者からの「手を動かしていれば気が紛れる」との声を受け、被災者による被災支援ボランティア団体「ちーむ麻の葉」を設立し、代表を務める。被災者による手作りのドレスタオル等の製作・販売のルートの確立を果たしたほか、日帰り温泉ツアーの企画などの支援活動を行っている。 「被災地にはまだまだ先の見えない辛い生活をしている人はたくさんいて、奇麗事では済まされないことばかり。そんな中でも、多くの被災者が立ち上がって、こんな風な新たな動きを始めている、活動しているということを皆さんに知って欲しい」と力を込めた。